もろもろ現在の所感を残しておこう。

 

 

安倍首相が辞意を表明した。

個人的には今はまだまだ踏ん張ってほしかったが、健康上の問題だし、もろもろのタイミングを考えればしかたがないだろう。

以前にも書いたが、安倍政権の政策のいくつかには文句があるが、安倍首相の人間性には取り立てて文句はないというか、個人的には許容範囲内である。願い下げたい人物は周りにもっといる。

普通にお疲れ様と言いたいし、結果がすべての政治家にあってみれば、批判・非難は何をしても浴びるだろうし、実際そんなものを気にしてたらドラスティックなことはできない。

そうした意味では、「たら・れば」はご法度であることは百も承知だが、ほかに誰だったらよかったと思うのか。もちろん答えはないだろうが、起きたことはすべてよいことにできると思う私にとっても、答えはない。

これから自民党の総裁選がはじまるだろうが、岸田、石破、菅、野田あたり、ひょっとしたら河野太郎も出るのかな。この中であれば、私はいろいろな意味で太郎を推すが、まだ早いかもしれない。早いということでは、近い将来の最有力首相候補として小泉進次郎も控えているが、今のままでは、これもいろいろな意味で日本にとっても本人にとっても危ないだろう。

 

 

コロナに関しては、まだまだ予断を許さないなどとベタなことを言うしかないが、先日来、ジョセフ・グレゴリー・ハレットなる人物の動画をアップしているが、できればざっとでも眺めてほしいのだが、いったい何が起こっているのか!と叫び出したくなるような御仁もおそらくいるのではないかと思う。どうだろう。いない?

私は叫んだクチで、あまりの荒唐無稽さにただただマヌケに口をアングリと開けるばかりだが、動画の内容の真偽がどうとか言う前に、アンタら正気か?と叫び出したわけだ。

アンタらとは、欧米の王侯貴族末裔連中と、ハザールマフィアと、政府関係者を含むグローバルエリートらと、ディープステートに巣食う連中と、どうしても支配者として君臨したままでいたい堕天使たちのことである。一応、保険として、ってなことを妄想している陰謀論者たちも含めておく。え? じゃ、お前は何なんだって? 私は最後まで平衡として生きるトランサーファー的サニワであろうとしている者だ。ってますますわからんな。

しかし、JGH の紋章だか旗だかに記されているシンボルらしきものは、「 Q 」を象っているようにも見えるが、てか本人が本編ではっきりと「 Q 」と言っているし、その「 Q 」を象るものはウロボロスに見えるし、中のマークは「 77 」にも「 SS 」にも見える。「 SS 」ってさあ……やっぱりナチスに触れなきゃダメ?

何がどうなってんだかって感じなわけだが、Q とは何ぞや?となれば、Q アノンのことに関しては、この記事を読んでいる人にとっては今さらジローだろうから何も言わないが、スピ系志向の人であれば、2012 年の映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 』を思い起こしたりするかもしれない。

あれは、映画版エヴァの 1 作目 2 作目が「序」「破」ときたから、3 作目は「序・破・急」の「きゅう」のことだというのは知っているが、そういうことではなく、「 Q 」として世に出てしまうところが面白いのであって、まさに人智を超えた領域に由来することだと思われるのである。

ちなみにエヴァは、村上龍の 1984 年の小説『愛と幻想のファシズム』の登場人物の名前をそのまま持ってくるなど、小説から影響を受けていることは庵野監督自身が公言している。

また、エヴァが『聖書』の内容と無縁ではないことは言うまでもないし(だいたいからして “エヴァンゲリオン” なのだから)、『愛と幻想のファシズム』が日本を舞台とした過激なナショナリズム(テロあり)の物語であることを加味すれば、ここにきて「 Q 」がクローズアップされることに無関心でいられることができようか。

であるからこそ、ここぞとばかりに “スピ系” 連中があーだこーだとトンデモ話も含めてカンカンガクガク、ケンケンゴーゴーの大議論をぶってもおかしくないと思っているのだが、なんかなくね?

