いやあ、なかなか仕事がフィニッシュしない。とは言っても、月曜には終わる。はずだ。ここ 1、2 週間仕事が集中し、疲労が溜まっていたように感じていたが、この間よく考えてみたら半分以上は飲み疲れということが発覚して愕然としたが、こう暑くちゃムリもない。どうムリがないんだかまったく理屈がわからないというか、いちいち考えるのも面倒くさくなるくらい暑い。したら生ビールでも飲んで体冷やして頭冷やしたほうがいいに決まってる。ロクな仕事できないって、この時期。
と言っても、ひところに比べりゃあずいぶんマシだが、それでも道行く人たちを見てると一様にしかめっつらしてたり、不機嫌そうだから、いよう、オトモダチ!ビールでも飲み行こ、と声をかけたくなる。でも実際は、お?いいねえ、と言ってくれる連中とだけ行くことになるのは、前に声をかけて頭がおかしいヤツに思われて気味悪がられたことがあるからだ。情けな。
私は高校のときから基本的にはそのテのダメさかげんだったので、会社員になってけっこう苦労したが、嬉しいことに似たようなヤツが必ずいるものだ。で、だいたいにおいてそいつらのほうが仕事ができる。当たり前だ。とっとと仕事を終わらせて早く飲みに行きたいし、実績がないとそんな態度は組織では許されないから、必然的に仕事ができることになる。でもそうは甘くなくて、会社によっては相当の実績をあげるヤツでも酒ばっかり飲んでれば追い出される場合がある。規律を乱すってヤツだ。実績よりも、つまり会社の利益よりも組織の規律のほうが大事なわけだ。ヘタすりゃ、酒じゃなくて、既存路線をはずれる大胆な企画や言動を発するだけで排除される。そんな例はくさるほどある。出る杭は打たれるってことだ。
でもこれは管理者というか支配者側から見た論理だ。組織のトップの懐が深いというか賢ければ、そんなことはないが、だいたい中途半端な権力を手中にしたヤツらがこうした排除をする。自分たちの立場が脅かされるからだ。本末転倒というか、会社の利益追求が企業の使命であるはずなのに、おのれの保身にだけ執着し、本来同じ釜の飯を食ってるはずの仲間を敵視する。こういう会社はいずれおかしくなる。今の官僚あたりが典型か。同じ日本人だろうに。違うのかな。まずいのは、官僚の場合は会社が潰れる程度じゃすまないということだ。政治家に関してはもはやギャグですらないから言うことはない。
まずい、話がつまらん方向にきた。
久々にゼランドにご登場願おう。
全体としては、個々のリアリティの様相は、その人を取り巻いているあらゆるものとの関係においてどのような感情を持っているかにかかっている。しかし、同時に、その人の気分というのは、周囲で起きていることによって制約を受けるものである。リアリティは人の思考の形(イメージ)が反映されたものとしてかたちづけられるが、では、その形(イメージ)はというと、反映そのものによって決まってくる、というようにフィードバックが延々と繰り返される罠に陥ってしまう。(略)
通常、ネガティブな感情は完全にその人の注意を奪ってしまう。人は、困っていることを案じる。人は欲しないことについて思いを巡らせる。こんなふうに逆説的なのだ。しかし、鏡は、人が望むものか望まないかを斟酌せず、ただ形(イメージ)の中身を正確にきちんと伝達しようとする。
そうなると、きわめて馬鹿げた状況になってくる。人は受け入れられないものを常に引きずっているわけだ。「口は災いのもと」ではなく、「思考は災いのもと」なのである。馬鹿げているように聞こえるかもしれないが、実際はまさにこのとおりなのだ。
人が何かを憎んでいるとき、どんなことが起きているのだろうか。その人はその感情に魂と理性の一体化したものを注ぎ込んでいる。明確な形(イメージ)は非の打ちどころなく鏡に反映されて、世界の層全体を満たす。憎んだものを自分の人生においてたっぷりと受け取ることになる。その結果、本人は一層腹立たしくなり、それによって自分の感情はさらに強まる。
同様のやり方で、非難の対象は「非難する者」の層に押し入ってくる。典型的な例をイメージ願いたい。怒りを顕(あらわ)にした中年女性が非難を込めた眼差しで世界全体を眺めている。彼女自身が、「人々と法の良心の前における」厳格で絶対的に正しい法の裁きの権化となっている。自分以外のすべての世界は、彼女の気に入らないことに対して責任を負うべきだと思っている。鏡に映しだされる光景はきわめて具体的で明らかなものとなってくる。このように強いうぬぼれをもって鏡を覗く人は、自分の周りにそれと等しい現実、すなわち、やむことのない不当な現実を作り出す。世界としてはそうする以外に反応しようがない。世界は彼女を非難しているわけではなく、自分が正しいとも思っていない。世界は、その本質によって、世界についてイメージされるとおりの姿になるのだ。
