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でもおなじみ、社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、
1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」
について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。
〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第12回
「個人主義と個」
ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年9月13日 東京・中野にて収録
西塚 『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の、今日は第12回です。今回もまたヤスさんにおいでいただきました。よろしくお願いします。カンパーイ。
ヤス どうもどうも、じゃあカンパーイ。
西塚 前回は「個」の話になりましたね。そのあたりにまたつなげていきたいのですが、その前に、今日の『RT』(RussiaToday)ですが、日本ではまったく報道されてませんが、何かドンパチがあったようですね。
きな臭くなってきた中東
ヤス ああ、そうですね。別にすごく大きな戦争に発展するといったようなドンパチじゃないんですが、東エルサレムにですね、「岩のドーム」と「アルアクサ・モスク」というところがあるんですね。アルアクサ・モスクというのは、イスラム教徒にとって非常に神聖な場所とされてます。第3番目に神聖なモスクなんです。
同時に、岩のドームとアルアクサ・モスクというのは、ユダヤ教徒にとっても神聖な場所なんですよ。聖書のヨハネの黙示録の中に、ハルマゲドンが起こる前の予兆のひとつとして、岩のドームとアルアクサ・モスクが壊されて、そこにユダヤ教徒のいわゆる第三神殿ができるというのがあるんですね。それと絡めるとけっこう不気味な流れになってくるんですが、アルアクサ・モスクに今日、イスラエル軍が急襲して、モスクを占拠した状態に近い状況になっているようです。これを喋ってる今でもね、おそらく戦闘が続いている状態だと思いますよ。
西塚 そこは何か、今日は入ってお祈りをしちゃいけない場所なんでしたっけ?
ヤス そうです。けっこう複雑なんですけど、アルアクサ・モスクというのは、ユダヤ教徒にとっても神聖な場所であるわけですが、ユダヤ教徒はお祈りをしてはならないということになっている。それはイスラエル政府が、ユダヤ教徒とイスラム教徒が諍いにならないように、ユダヤ教徒側に禁止をしてた。それで、ユダヤ教の新年があるんですね。ローシュ・ハシャーナと言ったかな、これはアダムとイブが生まれた日なんです。何日か続くんですが、お祝いの最初の日に限っては、イスラム教徒もここにいって礼拝してはならないという習慣法と言うか、規制があったらしいんですね、ずっと。
ただ数週間くらい前から、ユダヤ教のいわゆるナショナリスティックな民族主義団体がいきなり入ってきて、そこでユダヤ教の礼拝をする。それに刺激されて、アルアクサ・モスクを守るためのイスラム教徒の自警団があるのですが、自警団は自警団で、我々はローシュ・ハシャーナの第一の日にも祈る、とはっきり宣言をする。そういうような形でこの数週間くらい、不穏な空気があった。実際に今日、どうもイスラム教徒が礼拝してたらしいんですね。そこをイスラエル軍が急襲した。
西塚 そうか。でも、予想できたのにあえてやったんですかね、ユダヤ教徒は。
ヤス いろいろそれなりに動機がある。ここは我々のものだ、とか。ただ彼らは、ヨハネの黙示録のハルマゲドン予言をまともに信じてる連中ですからね。岩のドームとアルアクサ・モスクを破壊することによってユダヤ教徒の第三神殿を造る。造ることでハルマゲドンが達成される。ハルマゲドンが達成されると、ヨハネの黙示録にある通り、いわゆる神が降臨してくると信じ込んでるんですね。それを実現させたいという希望を持ってるような人たちが、やはりいると思いますよ。
