今日、飲んだ酒のことでもいいから書けという同好の士からの忠告があったにもかかわらず、前回の記事から 5 日経った。

ちなみに昨夜は月桂冠「月」の熱燗をいただきました。鳥鍋で。

一昨日はさる漢方医の先生と打ち合わせをしたが、その後は中華屋で緑茶割り。現代医学のトホホ話から風邪やコロナへの対処法、果ては千島学説からウィルヒョウにまで話が及んだが、千島学説が今では証明されているという話には驚いた。

未確認だが、もしそうなら、いまだにウィルヒョウの病理学を基盤とする現代医学は一刻も早く見直されなければならず、世の医者や学者たちはあらためて生物の自己免疫の研究と理解からはじめなくてはならない。

その前の日は……ってもう酒の話はよすが、でも酒の話から入るというのはたしかに楽しいなあ♡

 

 

その後の前アメリカ大統領トランプの動向はどうかといえば、私はツイッターに流れてくる情報くらいしかわからないが、フォロー先の関係から微妙にスピ系がかった内容となり、やはりトランプを中心に何ごとか巻き返しというか、新たなイベントを準備しているようだといったものや、バイデン新政権のレイムダック状態ぶりを喧伝するものが多い。

私としては、ここ数カ月のトランプ vs バイデンといった対立軸を基に、いったいどこへ向かっているのかということに興味があるわけだ。しつこいようだが。

言い換えれば、トランプ vs バイデンの対立軸によって、既成の世界構造を破壊しようとする意識と、準じようとする意識とに振り分けられ、ある種の拮抗状態から、仮に前者の意識が生成されていく場合と、後者の意識が過半数を占めていく場合とで、次なる世界構造はどのように形成されていくのだろうか、ということだ。

もちろんこうした問いかけは、人々の意識を十把一からげにして支配・コントロールしようとしている存在を前提としなければならないが、もしその前提が正当だとすれば、ここ数カ月のトランプ vs バイデンという対立構造への解釈が変わらない限り、先の前者・後者両者の意識はそのまま次なる世界構造へと “殉じる” ことになるだろう。

なぜなら、先に前提とした “存在” は、トランプにつこうがバイデンにつこうが関係なく人類を新たな支配構造へと組み込むだけであり、それこそトランプ派もバイデン派もいっしょくたにして何かしらの目的地へと連れて行くだろうからだ。

その “存在” って何だ?ってことになるが、これも一枚岩ではなくいろいろな立場というか志向というか、思想というか考え方というか、ベタに言えば “複雑な事情” があり、これまでの研究や体験から私なりに説明することはできるが、とてつもなく長くなるので、誤解・曲解を覚悟して簡単に言えば、「自己奉仕型の意識」ということになる。

これはラー文書のラーが提示する概念で、対極としては「他者奉仕型」ということになる。

自己奉仕型の意識といっても、別に俗にいう “悪” というわけではない。

これもややこしいが、「一なる存在」でも「ワンネス」でも「全一」でも「無限の創造主」でも、呼び方は何でもいいのだが、自己への奉仕型の意識でも他者への奉仕型の意識でも、両者はそうした “一なる” 存在というものに対して奉仕していることになり、どちらがいいとかわるいということではないのだ。

そのへんの解きほぐしは今後も行なっていくとして、話を戻せば、先の「人々の意識を十把一からげにして支配・コントロールしようとしている存在」というのは、自己奉仕型の集合意識だということである。

だから、人類の意識がいわゆるトランプ派であろうとバイデン派であろうと、“互いに対立する意識” という構造さえ維持できればそれでよく、たとえどちらか側にどんなに高尚で気高い信条や理想があるとしても、おそらく巧妙に搦めとられて、最終的には彼らが目指す目的地へと急き立てられてくことになるだろう。

しかしここがまたややこしいのだが、ここ数カ月間でトランプ陣営が開示・提示・暴露してきた案件によって何ごとかに気づき、既存・既成の世界構造に対する自分の認識を見直し、問い直し、他者なり他者の意見に聞き直し、新たなる認識への理解を深めようとしていく意識は、先の妙ちくりんな集合意識体に搦めとられる可能性は限りなく低くなる。

つまり問題としては、既存・既成の世界構造に仕組まれた陥穽というか、悪意に満ちた奸計といったものに気づかせてくれたトランプ陣営に対し、過剰な信頼を寄せるあまり、トランプサイドというよりトランプ自体を手放しに信奉してしまうことにある。

何かがおかしいと気づいたのは、“あなた” なのだ。

アメリカ大統領選というイベントを通して、トランプ vs バイデンという構図を通して、トランプ陣営が発信するさまざまな情報を通して、ひょっとしたらこの世ではとてつもないペテンが行なわれているかもしれない…これまでの世界の体制の構成要素はことごとくガセなのでないか…と気づいたのは、ほかならぬ “自分” なのである。きっかけが何にせよ。

きっかけとなったものには感謝すればいいので、別にそれが特別エライわけでもなければ、ずっと正しいままでいるわけでもない。

この世はどうしても二極的であるために、善も悪も相対的となり、善なる状況があったとしても別の時間や場所では悪になることもあり、人間の言動に関してもそれは同じである。

だからトランプでも同じであり、トランプがかつても今後も正しいというわけではないし、それはバイデンも同じだ。

ものでも人間でも、それを絶対的に崇めることを偶像崇拝というが、イエスや釈迦が偶像崇拝を禁じたことには意味があり、簡単に言えば、自分の外部にあるものに対する崇拝の危険性を黙示している(ここでいう “外部” は普通に言う意味だ)。

人間は、誰しもが自分の意志で行動していると思っているが、実はそうことは簡単ではなく、人間の言動にはスピリチュアル的に見ればいろいろと興味深い影響があることがわかる。

ここでそれを私ごときが明解に端的に論じることはできないが、大統領の話ということで、一つの神示を思い出したので紹介する。

出口王仁三郎に降りた『伊都能売神諭(いづのめしんゆ)』の大正 8 年 8 月 12 日のものである。適宜、ふりがなを付記する。

 

支那の帝政を覆(か)えし露国の君主制を亡ぼし、次(つい)で独逸(どいつ)其他(そのた)の君主国を破壊したガガアルの悪神(あくがみ)の御魂(みたま)は、米国に渡りて、ウイルソンの肉体を機関と致して世界を乱(みだ)らし、九分九厘で世界の王も一人(いちにん)も無いやうに致して、我が世界に唯一の王の王に成ろうとの巧(たくら)みの裏をかいて、艮金神(うしとらのこんじん)が手の掌(ひら)を反(かえ)して、ウイルの肉体を出直しに致しても、悪神の方(ほう)にはまだまだ沢山の扣(ひか)え柱(ばしら)があるから、油断は一寸(ちょっと)も出来ぬ、手を代え品を変えて日本の神国を奪(と)る陰謀(たくみ)を大仕掛けに致して居(お)るから、日本国に此(こ)の神の経綸(しぐみ)が致して無かりたら、日本は申すに及ばず、世界中が悪神の自由になりて了(しもう)て、一日も安神(あんしん)に大地の上に居れぬやうな事になるから、種々(いろいろ)と神が変性男子(へんじょうなんし)と女子(にょし)の御魂(みたま)を御苦労になりて居るぞよ。

『伊都能売神諭』大正 8 年(1919 年)8 月 12 日より

 

「支那の帝政を覆し」とは、もちろん大清帝国のことであり、ラストエンペラーこと溥儀(ふぎ)が清朝最後の皇帝の座を降り、1912 年に清国が中華民国となったことを指している。

そもそも日清戦争で日本が勝ったことは世界中がぶったまげたわけだが、例の三国干渉においてフランス、ドイツ、ロシアが日本の清への賠償金請求額を「もっともろうたらええのや」とそそのかし、支払いに困った清に対して、三国は「金がないなら貸しまひょか? そのかわりにあんたはんのここの土地貸してえな」として、ロシアが満州あたりを獲ったりなんかしたあげく、やがてロシアは旅順に、ドイツは青島に、イギリスが香港にと軍事拠点を設けていき、清というか中国の市場は世界に開放されるべきだとかなんとかまたゴリ押しし、だんだん中国国内に外国勢がはびこって治外法権を盾に軍人やキリスト教関係者が幅を利かせ暴れ回るうちに、おきまりの清の愛国主義者たちの反発を買い、同時にくすぶっていた民族問題なども吹き上がり、漢民族の孫文たちが何ものかに焚きつけられたかのように、清王朝をぶっ倒せとばかり辛亥革命を起こしたというわけだ。

