だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

夢で逢えたら

年始は大きいのも小さいのも含めてやっぱり新年会が多い。今年もよろしくぅ、なんかいいながら結局飲むという繰り返しで、あっという間に一週間。もちろん飲むだけじゃなくて平常の仕事に年越しの仕事もプラスされるから、なかなかブログが書けない。家に帰って書こうと思ってもたいがい酔っぱらってるから(といってもこれは毎度のことだが)、年始は土日も普段より飲む機会が増えたりしていっそう時間が作れない。今度酔っぱらったまま書いてみようかしら。

昨晩、非常にリアルな地震の夢を見た。山に逃げても足もとから次々に地割れが起きる。ぴょんぴょん忍者のように飛び跳ねて移動しても、足もとに亀裂が入り、山が裂けて、地球の底を覗かせる。裂けると同時に地熱がうわっと顔にかかるのがなんともリアル。そのうち津波がやってくる。ダメだこりゃ、となかばいかりや長介状態だったが、それでも必死に木にしがみついたりしてる。もちろんまわりは阿鼻叫喚。ディテールをいえばまだまだあるが、まあいい。いや予知夢だなどというつもりはなくて、また最近連続してこういった夢を見だしたということだ。去年の 3.11 の 1、2 年前から洪水の夢はよく見てた。会社の同僚もそんなことをいっていた。最近よく見る夢があるんですよ、どんな夢?、洪水の夢、なんてことをいってた。そして 3.11 がくるわけだが、どうしたわけかその前に洪水の夢を見ていたことを忘れていた。というか震災と結びつけることはなかった。前に見た洪水・津波の夢は、4 回あって、そのどれもが今回のようにリアルな、もう現実としか思えない夢だった。実は先の 6 日の玉蔵さん・パスヘブ嬉し嬉しコンサートのあった夜も洪水の夢を見た。長野のホテルに泊まったのだが、その部屋らしきところにいて、なぜか海のそばで、部屋の窓外まで水が押し寄せて水位が上がっていくのが見える。

去年は洪水ではなく、戦争の夢もリアルだった。街中にいて、空を見上げるとびっしりと B29 (のわけはないが)のような戦闘機に覆われていて、雨あられと爆弾を落としている。近場のビルに逃げ込もうとするが、なんの意味もないことはすぐわかる。そのときも、ダメだこりゃ、だった。別の洪水の夢でも、山奥に逃げて、水路のような橋のような下に身を潜めて水を避けようとするのだが、向こうの高い山を越えて津波が押し寄せてくるのを見て、このときもダメだこりゃ、と思った。そういうときに不思議と恐怖感はない。もう観念してるのですね。どうしようもないと。笑っちゃう感じもあった。意外とそういうものなのかもしれない。夢の中では現実なので、ベッドでハッと目覚めたときは心の底からほっとした。文字通り夢でよかったと思った。しばらく部屋の中を見渡しながら平和に感謝した。ちょっと大げさか。

夢といえば、黒澤明の『』は黒澤自身が見た夢を題材にした映画だ。いくつかの短編で構成されているが、そのなかの「赤富士」は原発事故を予言していたのではないかとネットで有名になった。その他の短編も「夢」を題材にした場合の独特の雰囲気を醸していてなかなかにシュールである。どの短編も「こんな夢を見た」という字幕で始まるのだが、これは夏目漱石の「夢十夜」と同じ出だしだ。漱石の小説も十夜というくらいだから 10 作の短編からなっているのだが、こちらも柳田國男の「遠野物語」のような怪談じみた話が多い。さすがは漱石だけあって文章や構成がしっかりしているが、夢がこんなに論理的な展開をするはずがないと思うのだが、漱石クラスになると夢も小説的なのかな。

