だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

コロナ雑感

編集の仕事で不眠不休を余儀なくされているが、締め切りがすぎているのにまだフィニッシュしないでいる。もう少しなのだけれども、手を抜くことができない性格が祟ってというとアレだが、まあ要領がよくないのだろう。

そんなさなかにノンキにブログを更新している場合じゃないという内なる声もあるが、ちょっと書いておこうかと。

いや、コロナのことだが、ときどきニュースは見るし、ネットでも記事を見かけるからだいたいのことは知っているが、何というか、どうかしているとしか言いようがない。

コロナコロナの大合唱だ。

もちろん、イタリアやスペインのことは知っているし、次々と亡くなっている人がいることは百も承知だが、それにしてもだ。

こんなことは私が言うまでもなく、前にも投稿のコメント欄でも書いた気がするが、「死者」ということで言えば、毎年風邪で亡くなる人、肺炎で亡くなる人、その他、いろいろな要因で亡くなる人の数を考えれば、本当に大したことはないと言うと反発されるのはわかっているが、少なくともマスコミを挙げての大騒ぎをする必要はまったくないと個人的には思う。

これは、人ひとりの命は地球より重いとか、毛沢東が 6 億の中国人が半分死んでも 3 億残ると言ったとか、そういう類いの話とはとりあえず関係がない。

コロナウィルスという普通の風邪のウィルスの感染者と死者のことで、なぜ、これほどまでに世界中で大騒ぎしているのかということである。

新型だから、未知のウィルスだからということかもしれないが、インフルエンザにしても風邪にしても、専門的に調べれば今までいくらでも新型が発生している。

しかも、今回のコロナ騒ぎの感染者や死者の数は、インフルに比べれば本当に比較にならないくらいに少ない。もちろん現段階の話だ。

あまりこういう言い方はしたくないし、ガラでもないのだが、どうも集団ヒステリーとか、集団催眠とか、いわゆるパニックとか、つまり “普通” ではない精神状態に陥っているように思われて仕方がない。

おかしいのは、お前だろ!とも言われそうだが、コロナに関しては、私は恐怖も不安も何もない。しいて言えば、タチのよくない風邪だなというくらいのものだ。

とても、これは一大事だとか、とんでもないことになったとか、世界がおかしくなっていく……とは思えないし、そういうふうに思っている人に対しては、そんなことはないと思うよ……としか言いようがない。

仮に本当にそう思っていたとしたら、つまり本当にこのまま世界がおかしく危険な方向に向かっていると思っているとしたら、それを助長するような言動を発するのではなく、むしろ、そうならない方向への言動とは何かを模索するはずである。

だって、一緒に不安材料を共有しましょう、悲観的になりましょう、どうしてこんなにひどい状況なのに、あなたはわからないんですか!と言うよりは、こういう部分をこういうふうにすれば、こういう効果が期待できるので一緒にやりませんかとか、だから希望もあるし、楽観視してもいいと思いますよとか、ほかにどういうふうにすればよい方向へ行くと思いますか、いろいろ提案してくださいと言うほうが、はるかに建設的だし、実際に現実的だし、物事はよくなると思うのだが、いかがだろうか。

ゼランドではないが、たとえば戦争に関して言えば、戦争に賛成するにしても反対するにしても、エネルギー的にはどちらも戦争に加担していることになる。

まったく別の発想が必要なのだ。

それが「創造する」ということの真骨頂ではないだろうか。

ちょっと違う角度から言えば、新型コロナが人工的なものだという論文があることも知っている。

それが、武漢のラボから漏れたものなのか、某国の謀略で仕掛けられたものなのかは、専門家が調査をしているだろうから、いずれ何かしらの情報が現われるだろう。

私がちょっと気になるのは、武漢が 5G システムの最先端の実験都市であったということだ。それこそ自動運転の車が走り、今回の騒ぎでは、医療現場ではロボットが活躍したようだから、図らずも本番としての実地試験まで行なえた状況になったのである。

その 5G システムを世界に売り出すために、中国はとてつもない国家予算をつぎ込んで、武漢を拠点にして着々と準備をしてきたわけだ。

で、本格的な 5G 元年となりそうな 2020 年に入る直前、昨年の 11 月~ 12 月あたりから、武漢でおかしなウィルスが蔓延し出したということになる。

すでに 2018 年の 12 月には、アメリカではアップル、サムソンに次いでスマホ市場 3 位を占めるファーウェイの副会長・モー何とかさんがカナダで拘束されたが、その理由は半分イチャモンのようなものだった。

まあ、ともかく、中国の世界市場の急進出、急席巻を面白く思っていないものたちがいることは間違いない。

これはアメリカ国家ということでもないし、もはやどこそこの国がうんたらかんたらということを超えて権力構造が複雑化しており、ヘタすりゃ、いわゆる人間ではないものの話までしなければならなくなる。

