ようやく、一瞬だが手が空いたというか人心地ついたので、ちょっと更新しようかと思うわけだが、またすぐ仕事に戻らなければならない。

もちろん弊社サイトのブログの更新も仕事だが、本業の書籍の編集・制作の仕事を片づけていかないと釜のフタが開かないのだ。地獄の釜ではない、ちなみに。そんなヒマないし。

しかし、台風上陸間際の東京では、つまり午後 2 時くらいだったが、少なくとも私の住んでいる町では人もまばらでやはりどこか不吉な感じが漂っていた。

私はといえば、雨の様子と家のそばを流れている善福寺川の様子、まあぶっちゃけいえば興味本位に町の様子を見にビニ傘さして雪駄履いて出かけたわけである。バカじゃないかと背中に家族の罵声を浴びながら。

さすがに風は強くビニ傘もしなるわけだが、雨がひどいので10秒も経たないうちにズボンの膝から下がびしょ濡れになった。

コンビニに入ってあまり意味もなく炭酸水とアイスと袋菓子を買って、そのまま町をパトロールしていたら、長めのスボンの裾をビチャビチャとずるびかせて歩くハメになり、ときおりすれ違う雨ガッパ姿のおばちゃんに胡散臭そうに見られたり、交番のおまわりの視線にずっと追っかけられたりして不愉快だったので、しょうがなくビニール袋を片手にかけて、首と肩でビニ傘を挟みながらズボンの裾をまくっていたら、何となくもっとヘンなオヤジになり、ズボンを膝までまくって生白いスネを出して雪駄で歩いていたら、たしかに自分でもイヤになってきた。雪駄はまずかったなやはり。

ともかく、ひと通り町を歩いてわかったことは、銀行とコンビニとパチンコ屋しか開いてないということであり、何となくうすら寒い気持ちなったわけだ。

ときどきチェーン店の丼もの屋とかココイチがやっていたが、そしてなぜか客もパラパラ入っていたが、吉野家も松やもサイゼリアも富士そばもやってない。西友も閉店している。

居酒屋はすべて臨時休業だし、行きつけのモツ屋なんかは入り口に派手なテープがバッテンに貼ってある。

しかしそんな中、一軒だけ富士山という立ち飲みの煮込み屋だけが開いていた。しかも客がいる。外はビュービューの強風と大雨だ。ほかはみな閉めているのに、店主も店主なら客も客だろう。

世の中にはまだまだバカ野郎が多いなあとうれしくなって思わず入ろうかと思ったが、こっちは手許不如意の上に仕事がひかえている。

後ろ髪を引かれる思いで通りすぎ、駅の反対側に出てまたおまわりの視線に追われながらも帰路についたが、家に戻ったらズボンやシャツがびしょ濡れなのはいいが、ビニール袋の中にも雨が溜まってアイスがびしょびしょに溶けていた。

しかし、昨年の西日本豪雨に続いて今年は東日本をスーパー台風が通過していったわけで、これで日本列島はかつてない記録的な水の量を縦断する形で浴びせられたことになる。

千曲川の堤防決壊の映像などでは、ドラマの『岸辺のアルバム』を思い出した人も多いのではないだろうか。1974 年の台風による、やはり多摩川の堤防決壊をもとにした作品だ。

あまり詳しくは書けないが、数年前、ひょっとしたら高次元からの情報かもしれないと注目していたやりとりと関係していたことがあったのだが、あるとき具体的な月日を挙げて大きな地震に注意するようにとの伝達があった。

私たちは半信半疑ながら軽く注視していたが、その日の前日か数日前か忘れたが、また同じソースから情報がもたらされ、地震のエネルギーは雨のエネルギーに変わったというのである。

