だいぶ間が空いてしまった。

『宗任問答』のアップ告知以来、いや記事としては 2 カ月近い無沙汰に自分でも驚く。

次回の『宗任問答』にしても収録はしているのだが、まだアップできずにいる。お待ちいただている人たちもいるので、急ぎます。

 

 

編集の仕事が一瞬だが区切りがついたので、たとえ「いろはにほへと」でもいいから何かしら書こうとあせって筆をとった。

「ジョン・ウィック」シリーズの 4 も書きたいのだが止まらなくなると困るし、このあとの仕事やその他、義理ある用事にも差し支えるので、思いついたことをパーパー書きつらねていくくらいが精一杯かもしれない。

前回の記事を見ると、コロナに絡めて『 RA 文書』から引用・紹介していたね。

いまだコロナは世界中で予断を許さぬ状況のように報道されているし、実際その通りなのだろうが、『 RA 文書』で引用した流れでいえば、コロナ現象は人間の意識に関わっているから、現在の人間のというか人類の意識に何かしら問題があれば、それに連動してコロナ問題も継続するということになる。

前回は『 RA 文書』の邦訳版からの引用だったが、まだ邦訳されていないセッション 76 でもちびっとウイルスのことに触れていて、いや正確に言えば病気( disease )に関連して触れていて、それは顕微鏡でしか見えない第 2 密度の存在とやらによるものだといっている。

超意訳的に言えば、人間は地球でいろいろと経験を積むために肉体を持って生まれているが、ウイルスのような微生物もそのことを補助するために、肉体を終わらせる機能として待機する形で存在しており、第 3 密度の地球が急速に進化している今、人間の意識がなかなか進化に追いつかないので、早く進化できるように必要なときには適宜ウイルスが機能することになり、人間に短期間で学習できるような機会を与える、ということになる。

前回も言ったかどうか、これは大本系の一連の神示に出てくる国常立尊の言ってることと同じだ。たとえば『火水伝文』にはこうある。適宜、フリガナを入れる

 

今今、病みにありて、辛き思い致され居(お)る人民様には、
酷(こく)な言い様と憎まれるを知りて尚(なお)、
取りて解(わ)かりて欲しくある大事な事を申し置くから、
カンニンなされて聞いて下されよ。

今、暫(しば)し身欲(みよく)を捨てなされて、心スミキリて聞いて下され。
汝等(なんじら)が今辛くあるはメグリ由(ゆえ)の型示しであるを存じて居るか。
汝等もともと神なる身なれば、神の決まりを破りし時には、
気付きある様、情けかくるがマコトその事でござるのぞ。

痛き辛きが何で情けであるものか、と人民様申さるるは知りて居るが、
今はまげて聞き取りて下され。病みのマコトの因を知りて欲しいからぞ。
汲めど尽きせぬ型示しあるも、マコトの因はただの一つであるを知りて下され。
そは真釣(まつ)りを外したが為(ため)でありたのじゃ。
神の決まりとは真釣りの事でござりたのぞ。

 

今、ここでガッチリ説明する時間はないが、要は地球の進化とともに人間も進化していくのだが、それをうながすためにいろいろ病気だの災害だの、いや引用した部分では災害のことはいってないが、とにかく一見厳しいことが起きるが、それはそういう仕組みになっているからであり、あえていえば人間にわからせるための “神の情け” なのである、ということである。

引用にある “神の決まり” とは、まさしく『 RA 文書』でいえば “一なるものの法則” のことであり、ビリー・マイヤーがコンタクトするプレアデス/プレヤール人の言葉でいえば、 “創造と自然の法則と掟” となる。

で、“真釣り” とは、きちんと説明する余裕はないから “調和” といっていいと思うが、口・心・行(く・しん・ぎょう)の三つの “三真釣り” となり、言うことと思いと行動を調和させるということだ。半田広宣氏のヌーソロジーでいえば、“反性質” の意識の流れということだろう。

それは人間の意識の進化に関わることだが、この “進化” という言葉も何というか手アカがついているから、“覚醒” とか “気づき” とか “選択” と同じようにスピ系では頻出する用語であるために、聞く人によってはかなりの抵抗があるだろうし、実際使う側もそれなりに慎重にならないとおバカさん丸出しになる。