どうなってんだろうか。

われらスピ系の戦士たちはどこで油を売っているのだろう。時計仕掛けのように安倍個人をディスり続け、辞意を表明してもなお(ここ 1 日ほどウォッチするに)、なんだったんだ? 8 YEARS 的にさらにムチ打ち続けるパープリンボーイズらはともかく、恐れを知らず、かつ思慮深く、いかなる可能性にも目を開いているあのスピ系連中はいったいいずこへ……

私が知らないだけなのか。

突っ込みどころ満載の状況のはずなのに、まるで動脈硬化を起こしたかのように血の通ったスピ系談義が耳に流れてこない。

このトンデモナイ中、スピ系談義が巻き起こらないとしたら、これまでのスピ系とはいったい何だったのだろうか。マジでそう思う。

 

 

……途中、図らずもお呼びがかかり、『真実を探究する談義』の第 2 弾を収録すべく、宗任さんと森さんの待つ中野に出向いた。

今、帰宅したわけだが、ついでに告知すると、『酔っぱらいオヤジの Spiritual Meeting 』を新規再スタートする。

当初は、ヤスさんこと高島康司氏をゲストに招いて 100 回以上続けていた企画だが、しばらく中断していた。ちなみにヤスさんとは今でも仕事ではご一緒しており、直近では書籍『 Q アノン 陰謀の存在証明』(成甲書房)の編集制作があり、そろそろ書店にも並ぶはずである。

『酔っぱらいオヤジの Spiritual Meeting 』通称「おやスピ」のそもそものコンセプトは、スピ系のオヤジ同士が酒でも飲みながら、妙ちくりんなタブーなしにパブリックイメージを気にせず縦横無尽に語り合うというものだった。

ここにきてその原点に戻り、同好の士と一緒に文字通り “スピ系” オヤジ同士がわちゃわちゃしゃべくり合うことになるので、またご批判賜ればと思う。定期的にゲストを呼ぶつもりなのだが、頭のおかしなオヤジ同士の会話にどんだけ参加者があるかどうか今のところわからない。

 

 

先のジョセフ・グレゴリー・ハレットの「 Q 」だが、彼は動画の中で「 Q 」は 17 番目のアルファベットであり、ポルトガルを表わす番号でもあると言っているが、単純に「 Q 」は “16番目” のアルファベットであり(アルファベットが A から始まるのであれば)、なぜ “17” になったのか、またなぜポルトガルを表わしているのかもよくわからないし、インタビュアーもちゃんと確認しろよってな話だが、その後に続く話も Q が 17 番目でないと通用しなくなることになり、そのへんのことはコメント欄でも誰も質問していない。元の英文のチャンネルを見ると一人だけ、「ポルトガルが 17 っていう情報はどこにあるの?」みたいな質問があったが、普通、疑問に思うわな。

ともかく、ハリウッド映画の 1 シーンが壮大な計画・陰謀のサインとして提示されていたという話が少なからず出てくるが、Q アノンでもおなじみのことであり、JGH は Q アノンのメンバーなのかとも言いたくなるが、まあ経過を見ましょう。

いずれにしろ、Q アノンを含む一連のハデな演出は、正義の味方がとんでもないペテンを白日の下にさらすか、逆に今まさに世界に仕掛けているかのどちらかだろう。

 

 

数字は古来より重要な抽象概念としてあり、先の JGH さんが言うところの 17 でも 16 でもいいが、聖書でもやたら “意味ありげ” というか実際に意味あるものとして頻繁に登場し、さまざまな解釈の元ともなっている。

ビリー・マイヤーとコンタクトしているプレアデス/プレヤール人のプターも、マイヤーにヨハネの黙示録第 13 章第 18 節の「 666 」の意味を伝えた後、こんな会話をしている。

 
 

プター 
黙示録には、絶滅と破壊の奉仕者について、すなわち真理を破壊、絶滅および根絶する本来の力に奴隷のように仕える人間についても語られているのは、知っているだろう。

この人間もその名前に真理の破壊、絶滅および根絶を表す数を担っている。

その基数は九であり、その三桁の数字は 666 である。

この人間は長年にわたって地球に住み着いていたが、ある年、摂理に従い破壊数九と三桁の数字 666 を携えて登場した。

彼のすべての名およびその組織の名は、破壊と絶滅の数字九と、真理の根絶を象徴する三桁の数字 666 によって特徴づけられている。

ビリー
それについてはすでにアスケットから聞いたことがあるが、本当に信用していいのかね?