そのテの情報にはある意味慣れている私たちは、それほど気に留めることはなかったのだが、その日は全国的に予想のつかなかったゲリラ豪雨に見舞われた。

偶然といえばそれまでのことであり、それこそそのテの話は山ほどあるのだが、しかしその山ほどある話を砂金を選り分けるがごとくというと大仰だが、まあそういう検証めいたことを弊社はしてきているわけで、今回の東海から上陸して関東、東日本と通過したスーパー台風のさなかにちょっとそのことを思い出したしだいである。

テレビはあまり観ないというか、観る時間もあまりないが、それでもまるっきり観ないということはなく、仕事絡みでもチェックしないわけにはいかないし、そもそもが私自身がガキのころから芸能関係には関心を持っている。

といっても、舞台やライブや伝統芸能の鑑賞などという高尚なものではなく、単純にテレビを通して表現されるものに対する関心であって、つまりは歌番組だバラエティーだドラマだ CM だってなものだ。

そういう、いいかげんな感覚からいえば、ここのところテレビ番組というか、番組制作にかかわっているものたちの感覚なのかもしれないが、以前に比べると明らかに変化しているのではないだろうか。

ベタな言い方をすれば風通しがずいぶんとよくなってきたようであり、妙ちくりんな横やりや教唆や脅しが減ったのか、逆にビビリな忖度や迎合や追従が減ったのかはわからないが、つまりは気持ちのわるい共依存的なマインドが薄れたというか、ドス黒いヤカラがもたらしてきた汚染が浄化されつつあるという印象を持った。

これは各番組をていねいに検証すればおそらくわかることだと思うが、簡単にいえば、他局間の批判とまではまだいかないが、ギャグにせよ賞賛にせよ、各局の他局への言及がだいぶ増えてきているということや、タレントたちの心持ちとしてもレギュラー番組や局に縛られなくなっているように見えるということだ。

一方、一時は今後期待される未来のメディアの雄たりえていた YouTube のほうがヤバいというか、かなり無理してよくいえば、トッポい連中が急激に集まっているようであり、ヘタすれば、YouTube はそのうち目も当てられないような魑魅魍魎が蝟集するメディアに成り下がるかもしれない。

まずは、お前が成り下がってるんじゃねとも言われかねないが、それはそれで弊社のコンテンツを視聴して判断してもらうしかなく、検証する場としてのコンテンツも用意するつもりである。というか、先月末に収録した『宗任問答』を早くアップせねば。

と、ここまで調子よく書いてきて、調子よくにはふたつの意味があるがそれはいいとして、前回は「続く」として終わったことを今、思い出した。

調べれば、自分が自分でなくなるなんてことを書いたわけだが、本来ならその続きを書かなければならなかったわけだ。

時間がないのでまた詳しく書こうと思うが、簡単にいえば、自分が自分であるということは単純に自分の「意識」にかかわることなのだが、この意識という言葉も、その意味するところや概念を多少なりとも同時に定義していきながら説明しないと誤解される。

これは「創造主」という言葉でも同じだが、たとえば有名な『チベット 永遠の書』を書いたテオドール・イリオンに言わせれば、創造主に対する最大最悪の罪とは、創造主のような状態を手にしようとすることだということになる。

以下、イリオンの言葉を引けば、

 

“非個人的なこと” には二つの種類がある。“存在(ビーイング)”と“実在(ビーネス)”の二つだ。前者は被造物のもつ属性で、後者は造物主の属性なのだ。

 ここでいう “実在” とは絶対的な非個人性のことであり、ここにおいて“我”と“非我”との分離はことごとく消失してしまうのだ。このような状態は被造物を超越しているのだよ。

 

ということだ。

まったくその通りであり、このあたりの論考に関連して対話なり議論をするのであれば、論考に関連する言葉の使い方、もっといえばそういう言葉に対する理解の仕方をある程度は厳密にしていかなければならないという、“互いの” 共通認識がない限り、時間をムダにするとまではいわないが、おそらくあまり実りのある話にはならないだろう。

実りのある話とは、新しく創造されるものが創出される場が形成されていくということである。

そしてそれは、“自分” を失くしていない者同士でしか成し得ないことなのだ。

続く

6 thoughts on “しゃんしゃん台風”