次の「露国の君主制を亡ぼし」というのも同じで、もともとロシア帝国では農奴解放など君主制に対する革命運動的なものはあったが、これまた日本がアメリカのユダヤ人銀行家ヤコブ・シフから金を借りて日露戦争をおっぱじめ、1905 年に日本が勝つと同時にロシアではロシア第一革命が勃発し、そのまま 1917 年の 2 月革命でロマノフ朝ロシア帝国が崩壊したことを指している。

「次で独逸其他の君主国を破壊」とは、1918 年に第一次世界大戦やドイツ革命によって、ドイツ帝国では 20 以上もの君主国が瓦解し、内戦や革命でフィンランドやポーランドなど多くの王国が共和国に変わっていったことを指している。

で、そうした一連の王国破壊を行なったのは「ガガアルの悪神の御魂」というわけだが、「ガガアル」とは艮金神=国常立神(くにとこたちのかみ)の神示にときどき登場する語句で、おそらく “我(が)がある” と “ハザール” にかけている。

ちなみに、同じく国常立神の啓示とされる『火水伝文(ひみつつたえふみ)』には別の文脈として「我(が)が得る」という表現も見えるが、今は “ハザール” に関しては述べないでおく。

まあとにかく、ヨーロッパの多くの王国の崩壊はその「ガガアルの悪神の御霊」の仕業によるとしたのち、その悪神の霊は「米国に渡りて、ウイルソンの肉体を機関と致して世界を乱らし、九分九厘で世界の王も一人も無いやうに致して、我が世界に唯一の王の王に成ろう」としたとある。

つまり、悪神はヨーロッパの王国をことごとく破壊して共和国にしたあと、当時の第 28 代アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンへと憑依して、ウィルソンを使って世界中に内乱と革命をもたらし、すべての王国をぶっ倒して自分が唯一の王になろうと画策していたということだ。

しかし、その「巧みの裏をかいて、艮金神が手の掌を反して、ウイルの肉体を出直しに致しても、悪神の方にはまだまだ沢山の扣え柱があるから、油断は一寸も出来ぬ」と警告している。

艮金神は、ガガアルの悪神の思い通りにはさせじと裏をかいて、ウィルソンの肉体を出直しにするという。

“出直し” とは、こうした神示系の用語の意味としては、いわゆる死を意味する。

ちなみにウィルソン大統領は、この神示が出たあとの 1919 年 10 月 2 日に脳梗塞で倒れ、大統領としての職務を執れなくなっている。

そしてしかるべきことは副大統領のマーシャルが形式的に行なっていたとされるが、こうした事実はウィルソン大統領の死後、つまり 1921 年 2 月 3 日以降に明かされたというのだから、1919 年 8 月 12 日の時点で降りたこの神示は、いったいどういうことになるのだろうか。

しかし、そのことに関しては、今ここで考察する紙幅はない。

ついでに言えば、ウィルソンが亡くなった 2 月 3 日という日は、日本では節分の日にあたるが、出口直に国常立神の神示『大本神諭』が降りたのも明治 25 年(1892 年)の 2 月 3 日とされ、いわゆる神道系の神示では特別の日でもある。

ちなみに、プレアデス/プレヤール人とコンタクトしているとされるスイスのコンタクティー、ビリー・マイヤーも 1937 年の 2 月 3 日に生まれており、プレアデス/プレヤール人によれば、イエスを含む一連の預言者の誕生日はいずれも 2 月 3 日であり、水瓶座の中でももっとも意味のある日としている。

……話がずれたが(本当はずれてないが)、ともかく、今回は何とか艮金神が悪神のたくらみを阻止したが、悪神にはまだまだ虎の穴のように次なる憑依候補がいくらでもあるから、ちっとも油断はできないぞよということなのである。

 

 

実際、先のウィルソン大統領にしても、再選二期目を迎えた当初はなかなか平和的なお人だったようだ。wiki より抜粋してみる。

 

任期 1 期目でウィルソンは連邦準備法、連邦取引法、クレイトン法、農業信用法および 1913 年歳入法に基づく初めての連邦累進所得税が議会通過するように民主党を説得した。ウィルソンは政権に南部人を多く起用し、彼らが多くの連邦機関で人種隔離を拡大することを許容した。

 

第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916 年の再選に寄与した(再選に向けたキャンペーンのスローガンは彼は私たちを戦争に巻き込まなかったであった)。

 

しかし実際にはアメリカは連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、中立国の義務を果たしてはいなかった。

 

これに対抗したドイツの無制限潜水艦作戦によって発生したルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦圧力は増大し、「ツィンメルマン電報」の暴露から 1 ヶ月後、アメリカは 1917 年 4 月 6 日にドイツへの宣戦を布告した。

 

開戦に際し、ウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧した

 

1917 年にウィルソンは南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債を発行して何十億ドルもの戦費を調達した。戦時産業局を設置し、労働組合の成長を促進した他、リーバー法(戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継いだ。

 

さらに最初の連邦レベルの麻薬取締法を制定し、反戦運動を抑圧した。ウィルソンは 1917 年から 18 年にかけて国を覆った反ドイツ感情を奨励することはなかったが、それを抑え込もうとすることもなかったし、その動きを止めることもしなかった。

Wikipedia より

 

とまあ、たしかにウィルソンは平和的な政策から徐々に弾圧、管理、統制、戦争へと向かっていったようにも見える。

そして先の神示の最後には、「手を代え品を変えて日本の神国を奪る陰謀を大仕掛けに致して居るから、日本国に此の神の経綸が致して無かりたら、日本は申すに及ばず、世界中が悪神の自由になりて了て、一日も安神に大地の上に居れぬやうな事になるから、種々と神が変性男子と女子の御魂を御苦労になりて居るぞよ」とある。

つまり、悪神は性懲りもなく日本を奪おうとしているし、もし日本に “神の経綸” が施されていなかったら、日本どころか世界が悪神の手に落ちるから、艮金神は変性男子=出口直と変性女子=出口王仁三郎を使って苦心しているのだということだ。

その日本の “神の経綸” とはいったい何か。

これまでも小出しに記事に書いてきたが、これこそ簡単に説明できるものではないので、またいずれ論じる。

 

 

さて、これはいわゆる神示とされる『伊都能売神諭』の中で実在の大統領に言及している部分だが、『ラー文書』にも似たような箇所がある。

『ラー文書』とは、アメリカの工学博士ドン・エルキンズを中心にジム・マッカーティとカーラ・ルカートの 3 人が、第 6 密度の社会的記憶複合体と名のるラーという存在とコンタクトした(1981~1984 年)記録である。

必要な部分のみ、抜粋する。

 

質問者
私はかねてから、エイブラハム・リンカーンという人物がワンダラーだったのではないかと思っていたのですが。いかがでしょうか。

 

ラー
私はラー。それは正しいとは言えません。この存在はいわゆる普通の地球人でした。しかし、肉体である乗り物から立ち去ることを選び、それを別の存在が永続的に使用するのを許しています。これはワンダラー現象にくらべて比較的めずらしい現象であると言えるでしょう。

 

質問者
エイブラハム・リンカーンの身体を使った存在がどの密度のどこからやって来たのか、教えていただけませんか。

 

ラー
私はラー。第四密度の波動に存在していました。

 

質問者
ポジティブな存在であったと考えますが。

 

ラー
私はラー。そのとおりです。

セッション 26 より/『ラー文書』(ナチュラルスピリット)

 

リンカーンとはもちろん、第 16 代アメリカ合衆国大統領のことだ。今は「ワンダラー」や「第四密度」といったことについては論じない。

上記セッションを踏まえて、セッション 35 においても再びリンカーンが話題となる。

 

質問者
当時、その第四密度の存在がエイブラハム・リンカーンの身体を使ったことの動機は何だったのでしょうか?