いや、私が言いたいのは、米中の貿易戦争のことではなく、といってもそれも相当今回のコロナ騒動では絡んでいるのだろうが、むしろ 5G のほうだ。

5G では、大容量の情報を高速で通信伝達できるので重宝されるわけだが、そのための電波はミリ波になり、つまり 3G や 4G に比べると波長が短くなり、周波数が高くなる。

早い話が、テレビやラジオ、携帯で使う電波より赤外線、紫外線、X 線、ガンマ線に近くなるわけだ。つまり直進性が強まるぶん透過性も強まり、X 線ともなればレントゲンのように人体も通過し、ガンマ線だになれば物質の電子にまで作用し、放射線の危険性は周知のとおりである。

そういう電磁波のほうへ近くなるということだ。そこまでじゃないが。

でも、5G のミリ波の人体への影響は研究もされていて、X 線やガンマ線のように肉体の内部までには影響がないようだが、体表、つまり肉体の表面に熱を与える影響があることがわかっている。炎症が起きやすくなるのだ。

それでも皮膚の炎症ならそれほどでもないかもしれないが、目である。目は言って見れば体表だ。5G の電波は目に影響を与えて、炎症させる危険があるのではないかといわれている。

武漢でいち早く新型コロナに気づいた 30 代の医師は眼科医だった。すでに亡くなったが、いくらマスクをしていても、眼球が露出していて、しかも炎症を起こしていたとしたら、感染者のくしゃみや咳の飛沫が目に入り、そこから感染するということも考えられる。

実際、武漢の新型コロナ感染者の YouTube を見たことがあるが、最初に目が赤くなったと言っているものがあった。

武漢では 5G の電波がガンガン飛んでいるのである。

だから、これはド素人の憶測の域を出ないし、まだ個人的にも研究途中だが、今回のコロナ騒動は 5G に関するある種の警告と言うと大げさだが、注意をうながすくらいの何らかのサインのひとつであるという気がしないでもない。

そして実は、個人的にもっと重要と思われることは、新型コロナに関して、日本の感染者・死者が異様に少ないということだ。これは欧米諸国に比べてという意味である。ケタ違いであり、異様である。

これは欧米ももちろん気づいていて、どぉなっちゃってんだよと研究しはじめた。日本の検査数が極端に少ないからだと、おおよそそういうことになっているが、それだと死者に関しては説明がつかない。まさか死者の数を偽っているわけではないだろう。

よしんば日本が東京五輪の開催に影響を及ぼすとして、新型コロナの感染者の検査をせず、死者に関しても死因を別の病気に回していたとしても、ひょっとしたら欧米のほうでも、新型コロナが原因ではない死者でも、新型コロナの死者としてカウントしていないとも限らない。医療崩壊や都市部の混乱、また欧米の人々のコロナに対する過剰な恐怖感・嫌悪感を見ると、そういうこともないとは言えない。

しかし、いずれにしても、日本の感染者・死者数が欧米に比べて極端に少ないことは間違いない。

これは、先の 5G のところで述べたこととも関連してくるのだが、やはりそこには “意識” が大きく関係していると考えるわけである。

詳しく書くととんでもなく長くなるので今は書けないが(仕事に戻らないとどやされる)、前回の記事でもゼランドを引用したが、欧米と日本の差には、意識のあり方・使い方の違いが大きく作用していると思うのだ。

ここにきて、いきなり今後の人類が抱える本題に取り組まざるを得ない事象が起きた、と言ってもいい。

今回のコロナ事象をどうとらえるのか、ここでまず私たちの意識は二つに別かれるだろう。

言うまでもないが、これはよい・わるいではない。必ず二つに分かれるのである。そして、その選択は自分で行なうのだ。

そういう意味では、日本は世界の中でも特異な意識を持つ人たちが多くいる国であると言える。これもまた誤解されそうだが、日本が優秀な国だとか、日本人が世界を救うということを言っているのではない。単に意識のことについて言っている。

話がちょっとずれるが、ネットを見ていると、日本人には、自分の国や自分の国の首相をほぼ全否定する人たちがやたら多いような気がする。

自分の国に、あるいは自分の国の首相に、いったいどんな恨みがあるのだろうかと思いたくなるような言説もある。

私でいえば、普通にたとえば安倍首相には文句があるし、面倒くせえなあという日本の文化も慣習もある。

しかし、全否定ということはないだろう。誰が誰を全否定、あるいはほぼ全否定できるのだろうか。

長くなるといけないので、最後にまたゼランドでも紹介して終わろうか。

と言いながら、引用自体は長くなるが、端折るところがないからしょうがない。聞きなれない用語も出てくるが、これも文意に影響はほとんどないから解説はしない。

以下、「惨事」と題された項である。

 

多くの人が、いずれにせよ理論的には惨事に遭遇する可能性はあり得ると考えている。しかし、全員が自分の世界の層にこうした可能性を取り込むとは限らない。もしテレビのシリーズドラマを見ない人々がニュースにも興味を持たないのならば、どこかで誰かの身に起きている出来事がそうした人々を煩わすことはない。彼らは自分たちの層に住んでいて、ほかの振り子の信奉者となっている。どこかで飛行機が大破しても、彼らが動揺することはない。彼らはそうした出来事に関するニュースを耳にしても、平然と夕食を味わう。自分の心配事で手一杯なのだ。