西塚 となると、ヤスさんも再三ブログやメルマガで取り上げてるエノク予言ですね。それをどうしても思い出さずにはいられないんですが…。まあ、ロシアがいきなり入るということはないでしょうけれども、この先ちょっと不穏ですね…
ヤス でね、実はこれだけではないんですね、今起こってることは。僕のメルマガでですね、9月の後半あたりからどういうようなことになっていくのかという、一応ネットで出回ってる詳しい日程をまとめて書いたんですが、ある意味で予告された通りの展開に近いことになってるかな、という感じがするんです。
たとえばですね、ひとつひとつ言うと、シリアにロシア軍が1000人入ってきた。ロシア軍の小さな部隊がシリアにずっと継続的に駐留してるということは、実は前から知られてた。シリアのアサド政権をバックアップしてるのはロシアのプーチンですから。資金援助と武器の支援を行なってるわけですね。そうすると、武器の使い方を教えるトレーナーであるとか、武器を運ぶための部隊であるとか、そういうかなり少人数の部隊、100から200名、200名いかないと言ってましたが、100名規模の部隊がずっと常駐している。これはロシアも言ってたし、今までもあった。
今回それを超えて、1000人くらの部隊が入ってきた。この1000人くらいの部隊はロジスティクス、兵站を担当する部隊なんです。つまり、より大きな部隊が入ってくる準備をするための部隊なんですね。
その他に、イラン。イランという国は、今までシリアの中に直接、軍隊を入れたということはない。イランの息のかかったヒズボラ、イスラム原理主義の組織ですが、それがアサド政権を支持するために、一緒になってシリアの内部で戦ってるということはありますが、イラン政府の息のかかった軍隊が、その指令で直接入ったということは今までなかった。それがですね、イラン革命防衛隊というのがあって、その革命防衛隊の国際部隊、まあこれはかなりの数、1000人とか1000人超えるくらいのけっこうな規模の戦闘部隊ですが、今回シリアの中に入って、ロシア軍と協力して作戦展開を始めた。
あと、もうひとつはですね、アメリカ軍の動きなんですよ。今までアメリカ軍というのは、極めてヘンな動きをしている。アサド政権を倒したいがために、空爆をするぞとさんざん言ってきた。それで2013年の8月に、その空爆を断念したんですね。断念したんで、いわゆるアサド政権に反抗している反政府勢力、自由シリア軍であるとか、ISISを含めてですね、そういう反政府勢力にずっと資金援助や武器援助をやり続けた。なので、アメリカ軍そのものがシリア軍を爆撃するということはなかった。それがね、今回初めて…
西塚 爆撃ですか?
ヤス どうも見てると、無人飛行機ですね。よくアフガニスタンで使っている無人飛行機が、どうもシリア国軍を爆撃したらしい。シリア軍側が発表したんですね。そうするとですね、ロシア軍とイラン軍がいるわけですよ、シリア軍と一緒に戦ってる。こっちではアメリカ軍が爆撃を始めてると。いったいこれからどういうことになってくるのか、ということですよね(笑)。
西塚 それは、相変わらずというか、報道はないですよね。
ヤス ああ、日本はね。もう全然。まあ何と言うか、オブラートにくるんで。日本の報道というのは、アメリカの大手メディアが報道したあとなんですよ。
西塚 前もそういう話になりましたけどね、報道の姿勢とかにつながってくるけど、本当にもう何と言うかなあ、どうしようもないですよね。
ヤス どうしようもないですよ。どうしようもない。だから、新聞なんてのは、便所の壁紙みたいなもんだしね(笑)。
西塚 アメリカのお墨付きがなければ報道しない。
ヤス 日本だけですね。と言うか、他の国を細かく見てるわけじゃないですが、たとえばロシアとかイランとか、独自に勝手に報道してますね。ヨーロッパの報道機関はけっこう勝手に報道してます。フランスとかドイツの報道はたまに見ますけど。イギリスのBBCあたりでも、もっとずっと早いんじゃないですか。
日本の場合は、報道の方向がアメリカの主要な報道機関によってはっきり出てきた直後にやる。
西塚 僕もさきほどRTをチェックしましたけど、ツイッターなんかもリンクしてあって、銃撃戦の映像まで出てますからね。
ヤス そうです。今まだ戦闘状態でしょう。