 

ラー
私はラー。エイブラハムとして知られる者は自暴自棄になることこそなかったものの、身体的、精神的、そして霊的苦痛をかかえ、いろいろな意味できわめて困難な状態にありました。そして、あなたがたの時間で言う 1853 年に、睡眠中に第四密度の存在の接触を受けました。接触してきたのは、第四密度であなたがたの時間で言う長年続いている光の勢力と闇の勢力の戦いを憂慮していた存在です。

 

また、この存在はエイブラハムとして知られる者のカルマのパターンを完了させるという栄誉/義務を引き受けていました。一方、エイブラハムとして知られる者にも、自分がとうてい実現できないと思っていた願望に、この存在が挑んでくれることがわかりました。このように交換はなされたのです。

 

エイブラハムという存在者は保留の次元にいざなわれ、身体の乗りものが終了するまでそこに留まりました。これはあたかも私たちラーが、この媒体(※チャネラーであるカーラのこと:西塚)の心と霊の複合体を保留の状態にあずけているあいだにこの媒体に留まって、あたかもこの媒体がトランスから目覚めて、身体をはたらかせているかのようにふるまうよう取り計らっているのに似ています。

 

当時の惑星のエネルギーは、この存在者にとって決定的に重要と思われるポイントにありました。あなたがたが自由として知るものの実現性が多くの人々のあいだで支持を得ていた一方で、あなたがたが自由の民主主義的概念と呼ぶものに着手した人々の功績が、他者の奴隷化という理念への信奉の高まりとその行使によって制限や無効化の危険にさらされていることに、この存在者は気づいていたのです。

 

この他者の奴隷化という概念は、あなたがたの密度のネガティブな概念のなかでもきわめて深刻なものです。そこでこの存在者は自由の概念に生じた裂け目を修復させるため、光を勝ちとる戦いであると見きわめた方向に進んだのです。

 

この存在者はそのなりゆきから離れていたため、当人にそうした活動によるカルマの増減は生じていません。しかし、その全体にわたる姿勢は、他者、とりわけ長期にわたり奴隷として拘束されていた人々への奉仕の一つにあたります。

セッション 35 より/『ラー文書』(ナチュラルスピリット)

 

多少、難解な表現や、そもそも何のことを言ってるのかわからないという部分もあるだろうが、細かい解説はしない。

ただ、このラーという高次の存在によれば、私ふうに俗っぽく言い換えるが、リンカーンはどういう理由かはわからないがほとほと疲れ果てており、もうこの世を去ってもいいと思うほどになっているところへ第四密度の存在が現われ、その存在が、もう自分にはその力はないと思うところの理想の実現を果たしてくれそうなので、入れ替わった。

そして、その第四密度の存在が本来のリンカーンに代わって南北戦争で北軍を勝利に導き、奴隷解放を成し遂げた、ということである。

 

 

もちろん、先の『伊都能売神諭』も出口王仁三郎をチャネラーとし、艮金神=国常立神という高次の存在の神示を書き留めたものであり、『ラー文書』も第 6 密度の存在をカーラ・ルカートという女性がチャネリングし、彼女の口から語られたものを録音・書き起こしたものだ。

いわゆるチャネリング情報である。

ただここでは、これらの文献には大統領をめぐる憑依や、意識・魂・心(これらはきちんと定義されなければならないが、それはまた別の機会で述べる)の入れ替わりに関して記録されていることから、この時期、このサイトを訪れる人たちそれぞれにとって、何かしらの思考のきっかけになればと思い、紹介したのである。

もし、高次でも低次でもいいが、人間に対してそういう存在たちの関与があるとするならば、人間の言動というものに対しては、ある程度そういうことも考慮して理解していく必要があるかもしれない。

ぶっちゃけた言い方をすれば、アンタ、それ本当に自分の考えで言ってるの? 行なってるの? ってことだ。

だからもしかしたら、え? オレ、今、何言った? ということもあれば、何をしたか全然覚えていない! とか、あのときの自分はどうかしていたんだ…ってなこともあるかもしれない。

というか、んなことは普通にいくらでもあるだろうが、単なる酒飲み同士のボンクラ会話ならともかく、大勢の指導的立場にある人物が仮に心神喪失的な状態にあったとすれば、場合によっては、ある集団は歓喜感激の中でレミングの行進的な行動を起こし、またある集団はそれに対抗して蜂起し……といった状況も想定されうる。

だからこそ、神道などの降霊術では必ず審神者(さにわ)を置き、果たして何が降りてきたのか見定める役割をするのだが、これまたやっかいなのは、その審神者の実力いかんによってはやはり見誤るということだ。

そのあたりのことは、先に紹介した『伊都能売神諭』の神示に続けてこうある。

 

大本の◯◯は余り正直で、心が固いから、千変万化の弥勒(みろく)の活動が判(わか)らぬから、表面斗(ばか)りを見て、神界の実地が判らぬので、弥勒の神の有難迷惑、小さき理窟に捕はれて審神者(さにわ)を誤まり、神界に対して贔屓(ひいき)の曳(ひ)き倒しを致す事が沢山(たくさん)にありて、神界の御用が後(おく)れて間に逢はぬから、焦頭爛額(しょうとうらんがく)の危急の場合を考へて、小さい片意地を止めて、瑞(みづ)の御霊(みたま)の致す事を見習ふて下さらぬと、今日(こんにち)の場合はモウ、一分間も考へたり、研究いたしたり、そんな悠長な場合でないぞよ。

 

弥勒の神の脇立(わきたち)に梅と松の身魂(みたま)を立てねば成らぬから、今度は神が出口を連れ出して、御用いたして居るなれど、傍(そば)に侍べる役員は皆人心(じんしん)であるから、何も真(しん)の経綸(こと)が判らぬ故(ゆえ)、誡(まこと)の事を言ふて聞かせば未(ま)だ肉体が八分であるから、怪しく感(と)るなり、神と人民とは何事も反対の事実(こと)が多いから、経綸(こと)が後れるので在(あ)るぞよ。

『伊都能売神諭』大正 8 年(1919 年)8 月 12 日より

 

冒頭の「大本の◯◯」とは、当時の大本の教団にいた浅野和三郎のことだと私は思う。

著名人だからスピ系でなくても知っている人はいるだろうが、浅野は故あって帝国大学の教職を辞め、大本に入信し、早くから文筆その他で頭角を現わしている。

ちなみに浅野が帝国大学に入学したとき、英語教師として赴任してきたのがラフカディオ・ハーンだ。耳なし芳一の小泉八雲ね。で、ハーンが辞めると夏目漱石が英語教師になる。そんな時代の話である。

つまり、浅野は教養のある学者肌で頭脳明晰なのだが、知識や理屈が邪魔をしてつまらないことにこだわり、神の経綸をなかなか理解できず、トンチンカンなばかりか逆にハタ迷惑だみたいな言われようをしている。

たしかに審神者をするにしても浅野は相手に降りた神の正体がわからず、ウンウンとうなって大変そうだったということをどこかで王仁三郎が語っていたと思う。

毎回ではないのだろうが、浅野ほどの心霊研究家であっても、見定めることができないことがあるくらい審神者は難しいということだろう。

また、「神界に対して贔屓の曳き倒しを致す事が沢山にあり」とあるが、これもスピ系人間は自戒しておかなければならない。

つまり、自分が信仰・信奉する神なり人物なりに対して全幅の信頼を寄せるあまり、その神や人物は絶対的に正しく、強く、善でなければならず、それに反したことはいっさい認めないという偏狭に陥る危険があるということだ。

実際、大本教祖の出口直が亡くなって浅野に連絡して知らせた際、浅野はいっさい受けつけなかったという話がある。

たしか、王仁三郎は直がそろそろ危ないと直感し、浅野にそう告げたが浅野は教祖が死ぬはずはないと言って笑って取り合わず、王仁三郎が教団本部に留まるように勧めても帰宅してしまったというエピソードがあったと記憶している。

で、浅野は直が本当に昇天したと知って、青くなった。

何だか余計なことを書いているような気もするが、てかそろそろ終わりにしないとキリがなくなりそうだが、何時だ今?

ともかく私が言いたかったことは、人間の言動には、本人の意志もあるが、その意志とやらにはよーく見ると(まあスピ的に見ると、でもいいが)、いろいろな存在の影響がある場合があり、まあ仮説としてもいいから、そんなこともあるかもしれないくらいは知っておいたほうがいいということと、仮にそうだとしても、どんな存在がかかわっているのか見定めることは、なかなか一筋縄ではいかないということだ。

また、先の伊都能売神諭の後半にもあるように、エライ人の取り巻きには審神者ができるような人物はほとんどいないだろうということである。

だから、たとえば今回のトランプ vs バイデンという構図から、あらためて見えてきたものや気づいたことがあるとして、それによって未来の展望として自分にとって希望が持てるビジョン、あるいはワクワク浮き浮きしてくるような情動があるとすれば、余計な憶測はせずにそれを維持し、世界で繰り広げられていく事象には淡淡とした眼差しを向けていればいいのである。

そうすれば、そのつどつどで自分のとるべき言動もわかってくるだろう。

それで思い出したが、ゼランドの言葉にそのことに関連したものがある。

これは、ゼランドが古代の神官たちのことや、自分の願望・夢をいかにして現実にするかという秘法について言及したあと、述べられているものだ。

 

(略)もうひとつ単純だが聞き慣れない真理に慣れておく必要がある。それは、目的達成への道と手段について心配すべきではない、というものだ。この真理の根底には、意図の方向はバリアントの流れのベクトルを決める、という基本法則が横たわっている。

 