誘導転移をより多く被りやすいのは、どこか別の場所にいるほかの人々の身の上に起こっている惨事について関心を示し、不安を感じ、心配する人々である。

もしある人の人生が心配事や気苦労でそれほどいっぱいではなければ、注意をほかの人々の層で起きている出来事に向け、心配事や気苦労の不足分を補おうとする。こうした人は、扇情的で興味本位の記事を売り物にしている新聞を定期購読するか、テレビのメロドラマを見るか、または、惨事や天変地異に関する新たな報道を待っている。

低俗な新聞・雑誌やメロドラマは、矮小で悪気のない振り子の典型である。そうした振り子に献身することは、情報、感情、心労の不足分を補うことに過ぎない。だが、惨事や天変地異といった破壊的振り子に関心を示すことは、自分の中に現実の脅威を持ち込むことである破壊的振り子は強力で攻撃的なのである。

メロドラマの場合と同様に、似たような出来事に注意を向ける人の思考放射の周波数は、乗っ取られてしまう。ネガティブな情報に関心を寄せる人は、いつもそうしたものを過剰に受け取ることになる。

最初は傍観者という当たり障りのない立場で、その人は観客席にでも座って、サッカーの試合を観戦しているような気分だろう。だが、次第に試合に引き込まれていき、熱心なファンになっていく。その後、フィールドに降り立ち、まだボールはパスされないまま、駆け出す。少しずつ知らず知らずのうちに、その人はますますのめり込んでいき、ついにボールを受け取る。そうして傍観者がプレイヤー、すなわち惨事の犠牲者へと変わっていく。

必ずそうなってしまう。なぜなら、惨事はその人の人生の一部となっており、その人自身が自分の層に惨事を取り入れ、いつの間にか犠牲者の運命を受け入れ、不運なバリアントを現実化してしまったからだ。

もちろんその人は、犠牲者の役割を引き受けたくはなかっただろう。しかし、それは仕方のないことだ。もし人が振り子のゲームを受け入れたならば、役割を割り振るのは振り子なのだから。その他大勢の犠牲者にとっての災難は破滅的な悪状況の重なり合った結果であるのに対し、その人にとっては、これは法則に則った論理的帰結ということになる。その主人公にとって、しかるべき時刻にしかるべき場所にいあわせる確率は、すでに平均を上回っているのだ。

もしあなたが破壊的振り子からのゆさぶりを無視したならば、惨事に遭遇することは決してないだろう。その確率はゼロに近いとも言える。では、災害や天変地異の時に、なぜ数千もの人々が命を落とすのか? 犠牲者たちは皆で一斉に災害のことを考えていたとでもいうのか? 

こうした反論もあるだろう。だが、あなたはこの世界にひとりでいるのではない。破壊的振り子の下で積極的に活動し、こうした振り子のスペクトルでエネルギーを放射している多くの人々に囲まれている。誰もそのような放射から理想的に遮断されることはできない。放射フィールドはあなたをつかみ取り、あなた自身もそのことを認識しないまま、同じ周波数で放射を始める。

こうした行動の根幹部分は、太古の昔にまで遡る。当時は群棲本能が危険を回避するのに役立っていた。まさにそのため、誘導転移のエネルギー場は、雪崩のように急激に高まり、漏斗のように引きずり込もうとするのだ。

漏斗の中心からいかに遠くいられるかが肝腎だ。これは、惨事や災害に関する情報を自分の中に取り入れず、それらに関心を持たず、思い悩まず、話題にせず、総じて聞き流しておくことを意味する。

ここで注意することは、情報から遠ざかりはしないものの、それを自分の中へは取り込まないという点だ。これまでの章から分かる通り、振り子との遭遇を避けようとするものは、振り子との遭遇を求めるのと同じことである。あなたが何かに抵抗し、それを望まず、または憎悪をあらわにしたりすると、そうすることによって、逃れたいことがらの周波数で活発にエネルギーを放射してしまうことになる。

自分の中に取り込まないということは、ネガティブな情報を無視する、反応しない、ということであり、自分の注意を悪気のないテレビ番組や本へと切り替えることなのだ。

もし反応しないでいることがうまく行かないのならば、守護天使に期待するしかなくなってしまう。……

 

おっとっと、最後のほうはまた話の次元が違うので、今はふさわしくない。また機会があれば触れる。

とりあえず、上記ピンクの部分を頭に入れていただき、冷静に言動を行なうようにすれば、それほどひどいことにはならないだろう。

まあ、実際は、テレビのニュースをまったく見もせず、コロナ関係のことからいっさい離れるなんてことはできないだろうから、情報を受け取るときに注意をするくらいか。

私が言えるのは、このゼランドが言ってることと近いニュアンスの情報を発している人や媒体に関しては、取り立てて警戒は必要なく、その反対の情報を発しているものには、最大限の注意が必要であるということだ。

仕事に戻ります。

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