  1.  西塚裕一様

    “存在(ビーイング)”と“実在(ビーネス)”について。

    (以下の受けとめ方は、『チベット 永遠の書』を読んでおらず、英語に弱い私の考察です。)

    「being」の「be」を造物主とします。
    「being」を「造物主の動的形態」と意訳します。
    「beness」を「造物主の静的形態」と意訳します。

    「造物主の動的形態」を、「造物主が動くと、どのような形態を取るのか」と受けとめ直します。
    「造物主の静的形態」を、「造物主の存在形態」と受けとめ直します。

     以上の受けとめ方には、表面上、被造物が不在ですが、
     造物主が動くと、どのような形態を取るのか?
     被造物の形態を取る、
     と受けとめてみました。

    「being」という被造物には、その本質に、「be」、つまり造物主が、本質として存在します。

    『未完成だった般若心経』のビジョンを土台にして、「造物主の静的形態」に該当すると思われる言葉を選んで見ました。

     色不異空 空不異色

     次に、同じようにして「造物主の動的形態」に該当すると思われる言葉を選んで見ました。

     色即是空 空即是色

     シンプルに書きますが、
    「不異」には、時間経過が含まれていませんので、「静的形態」にふさわしいと思いました。
    「即是」には、時間経過が含まれていますので、「動的形態」にふさわしいと思いました。

    「be」とは、もちろん「空」だと思います。

     以下は、本質論をもとにした拡張論ですが、
    「空」の「静的形態」が、「色不異空 空不異色」の「色」であり、 
    「空」の「動的形態」が、「色即是空 空即是色」の「色」である、と思います。

     宇宙という視点で見つめ直せば、
    「造物主の存在形態」とは、コスモス、精神宇宙であり、
    「造物主が動いて取った形態」とは、ユニバース、物質宇宙だと思います。

    1. 好本様

      ポストありがとうございます。
      返事が遅れてすみません。

      もろもろ締め切りがあり、つい遅くなりました。
      ブログにも書きたいことは山のようにあるのですが、なかなか時間が。。。

      ご高察はその通りかと思います。

      この世にある有意義な啓示や優れた先人の考察は、要はいわゆるワンネスと二元性の堂々巡りの愚を超えて、人間を創造に向かわせようと教導しているものです。

      文書に残されたものであれ、文字以外のもので伝えられていることであれ、例外なく、教派・宗教に囚われのではなく、あえて言えば、創造だけに帰依していくことを説いています。

      そして、先の啓示や考察は、その創造の理解へのバリエーションを私たちに提供するもののようです。

      花田秀次郎ふうに言えば、てめえの道を行くしかない、ということでいいわけです。

      でも、てめえの道はこれだと、自他に向けて主張しなければ不安になる人がたくさんおり、そこにつけ込むヤカラをはびこらせているってことですね。

      西塚

  2.  西塚さん、ご多忙の中、ご返事、ありがとうございます。

    「創造」をキーワードにして探究を進めておられる皆様が、学びの実践をフィードバックして得た成果を、機会あるごとにシェアしてくださることを、私は、心から願っております。
     私は、岩根先生の教えを学び、実践し、内観し直すだけで、ほとんど手一杯ですから。
     そして、私の本棚の、すぐ目につくところには、ヌース理論をゲージ理論でより深く解明した『光の箱舟』が置いてあるのですが、今後、もうしばらくは手が届きませんから。

     ところで「『盤』レポート0号」をお読みになった皆様は、ヴァジム・ゼランドのサポートを得て、多変異性を現実化する無限の可能性に、ご自身の個性を向き合わせて探求する姿勢を確認しながら、ビリー・マイヤーの「創造」のビジョンを学び、そこに、ヌース理論と、「艮の金神」系の、今ここの旅に密着した神話と宇宙論を重ねることによって、とても効率よく「創造」に着いて学び、幾つもの気づきを得ておられるのではないでしょうか。