この方向を目指しつつ、バリアントの流れの邪魔をしない、ということだけが求められている。目的達成への手段は自ずと見つかるので、目的がどのようにして現実化されるかについて、あなたは知ることができず、また、知ろうとするべきでもない

 

頭の中に目的とするスライドを維持し、調整(コーディネーション)の法則を守っていれば、たとえ何が起ころうとも、バリアントの流れがあなたを目的へと運んでいってくれるだろう。法則とはそういうものなのだ。

 

本書を一読後、直ちにトランサーフィンの法則を認識するようにはならないだろう。隅々まで知り尽くした知識は、実践の結果として、初めて認識へと変わる。手っ取り早く成果を期待してはいけないもしあなたが意図するならば、遅かれ早かれすべてはうまくいく

『超スピリチュアルな夢実現/幸福獲得法』/ヴァジム・ゼランドより

 

「バリアント」とか「スライド」、「調整(コーディネーション)の法則」、「トランサーフィン」など聞きなれない用語があるが、過去記事では触れているものの、また機会があれば取り上げる。

要は、これと決めたら、いちいち細かい段取りや手段や方法に頓着せす、世界の流れを信頼するということである。

 

10 thoughts on “トランプ劇場 2”

  1.  西塚裕一様

     『トランプ劇場2』、ありがとうございます。

     西塚さんが読み取っておられるアジェンダは厳しいものがあり、こちらは、こちらで大きな危機を見据えておりますが、大枠では、つまり宇宙の本質レベルでは、そしてこれは取りも直さず人間の本質と同じレベルという意味になりますが、常に希望を真っ正面から見つめて、その中で、個の課題も、人類の課題も見つめつつ、現実の推移を見守りたいと思います。

     トランプの意志を引き継いだ暫定軍事政権の水面下の軍事作戦は、2月上旬には終わりそうだと思っています。新しい経済政策については、石川さんが伝えられて、その詳細解説はBBニュースで行われていますが、当面、「緊急放送」は、あるのかないのか、あるならいつ行われるのか、スリリングな状況が続きます。
     アメリカの2月7日のスーパーボウルの前後にも動きがありそうです。

     また、今回の動きを、一過性のトランプ祭りに終わらせないためにも、西塚さんにおかれましては、ヴァジム・ゼランドの普及に努めていただきたいと思います。
    『手っ取り早く成果を期待してはいけない。もしあなたが意図するならば、遅かれ早かれすべてはうまくいく。』
    (西塚さんとは違って、ヴァジム・ゼランドについて、こちらは外部からの見方ですが、文字通りの大激動期の真っ只中に巻き込まれた場合、ゼランドのビジョンを深めていることが命綱のひとつになるのではないかと思います。神示も重要な命綱ですね。)

    「意図の方向はバリアントの流れのベクトルを決める」ことについて。
     意図の土台は、個の意識を構成するちぐはぐな複合ベクトルの統一を志向する意志、そして意図の表層は、個の特殊事情を踏まえた目的達成の意志、その二つの意志によってプログラミングされた個の人生を前進させるビジョンが意図、と私は受けとめています。
    「バリアントの流れの邪魔をしない」という文章を読んだら、私の心には、仏教の「自然法爾(じねんほうに)」という言葉が浮かびました。
     意図の土台をしっかりさせ、それを踏まえて具体的な意図をプログラミングしたら、あとは、心配しないで、バリアントの流れが自分をどこへ連れて行ってくれるのか、天の采配を信じて「淡淡とした眼差しを向けていればいいので」、その眼差しにフィードバックが働いたら、その内容を受けとめ直して足場を固め直せばいいと思います。

     以下の断章において、西塚さんが言及された内容に対して、私の拙いレトリックで、希望を感じさせる変換的読み取りを行わせていただきます。
     言葉の大道芸人好本の(「おひねり」を放り投げていただけるかどうか、まるで分からない)パフォーマンスであります。

    「あのときの自分はどうかしていたんだ…ってなこと」について。
     その思いが起こるのは、「灯台もと暗し」の自分を放置していることが原因ではないかと思いますが、本来、「どうかしていた」なんてあまり思わないはずの心に「あのときの自分は」という反省が生まれ、それをキッカケに、なんとかしようという姿勢のもとに鋭い自問が改めて自分に発せられると、あらフシギ、そこで灯台の光がグルッと方向を転じて「もと暗し」の普段は見えない足枷が見えて前進の気づきが得られるという内観のオドロキを体験して静けさの中で心が躍る場合もあると思います。
     私は、これから内観を日々の習慣にする人が増えて、内観のオドロキを体験する機会も増えて、自分の歩みを、日々、より確実なモノにして個の人生を充実させつつ、ご縁のある皆様とのつながりもより豊かなモノにして生きる皆様がどんどん増えて欲しいと願っているのですが、西塚さんの心は時空を超越してこの私の心を読み取り、『トランプ劇場2』を拝読する私の心を先回りして励ます文章を別の文脈の中にさりげなく書き込んでおられるその神妙なご配慮に感動致しました。
     何を言いたいのかと申しますと、内観のオドロキ体験がどんどん増えてほしいと願う私の思いについて、西塚さんは、あくまで日常的言い回しで、しかも希望あふれる近未来のありようを次のように語っておられるのであります。
    「んなことは普通にいくらでもあるだろう」。

     P.S.1
     大本の雛型経綸では、出口直は旧約聖書の型、出口王仁三郎は新約聖書の型、また出口直は厳御魂霊統、出口王仁三郎は瑞御魂霊統、となっていますが、「プレアデス/プレヤール人によれば、イエスを含む一連の預言者の誕生日はいずれも 2月3日」という情報はおもしろいです。
    (詳しくは記憶していないのですが、出口王仁三郎先生のビジョンを読み解くポイントのひとつである「直接内流」と「間接外流」という言葉についても思いが向かいました。)

     P.S.2
     今回の投稿文を書き直す前に、藤原直哉先生のツイッターを見たら、真っ先に目に入ったのが次の神示で、私には「誠」が不足していると反省しました。また、状況が理解できなくなった時に、この神示を思い出すと心の支えになると思いました。
    『世界の人民が誠にいたさんから神は骨が折れるのであるぞよ。天地の間の只の一輪咲いた梅の花の経綸で、万古末代世を続かすのであるから、人民には判らんのも尤もの事であるぞよ。』
    https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm6023

     P.S.3
    『時節には何も敵はんぞよ。上下に復るぞよ。』

     P.S.4
    『生れ赤児の心に立返らんと、見当が取れん、六ケ敷仕組であるぞよ。今迄の腹の中の、ごもくをさっぱり、投り出して了はんと、今度の実地まことは分りかけが致さん、大望な仕組であるぞよ』
     https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os004

     好本健一

    1. 好本様

      ポストありがとうございます。

       
      >西塚さんが読み取っておられるアジェンダは厳しいものがあり、こちらは、こちらで大きな危機を見据えておりますが、大枠では、つまり宇宙の本質レベルでは、そしてこれは取りも直さず人間の本質と同じレベルという意味になりますが、常に希望を真っ正面から見つめて、その中で、個の課題も、人類の課題も見つめつつ、現実の推移を見守りたいと思います。
       

      いえ、読み取っているなどという大層なもんじゃありません。ただ、私の知る神示や啓示書から綜合していくと、ある人たちがあるアジェンダを遂行しているとしか思われないので、今回の大統領選もそれに一枚かんでいる可能性があるのではないだろうか、ということです。

      もちろん、あるレベルではすでに決着がついているのですが、この世界ではまだ決着がついておらず、それはこれからついていくわけです。今後、決着をつけるにあたって、好本さんのおっしゃるように人間は「希望」を選択できますが、先の人たちはそういう人たちの希望さえも自分たちのアジェンダに利用する可能性があると思うのです。

       
      >以下の断章において、西塚さんが言及された内容に対して、私の拙いレトリックで、希望を感じさせる変換的読み取りを行わせていただきます。
       

      私の記事がネガティブに響いたようでしたら、申しわけないです。実際、えらそうにも多少、警鐘を鳴らしたつもりではありました。すでに決着がついているとはいえ、いわば残党が策を弄してくると思われますので、警戒するに越したことはないのかなと。

       
      >(詳しくは記憶していないのですが、出口王仁三郎先生のビジョンを読み解くポイントのひとつである「直接内流」と「間接外流」という言葉についても思いが向かいました。)
       

      直接内流、間接内流という言葉が出ましたのでひと言つけ加えますが、まさにそのあたりのことは今後の私たちの精神活動の核心に触れることでもあり、王仁三郎の言葉でいえば、本守護神、正守護神、副守護神といった存在といいますか、概念が徐々によみがえりはじめて、かなり重要なものとなってくると思われます。実は『鬼滅の刃』のヒットもそのことと思いきり絡んでおり、ちょっと前に書いたジョン・ウィックの記事があるのですが、そのこととも関連させていずれ書くつもりでいます。