何かへの不同意の場合も同じことが起こっている。たとえば、もし女性がアルコール摂取にきわめて否定的な態度を取るのなら、彼女は至るところでそのような場面と遭遇するよう運命づけられることになる。彼女は飲酒にまつわる様々な出来事に常に悩まされる。それには彼女自身がアルコール依存症の男性と結婚するということまで含まれている。妻が飲酒に対して示す不快感が強ければ強いほど、夫はもっと大酒を飲むようになる。時々、夫は飲酒と縁を切ろうとするかもしれない。だが、妻が飲酒をとても強く憎んでいることから、自分の憎悪を文字通り噛みしめつつ、「あんたは飲むことをやめやしないだろうさ!」と怒りに駆られながら自分の思いを繰り返している。そして、もし夫に固い意図がなければ、飲酒を許せない気持ちにどっぷり浸った妻は、自分の思考イメージを夫の世界の層に実際に持ち込むこともあり得るのだ。
悲観的なことを予想する傾向は、傍から見ていても、見ばえのするものではない。「どうせどうにもならないさ!」というタイプの気分はサドマゾ的である。悲観論者は、「世界の悪化はここに極まれりだ。どうせ俺も奴も一蓮托生さ!」という辛い定めを堪能しつつ、倒錯した喜びを得る。悲観的なことに喜びを見いだすこうした病的な習慣は、侮辱を受け入れる素地とともに、ひどくなっていく。「僕はこんなに素晴らしい! でも、君は認めてくれない! 奴は不公正きわまりない! もういい、僕は怒っているんだ、なだめようったってそうはいくものか! ええい、死んでやる、そうすればわかるだろ!(酒林注:ここで言う、「君」「奴」は「世界」のこと)」そして、結局どうなるだろうか。鏡にただ反映されるだけではなく、避けがたい不幸の光景がしっかりと強調されるのだ。腹を立てている者は自分で不運なシナリオを注文し、その後、「ほら、だから言ったじゃないか!」と勝ち誇る。ところで、鏡のほうはというと「承知しました!」と返事して、ただ注文を執行しているだけのことなのだ。(略)
(略)度しがたい大ばか者のために教科書に載せてもよいくらいの「黄金の」法則がひとつある。それは「もし私が自分を気に入らなければ、私は自分を気に入らない」ということだ。この同語反復(トートロジー)には、それがどんなに意外に思われようと、大半の人々が行動指針とする原則が含まれている。
たとえば、容姿を例に取りあげてみよう。ほとんどすべての子供たちはとても愛嬌がある。では、自分の容姿に不満を持つたくさんの大人たちは、いったいどこから出てきたのだろうか。すべては、あらゆる不満をこちらに投げ返してくれるあの鏡からだ。自分に見とれる傾向のある者たちは美しく育っていくが、まさしくここに秘密がある。彼らは、「もし自分で自分を気に入っていると、気に入る理由がますますたくさん現れる」という決まりに従っているのだ。
形(イメージ)が自分の反映に対して「なんだか私は太ったわ。痩せなくちゃ!」と言うと、まったく話が違ってくる。鏡はそれに対して無表情にこう返事をする。「ええ、あなたは太っていますから。痩せなくてはなりません」。あるいは、イメージが自分の反映に、「なんだか私は痩せちゃったわ。もう少し食べなきゃ!」と言う。すると鏡は「はい、あなたは発育不良に見えます。もっとたくさん食べなくてはなりません」と答える。リアリティは、聞いたことを請け合いながら、こだまのように応答する。
ちょっと引用が長すぎたか。鏡の法則の一部だ。要するに、世界はというか現実でもいいが、自分の世界・現実に対する態度を反映させるのだ。でも気をつけなくてはならないのは、世界は態度の中身だけを確認するということだ。つまり、人があることを痛烈に避けたいと思っているとすると、その避けたいもの・現象が明確に対象化されるため、世界はその対象化されたものをたんたんと現出させる。だから、ネガティブなことは考えてはいけないというか明確にイメージしないほうがいい。実現したい望ましいことだけをしつこくイメージする。
まあ、このあたりの対処法に関しては、ゼランドはかなり詳細な解説をしているので、また紹介します。