コロナに限らず、地球規模の災害が起こるのは地球が地球を守るための自然なリアクションであって、人間でも動物でも植物でも自己治癒力や免疫機能が備わっているように地球にも備わっており、それらをひっくるめて “自然” というわけだ。

要するに何かしら行きすぎれば、必ずそのリアクションとして教えてくれるのだ。肉体の変化だったり、周囲の環境の変化だったりして。行きすぎるのはいつも人間の意識に関係している。

私みたいに酒を飲みすぎれば、腹を下すし、肝臓を壊すし、仕事は遅れるし、信用はなくすし、貧乏になるし、頭がおかしくなる。

先のビリー・マイヤーにしても同じことをいっている。

 

…(略)それゆえこのような事態を防ぐために、必然的に一切のものは、けっしてそれぞれ変性することなく否定的なものと肯定的なものとが等しい、きわめて特定の自然法則に従属しているのである。

それゆえ自然に従えばいかなる変性も根絶されなければならず、これは完全に論理的である。そうすることによってのみ健全な生物を維持することができるのである。したがってまた人間がその狂った教養と誇大妄想により自然に対して否定的に企てる一切のことに対して、自然が自分を護るのもごく論理的である。

したがって自然の領分に手出しすることは、必然的に自然はそれに対して反抗し、死と破滅をもって反撃に出ることを意味している。こうして見ると、種々の自然災害も、人間が自然に対してばかげた行動を取り、狂気を振り向け、その法則を犯し、無視していることに対する防御と自然な反応にすぎないことがわかる。

(中略)

人間の論理的な思考形態は、自然自体の論理的な行動形態と同様に自然法則に従っている。しかし人間の場合は、最初に自然法則の遵守を学び認識しなければならないという事情がある。その結果として、自然法則を遵守するために人間は最初に否定的な思考と肯定的な思考の均衡を取らなければならない。

もしこれが行われなければ、否定的なものか肯定的なものへの変性が起こるが、いかなる方向においても変性は自然に反する。否定と肯定の平衡こそが自然で論理的であり、永久に有益であり、真に善良である。

真に肯定的に思考するとは、中立的・肯定的に思考することである。つまり反対のことや事実に反することを考えないことである。さらに心にとって絶対的に中立的・肯定的に考えるとは、真に完全に中立的な素材、すなわちいかなる点でも否定的な害悪に関連しないものを思考に用いなければならないということである。

ビリー・マイヤー『心』より

 

なんだか話がずれていきそうだが、マイヤーのいう “中立的・肯定的” な思考や意識というのはものすごく重要であり、人間を人間たらしめる礎のようなものだ。

早い話が、過ぎたるは及ばざるがごとしってことだろ?ってことでもいいのだが、そしてたしかに格言や言い伝えには真実が含まれているものだが、その含意するところのものを認識しているかどうかとなるとけっこう怪しく、ただのスローガンだったりおまじないのようなものに成り下がっている場合が多い。

中立的・肯定的な思考は、実は「善‐悪」ということにも関連してきて、つまりよくいうところの “本来は善悪はない” という前に、この世はハナから二元的なものとして現われているので、この世で起こることはすべからく相対的に起こさしめられており、当たり前だが善も悪も相対的に存在するということを徹底的に認識していないといけないのである。まずは。

相対的に善悪があるという意味は、それはオマエにとってはいいかもしれないが、オレにとってはダメなんだよということだ。

いわゆる “ワンネス” に関しても同じことで、本来は一つなのだが、この世はハナから “分離” として現われている。

となれば、“この世” というのがクセモノとなり、この世ってなんだ?ということになるが、そのことに関しては、人類の相対的に最良の部分が営々と論じてきているような哲学的&科学的分野の功績としてあるわけだが、哲学的には宗教として突出した部分で行きすぎ、科学的には武器・兵器開発として行きすぎて、浜の真砂が尽きるとも世に戦争の種は尽きまじといった状況にマジでなっているわけだ。

だからこの世に生きている間は、相対的な善と悪やあれやこれやについていろいろ考えなきゃならないことゴマンとあるわけで、んなこたあメンドくさいから誰かにまかせときゃいいんだよとなると、誰かたちはきっと行きすぎ、気がつきゃ善と悪やあれやこれやについていろいろ考えようにも考えられない状況になってる可能性がある。