      また、『日月神示』にも触れられていますのでさらにつけ加えますが、「時節には何も敵わない」とは、艮の金神系の神示ではよく出てくる表現ですが、ほかの私が重要と思う文献でも出ており、要は世界の生成運動には周期・サイクルがあり、それは神示・啓示を伝達する存在でさえも逆らうことができない法則だということです。そしてその法則は、それらの文献をよく読めば、おのずとわかるようになっています。

      ですので、起きることは起きるのですが(当たり前ですが)、それこそ『日月神示』ではありませんが、「戦(いくさ)は碁、将棋くらいの戦で済むのぢゃぞ、人民の心次第、行い次第で空まで変わると申してあろうがな」(「青葉の巻」第 16 帖より)ということですね。

      で、先の大統領選関係の話に絡めれば、たとえばトランプやその側近、またバイデン側でも同じですが、彼らの今後の間接内流の状況、果たして直接内流はあるのかないのか等々が気になるところであり、やはりそれはこれから彼らがそれぞれ何を行なっていくのか、その内容をよくよく注視していくしかないということです。

      そしてその内容を吟味するに際しては、いわゆるトランプ派 vs バイデン派というか、先の日月神示ではないですが、戦をあらしめる二項対立的な平面的マインドではなく、立体的な視座を持つ方々の議論が必要なのではないでしょうか。

       
      西塚

  2.  西塚裕一様

    「戦(いくさ)は碁、将棋くらいの戦で済むのぢゃぞ、人民の心次第、行い次第で空まで変わると申してあろうがな」について。

     私の日々の営みを、「人民の心次第、行い次第で空まで変わる」ほうへ向けるに当たっては、自他共にスクラムを組む「われよしベクトル」の邪魔が入りますから、この人間の、というよりも私個人の実に狡猾な負の側面を(将棋における勝負のように)詰ませる「読み」(内観)は、日々、「ヘボ将棋」に四苦八苦している私が想像すると最高位の名人戦のような火花が散る内容になりそうですから、「碁、将棋くらいの戦で済むのぢゃぞ」という励ましをいただいて大喜びしながらも、「ヘボ将棋」の毎日の延長線上で迎える「戦(いくさ)」は、実に油断できないものがあります。
     生きる「希望」すらも手玉に取る「われよしベクトル」ですから。
     しかし、「あるレベルではすでに決着がついている」という神示は、頼もしい響きを感じます。
     上の方では、私の毎日の「ヘボ将棋」に「決着」をつけてくださっているとすれば、しっかりとその「決着」を、毎日の四苦八苦の中に投影して今を余裕で楽しめるようになりたいです。

    「残党」を「警戒」する姿勢は、とても大切だと思います。
    「残党」は、私の外にも内にも存在しますから。
    「善と悪」は、自分の外にも内にも存在するという視点は不可欠だと思います。
     自分の中の善を拡大し、自分の中の悪を切り離す姿勢を欠いたままで、自分の外の善とつながり、自分の外の悪を切り離す営みは、結果的に自分の中の悪を温存し、それによって、自分の外の善とつながる営みも、自分の外の悪を切り離す営みも、中途半端になると思います。

     そうしてみますと「すでに決着がついている」というのは、すごいことだなあ、と思います。
     いつか、「すでに決着がついている」あるレベルの話を、語っていただけると嬉しいです。
     一元論の視点では、すべてに決着がついている、と思います。人類の営みの、過去現在未来のすべてに。
     その決着を、多様な個が、(一元論という言葉を、使おうと使うまいと、そのどちらにおいても)多様な内観で、今ここの旅にそれを投影して受けとめ直し、それを仲間たちと分かち合い、その手応えを、次のステージへの踏み石にして今を愉快に進むことになると思います。

     この「投影」の営みと『未完成だった般若心経』は深い関係にあると思います。
     ここで、自由な仮定の楽しみとして、また人間讃歌のユーモアとして、3次元から次元を上昇して5次元へ、という考え方を逆にして考えます。
    (私は、気ままに部分的な整合性を持つ複数の仮定を考えて、そこから私の頭では時間を充分に掛けてということになりますが、全体の整合性を構築する可能性をゆっくり考えて、一つ二つの可能性が見つかったところで寿命が尽きるのではないかと思いますが。)
    『未完成だった般若心経』によりますと、「空」は、カラッポではまったくなくて人知を越えた奥深さを持つ超実体ですが、ここでの詩的夢想では、「空」を生命の創出源と考えて、つまり「空」をゼロ次元とし、生命はそこから生まれた1次元存在とします。
    (私はゼロ次元と1次元を合わせて「空」と類推しています。)
     そして生命を多層宇宙に多次元的に展開するすべてのプログラムが存在する次元を、生命の次の次元展開ということで、2次元と考えます。

    『ホログラフィック原理とは、2次元の情報がホログラムのように立体的に投影されたものが3次元の存在だという考え方です。』
    https://yumenavi.info/lecture.aspx?GNKCD=g007331
     これが、超弦理論のマルダナセ予想です。
     アセンションでは、人の意識は、3次元から5次元へ向かいますが、このビジョンと、2次元から投影された3次元というビジョンを、どのようにスッキリ調和させるのかというヒントは、やはり『未完成だった般若心経』にあるように感じられます。

     色不異空 空不異色

     投影とは、ある意味で、ディセンション、次元降下。
    「色不異空 空不異色」は、今回の文脈では、「ディセンションとアセンションは、ワン・セット」という意味になり、そのセットを可能のにするものは、メビウス変換。
     マルダナセ予想は、ブラックホールについて次のように推測しています。
    「3次元空間に存在するブラックホールの熱的物理量が2次元球面である事象の地平面で計算できる」。
     またメビウスに精通しておられる森田先生は、次元上昇機を製作され、次のように語っておられます。
    「次元上昇機は、ブラックホールを作り出す、ひとつの人工的な装置です」。
    https://chouwasha.official.ec/categories/2040155

    「銀河の活動が宇宙生命の進化を目指すものなら、その中心には必ずブラックホールが存在します。ブラックホールの役割は現宇宙生命が為し得た自然の法則性を初源に回帰させ、知的生命体へ未来からの情報として生命の営みに活用出来る様、現在へ伝えるボトムアップ進化論を促進します。」
    【ブラックホールの深遠な役割-1】
    https://sizen-seikatsukan.com/blackhole1/

     そして超弦理論から生まれた膜宇宙論。

    「その概要は、超銀河団同士を繋ぐ情報回路のプラズマフィラメント網が、巨大な薄膜壁状の楕円球体を構成し、天文理論が提唱している「無の宇宙」で解析する泡の網状世界に近似していると公表されました。天文理論が提案する内容から、時間はプラズマ回路情報網であり、実体は巨大な薄膜壁であると読み取れます。要約すると生命進化の宇宙情報は薄膜壁状の平面中に書き込まれている理解です。」
    『自然生活館について―波動技術開発ポイントの要点を説明します』
    https://sizen-seikatsukan.com/aboutus/

    「薄膜壁状の平面中に書き込まれている」宇宙情報を夢想してみます。
    「次元」には、降下次元と上昇次元とあって、もちろんそれらはメビウス結合されているのですが、投影においては降下次元を用いて、アセンションには上昇次元を用いる、という仕組みを類推してみました。
    (以下は、数学がまるでダメな私の完全なユーモアであります。)
     そこでは、降下数式と上昇数式という、別々の解析手法があり、生命という次元に統一するに当たってはクライン変換が用いられて両者はその統一次元において等価であります。
     メビウスの反転対称性というビジョンのもとに、相対性理論におけるローレンツ変換ならぬこちらはクライン変換の導入によってアインシュタインの等価原理が、降下次元と上昇次元においても成立する宇宙の神秘は、やはり奥が深い、の一語に尽きると思われます。
     現代物理学と森田先生の未来波動物理の間に、宇宙的なスケールで人間の本質を見つめる『未完成だった般若心経』の人間讃歌ビジョンを組み込ませたいという私の切なる思いを素人レベルで詩的に表現したこのユーモアを、宇宙の本質は、人間の本質と同じというビジョンを讃えるユーモアとして受けとめていただければと思います。

     まあしかし、ゼロ次元、1次元、2次元、3次元だけでは、次元の数があまりにも少ないように感じますが、そこはやはり超弦理論、今書いた4つの次元以外の多層宇宙の次元は3次元の中に畳み込まれていると考えれば、素人のユーモアにも何とか整合性がもたらされるような気もします。
     そして、人間の意識の中には、マルダナセ予想や森田先生の波動理論や『未完成だった般若心経』のビジョンが畳み込まれていて、そのほんの一部を顕在意識として生きている、という具合に考えれば、そこにどのような光を当てて今ここの旅を充実させればいいのかスリングな探究が続きます。

