だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

うたかたの時

今日は、何ともすがすがしい青空だ。

昨日は無事、春分の日を迎え、今日からまた新しい期に入る。

聖火リレーも昨日、宮城の松島基地に着き、日本の地に移された。

時間を問わねば、古代ギリシャのオリンピアの火、プロメテウスの火が、縄文の里・松島に届けられたというわけだ。

大きな水の洗礼を受けた地に火が入ったともいえる。

また、今回の東京五輪では、聖火リレーの第一走者が初めて女性になったので、女性の手から日本へと火が渡されたともいえる。

聖火到着式自体は、東石巻市の津波復興祈念公園で行なわれたが、この日は西からの強風が吹きすさび、聖火の種火をランタンに移すときに 2 回消し去ったという。

しかし、宮城の聖火ランナー役のお笑いコンビ・サンドウィッチマンがギャグで場をつなぎ、何とか火を灯したということだが、サンドウィッチマンと聞くとやはりサンドウィッチ伯爵を思い出し、サンドウィッチ伯爵といえばケント州カンタベリー大司教を連想し、イギリス宗教界のトップがあたふたしながら火を移しているコントまで想像して、何ともおかしくなった。

実際、西風は相当に強かったらしく、ブルーインパルスが空に描いた五色の輪も消し去ったという。

「西風」と聞いて、年齢のせいか、つい矢沢永栄吉の「時間よ止まれ」を思い出し口ずさんでいたが、あれって今からちょうど 42 年前の今日、1978 年 3 月 21 日に発売されたシングルなんだよね。

当時、資生堂の CM でもガンガン流れていたし、オリコンチャートでも連続 1 位、ミリオンセラー楽曲だから知ってる人も多いだろう。

歌の最後では、「西風が わらうけれど この女(ひと)に 賭けるぅ…」ってんだけど、当時から妙に記憶に残っていたってどんだけオヤジなんだかだが、しゃーないわな、オヤジなんだから。

 

 

で、「時間よ止まれ」のあと、翌月 4 月 10 日には、原田真二の「タイム・トラベル」がリリースされた。

 

 

最後の部屋は 星降りそそぐ 時の果て 幾千万の舟が旅立つ
住めなくなった 青い地球は 窓の外 やがて 小さな点に消えたよ

時間旅行のツアーはいかが いかがなもの?
突然 夢がそこでとぎれた

時間旅行のツアーはいかが いかがなもの?
ここは東京 君の手の中 君の手の中

時間旅のツアーはいかが……

 

奇しくも “時間” つながりだが、この曲の壮大なビジョンは、当時何やら不思議な感じを私に与えたものだ。原田真二もこの曲で年末の紅白歌合戦に初出場することになる

ちなみにこの年は、8 月にヨハネ・パウロ一世が第 264 代ローマ法王に就いているが、わずか 33 日後の 9 月 28 日に遺体で発見される。バチカン銀行の闇にメスを入れようとしていた法王だった。

そして歌謡曲と言ったら怒られるかもしれないが、また歌謡曲に戻れば、同年末の 12 月 20 日には、甲斐バンドの「ヒーロー(ヒーローになる時、それは今)」のシングルが発売され、12 月 31 日の 23 時 59 分 50 秒から、ピッ、ピッ、ピッと時を刻み、深夜 0 時、1979 年 1 月 1 日になった瞬間、銀座服部時計店すなわちセイコーの CM ソングとして、テレビでいっせいに流され、オリコンチャートでは甲斐バンド初の 1 位を獲得する大ヒットとなる。

 

 

HERO 空はひび割れ HERO 太陽は燃え尽き
HERO 海は枯れ果てて 月は砕け散っても
HERO HERO になるとき それは今
HERO 引き裂かれた夜に お前を離しはしない

 

いずれにしても、同年に発売された 3 つのヒット曲の最後のフレーズは興味深く、いろいろなことが言えるが、これも捉える側しだいだ。

そういえば、半田広宣氏が提唱するヌーソロジーでは、OCOT によれば、1979 年からいわゆる「最終構成」が本格的に始まるとされていたね。

占い、予言、預言、予測などなど、人はあらかじめ未来に起こる出来事を知りたい、知っておきたい、知って安心したいという気持ちがあるものだが、どうもそういう意識はもう機能しないというか、そのような意識では起動させるものがなくなったようなのだ。