それは巧妙に思考停止にさせられていたり、ヘタすりゃ、あれこれ議論する “場” 自体が規制されたり、罰せられたりするわけだ。

となれば、ビリー・ナイヤー翁がいうところの “中立的・肯定的” な思考とは何か?といった高尚な酒飲み話もできるはずはなく、行きすぎた誰かたちの欲望に巻き込まれていつのまにか “否定的” な思考を強いられるままになり、本来は仲良くできるはずの相手ともイガミ合うハメになってしまうのである。

何だか完全に方向がずれてきているが、ともかく中立的・肯定的思考や意識というのは大事であり、なぜならこの世が存在しているということはそもそもからして“肯定”であり、“プラス”であり、“陽” だから、否定もマイナスも陰も肯定とプラスと陽があるからあるわけで、また両方あるからこの世は “動いている” のである。

ハナから肯定でプラスで陽だから存在しているというか、存在しているということはハナから肯定でプラスで陽ということだ。

否定とかマイナスとか陰だとかいっちゃったりできるのは、存在するという形態があるからだ。じゃなきゃ何もないわけで、何もなければ何もない。

時間がなくなってきたが、このあたりの話が悩ましいところで、そんなあーだこーだがメンドくさくなってくると結果的に信仰に依存することになったり、最後の最後に “ノンデュアリティー” とか “非二元” といわれる世界に入り、思考停止を止むなくさせられることになったりする。

誤解されるといけないが、信仰も非二元の考えも別にわるいわけではないし、究極はおそらく信仰であり非二元なのだが、何に帰依し、どう非二元を体験するかということが大事だと個人的には思うのある。

そのあたりのことを考えたり体験しようとしているのが、いわゆるスピ系とされる領域にいる人たちなのだろうと思う。本来は。

むしろ、もともと人間のすることはそれしかないと私は思っているし、その意味で私ももちろんスピ系であり、スピ系の人々は私は自分の仲間だとも思っているわけだが、“スピ系” という呼称は今や揶揄的に響くからややこしくなり、どこかうしろめたい気持ちにさせられてしまうところが残念だ。

私なんかも “いわゆるスピ系” なんて言い回しでごまかしてきたところもあるが、ごまかしてきたという意味は、同じスピ系ではあっても、それはいくらなんでも安易すぎないか?ってな対象を丸ごと指し示す場合に使用してきた言い方だったということだが、そのつどきちんと徹底的に誠実に論評したとはいえなかったなあということである。

話がずれるどころか脱線しそうなので戻すと、えーと何だろ、そうたとえばさっきのビリー・マイヤーでいえば、というか彼も含むプレアデス/プレヤール人にいわせれば、信仰すべきものは “創造” しかないということになるのだが、今、“創造” とは何だとなればとても話しきれないのでよすが、これは『 RA 文書』のラーも同じことをいっており、実はまっとうなスピリチュアルな文献から伝わってくることはほぼ同じなのである。

ほぼというのは、完全に私が把握したわけではないという意味であり、まっとうという意味は、思い込みのいわゆるチャネリングによるものではないということだ。

何でそんなことがわかるのかといわれるかもしれないが、これはわかるのだ。

もちろん私の個人的な資質や能力もあるだろうが、長年編集者をしている人間なら、おそらく誰でも文章を読むだけで書いた人間の基本的な性格や思想くらいはわかるはずだ。

これは何もエラソーにいってるのではなく、前にも書いたかもしれないが、長年大工をしていれば、ちょっと柱を触っただけで、ああこの柱はたぶんどこそこの木だろうとか、ミュージシャンなら一緒にセッションしてみて、ああ、あいつはうまいなあなんてことはすぐわかるはずだし、そんな例はあげたらキリがない。

そういう意味でわかるということであり、資質とか能力とは、自分のやってることが自分に向いているとか、好きだからやっているとか、別のことをして生きてきたから気がつかなかったわ♡というもののことである。

