だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

Think!

今年のキンモクセイの香りももう終わりっぽいな。して道端で OH!ってな感じの銀杏も。でも毎年、季節の移り変わりを突然知らしめるこれらの香りというか匂いというか、ある種のしるしは何かしらもの思いに誘うね。って別に詩人ぶってるわけでもないが、まあ、ありがたい気がするわけだ。空の奥ゆきとか透明感とか。

この時期にしては異常な気温だとかなんとかたしかにあるようだが、いいんじゃないスか。ここうん十年の平均とかなんかで取沙汰しても、やっぱうん十年でしかないし。そりゃいろいろあるよ、地球にしろ人間にしろ。100 年 1000 年何十億年単位ではまた何かのサイクルでもあるんでしょう。してまた、何かのしるしでもあるのだろう。

それでも、何かに気づくというのはいいことだ。何に気づくかはいろいろあるだろうが、何に気づくかで人の変わり方も変わるようだ。行動、行為が変わる。ちょっとだけ変わる人もいれば、とんでもなく変わる人もいる。半田広宣氏も、人は昨日と同じである必要はまったくないと言ってたのを思い出す。ジョン・レノンもたしか、ヨーコと結婚して、いろいろマスコミに叩かれて、イギリスの雑誌編集者の女にヨーコと一緒に抗議に行った映像があった。丁々発止やりあった後、その女編集者が、実はあんたのファンだったとちょっとメランコリックに呟くシーンがある。したら、皮肉屋だったころの俺だろ? でも俺は変わったんだ、とか言っていた。私の記憶だから正確ではない。中島みゆきも「世情」という歌で、♪ 時の流れをとめて、変わらない夢を、見たがる者たちと闘うため~♪ とか言ってたな。

いや別に、変わりましょう♡などと言いたわけではない。それじゃなくても私のように、久しぶりに会うヤツ皆に、お前変わってないなあ、髪の毛以外、と言われるようでは説得力もない。あ、そうそう、私はこう見えても、高校大学とファンクラブがあったくらいなんだから、そりゃもう大変なものである。いやマジで。髪があったころね。で、そのファンクラブ会長とやらが私にアプローチしてきてちょっと付き合ったことがあったが、そいつはその後、会員に袋叩きにあったという折り紙付きだ。と言っても、ファンクラブがあったことすら私は知らなかったのだから、まあたいしたことはないわな。

それにしても、人の妄想力というのはすごいもので、私のファンクラブごときはどうでもいいのだが、人はほとんど妄想で生きていると言ってもいいくらいのものではないか。罪のないかわいい妄想から壮大で荒唐無稽的なものまでいろいろありそうだ。だってあれでしょ? いわゆるブッシュみたいなキリスト教原理主義福音派、エヴァンジェリストたちなんかは、徹底して予定説を信じているわけだ。予定説ってば、あれだ、神はことごとく見透かしてるから、つまり誰が善人で誰が悪人かをすべてわかっているから、この世で何をしようが、すでに天国行きと地獄行きが決まってるって話だ。カトリックのように善行を積んでもムダで、すでに決められている。でも、人間には自分がどっちに選ばれてるかわからない。でも、現世で努力、したかどうかはわからないが、一応経済的に成功し、富を蓄えている人々は、きっと我々は天国行きが定められているからに違いない、富はその証しだ、だから地獄行きが決まってる飲んだくれの貧者などは救う必要もない、早くハルマゲドンでも起こして、最後の審判を受けて、我々だけで天国へ行こうじゃないか、ってなもんでしょ? 極端に言えば。

昔、トリスを飲んで天国へ行こう!ってコピーがあったが、トリスを飲んでる酔っぱらいの貧者の私なんかはどうなるんでしょうか。

まあ、妄想でも理想でもいいが、エヴァンジェリストとか、右手にコーラン左手に剣みたいなイスラムも含めて(偏見もあるだろうが、まあ争ってるのは確かだ)、ひ弱な私にはちょっとぉ…てのもある。

初めに言葉ありき、でもいいんだが、聖書でもなんでも言葉をそのまままるごと信じて原理にしてしまう、というのはやはり違う気がする。気がするとしか私にはまだ言いようがないから情けない。なんか違うんじゃね?的なものを唯一自分の判断基準で生きてきたからどうしようもない。あるいは逆に、これはなんかとっても大事なんじゃないかって「感じ」ね。でも、「感じ」だけじゃしょうがないから、私のような向学心あふれる人間はいろいろ考えるわけだ。体験もする。で、また考える。「思考」がダメだって話もあるが、私も場合によっては賛成だが、やはり思考は必要だと思うわけだ。それは知識をもたらすからだ。

もちろん、体感的なことで得る知識もある。あるものを感じる。ブルース・リーじゃないが、考えないで感じるということだ。私もヘタな武術をやってるのでそれはわかる。でも、そういうことではない。そうした体感的なもので得る知識は、思考停止、あるいは感得した境地に安住すると、おそらくその先、排他的排外的な方向に行く可能性があると思う。これは相当面倒くさい話になるので、また別に書くつもりだが、ともかくアブナイ「感じ」がする。