セムヤーセ
もちろん。でも 666 という数字を担った人間が真理を破壊して根絶やしにする張本人というわけではないのです。

ビリー
それはわかっている。プターも同じ意味のことを言ったことがある。666 という数字を担った人間は、いわば本来の企ての扇動者であり奴隷にすぎない。これに対し 666 という数字の持つ力はキリスト教によって体現されている。

セムヤーセ
そのとおりです。あなたはとても正確に理解しています。

『プレアデス/プレヤール人とのコンタクト記録(5)』(水瓶座時代出版)より

 
 

なかなか難解な箇所でもあるが、それにしても数字の「九」は日本語では「きゅう」だね。

同じ数字でも、ちょっと違う角度から論議しているこんな場面もある。ちょっと長いが、重要な観点が含まれるので紹介する。

 
 

「あなたがおいでになってから、これで 9 杯目のお茶になります。“ 9 ” という数が非常に幸運な数である、と思いになったことはありませんか?」とナルプはたずねた。

「わたしも色々と神秘学は研究してきましたし、数霊術についても自分なりの結論を出していますが、9 が幸運数であるとは考えていません」

「なぜですか」

「人間は “ 5 ” 以上の数についてあれこれ憶測すべきではないというのが、わたくしの持論なのです」

「それはまたどうしてですか?」

「 5 は人間の数です。それ以上の数は人を混乱に導き、それ以下の数は神に導くからです」

「しかし、現に 9 という数は存在しているではありませんか」

「確かに。それは今の数の数え方が 9 を一単位としているためです。だから、10 が次の単位の始まりとされているわけです。しかし、4 を基調とする数え方もできるわけです。つまり、1、2、3、4 までが一単位、次の 5 が次の単位になるというように。この場合、9 は存在しません。6 も 7 も 8 もです。わたしの持論では、数秘哲学的にいえばこれらの数はみな、複雑化ともつれ込み、誘惑の数ということになるのです」

「そんな考えはきいたことがない!」とナルプは叫んだ。「わたしはもう何年も数霊術を研究しているのです。その秘教的な意味は素晴らしいものです。数は抽象的概念と秘教的な関係を結んでいるのです。数は人と神との間の一種の触媒になりうるものです」

「数霊学は無害なものにみえるかもしれませんが、実は両刃の剣ともなりうるのです」とわたしは答えた。

「よろしい。それなら具体的な数の意味を確かめてみたいものです」とナルプ。「あなたは 5 以上の数の意味を探るのはお嫌のようですが、1、2、3、4、5 までなら差しつかえありますまい。まず 1 ですが、これは一体の数、顕現せざる神の数です。これには同意されますかな」

「いかにもその通りです」とわたしは答えた。「空間の一点を考えれば、それは単なる抽象的観念にすぎません。点は実際には物質ではないからです。したがって、1 とは分割できない抽象的存在の数といえます」

「数霊学に幾何学まで導入されるとは驚きました。かなり独創的な考えです」とナルプはいった。「次に、2 について考えてみたいのですが、これは霊と物質の対比を表す数です」

「わたしはまったく異なる意見です」

「 2 が対比の数ではないとおっしゃるのですか?」ナルプはかなり驚いていた。

「対比の数であることは認めますが、あなたのおっしゃるような対比ではありません」とわたしは答えた。

「空間に二点を設けると、直線の位置を決定づけますが、これも物質ではありません。しかし、2 という数によってどのような対比が示されているかという問題が残っています。あなたは、それが霊と物質の対比だといわれましたが、わたしの見解ではあなたは間違っています。霊は抽象的存在ではありますが、物質は違います。したがって、非物質である二点を結ぶ 2 によって表される抽象的線は、実際には二種の相異なる霊性を対比するものであり、霊と物質を対比するものではないのです」