また、書いてある内容に関しても、どこまでが本人の体験で、どこが伝聞もしくはウソで、こういっちゃなんだが、どこが “降りて” きているのかってな部分までわかる。

もちろん個人的な感覚だから証明のしようがないが、それでも複数の文献との照合や、知己かどうかに関わらず信頼をおく人間の意見などを聞くことによって、極端にヘンな判断をすることはまずないといえる。

またずれたな。

先のマイヤーとかラーが “創造” に関して伝えていることが同じだというのは、結局は両者ともそれは “神秘” だといっているということだ。

もちろんその “神秘” については、両者ともに膨大な注釈がつくわけで、それが一連の文献となるわけだが、少なくとも覚醒や悟り、気づき、進化、アセンションなどの言葉で終わってしまうものではなく、たとえば覚醒や非二元というのは、また次の段階へ進むための “はじまり” でしかなかったりする。

これは別にマイヤーやラーだけではなく、ヌーソロジーの OCOT でも、大本系の国常立神でも、ゼランドに降りた白髪の老人でも、その他いくつかの文献が伝えていることでも同じだ。

だから、スピ系たちのやることはまだまだこれからもたくさんあり、むしろ無限に続くといってもよく、実際プレヤール人でも何でも、人間のするべきことは “探究” しかないというわけである。

しかし、たとえば “非二元” では探究は無駄だとまではいわないが、いやいってるのもしれないが、いわゆるマインドの思考をわりと否定的にとらえるというか、“幻想” としてとらえる。

でも、またここがややこしくなるが、ノンデュアリティー系の人たちがいうところの、善も悪もないし、ワンネスしかないし、すべては幻想であり、ないものだから、がゆえに何があってもそれは本来ないのだからどうでもいいものというか、あまり気にしなくてもいいものとする傾向があるように思うが、これはけっこう厳しいかもと思う。

なぜなら、本人は実はどうでもいいとは思ってないだろうからだ。

もっといえば、ノンデュアリティーや非二元の教えに接する人たちの一部は、やはりマインドでそれらの文献を読んだり、いわゆるリーダーというか先生というか、一般的にはそういうポジションにいるようなコミュニケーターの話を聞いたりして学ぶのだろうが、マインドでいくら納得したとしても、もし現実的に避けたい具体的なものを抱えている人があるとするならば、そのままいけば、さらに厳しい現実的で具体的なことに遭遇することはほぼ間違いない。

だから、たとえば厳しい現実から逃れるためにノンデュアリティーや非二元という教えに向かうようなマインドの人がいるとしたら、そういうマインドであるためにどうしても倍返しのような仕打ちを受けてしまい、そういうマインドであるがゆえにその仕打ちに耐えられない可能性があると思うのだ。

なので、やはり現実的に厳しいことは現実的に受けとめて、四苦八苦、七転八倒するしかなく、そういうことを乗り越えることでしか次には進めない。

さらにいえば、そうした四苦八苦や七転八倒もある種の必然であり、先の国常立神がいう “情け” だったり、マイヤー&プレアデス人がいう “創造と自然の法則と掟” の結果だったり、ゼランドでもいいが、ゼランドいうところの “重要性” という “過剰ポテンシャル” を与えた結果として “平衡力” が作用したのだみたいなことが、われらがスピ系の文献にはいくらでも “知識” としてあるから、そういうところから入ってみて、何かしら考えていくってほうがいいかもよということだ。

人口に膾炙しているという意味では、改ざんされてるとはいえ『聖書』が最強であり、それを補足してあまりある文献が日本にもいくつかあるということになる。

んなこたあ、ほとんど読み尽したし、マラルメじゃないが肉は悲しいんだよって人もいるかもしれないが、それこそ肉は悲しくないよといっておきたい。

またまた誤解されるといけないが、別にノンデュアリティーや非二元の教えを非難しているわけではなく、優れている教えだと思うだけに、知的でスピリチュアルな人たちが思考を紡ぐことに倦んで、あるいは疲れたときに、ある種の最後の希望的なものとしてたどり着いたのがノンデュアリティーや非二元の教えだった、ということがありそうだからちょっと触れたのである。

たとえば、ノンデュアリティーの大御所ともいわれるトニー・パーソンズの教えは、徹底的にマインドが創る “私” という “主体” の幻想性を明らかにしていくわけだが、それは「そうか、“私” などというものはなく幻想であり、あれもこれもあるように見えるが本当はないのだ」といって安易にチャンチャンと納得していいものではない。