もちろん、体感で感得することが悪いはずもなく、私なんか左脳偏重症とバランスをとるためにもいろいろトライしてるわけだが、逆にそれだけになるとヤバイことになるとも思っているわけだ。徹底した思考も同じように大事なのだ。思考は言葉を使うわけで、思考を進めていけばいくほど必然的に新しい言葉なり論理を探っていくことになる。で、ある体系が形作られてもくるのだが、それはそれでさらに検証が必要になってくる。してこれは、独りでやってもいいが、多くの人間と検証していくほうが広がりが出る。あーでもないこーでもないってヤツだ。そうして集められてくる新しい知識や論理は皆の共有財産になる。なんだそれは、ただの民主主義じゃないかって言われそうな気もするが、だとしたら今の民主主義はお粗末すぎるし、材料の言葉や論理が貧困すぎる。まだまだありまんがな、ってことです。

そうした知識と先の感得して得る、まあ知識を、合わせて叡智と呼びたい気がするが、これも微妙にしゃらくさい。でもこうして言葉で書く以上、私なりのつたないレトリックで表現するしかない。

前にも書いたと思うが、というか最近こういう表現が多くて自分でもいやなのだが、前に自分で何を書いたか確認するのが面倒くさいだけだ。大澤真幸の書籍の紹介で引用したと思うが、たとえば、イチローが 10 年連続 200 本安打を打った、と聞いて、へえそうなんだで終わる人もいれば、なんてことだ!と感激に打ち震える人もいる。それは、100 年を超える大リーグの歴史の中で、10 年連続で 200 本安打を打った選手はひとりもいない、という知識があるかどうかで反応が変わるわけだ。野球をまったく知らない人でも、そういう知識を得れば、すげえな、くらいはわかる。まあ、どんなことでも、あ、そう、で終わる人もいるからなんとも言えないが、少なくとも知識があるとないとでは受け取り方が変わる。

なんで、こんなことを書くかというと、私がおとといかな、そうだったのだ。私はそれなりの野球少年だったが、ヤクルトが優勝した翌年から野球を見るのをやめてしまった。大のヤクルトファンだった私は、一度も優勝したことのない唯一のチームだったヤクルトを応援し続けてきたわけで、優勝したらなんか興味がなくなった。それもなんだかなーと自分でも思うがまあいい。だから野球にはすっかり疎くなっていて、おととい地元の居酒屋で例のごとく泡盛を飲んでたら、隣の常連とマスターが話し出して、マーくんはすげえな、と。マーくんって誰だ?と聞くと、何でも楽天の田中なんとかって投手が開幕連続24連勝で、これはもはや今後も絶対に破られないだろうみたいなことだった。詳しく聞くと、さすがに私も野球はわかるから、そいつは凄すぎると理解できたわけだ。

なんか、ちんたら書いているが、実はこれから町田で、軽い高校の同窓会があるのだ。オーストラリアで旅行代理店を営んでるヤツが久しぶりに帰国するので、みんなで飲もうってわけなのだが、明日、早くに重要な打ち合わせがあるので、今日は飲みすぎないようにしなきゃいけないと頭のどこかでプレッシャーになっていて、でも私のことだから、とことん飲んでまたしくじって…と不安になり、とりあえずブログでも更新しようとごまかしてるわけだが、どうやら時間切れだ。

それでもあまりにも中途半端だが、要は知識は大事だよってことだ。なんというか、のらりくらり、じゃいけないが、いろいろ面倒くさい思考手続きを踏んで、その果てにハタとわかることがあるということで、しかもほとんど重要なことはそのようにしてしかわからないのではないかということです。とは言え、みんながみんなそんな面倒くさいことにかかわる必要もなく、かかわるべき人がかかわればいいとも思うが、これはかかわるべき人は、神でもなんでもいいが、そういう必然的絶対的な流れや恩寵でかかわるものではないだろうということはなんとなく感じる。そういう外部からのものではないと思う。やはり自分の意思と意図なのだ。少なくとも超越的な外部は、論の中で措定するのはいいが、絶対的存在としてアプリオリに措定しないほうがいいと思う。それじゃこれまでの繰り返しだ。

そうではない哲学?が出てきてるですよ、いろいろ。そこんところもっとみんなで話し合おうってことだ。もちろん生活共同体的な視線からのアプローチも必要だし、それこそ社会システムの変換みたいな大きなことも考えていかなきゃならんだろうが、と同時に、新しいというか隠されていたというか、何じゃそりゃあ的な宇宙観を構築しなくてはならないのではないか? こっちのほうが先かもしれない。こっちのほうが早いかもしれない。とんでもないブレイクスルーが起こりうる。

中学の時に観に行った『パピヨン』って映画があって、今思い出した。ラストシーンがいまだ印象的なのだが、それはいわゆる自由を求める云々ではなく、いやそれもあるが、あの島で…って、これはネタバレってことにもなるのか。ええーと、ちょっとラストに触れるので、一応…で、私が考え込まされたのは、あの島で一生暮らしてもそれはそれでいいんじゃないかという立場と、実際ダスティン・ホフマンはそうするわけだが、断崖に打ち寄せる波を眺め、研究し、その法則を知ったスティーブ・マックイーンが脱出の可能性を知り、実際に飛び込んで生き延びるわけだが、これは単純な、自由を求める男的な映画ではなく…もうちょっと説明したいが、時間がなくなったので、次回付け足します。ってもたいしたことではありません。別に引っ張ってないし、そんな内容もないのだが、本当に時間がやばくなったんで。すみません。

こんなんでアップして大丈夫かな…

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