3 月の終わりにまたひとつ歳をとってしまった。この季節は自分の誕生日もあるせいか 1 年では一番好きな季節だ。というようなことを言うと、即座にカミさんから私にとっては一番イヤな季節だと来る。花粉症のせいらしい。そんで早く 5 月にならないかなあなどとウソブく。ほんとにいちいち腹の立つ女だ。わかった、それじゃ俺が花粉症を治してやるとチョチョイとまじないをして、翌日、どうだ、治っただろ?と言えば、今年は花粉が少ないからだと言い張る。まったく。
仕事の打ち合わせで韓国に行った。編集局長との顔合わせがメインだったのに社長が出てきたので驚いた。今後のアジアマーケットについて大いに語り合ったあと飯を食おうってことになって、何でも韓国では恒例(らしい)の爆弾酒を立て続けに飲まされた。ビールのコップの中に小さなショットグラスを置いてその中に半分くらい焼酎を入れ、さらにショットグラスを重ねてサイダーを並々と入れ、最後にビールでコップを満たす。それでこぼさないように残さないように全部飲み干す。いくら飲んでもショットグラスにちょっと焼酎が残る。これは完全に飲み干さないと終了できない儀式のようで、一回始まったらちゃんとできるまで延々と続けなければならない。他の韓国のスタッフはちゃんとできるのに私はいくらやっても残ってしまい、頭に来てガンガン飲んでたら、しまいにはドリフの志村ケンみたいに口からダーッとこぼしてしまった。こりゃしくじったかなと思ったが、まあ打ち合わせは無事終了。その後カラオケもあるスナックみたいなところに行ったのは覚えているが、あとの記憶がない。気がついたら安ホテルのベッドでありえない格好で寝ていた。でも二日酔いはない。
翌日も打ち合わせがあったので、昨日のスタッフに聞くと、あれから 4 軒行ったとか。なぬ!全然覚えてないぞ。冗談は顔だけにしてくれと言ったが、どうやら本当らしく、カラオケで何曲か歌いもしたと。キャロルを歌おうとしたが歌詞カードになかったので諦めたところまでははっきりと覚えているが、歌った記憶がない。何歌ってました?(ちょっと弱気になる)と聞くと、プレスリーと河島英五と何だかわからない曲だと。何だかわからない曲は何だったんだろうとすごく気になったが、怖いので聞かなかった。でも相手の社長も大酔っぱらいで何だかわからない曲を歌ってたというからまあいいか。
翌日のソウルは天気が良く、待ち合わせ場所である東大門文化公園のシティホールの前のベンチに座ってたら、みんなぽかぽかとした陽気の中を楽しそうに散歩している。恋人同士、子供連れの夫婦、土曜日だったので何かのイベント帰りの人たち。ベンチの周りにたむろして、タバコをぷかぷか吸っている。吸い終わるとそのへんに捨てていく。私は以前ブログにも書いたが最近タバコを吸うので、天気も気分もいいしタバコでも吹かしたいなあと思っていたところ、灰皿がないのでこりゃもちろん禁煙だろうと。でもふと見たら、周りでみんなぷかぷか(ここで西岡恭蔵を思い出してくれた人がいたら友だちになりたい。彼も死んじゃったなあ)。いや、マナー違反なことはわかってます。けど懐かしかったんだよね。日本でもひと昔(どころじゃないかもはや)前は同じ光景があちこちで繰り広げられていた。大人はタバコを吸うもんだった。で、誰も別段咎めない。もちろん嫌煙家はいたが。
そういえば死んだ親父が昔、新宿のホームでタバコを吸ってたら、そばにいたアメリカ人が露骨に顔の前で手を振っていたと。親父がタバコを突き立てて、これ?とゼスチャーするとうなずいてた、なんて話をおかしそうにしていたのを思い出す。私は子どもだったが、ああ、タバコを嫌がる人もいるんだなあと思った。昔は駅のホームはおろかバスや電車の中にも灰皿があった。たぶん吸わないほうがいいのだろうが、そんなに目くじらを立てなくてもという気もする。もっと体に悪いわけわからないものはいっぱいあるゾ。それでそれらは無規制だったりする。最近では秋なのにたき火や野焼きの匂いもしなくなった。消防法ですか? みんな規制されちゃったのかな。地方ではまだあるのかも。