実際パーソンズは、すべてはあってないような幻想であるという指摘は、個人的な苦労をせずに幸福をもたらしてくれるような安易な答えを夢見る探求者にとっては、最初のうちは魅力的だろうが、それはただ観念的なものであり、やがてはたとえばワンネスだけしかないのだから、分離から生じるあれやこれやのことはどうでもいいのだという考えに陥ることになり、結果的にそういう状態が延々とぐるぐると繰り返されることになってしまうといっている。

そしてパーソンズは、もちろんワンネスだけしかないのだが、あれやこれやはどうでもいいという観念的な理解はただ見かけ上のことを理解しているだけであり、本来の真のジレンマの根源を認識しているのではないのだ、とある意味で警告している。

そのトニー・パーソンズ自身も、こうした教えで示されていることは、実は “神秘” を描写しているだけなのだと断言するのである。つまり、先のプレアデス人やラーと同じものを見ている。

だから、マイヤーやパーソンズをはじめ、プレアデス/プレヤール人のセミヤーゼやプター、第 6 密度の社会的記憶複合体と名乗るラー、変換人ゲシュタルトと称する OCOT などを “スピ系” と呼ぶと怒られそうだが、ましてや国常立神ならぶっ飛ばされそうな気もするが、それでも私はあえてイエスでも何でもスピ系と呼びたいが、それはともかく、彼らはその “神秘” に向かって行なうべきことを行なっているように私には思われてならず、とりもなおさずそうしたことに関わる一連の言動が、“スピ系” ということでいいだろうと思うわけだ。

そしてそこにはおそらく人間としての共通の目的とまではまだいえないが、少なくとも何かしら共同で取り組んでいかなければならないことがあるのは間違いないと思う。

でまた、先に上げた “スピ系” の存在たちが伝えていることには共通して人間・地球・宇宙に関するサイクル・周期についての情報があり、言いようとしては悲観的なものから楽観的なものまであるにはあるが、もう時間がないよということでは一致している。

だから、私としては今回のコロナに関してもそうしたことともちろん無関係であるはずもなく、今後も必要なことが必然的に起きてくるのは間違いないし、それらは人間の意識に関わっている以上、人間の意識しだいで事象は変わっていくことになるから、コロナごときはほんの序の口で、この先何が出てくるかわからないというか、ある程度はわかっているが(スピ系だから)、だからこそたとえば先の “スピ系” の存在たちにしても、それぞれがそれぞれの方法で人間つまり人類の意識をリーディングしたうえで、このままだとこうなっちゃうぞといった “予言・予測” を伝えてきたりするのである。

 

 

案の定、収拾がつかなくなった感があるが、コロナもそうだが、ニュースで知ったけどあれだね、バッタがヤバそうだ。

もういいかげん時間がないから長々とは書けないが、バッタだイナゴだといえば、どうしても『ヨハネの黙示録』に触れないわけにはいかないだろうが、おそらくスピ系のブログでも分析している人がいるだろうから今回はよすが、私としては「ジョン・ウィック」シリーズのことがどこか頭に引っかかっていたから(早く書かなきゃなあと)、映画の『エクソシスト 2 』を思い出してしょうがなかった。

観た人もいるだろうし、ネタバレになるからいっとくが、ても時間がないからあまり書けないが、1977 年の映画で主人公は最初の作品と同じリンダ・ブレアのリーガン、ラモント神父役にリチャード・バートンを起用している。

1973 年の『エクソシスト』が話題になりすぎたのか、評判は芳しくなかったように思うが、興行的にもそんなでもなかったのかな? ともかく前作とはたしかにちょっと毛色が違うっちゃ違って、暗いというか、マイナーというか、エンタメ作品としては厳しい気がしたが、スピ系映画としては興味深かった。

書き出しちまったから結論までもっていくが、すっ飛ばして要点をいえば、前回エクソシズムによって追っぱらわれたはずの悪魔パズズはまだリーガンに取り憑いていて、ラモント神父とリーガンがともにパズズに立ち向かうという話だ。