ネガティブなことをイメージしない、感知しないっても、なかなか難しい。いろいろな障壁になるのは「恐怖」とか「不安」なのだが、これも避けることはほとんど不可能だ。どうするか? 思いっきり不安になればいいし、恐怖すればいい。そしてなんでもいいから行動を起こす。場合によっては、恐怖や不安の対象や内容とまったく関係のない行動でもいい。基本的に恐怖とか不安は強烈なエネルギー消費を伴うから、どんどん生体エネルギーが奪われて弱っていくのだが、なんでもいいから「行動」することで、恐怖とか不安に奪われていたエネルギーを行動にまわすことによって、そのぶん恐怖や不安に使っていたエネルギーが減る。要するに恐怖や不安がやわらぐ。だから、なんか怖い目にあったときギャーギャー大声を出して走り回るとか、不安に取り憑かれたときにいきなり10キロのジョギングに出かけるとか、そういうことだろう。
でも恐怖や不安という感情は持たないようにするのが一番いいのだから、そして感情はものごとに対する自分の態度の結果生じるものだから、いろいろなものごとに対する自分の態度を変えれば感情も変わる。感情は抑えることはないというかできないし、押し殺して内面で煮えたぎってるのは最悪だから、態度のほうを変えてみればいい。そしてそれはわりと簡単にできる。
あとは、恐怖や不安の対象に関するオルタナティブを持っておく。第三の道ですな。天変地異でも失業でもなんでもいいが、不安で恐怖を感じるものがあれば、それについて何も考えないでいられればいいのだが、これだけ情報があればそうもいかない。だから、起きた場合の対象法をあらかじめ考えておく。もしそうなったら、こうしようということだ。天変地異であれば、食料の備蓄、防災グッズの用意、避難ルートの確認とか、失業であれば、転職先の確保、副業など、ふだんから予防というかオルタナティブをリサーチしておく。要は、恐怖や不安にとらわれてはいけないということだ。それは誰かさんの思うツボなのだ。誰かさん? 彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。妖怪人間でも宇宙人でもない。
それでもとらわれたら、思う存分、恐怖し、不安になればいいのだが、大事なことはそういう自分を許すことだ。とゼランドは言う。そして、なるたけ行動に転換していく。そして生体エネルギーを意図にもっていく。ゼランドの言う「意図」という言葉もある種特別な言葉だ。難しい。リアリティを創造する、自分の思う通りの現実を現出させるのは意図だ。願望でも行動でもない。
たとえば、頭がかゆいとしよう。まず、私は頭を掻きたいという願望を持つ。願望は頭を掻くという現実を現出させることができるか? できない。だって、私は頭を掻きたいという願望があるだけでは、何も起こらない。一生頭を掻きたがってればってなもんだ。では、腕を動かして、つまり行動を起こせば頭を掻けるか。これはいかにも掻けそうだ。行動が現実を現出せしめたと言えそうな気もする。しかし、最終的に頭を掻くという現実を現出せしめるのは意図なのだ。意図がなければなにも起こらない。頭がかゆい、頭を掻きたい、頭を掻こう、で意図して本当に頭を掻く。
うーむ。説明がうまくないな。自分でも完全に消化されてないからか。
何が言いたいかというと、なにか自分の望むことがあるとして、それを実現するのは、意図だということだ。願望は絶対に叶わない。願望である時点で実現されてないことに対する永遠の欲望が前提されている。意図とは、郵便受けに新聞を取りに行くような調子で、自分の望みを掴むことだ。要するになんの疑問もなくただ受け取れることを知っている状態。そしてそれは本当にそうなるのだ。
先の引用の中に、自分の気に食わない部分に意識を集中して鏡を見ていればますます自体は悪化するってのがあったが、これも本当だ。やり方によっては、逆に気になっていたホクロでさえ消すことができるのだ。
私は実は、容姿のこととはまったく関係がないが、ゼランド系の理論はウソだろうってことでちょっと実験したことがあって、それはものの見事に実現したことがある。たいした話ではないが今度書いてみる。
またとっちらかってきて収集がつかなくなりそうだ。落語的にホンチャンの演題でもあればいいのだが、私の場合くだらないまくらがあっちゃこっちゃいきながら延々に続くようなものだから、延々に続けることができるかわりに中身がない。
あ、世界は中身を確認するだけだからこれでいいのか。要するに私には中身がないということで。
雨があがったから飲みに出ます。
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