とにかく、なんとなく懐かしくのんびりした気分になった。
どだい急な規制や禁止なんてものは、誰かの思惑が働いているに決まってる。利害関係が絡んでいる。バブルがはじけた日本だって、いきなり BIS 規制とかってのが出てきて、銀行が潰れたり、資産を売却せざるをえなくなった。結局得をしたのは、優良企業や資産を安く買い叩いた外国資本だ。よくわからないが、BIS 規制なんてものは従わなくちゃいけないものだったのでしょうか。国際決済銀行って何ですか? 勝手に国際ルールとか言われてもねえ。
結局お金ですね。儲かるからやる。お金のためならなりふり構わなくなってくる。どこの国だっけ? 日本のコシヒカリとかササニシキって銘柄ですら商標登録されてるんでしょ? i−PAD だっけ、i−PHONE だっけ? アルファベットの i から z までくっつけたものを全部商標登録しちゃった。それらを売るときはロイヤリティを支払わなければならない。他の国の人が創ったものなんですけど。もっと敬意とかないのかしら。やっぱりお金なのだ。
明日、世の中からいっせいにお金がなくなってもおそらく困らないんじゃないか。そりゃしばらく混乱はするだろうが、お金のやりとりがいっさいなくなっても生産活動さえあれば世の中回ると思うんだが。お金を右から左へ移してとかいった仕事はなくなるだろうが、生きていくのに必要なものや世の中の役に立ったり便利なもの、面白いものなんかはなくならないから、それを企画したり開発したりするアイデアには人が集まる。注目される。そしてさらにそれらに必要な材料とか資材を企画、開発、あるいはすでに持っている人が協力してくれる。食べ物だって料理屋だって、本当においしい店には人が寄ってもくるし、もっとおいしいものを創ってくれとなる。それに必要な大根やかぼちゃはあそこの農家で作ってますよとなって、どんどん情報が行き渡り、それなりの仕事が創出される。そこに生きがいを見出す人も出てくる。そういう類のアイデアがないとしても、力仕事は人の 10 倍できるとか、歌がうまいとか、ダンスがうまいとか、どんな人でもその人なりの個性がある。その人すら気づいていないオリジナリティが人を幸せにするかもしれない。
お金はいらないんじゃないか。
どうしてもお金というか消費活動や資本主義システムが好きな人は、バンカースや億万長者ゲームのちょっと本格版みたいな遊びを開発して今までどおりに楽しむ。バーチャルゲームのようなものとして。ダメかなあ。エラソーなこと言って誤解されると困るが、私自身かなり俗物だからお金による快感は十分知っている。ホテルの上層階に泊まるとか、高くてうまい料理屋に行くとか、高価な時計をしたりスーツを着て他人の前で優越感を得るとか、そういうことはよくわかるし今でも似たようなことをするときもある。でも同時に先のような意識を持った人たちが増えているのも確かだと思うのだ。今、そんな時代に移行してるとしか思えない。ドラスティックに移行する必要はないと個人的には思う。方法論の問題として、小泉や橋下のようにいきなりいろいろなものをぶっ潰すことはないと思う。それくらいの荒療治が必要で、創造にはまず破壊が必要なのだという立場は私はとらない。そういった二元論的な発想からはもうなにも新しいものは生まれないと思っている。
我々はもっと手放したほうがいいのでないか。自分たちの思惑とか望みとか理想とか、そんなものはたかが知れているよ。我々が思うこと以上の可能性を楽しみにするくらいでいいんじゃないか。だから私は、『日月神示』のいう大難が小難になるというほうに賭けました。賭けるなんていうと深刻めくというか背水の陣的に響くが、これは選択の問題です。そっちにノッたってくらいの感じ。
コケたら? ありゃって本当にずっこけて、また考えましょう。
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