このパズズという悪魔がイナゴの被害、いわゆる蝗害(こうがい)の象徴とされていて、先の『ヨハネの黙示録』第 9 章に出てくるものでって結局書いてるじゃんって話だが、第 5 の御使いがラッパを吹くと大量にイナゴが出てきて、額に神の印がない人たちに害を与えて 5 カ月間苦しめるということになっており、そのイナゴの描写が悪魔パズズと同じなのである。

で、映画では、エチオピアだと思うが、蝗害のイナゴを追っぱらう能力を持つコクモという少年がいて、蝗害のときに神輿のように担がれておびただしいイナゴの群れの中に出張っていき、何やら紐に結わえたものを頭上でカウボーイの投げ縄のようにくるくる回してイナゴを追っぱらっていくのだが、ある日イナゴに負けて悪魔パズズに憑依されてしまう。そのパズズを悪魔払いしたのが前作で出てきた若かりし日のメリン神父というわけだ。

てか、あらすじを書いてる場合じゃないな、そのコクモ少年が今では成人しており、蝗害を何とかするための研究者になっているのだが、ラモント神父はリーガンにいまだ取り憑いているパズズを何とかするために、インスピレーションを受けてかつてのイナゴ払い師?のコクモと面会する。

そのときコクモのいうことにゃあ、イナゴは本来、乾燥しているところにいて、羽が生える前はグラスホッパーといって、一匹一匹が他に干渉せずそれぞれに楽しみながら平和に暮らしている。けれども大雨が降ったときに大繁殖し、羽が生えてきて名前もローカストとなり、ギュウギュウづめの混雑の中で他と触れ合ったりすると羽で擦り合い、争い、お互いがどんどんストレスで凶暴になり、やがて一つの意志を持った膨大な集団となって長距離を移動し、畑にあるありとあらゆるものを食い荒らしていく。

それは実際にアフリカや中近東の砂漠で周期的に起こっていることで、すさまじい数の餓死者を出すなどの被害が出ているわけだ。

で、コクモの研究によると、昔は DDT のような殺虫剤を撒いて駆除していたのだが、今では、ある突然変異の種であるメスのイナゴを投入すると、イナゴが凶暴化せずにすむということがわかったという。

どういうことかというと、その突然変異のメスのイナゴは、羽が生えてローカストとなって、お互いにいきり立って羽を擦り合せてジャキジャキいってるイナゴの群れの中に入れても、われ関せずで、平和に暮らしているころのグラスホッパーのように一匹で楽しんでいる。

すると今までジャキジャキいっていたほかのローカストたちも、メスのわれ関せずが伝染したのか、しだいにジャキジャキが収まりはじめ、しまいにはグラスホッパーのように穏やかになって、それぞれが楽しみ出すという寸法だ。

いってみれば、悪貨は良貨を駆逐するの反対バージョンってなことだろう。

で、最後は前作で悪魔払いが行なわれたワシントン近郊のジョージタウンの家で、リーガンに取りついた悪魔パズズと、リーガンとラモント神父チームとの闘いになるのだが、パズズの魔力で大量のイナゴが部屋に押し入ってふたりに襲いかかり、あわやおしまいか…?というときに、リーガンに少年コクモが乗り移ったのか、いきなりリーガンが無意識にかつてのコクモのように左手を頭上に掲げるとくるくると回しはじめる…

すると大量のイナゴたちがやがてポロポロと床に落ちはじめ、おとなしくなっていき、パズズも取り払われて、ふたりは助かるのである。めでたしめでたし。

という話だったと思う。ところどころ記憶が怪しいが、wiki も参照したから大丈夫だろう。

ともかく、ポイントとしては、まずイナゴということと、あ、一応いっとけば、蝗害っても、実際は日本でいうところの食用にもなるあのイナゴのことではなく、いわゆるトノサマバッタのことで、サバクトビバッタというのもまた別にあるらしいが、蝗害をもたらすのはそれらのバッタのようだ。イナゴにしちゃあいい迷惑ともいえるね、聖書にまで出てきてんだからさ。

戻ると、イナゴというかバッタの話だということと、最初は平和に個人で楽しみながら暮らしているバッタが、大雨によって繁殖し、凶暴になり、略奪を繰り返しながら移動するようになるということ、そして突然変異のメスが現われ、凶暴な連中を感化して穏やかにし、本来の平和な暮らしに戻していくということだ。