    「てめえの道を行くしかない」ということについては、「花田秀次郎」が、その表現に、どのようなニュアンスを与えているのか、まるで分からない私は、その表現を一般化して、「自分の道を行くしかない」という表現で考えてみますと、私が十代の頃は、激流に押し流されそうになりながら、最後の土壇場で、何とか踏みとどまりながら、それでも先へ進む、という意識状態であった頃には、「自分の道を行くしかない」と考えていましたが、そのうち「行けるところまで、行く」という考え方に変わりました。

     最後の土壇場で踏みとどまっている時には、あっちの道がいいのかな、こっちの道がいいのかな、と心がよく揺れ動いていて、気になる道の世界にちょっと出かけては、何か学びを得たりしながらも、直観が働いて、いやこの道ではない、ということで、アホですから、帰ってくところは「最後の土壇場」しかなくて、でも、結局、そこで踏みとどまったことから多くを学べました。

     不安になる心に「つけ込むヤカラ」については、つけ込むのは、そちらの自由意志、そちらの課題、ということで、つけ込まれたとしたら、私は、「つけ込み」を呼び込んだ自分の不安ベクトルに、キッチリ対処し、それを乗り越えるきっかけを与えてくれた「つけ込み」にも意味があると確認した上で、「つけ込み」に対しては、皆様は、皆様ご自身の課題を、それを調和に向けて乗り越える方向で、うまくクリアしてください、と祈るのみです。

     ところで、その不安の乗り越えにも、「『盤』レポート0号」は、大いに役に立つのではないでしょうか。
     たとえば、自分の思考の方向性を変えて、別のラインに移る、という、愉快な創造的アクロバットによって。

    1. 好本様

      ポストありがとうございます。
      返信が遅れてすみません。

      てめえの道を行くしかない、というのはまさしく自分の道を行くということですね。
      花田秀次郎はまあ任侠映画なので、兄弟分とか色恋などの情緒的葛藤が絡む中で、己の義務を果たす的なノリがありますが。

       

      >不安になる心に「つけ込むヤカラ」については、つけ込むのは、そちらの自由意志、そちらの課題、ということで、つけ込まれたとしたら、私は、「つけ込み」を呼び込んだ自分の不安ベクトルに、キッチリ対処し、それを乗り越えるきっかけを与えてくれた「つけ込み」にも意味があると確認した上で、「つけ込み」に対しては、皆様は、皆様ご自身の課題を、それを調和に向けて乗り越える方向で、うまくクリアしてください、と祈るのみです。

       

      上記のご指摘の部分は、今回のまさにキモですね。
      今回というのは、このポストのやりとりにおいてという意味です。

      「つけ込み」にしても、自由意志であるというのは、財津一郎ではないですか、まさしく創造においてもその通りなのですが、同時に創造においての善悪もあるわけです。

      ご承知の『ラー文書』で言えば、「他者への奉仕」と「自己への奉仕」という難しい話にもなってくるのですが、単純に「他者への奉仕」が善、「自己への奉仕」が悪ということではないですね。

      「一なるものの法則」から言えばどちらも同じだからですが、それでも「他者への奉仕」は結局は「自己への奉仕」につながるという言い方をラーはするわけです。

      また、「自己への奉仕」は必ず他者との「分離」をともなうので、この世(第3密度)での「進歩」ということでは、結果的に困難に直面することになります。また、それは「一なるものの法則」の次にくる「永遠の法則」から見ると不都合であるという言い方もできるわけです。

      何だか面倒くさい話ですが、誤解をおそれずに言えば、善悪は本来もちろんないのですが、この世で生きていく場合にははっきりとあるわけで、いいものはいいし、わるいものはわるいという議論をしていかないとならないと私は思うのです。

      それを善悪というものはないという、まあある種のスローガンというか、キャッチフレーズみたいなもののもとで行なうキャンペーンのような言動に墜ちると、ことの本質を見失ってヤカラにやられるわけです。