    『11次元―超弦理論による次元の数』。
    「でも現実の世界は3次元。残りの6次元はどこにあるのだろうか。
    (中略)
     そう、残りの6次元の空間は、極めて小さくなっていて、認識はできないけれど、この3次元空間の中に畳み込まれている。都合の良いつじつま合わせに聞こえるが、きちんと数学的に示される考えだ。」
    https://www.ctc-g.co.jp/bestengine/article/2019/0423a.html

     直接内流、間接内流、『鬼滅の刃』、『ジョン・ウィック』、「今後の私たちの精神活動の核心に触れる」展開に興味津々です。
     そして『鬼滅の刃』、『ジョン・ウィック』、それぞれ固有の物語の座標軸を相互変換し、変奏されて止まない物語の深みにある生命の等価原理に迫る、それら表層の物語に語られた「響き合い」を、西塚さん独自の文学的想像力で浮き彫りにしてくださる一瞬を目撃したいと思います。
     ぜひ「つづき」を宜しくお願い致します。

    「世界の生成運動には周期・サイクルがあり」について。
    『盤』レポート0号に続いて発売が期待される『盤』レポート1号は、こちらもやはり神の「時節」に裏打ちされたサイクルに則って登場、ということになると思いますが、それは、アセンションの波乗りを大いに楽しむ力になると同時に、地球のアセンションに遅れる一部の心の躓きをも、解きほぐし、しっかり前に進ませる力になると思います。

    「立体的な視座を持つ方々の議論」について。
     今ここの旅を、お互いのつながりを楽しみながら進める力になる議論は、「立体的な視座」が大いに求められると思います。
    「二項対立的な平面的マインド」を越えるために「知」は存在し、それが「違い」を尊重し、和を育み合う創造性をを拡大すると思います。
     情報プラットフォーム「五目舎」は、ご縁のある皆様の創造的な「知」を活性化する情報を、これからも着実に提供していかれると思います。
     自分で考える力は、周囲からの励ましを得て、個の本質に向かって降りていく深化の力になり、それが進化となって発現すると思います。
     五井昌久先生の本で読んだ記憶があるのですが、「考える」という言霊について。
    「考える」=「かむがえる」=「かみかえる」=「神帰る」。
    「考える」営みを、「内なる神に帰る」営みと方向づけて取り組むと、神は、内にも外にも同時存在しておられますから、思考を通して内に向かい、内面を充実させる旅は、神の導きをいただいて、そっくりそのままナチュラルに外へ向かって和を楽しむ旅にもなると思います。

     好本健一

    1. 好本様
       

      ポストありがとうございます。

       

      >自分の中の善を拡大し、自分の中の悪を切り離す姿勢を欠いたままで、自分の外の善とつながり、自分の外の悪を切り離す営みは、結果的に自分の中の悪を温存し、それによって、自分の外の善とつながる営みも、自分の外の悪を切り離す営みも、中途半端になると思います。そうしてみますと「すでに決着がついている」というのは、すごいことだなあ、と思います。いつか、「すでに決着がついている」あるレベルの話を、語っていただけると嬉しいです。

       

      ご承知のように、『日月神示』系の啓示では、「悪を抱(いだ)き参らせる」といった表現がよく出てきますね。たとえば下記のように。

       

      神は喜びであるから、人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教えているが、それは段階の低い教えであるぞ。

      大道ではないぞ。

      理屈のつくり出した神であるぞ。

      大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。

      抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。

      抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。

      今までの教えは今までの教え。

      『日月神示』「秋の巻」第 1 帖より

       

      「段階の低い教え」という表現も興味深いですが、昭和 19 年時点で降りた『日月神示』から、同じ艮の金神系の啓示と私が思うところの、のちのいくつかの啓示を見ても、たしかに同じ表現でもその意味合いを変えて伝えています。

      ですから、その時代時代の人間のマインドに合わせて、表現も変えているのでしょう。

      いずれにせよ、私たちは「善-悪」の概念に対してもう少し考察が必要かもしれませんね。それにはまず、はっきりとある “普通” の善悪について、その相対性も含めてあらためて認識しておくべきでしょう。そうして初めて、「善悪はない」といった領域についての考察が進むのかもしれません。

      「決着がついている」と述べたのは、複数の文献から私がそう判断しているということです。いわゆるディープなスピ系情報になってしまうのですが、この欄ではちょっと説明するスペースが足りないです。ちなみに個人的には、ディープというか、綜合する手間はかかりましたが、極めて明快な結論だと思っています。

       

      >一元論の視点では、すべてに決着がついている、と思います。人類の営みの、過去現在未来のすべてに。その決着を、多様な個が、(一元論という言葉を、使おうと使うまいと、そのどちらにおいても)多様な内観で、今ここの旅にそれを投影して受けとめ直し、それを仲間たちと分かち合い、その手応えを、次のステージへの踏み石にして今を愉快に進むことになると思います。

       

      そう思います。高次元からの伝達とは、簡単にいえば、伝達を受け取るものに応じて、相対性を等化していく方法や作業を段階的に伝えていることかと思います。そして本人も徐々に本来の役割に気づいていくのでしょう。

       
      西塚

  3.  西塚裕一様

     ご返事ありがとうございます。

     私のコメントと西塚さんが選んでくださった神示の内容が、鮮やかなコントラストを形成している点がとても素晴らしいと思いました。天と地の間にサンドイッチされた人間は、二つの、相反する営みに精を出す必要があると思います。地上の営みとしては、「はっきりとある “普通” の善悪について、その相対性も含めてあらためて認識しておくべきでしょう。」天を見上げる営みとしては、「大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。」

     私は、人の心の最奥においては、天と地の営みは、一体化して営まれていると思います。ところが地を歩む粗忽者の私は、天の広がりは、あまりに広大なために、視野の狭い心でそれを勝手に思い描いて、その結果、ピントのぼけた納得に満足しやすいです。その危険性を最大限カバーするためには、(どこまでも天を見上げながら)地上の営みに、まず第一に精を出すこと(地上の善の拡大と悪の切り離し)が必要だと思います。天の祝福は、地上の探究を、どれほど真摯に探究しても相対的な、つまり中途半端でしかありえない人間の不完全性に対して贈られる光であると思います。(リン・ウッドがテレグラムで、「私は不完全なベストを尽くす」と語っていて感銘を受けました。)人間の不完全性を自覚するということは、シンボリックに言えば、喉が渇いていたら「水を飲みたい」と思うことだと思います。それが、「“普通” の善悪について、その相対性も含めてあらためて認識しておく」ことだと思います。あくまで天(大神のお働き)を視野に入れた上で、西塚さんが述べておられる「認識」を確認しておくことが不可欠だと思います。天は、人間の求めに応じて祝福をくださると思います。「水を飲みたい」というのは、「善悪の相対性を根本から超越したい」というたとえですから、ハッキリそう願えば、「悪を抱(いだ)き参らせる」大神のお働きにシンクロナイズした意識活動をさせていただけると思います。私は、喉が渇いていながら、虚勢を張って、天に、「水を飲ませてください」とお願いしないで生きてきて、滑って転んで大変な人生でした。

    「悪を抱(いだ)き参らせる」大神のお働きと響き合う内観としては、「立場の確立」があると思います。「われよしベクトル」とは、自分の立ち位置から逸脱したまま、そのことに自覚がなく、無自覚の逸脱を錯覚によって自己正当化しているベクトルだと思います。言うまでもなく私自身の心の奥に潜んでいて、まだ発見できていないベクトルです。内観によって、そのベクトルに自己の錯覚に気づかせてやることで、「われよしベクトル」は、持って生まれた固有の働きを周囲の役に立つ方向で発揮するベクトルに生まれ変わります。そのようにして本来活動すべき波動域に戻ることで「われよしベクトル」は立場を確立します。それによって《固有の働きを持つ「われよしベクトル」》はシフトして《固有の働きを持つ統一ベクトル》になります。ただし、地上レベルの善悪への見極めという「認識」がないと、いとも簡単に落とし穴に落ちてしまいますが、今の表現をより正確に記述し直すと、すでに落ちている落とし穴の底にいる自分に気づく気配が、ほとんど、あるいはまったくないままになります。ひと言でまとめれば、「悪を抱(いだ)き参らせる」とは、天の統一ベクトルを、地上の錯覚ベクトルに(地上の視点で述べれば)接続していただくことだと思います。人間は、神のロボットではありませんから、地上の営みは、不完全を踏まえた上でベストを尽くさなければ成りませんので、「悪を抱(いだ)き参らせる」ご配慮をすでにお持ちの天に、(内観を通して見極めた)「この錯覚ベクトルに、天の統一ベクトルを接続して昇華してください」と神に差し出してお願いする必要があると思います。錯覚ベクトルを排除するのではなく、昇華すること、それが(数ある受けとめ方の一つである)「悪を抱(いだ)き参らせる」ことだと思います。私の不完全さは、内観の不完全さに直結していますので、天に差し出す私の錯覚ベクトルは、ピントのぼけたものが多いのですが、それでも天はサプライズ付きでベクトル昇華してくださっています。滑って転んで大変な人生でも、喜びに満ちていますから。実に有り難い限りです。