“突然変異” の “メス” というのも重要なキーだろうが、実際『エクソシスト 2 』の原題は『 Exorcist II The Heretic 』であり、「 The Heretic 」とはローマカトリックから見ての「異教徒、異端、反対者」という意味である。

個人的には、パズズに取り憑かれたときのコクモは、頭上で腕を右回りにくるくる回していたが、最後にリーガンがくるくる回していたときは左回りだったことに興味があり、古事記における国生みのときの描写や、波動的なことからいってももっと突っ込みたいところだが、また今度にする。

映画では、よいイナゴとわるいイナゴというふうにいっていたと思うが、そしてパズズに取り憑かれたコクモというイナゴを退治できる超能力少年も、もともとがとてもよい心の持ち主であることが強調されており、むしろ飛びぬけてよい心の持ち主にこそ、パズズのような悪魔が取り憑くという話になっていた。

だから、リーガンにもそういうきれいな心があるからこそパズズがしつこく取り憑いてるわけで、最後はやはり本人の自分の心の中における善と悪との闘いなのだ、ということを投げかけている映画ともとれる。

そこらへんはさすが悪魔の親分さんパズズであり、せこいザコは放っておいても勝手にコビへつらってくるからいいだろうが、強力な善の人間こそ落としてナンボということなのだろう。パズズにどういうメリットがあるのかわからないけれども。

でも、このへんもわりとあるテーマで、ゲーテの『ファウスト』にしても、神と悪魔のメフィストフェレスが賭けをして、善の人間であるファウスト博士を悪の道に落とせるかどうかという物語だった。

それで思い出したが、キアヌ・リーヴスの映画『コンスタンティン』でも、主人公の悪魔払い師ジョン・コンスタンティンが、天使ガブリエルだったか女刑事だったかとの会話で、何で天使と悪魔がいるのかみたいな話になったときに、誰かさんが賭けでもしてるんだろってなことをいっていたと記憶している。

で、「ジョン・ウィック」シリーズでも書こうと思っていたことだが、キアヌはこの『コンスタンティン』という作品をえらく気に入っていたらしく、再演したいと希望しているということだったと思う。

名前もジョンなので、私なんかは『ジョン・ウィック』でキアヌがジョンと呼ばれているのを聞くと、ジョン・コンスタンティンとダブッって見えてしまうわけだ。

で、両者とも容赦なく相手を始末していく。ジョン・コンスタンティンはこの世にまぎれている悪魔を。ジョン・ウィックは……

話がずれた。

 

 

つまり、そのイナゴじゃないバッタが今、エチオピアやパキスタンで大量発生しており、東アフリカから西アフリカ、インドから中国まで広がるのではないかといわれているわけだ。

何でも最悪、約 30 カ国で被害が出て、東アフリカで 2500 万人以上、イエメンで 1700 万人が飢餓に直面するという予測もあるというから、ところによってはコロナとのダブルパンチでますますパニックになる可能性もある。

早いとこ比較的被害の少ない日本が何かしらのリーダーシップでもとって、アジアを中心に今までとは違う方向に舵をきれるというような展開があればカッコいいのだが……

でも、次期総理は太郎ちゃんかもしれないので(もちろんもうひとりのほう)、そこからちょっと変わるかもしれないね。

その前に、というか今からスピ系の連中がもっとガチャガガチャできることも、もっともっとありそうである。

 

 

あと、また正式に告知するが、『盤(VAN)』の第 2 シーズンをスタートする。

っても、実は 7 月 12 日(日曜日)の 13 時~ 17 時で、場所は東京・吉祥寺です。

地元の同好の士からももっと早く言えよと叱られたわけだが、いまだ 2018年 の第 1 シーズンの参加者にもご案内申し上げてないていたらく。

詳細はまた告知するが、形としては前回と同じで、4 時間の勉強会とその後の飲み会だ。

ただ、前回は荻窪の広めの会場だったが、今回はマンションの一室と狭く、参加者も 10 人くらいしか入れない。

スピ系に興味があり、酒が好きな人はぜひ!

 

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