      今はラーの話を基にしているので、この場合のヤカラはオリオン・グループということになります。

      つけ込みに関しては、なかなか好本さんのように対処できる人は少ないでしょう。

      つけ込みに関する知識も対処方法もないやさしい人ほど、意味があると思ってしまうと、相手をつけ上がらせ、よりいっそうつけ込ませることになります。

      それはそれでもちろんお互いの自由意志ですが、やさしい人はより辛くなり、つけ込むヤカラはそれが本人の「学び」であるはずでも、ほとんどが先述の「進歩」とは逆方向の力に依拠した「欲望」の実現に役立つだけとなります。

      だから、やはり個人的には、このテ(乱暴に簡略化してますが)の話は言葉を厳密にしていって、うざいくらいに議論していく必要があると思っています。

      しかし、もちろんソクラテスの問答の例でプラトンが示しているように、相互理解にいたるまでにはある種の条件というか、環境が必要なわけですが、私は現代では最低限、しつこい議論が必要だと思っているわけです。

      でないと、このテの話から実りのあるものを導き出すことは、それこそ財津一郎ではありませんが、非常に厳しいだろうと思います。なぜなら、議論が面倒になってきた人から順番に、個人的に獲得してきた理解の範囲内に収めようとし出すからです。

      つまり、創造に向かっていくのではなく、既知の反復へと後退していくことになって、単にスマホでゲームをしているようなことになるんですね。それはそれで面白いのでしょうが、もっと違うことに時間を使いたいと思う人もいるわけです。

      長くなるとアレなので、また記事でも書きますが、先の引用したコメントの後半部分はその通りかと思います。

      でも、私はやさしくないので、祈ることはしないで、うざく話し続けるんでしょうけれども(笑)。

      西塚

  3.  西塚裕一様

    「既知の反復へと後退していくこと」に対して、それは、しっかり踏みとどまって避けなければならないと思いますから、西塚さんの、骨太で、頼もしい論理展開は必要だと思います。

     私も「やさしくない」ほうで、かなり冷たいところがありますが、「やさしい人」が、西塚さんの論理にふれて、『自分に自発する学び』と『外部から踏み込む欲望』との境界を論理的に見極めて、「自発する学びの深化」と「押しつけとしての欲望の充足」に、それぞれ、しっかり対処されるといいなあ、と思いました。

     ※

    (私は、『ラー文書』は読んでおりませんが)

    『「他者への奉仕」が善、「自己への奉仕」が悪ということではない』という表現に対して、そこに「一なるものの法則」を導入して、(私の理解で)この表現を、より細かく書き直します。

    『「(自己が内在する)他者への奉仕」が善、「(他者が内在する)自己への奉仕」が悪ということではない』。

    「自己」も「他者」も、その多層的な意識の全体は、波動域の異なる複数のベクトルで構成された複合ベクトルですが、「自己」の複合ベクトルと、「他者」の複合ベクトルとの間には、「自己」と「他者」の区別がつかないベクトルも存在します。

     しかし、地上の内観では、「自己」を構成する複合ベクトルは、(逃げ道を閉ざす意味で)すべて「自己」として内観し、課題をクリアする姿勢を貫徹する生き方を大前提にした上で、西塚さんがご指摘くださっているように、「善」は「善」、「悪」は「悪」と見定めて対処しなければならないと思います。

     この「見定め」において、次の論理が、とても役に立ちますね。

    『つけ込むヤカラはそれが本人の「学び」であるはずでも、ほとんどが先述の「進歩」とは逆方向の力に依拠した「欲望」の実現に役立つだけとなります。』

     また、「(他者が内在する)自己」なのに、「一なるものの法則」の視点を欠いた「自己への奉仕」は、「内在する他者」を蔑ろにした「自己への奉仕」になります。
     そこでは、蔑ろにしたことによって、
    「自己への奉仕」を通して、「内在する他者」に貢献できなくなりますから、
    『「永遠の法則」から見ると不都合である』ということになるのかな、と思いました。