 ナルプはしばらく口を閉ざし、それからこう語った。「それも正しいかもしれません。しかし、思いもしなかった見解です。あなたが “神秘の谷の秘密の都” にいてくだされば、どれほど役立つかわかりません」

 彼が “神秘の都” という言葉を口にした最初のときである。わたしはさらに続けた。

「真向から対立し合う二つのまったく異なる霊性があるはずです。わたしの意見では、それが 2 の数霊学的意味なのです」

 それから、わたしたちは 3 と 4 について議論し、3 がもっとも動的な数であること、また 4 が物質の数であることに同意した。空間におかれた三点は三角形の位置を決める。しかし、四つの抽象的点のみが物質的存在をもつ幾何学的形の輪郭を描きうる。したがって、3 はまだ抽象的領域にあり、4 になって初めて具象的領域に入ることになる。4 は目にみえる宇宙の数、物質の数である。

「まだ、危険な数の話に入っていませんよ」とナルプは笑った。

「空間に散らばった五つの点を想像して、それぞれを A、B、C、D、E としましょう。A、B、C、D をとるだけで、一つの幾何学体が得られます。しかし、A、B、C、E を結んでも別な幾何学体が得られますね。つまり、ABCD、ABCE、ABDE、ACDE、BCDE という五つの違った組み合わせができるのです。5 は、このように五つの異なる空間の重なり合いを表します。被造物は 5 をもって存在の極限に達するのです。5 は被造物の数であり、五つの世界に同時に存在すると思える表された生命の数です。人は、肉体、感覚、感情、知性、意志という五つの違った領域の中に生きています。重なり合う五つの領域がこれです」

「次に、空間に六つの点をおいてみましょう」とわたしはさらに続けた。「この六つの点で構成される幾何学的概念は、われわれの理解を越えています。前にもいいましたように、数霊学的にみた場合、5 以上の数は人間の性質に分裂させる効果を起こすのです。だから、破滅の数というのです」

 ナルプは深く考え込んでいた。

「あなたはこの二、三分の間に沢山のことを教えてくれました」と彼はしばらくしていった。

「わたしたちが馴染んでいるのとまったく異なる話をきくのもいいことです。ところで、物質というものについて、あなたはどう定義されますか?」

「物質は、二つの異なる霊性の戦いの場です」

「それも、わたしたちとは違う考えです」とナルプ。「わたしたちはただ一つの霊性しかない、という考えです」

「わたしが思うに、これは議論よりも体験によって決めることでしょう」とわたしは答えた。

『チベット永遠の書』(T.イリオン/徳間書店)より

 
 

何だか数字の話になってしまったが、それほど抽象的な話でもない。最後の引用の最後の数行にある内容は、ワンネスと二元論について概念的に格闘している人にはある種のヒントを与えるはずだ。

簡単にいえば、「矛盾を生きる」ということになるだろうか。

「矛盾」という言葉は周知のとおり、どんなに硬い盾(たて)でも貫いてしまう矛(ほこ=剣)と、どんなに硬い矛でも貫けない盾を持っていると豪語する男が、じゃあ、お前の矛でお前の盾を突いたらどうなるんだ?と問われ、答えられなかったという逸話からきている。つまり矛盾しているわけだ。

しかし、そんなことはない。その男は、どんな盾でも貫く矛とどんな矛でも貫けない盾を持って生きているのであり、いざとなれば戦い、そして決して負けないというだけである。

そうして物質世界で生きていけばいいわけで、何も自分の持つ「矛盾」を戦わせる必要はない。概念操作としてはありえるが、「◯◯がない」と「◯◯の不在がある」の二つは同じことをいっているというワナのような言辞と同じで、ないはないであり、「不在」とか「ないこと」といった抽象概念にオバケのような「形」を与えて、「ある」といってみても何の甲斐もないではないか。

「矛盾」を抱えたまま生きていく「体験」を通して、何ごともおのずと解決していくのであり、解決の仕方が気に食わなければ、次はもっとよくすればいいのである。

 

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