これまでは、それでもあるサイクルに則って現象化されてきていたので、その範囲で有効な意識の使い方があったし、実際うまくハマった意識は、たとえば大金持ちになったり、有名人になったり、つまりお金と権力を得て繁栄できたり、またそれらの者を長とする共同体の中で安住できた。

しかし、そのサイクル自体がもう変革されざるを得なくなっているというか、もたなくなっている。

だから、そのサイクルにはすでにしがみつくことができなくなっており、まだまだしがみつきたい意識もあるようだが、それはできないのだ。

私たちにさまざまな形で残されてきている文献は、そのことを伝えている。

しかし、今ではもうその解読、解釈はほぼ終わりというか、文献に首っ引きになっている時間はなくなっており、あとはどう “生きる” か、つまり自分がそれらの書にあるエッセンスをどう体現するか、さらにいえば “書そのもの” になっていくということである。

だから、予言、予測、占い、何でもいいが、“人” が言うそのテのことには、まず距離をおき、自分の直観に従って生きよう。

っても、これもあまりにもベタな言い方だが、じゃあ、以下のような言い方をすれば、もっと伝わるだろうか。

 

いわゆる「必要」とか「便利」とか称するものに妥協したとき、初めてわれわれは是非曲直を直感する内なる力に背き出す。

 

私ふうにいえば、効率や損得勘定が働き出すと同時に、自分の本来の力から離れ出すということである。

唐突だが、これもふざけて聞こえるかもしれないが、SNS で話題になっていたマンガ『 100 日後に死ぬワニ』も、昨日の春分の日に、死んだのだ。

宮城にやってきた聖火を煽った強風にしても、“逆風” や “前途多難” と見るムキもある中で、サンド・伊達のように、「風も歓迎している」とする見方もあり、単に意識をどう向けるかの違いである。

今回の強風に限らず、何かが起きた場合、その事象自体を取り沙汰するのではなく、その事象に対してどのような意識を持つかということだ。

私たちは、同じ事象に対して、それこそ正反対の意識を向けることができる自由を与えられている。選択の自由というヤツだ。

事象に対してどのような意識を向けるかで、その後に続く事象の質が変わってくる。事象は、決して自分の “外” に分離してあるのではなく、自分と事象は一体であり、事象は自分の意識の反映としてある。

なにも、楽しくない方向や流れへと向かう意識を持つ必要はない。

本来、楽しくなるような方向への意識を持つことが当たり前の世の中であれば、ほとんどの人間が質としては同じような意識を共有することになり、世界ももっと楽しいだろう。

問題は、楽しくない方向、よくない方向への意識も共有できることで、肉体を持った存在としての人間は、生存を維持するために生存を脅かす危険なことに反応しやすくなっており、そうした危険につながりそうなネガティブな情報には、すぐ不安や恐怖を抱くようにできているから、おっかない情報をふんだんに流せば、意識をネガティブ寄りでまとめやすくなり、ヘタすればネガティブにまとまった意識を特定の方向へと誘導することすらできてしまう。

現実や現象は意識が創っているということは、今や多くの人が承知していることだろう。だから、そのあたりのことをもっとよく知れば、いたずらに恐怖を持つこともなくなるはずだし、妙な方向へ誘導されることもなくなる。

楽しい未来は楽しい意識からしか創られない。楽しい意識に恐怖や不安はない。恐怖や不安を持つことがあったとしても、恐怖や不安を抱いた対象への意識を変えることで、恐怖や不安もすぐ消える。

感情とは、物ごとに対して向けた意識、物ごとに対してとった態度のあとにやってくる心の状態のことだ。物ごとに対してどのような意識を持ったか、どのような態度をとったかで、感情も変わるのである。

そして、物ごとに対してどのような意識を向けるか、どのような態度をとるかは私たちに委ねられており、自由に選択できるのである。

東京五輪がどうなるかはまだわからないが、個人的には年内延期で秋にでも開催すれば、微妙に丸く収まる気もするし、気候もいいし、気持ちがいいのではないかと思うのだが……どうだろうね。

そういえば、来月は「復活祭」もあるなあ。

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