漱石の弟子の内田百閒が「夢十夜」に触発されたのか、同じように夢を題材にした短編を書いている。「花火」とか「冥途」とか「サラサーテの盤」だ。高校のとき私は内田百閒が好きで、というか怪談話が好きで辿りついただけだったのだが、上の 3 作はとくに好きで何回も読んだ。でも、芥川龍之介にはこきおろされたはずだ。漱石先生のはちゃんと文学的に昇華されているが、百閒のは夢を夢のまま書いたからダメだとかなんとか。夢を夢のままに書けるなんてすごいことだと私なんかは思うんだけどね。

「サラサーテの盤」は鈴木清順が『ツィゴイネルワイゼン』で映画化した。「サラサーテの盤」が一応原作になっているが、映画では「花火」も「冥途」もエピソードとしては入っている。この『ツィゴイネルワイゼン』も何度観たかわからない。あの非現実感というか、なにか悪夢を見てるような感じにハマった。

明晰夢」というものがある。夢の中で、あ、これは夢を見ているのだな、と気がついている夢のことだ。これは訓練すれば見ることができる。訓練などしなくてもときどき夢の中で気づくこともあるが、めったにないようだ。

明晰夢だと何でも可能だ。それこそ自分で想像できることは何でもできる。不可能はない。空を飛ぶことも、なりたいものになることも、逢いたい人を登場させることも、本当に何でもできる。世の中には明晰夢の同好会もあるらしい。私も何回か見た。どこか外国に旅行してて、なんとも不快な目にあって、船かなんかに乗っているのだが、このまま降りることもできず先はまだ長い。気が重くなっているうちに何かを見て、あっこれは夢だなと思った。とたんに気分が高揚して、あっという間にシチュエーションを変えることができた。印象深かったのは、こちらが夢だと気づいたとき、不快の原因となっている夢の中の我が物顔のヤツが急にあせりだしたことだ。

ヴァジム・ゼランドによると、夢は通常我々が思ってるようなシロモノではなく、つまり日常見たり経験したりしたことで忘れていたことを潜在意識から引っ張りだして理性が構成するようなものではなく、完全にもうひとつのまぎれもない現実だという。脳はそんなに膨大な情報を貯蔵することはできないらしい。だから夢はいわゆる夢ではなく、量子論的に現実化の可能性をはらんだフィールドに魂が直接アクセスしていて実際に経験しているとのことだ。たしかに夢を見ているときの現実は普通にリアルだ。眠っていて理性の規制を受けてないぶん、目覚めているときのような常識には縛られないからシュールなことにもなってしまうが、夢の中では体験しているその世界の論理として整合性を持っている。

ゼランドがさらにいうには、だからもしパラレルワールドとして実際に成り立っている世界にアクセスしちゃった場合、戻ってこれなくなる可能性もあるという。その世界で自分が現実化されちゃうわけだ。おいおいコワイこというなよ、とも思うが、だから明晰夢には危険がともなうというのだ。まあ、かなり低い可能性らしいが、ゼロではないらしい。あ、それから私がなんとかのひとつ覚えのようにゼランドの名を出すのは、私のようないまだ左脳偏重気味の者には、今のところゼランドのトランサーフィン理論が一番しっくりくるからです。超常現象その他、世界の成り立ちに関する真理?の論理的説明をも可能にしつつ、なおかつ実践的な生き方の提案としては現時点ではゼランドのものが最適ではないかと思っている。私にとってですけどね。

洪水にしろ地震にしろ、ここ数年私のまわりにさえけっこうな数の人間が夢に見ているということはどういうことなのか。スマトラやニュージーランドや東日本のような災害があったから、単純に天変地異を恐れている人が増えているからなのか。それとも近代化以降、人間のエゴによる拝金主義や環境破壊などに対する人類の後ろめたさが集合的無意識として形成されて、人類の良心のようなものが何かを清算しようとある種の出来事を現実化しようとしているのか。あるいは宇宙的レベルの知的意識体のたくらみか。はかりしれない壮大な必然によるものなのか。

私ごときには知るよしもないが、どうせ夢をみるならやっぱり好きな人と逢いたいものですね。

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