    (また、私は、ソクラテスもプラトンも学んだことはないので、以下、またしても私の理解レベルでの類推になりますが)

    「相互理解」に関しては、
    「(他者が内在する)自己」への奉仕を通して、「自己」が、「内在する他者」の探究に貢献できた場合に、
    (その貢献を達成した探求者と縁のある)別のプロセスを歩む「自己への奉仕」者が、
     何らかのキッカケを通して、
     その「他者が達成した貢献」が、まさに自分自身の「自己への奉仕」に役立つ貢献であったことを理解して、相手に歩み寄り、
     感謝を通して、自分に内在する、相手=「他者」の探究に貢献することを志向する時、
     そのふれあいには、「相互理解」が生まれると思います。

     ここで「(自己が内在する)他者」と「(他者が内在する)自己」を、ワンセットにして、それを、さらにシンプルに表現し直します。

    《色》。

     般若心経における実在界の《色》です。実在界の基本三特質は、永遠性、絶対性、普遍性です。

    《色》は、役割としては、複数に分かれますが、たとえどれだけたくさんの《色》に分かれても、それらすべては、常に、「永遠性、絶対性、普遍性」を生きる単数形の《色》です。

     諸行無常の非実在界を生きる「色」は、(つまり、このコメントを書いている私は)「他者への奉仕」よりも「自己への奉仕」を優先します。出発点から歩み始めた段階では。

     そしてプロセスが進むと、(私は、そんなに進んでないので、これからは類推になりますが)「自己への奉仕」と「他者への奉仕」との間にバランスを取るようになると思います。

     しかし、探究の深化に手間取る私は、なかなか、どうしてもうまくバランスを取れなくて、困り果てて(般若心経的に表現すれば)観音様に帰依し、観音様の御指導をいただいて、改めてうまくバランスを取れるように努めていくと思います。

     観音様の御指導は、初歩的なレベルの私の取り組み内容を精査し、実在界の智恵をお働かせくださって、「(自己が内在する)他者」と「(他者が内在する)自己」をワン・セットのものとして生きる―そして、それを初歩的なレベルの私でも歩める)奉仕の道として組み立て直して、そこへ、私をご案内くださると思います。

     まさに、それが実在界の智恵だと、憧れと共に、私は、そう思います。

    「一なるものの法則」を体現しておられる観音様の御指導ほど有り難いものは、非実在界には存在しない、と思います。

    (時と場合によっては、一種切実な)必要があって営む、非実在界のあらゆる営みを、実在界との調和のもとに、とことん充実させてくださるのが、観音様の御指導だと私は確信していますから。

  4. 好本様

    お返事をありがとうございます。

    時間が空きすぎて反応が遅くなりました。すみません。

     

    >観音様の御指導は、初歩的なレベルの私の取り組み内容を精査し、実在界の智恵をお働かせくださって、「(自己が内在する)他者」と「(他者が内在する)自己」をワン・セットのものとして生きる―そして、それを初歩的なレベルの私でも歩める)奉仕の道として組み立て直して、そこへ、私をご案内くださると思います。

     

    観音様とは何か、ということですね。
    つまるところどうしても、自分とは何か、ということになるかと思います。

    もちろん、それぞれの人の考えがあると思いますが、やがては “似ている” 考えがあちこちで収れんしはじめて、いくつかの “似ている” けれども “違う” グループができ、またそれらのグループたちもやがてはさらに大きな意味で “似ている” 考えへと収れんしていくようです。

    この “似ている” ということはなかなか手ごわいもので、悪魔でさえ神に似ているのです。

    では、何が “違う” のかということですが、これは “同じ” であることがわからなければわからないのでしょう。

    すみません、わけのわからないようなことを言いまして。
    このスペースでは、私の能力ではそれくらいのことが精一杯のようです。

    力不足ですね。

    西塚

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