     一元論とは、全肯定であり、そして人間には、つまり私自身には、強い自己正当化欲がありますから、いろんな「われよしベクトル」を一元論で自分の都合のよいように全肯定してしまいます。そのため善悪二元論を乗り越えるに当たっては、自己正当化の暴走を極力排除するフィードバックとしての内観が不可欠だと思います。その内観が「認識」を深めてくれると思います。また、この内観は、「悪を抱(いだ)き参らせる」大神のお働きにシンクロナイズさせていただくためにも不可欠だと思います。

     好本健一 

    1. 好本様

       
      ポストありがとうございます。

      なかなか返事ができず、すみません。
      いろいろ詰まってまして、サイトの記事ほか、もろもろ遅れています。

       

      >その危険性を最大限カバーするためには、(どこまでも天を見上げながら)地上の営みに、まず第一に精を出すこと(地上の善の拡大と悪の切り離し)が必要だと思います。

       

      「地上の善の拡大と悪の切り離し」にあります、「悪の切り離し」というのが悩ましいところかと思います。

      日月神示でいえば、まさに地上の人間も大神と一体ですので、「悪を抱き参らせ」ていくことは人間も同じです。といいますか、そうしてくれと言っているようです。

      でも、どうしても私たちはあらゆる面において「善-悪」を分け、悪を切り離そうとします。ましてや、その「善-悪」の図式は各自で違ったりします。

      そういう意味で、ゼランドあたりは細かい理屈はまずおいて、「コーディネション(意図の調整)」という概念を提示しました。簡単にいえば、「すべてをよいこととみなす」ということです。そうするとどうなるか、ということをシリーズ全 4 冊において、これ以上ないというくらいに論理づけているわけです。私にいわせれば、そのココロは日月神示でいう「悪を抱き参らせる」ということを地上版の優れた論理的スローガンとしてぶち上げたようなもので、わりとスゴイことだと思ってます。まあ、ゼランドも啓示を受けたわけですが。

       

      >一元論とは、全肯定であり

       

      なかなかシビレるフレーズですね(笑)。というのも、片や一枚の地図を指し示していることであり、片や道を歩く自分を指し示しているからです。私たちにはまだ地図の全貌はわからないし、どの道を歩けばいいのかもわからないのかもしれません。

       
      西塚

  4.  西塚裕一様

    「浅野ほどの心霊研究家であっても、見定めることができない」審神の難しさ、について。
    (書くのが遅くなりましたが、私のコメントは、「五目舎」を訪れる皆様の探究も視野に入れて書いています。)

     審神の難しさを、心の山登りにたとえて考えます。
    『未完成だった般若心経』と『人間やりなおし』に基づく(様ざまな課題を積み残した)私のシンプルな類推です。
     この類推の受けとめ方は、個の責任に基づく自由に委ねられますが、お互い独自に進めている山登りを、愉快に励まし合えたらいいなあと思っています。
     山は、上部と下部に分かれます。
     上部は、実在界で、下部は、非実在界。
     実在界の山は、永遠性、絶対性、普遍性を持つ世界。
     非実在界の山は、学べることは実にたくさんあっても、つまるところ諸行無常の世界。 山登りには、ガイド(守護の神霊)が必要です。
     真のガイドは、実在界に属し、自称ガイドは非実在界に属します。
     登山者は、ガイドを自己責任のもとに選ぶのも命がけ、ガイドを信じて自分の足で山を登るのも命がけになると思います。
     ガイドやガイドブックを選ぶには、それくらいの覚悟が必要だと思います。
     登山者は、自分が登った地点までの各波動域に位置する霊的存在は、自分の登山体験から、その中身を見抜けますが、自分が登っていない波動域に位置する霊的存在は、その中身を見抜けません。
     単純な話ですが、ある登山者が、非実在界の山を90パーセント登り終えているとします。
     その登山者の前に、非実在界の山の99.99パーセントまで登り終えた霊的存在が現れて、
    「私は、あなたが、真剣に山登りをする姿に心を打たれて、実在界の山から、あなたを導くために出現しました。これは、極めて貴重な出会いです。もう落とし穴は存在しません。天の祝福に感謝し、共に残りのプロセスを踏破しましょう」
     と言われた場合、登山者は、その言葉の真偽を見抜くことはできません。
     相手は、自分よりも9.99パーセント精妙な波動域の存在だからです。
     その霊的存在が、そのような発言をしたのは、「自分は、非実在界の山を99.99パーセント登り終えたので、それはもう実在界の山に一歩を踏み出したのと同じだ」という錯覚に基づいています。
     私の類推では、非実在界の山を99.99パーセント登り終えても、そこから、実在界の山の真実のありようは、いっさい見えません。
     確かに99.99パーセントの登山を終えて実感する充実感、目に見える荘厳とも言うべき美しい世界は、圧倒的なリアリティをもって登山者を包み込むと思いますが、それでもそこは、「自分は、ここまで努力したのだ」という自己正当化欲を満足させるためだけの、上辺だけの荘厳な美しさです。
     ところで、その霊的存在は、(99.99パーセントの)純粋な真心を込めて善意で登山者を導きたくてそう言う場合もあります。
     この霊的存在の残りの課題は、0.01パーセントなので、あとほんのちょっとの努力でその課題をクリアできそうですが、非実在界の山の、もっとも精妙な波動域に積み残した0.01パーセントの課題とは、非実在界の山を越える登山者にとっては、実は、もっとも手強い、心の奥の奥の「負の側面」になります。
     登山者がその霊的存在の善意にほだされた場合は困った事態になります。
     ところで、その霊的存在が、残りの0.01パーセントを踏破するには、自力では不可能で、あくまでも実在界に属する守護の神霊の導きを得なければ無理です。
     なぜなら、その0.01パーセントの「負の側面」とは、99.99パーセントの登山をやり遂げた自分の力を自負する、その結果を出した自力を正当化する意志に支えられているので、間違ってもその自力を捨てる必要など微塵も感じませんから、その自力が、【0.01パーセントの「負の側面」】を温存するカモフラージュになっていることには、いっさい自覚はありません。
     なので、捨て去るべき【0.01パーセントの「負の側面」】は決して見えません。
    「無自覚の落とし穴」に落ちている登山者を導けるのは、実在界の山に属する守護の神霊のみです。

     ところで、この山は、表から見る場合と、裏から見る場合で、風景がまったく異なります。
     これまでの説明は、表から見た場合です。
     裏から見ると、スタート地点から頂上まで、すべて実在界の山になります。
     裏からの視点は、登山者に、登山を完遂させるための「大安心」を先渡しするためのものです。
     この「大安心」は、永遠に消えない、不動の希望、と表現し直すこともできます。
     非実在界の山登りには、実に様ざまな落とし穴が待ち構えています。
     と言うよりも、私のドジな人生を振り返った実感では、非実在界の山とは、それ自体が、どこを、どう登っても、自己正当化の誘惑に満ちた「落とし穴」です。
     では、すべてネガティブな世界なのかと言うと、まったくそんなことはありません。
     美しさも、楽しさも、気高さも、無数にあります。
     それらは、必要に応じて、すべて貴重な体験に値するものです。
     なぜなら非実在界の山を登り終えなければ、実在界の山への第一歩を踏み出せないのですから。
     裏から見ても非実在界の山は存在しますが、それは、実在界の山の下部として存在します。
     ということは、「落とし穴」のすべてが、実在界の指導の下に見守られて存在するという意味です。
     なので、どのような紆余曲折を経ようと必ずその「落とし穴」を克服して実在界の山に第一歩を踏み出せることを保証しています。
     どうなっても「大安心」です。
     また紆余曲折に要する(始まりからゴールインまでの)トータルな所要時間は、気にする必要はありません。
     もちろん、時間を定めて取り組む計画や今日の実践のフィードバックに費やす時間などは大切ですが、実在界の山に第一歩を踏み出せたら、そこは、諸行無常の世界を根本から超越した、永遠の喜びに満ちた世界ですから、トータルな所要時間も(取捨選択はあるでしょうが)そのすべてが喜びに包まれますし、また実在界の山は複数の地球滞在におけるすべての探究に要した経過時間の総体を根本から超越した、多次元に渡る創造性を発揮できる世界であり、あらゆる紆余曲折はその活動のための足場を確保した意味にもなりますすから。
     それは絶対の「大安心」です。
     もちろん私が保証するのではなく、天が、その大愛で保証しておられることを、日々の山登りを通して(私の場合、ジタバタ・アタフタした山登りですが、そのありようを通して)信じているということです。
     表から見た非実在界の山登りにおいては、ガイドを求めることも求めないことも自由のように見えています。
     たとえ求めなくても、裏から支えられていますが、「求めない」という本人の自由を、ある枠内で認めた上での、限定された導きになります。
     表から見ると、「非実在界の山」と「実在界の山」の間を隔てる境界線は、厳然と存在します。
     その境界線の厳しさを、より厳粛に受けとめれば受けとめるほど、すでに先渡しされている「大安心」を、より深く、より手応え豊かに実感することができます。

     五目舎は、ご縁のある皆様が、安全に山登りができる情報を精選して提供しておられると私は「類推」しています。
     私は、今、あえて類推を強調しました。なぜなら、私自身、非実在界の山を、ガイドとガイドブックを頼りにして山登りを続けている最中だからです。
     類推を通して以外に、「これは真実のガイドとガイドブックだ」とは言えません。
     私は、私のガイドとガイドブックを、「これは本物だ。どれだけ時間が掛かろうとも実在界の山に第一歩を刻ませていただける真のガイドとガイドブックだ」と自分の人生を賭けて類推して選び取り、敬意を込めてガイドを見上げつつ、日々、実践を通してその内容を検証しながら山登りを続けています。

     好本健一

    1. 好本様

       
      ポストありがとうござます。

      今回のポスト内容を拝見して、ラー文書を引き合いに出してコメントしようかと思いましたが、期せずして次にいただいたポストでラー文書に触れられていますので、ラーに関してはそちらに譲ります。

      本物というのは、私にとってはなかなか難しい概念ですが、おっしゃる意味はわかります。

      そうですねえ、私の考えでいえば、ホンモノというのは、人でいえば自分にウソをついていない人であり、ウソをついていない人から出たものがホンモノかと。

      それ以外は、ニセモノというか、パチモンでしょうか(笑)。

       
      西塚

  5.  西塚裕一様

    《「一なる存在」への奉仕》について。

     ラーのメッセージは、一元論と響き合っていて、素晴らしいと思います。
     まず基本的なメッセージ。
    【私 た ち は 「 一 な る も の の 法 則 」 に 属 し ています。私たちの波動のなかでは、あらゆる 両 極 性 は 調 和 し て い ま す 。 あ ら ゆ る複雑なことがらは単純化しています。あらゆる 逆 説パラドックスは 解 明 さ れ て い ま す 。 私 たち は ひ と つ で す 。 そ れ が 私 た ち の 性 質 で あ り 目 的 な の で す 。】『盤』レポート0号より。

     
    「奉仕」について、私の受けとめ方。
    「奉仕」とは、「奉じる仕事」。
     それは、《「一なる存在」に奉じる、魂の仕事》。

    「自己奉仕型の意識」と「他者奉仕型の意識」について。
    (とても限られた説明を踏まえたものであるために『ラー文書』からはズレるかもしれない私の類推)。
    「自己と他者」について。
    「一なる存在」は、自己の中にも、他者の中にも存在する。
     その意味で基本となる意識は、「自己&他者奉仕型の意識」。
     奉仕は、自己の中の「一なる存在」に対して、また同時に他者の中の「一なる存在」に対して行われる。

    「自己奉仕型の意識」とは、「自己&他者奉仕型の意識」から「&他者」を切り離した意識。
     それゆえに他者に内在する「一なる存在」に背を向ける。
     そうすることによって自己に内在する「一なる存在」にも背を向ける。
    「自己奉仕型の意識」とは、他者にも自己にも背を向けたスタイルで、「一なる存在」への奉仕を学ぶプログラム。

    「他者奉仕型の意識」とは、「自己&他者奉仕型の意識」から「自己」を外在化させて「&」の力学を通して他者に自己を投影し、他者に奉仕するスタイルを通して《自己の中の「一なる存在」》と《他者の中の「一なる存在」》に同時に奉仕するプログラム。
     地上では必要な自他の区別を踏まえて、自他に同一の「一なる存在」に奉仕する実践を通して、区別が明確化している自己存在と他者存在の境界を自他一体のシステムに向けて無理なく自然に生きいきとシフトさせていくプログラム。

     最初に引用した『ラー文書』の言葉に続いて『「一なるものの法則」に付与されたゆがみや権力 』について西塚さんが考察しておられた内容が興味深かったので、私もちょっと考えてみました。
     まず『「一なるものの法則」に付与されたゆがみや権力』を次のように拡張します。
    【「一なるものの法則」を魂の本質として、さらに魂の表層に「一なるものの法則」を普及するために必要な個性に付与されたゆがみや権力】
     まとめて言えば、魂の地上の旅においては、「一なるものの法則」を普及するプログラムと、それ以前の普及プログラムで失敗したゆがみや権力志向性を昇華するプログラムを並行して行っているのが地上の旅。
    「ゆがみ」とは、人間が持つ「負の側面」であり、「負の側面」とは「力の論理」なので権力志向性を持つ。
     その「ゆがみ」が持つ両義性は、「一なるものの法則」の普及プログラムおいて必要悪の視点も含めて欠かすことのできないものであり、しかもその不可欠性は痛みを伴うものであるが故に両極性を調和させた波動域から働きかけてくださるラーの存在は、とても有り難いです。 

     ウィキペディアで読んだ、《「無限なる創造主に奉仕する惑星連合」から来たメンバーのひとり》であるラーは、岩根先生が述べておられる宇宙連合とつながりがあるように感じられました。ラーの『一なるものの法則』と、岩根先生の一元論との結びつきにおいて。

     宇宙人情報が、一部の暴露情報や個人体験上のものとしてのみではなく、政府機関の公的メッセージとしても語られるようになった2021年という状況は、とてもスリリングです。

    『米国防総省、UFOの残骸を調査していた/調査結果は「私たちの生活を永遠に変える可能性がある』
    http://totalnewsjp.com/2021/02/19/ufo/

     好本健一

    1. 好本様

       
      ポストありがとうございます。

      これは、コメントするのは大変になります。

      今、記事のほうでは「チャネリング」について書いてますので、いやでもラーには触れていきます。そちらのほうでも、もし何かありましたら、ご意見賜ればと思います。

      ちょっとだけコメントしますと、自己へ奉仕する意識と他者へ奉仕する意識は、ラー文書の中では重要な概念となってますが、両者とも「一なる存在」「一なる創造主」に奉仕していることには変わりはないということです。

      あと、「ゆがみ」という言葉もなかなか誤解を生みそうですが、訳された方もいろいろ考えたのではないでしょうか。英語の原文では「 distortion 」ですから、たしかに「ゆがみ」とか「ひずみ」「ねじれ」といった意味かと思います。ですので、日本語のイメージからいうと、どちらかといえば否定的に響くきらいがありますが、ラーの伝えていることを私なりに解釈すれば、仮に大もとの一なる存在があるとして、それがいわゆる無というか、静謐というか、あえてそういう表現で想定すると、それはいわばフラットな状態というか、何も「起こり」がない状態みたいなもので、そこに何かが起こる場合、そしてそれを波動とか振動みたいなゆらぎとして表現すると、その波形にしても振幅にしても、それぞれバリエーションは無限にあり得ますが、その波動なり振動の一つひとつのことを「distortion」と表わしているように思います。だから、ぶっちゃけた形でいえば、よい「ゆがみ」もあれば、よくない「ゆがみ」もあるということです。

       

      >岩根先生が述べておられる宇宙連合とつながりがあるように感じられました。

       

      いいかげんなことはいえませんが、それなりの規模で活動されている個人や団体などは、おそらくほとんどそうした存在の影響を受けているかと思います。ましてやスピリチュアルな活動であればなおさらです。実際、ラーは「惑星連合( The Confederation of Planets )」に属していると言うわけです。そして、いわゆるチャネリング情報では、「◯◯連合」とか「◯◯連盟」、「◯◯評議会」といった名称がよく出てきます。

      それらの関連を探っていくと大変、興味深いことがわかりますが、肝心なことは活動の目的と内容かと思います。

       
      西塚

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