西塚 何人か拘束されてる写真も出てました。
ヤス ええ、ええ。だからかなり不穏な状態です。これから中東が非常に荒れてくる。
西塚 当然、原油の価格なんかにも響いてくる。
ヤス おそらくね。最終的には上がると思います。
西塚 いやあ…どうなるんだろうな…
ヤス そう。誰が誰と敵対するかってすごくわかりにくいんですが、僕の本にも書いたし、メルマガにもブログにも書きましたが、要するにイスラム国ってどういうものなのかと。おそらくイスラム国の戦闘要員は純粋にイスラム原理主義者なんでしょうけどね。ただイスラム国の幹部、上層部にいるような連中は何かと言うと、やはりアメリカとイスラエルが結託した連中であることは間違いないんではないかと思います。イスラム国そのものが、イスラエルが作り出したツール、自分たちの政策を立案するためのツールですね。だから今回の構図は、アメリカ=IS=イスラエル対ロシア=イラン=シリア、といったような対立の構図ですね。
西塚 それはもう、規模から言っても、第三次世界大戦ですよね。もしそれが始まっちゃったとすると。
ヤス そうですね。だから、ヘタにバランスを崩すとヤバい。ロシアのラブロフ外相がオバマ政権に直接、声明を出して、我々と対話をしろと。対話をしないと予想できないことが起こるぞと言ってるんですね。ロシア側の姿勢というのは一貫してます。アサド政権はたしかに独裁政権で悪だと。ただ、この政権をぶっ潰したら、あの地域はイスラム国に乗っ取られると。そうなると収集がつかなくなる。だから何としてでも、あのアサド政権は維持する必要がある。我々の視点から見ると、なぜアメリカがアサド政権を倒そうとしてるのかわからないと。我々と一緒になってアサド政権を援助しろと。そうすることによって、共同でイスラム国を根絶やしにするべきだというふうに言うわけです。
西塚 そうか。今の難民の問題もそこにつながりますもんね。結局ヨーロッパが、プーチン言うところの自業自得ですか? そういうことにもなるわけで。難民と言えば、例の3歳児の遺体にしても、RTの昨日の記事でしたけど、実は幼児のお父さんが密航業者であるというようなことがあって、そのあたりのことも乗船者とのやりとりで明かされてます。そして、それは黙っててくれと父親から頼まれたと、そこまでバラしてますからね。実際に家族は亡くなったようですが…
だから報道というのは、多方面から検証していかないといけないですね。日本の大マスコミしか知らないでいると、ある意味本当に取り残されると言うか…
ヤス そうです。僕は日本の報道に関してはどんどん否定的になっていますね。日本は「報道」という「人生の世界観」を売ってるんですよね。我々のお茶の間の中で、我々の常識的な物事の見方と矛盾しない、そのような世界観を売ってるわけですよ。
西塚 もう『サザエさん』とかと同じレベルの番組だということですね(笑)。
ヤス そうそう。だから『サザエさん』を見てると思って見ればいいんですよ。
西塚 (笑)、『サザエさん』が好きな人は見ればいいし、日本の報道も好きな人が見ればいい。
ヤス そうそう。『サザエさん』が全部現実だと思ってるってヤバいですよ(笑)。
西塚 本来ならこれは笑い話なんでしょうが、カツオでも何でも本当は何十歳にもなってね、結婚もして孫もいなきゃいけないかもしれないんですが、延々と子どものままじゃないですか。ある種、日本人を象徴してるかもしれない。アメリカの戦略なんでしょうか…
個人主義とは何か?
ヤス ただね、戦前からそうだったんじゃないかと思います。日本人に関して否定的なことを言うと嫌な顔をされるんですけどね。でも事実なので、向き合わなければならないと思います。
日本の社会の中で生きていくための我々にとって重要なツールは何かと言うと、人の感情に敏感になるということなんですね。そして他人が期待するようにこちらも行動すると。それが日本の社会で生き延びるための重要なツールなわけですね。
西塚 だからちょっと個が突出したヤツはKYとか言われて、子どももいじめられちゃう。オリジナリティであるにもかかわらず、否定されてしまう。みんな平均化されて、のっぺらぼうになる人間が増えていくという。
前回もそうした話が出ました。とにかく「個」なんだと。集団に溶け込ませて無化させるなと。否定的であろうが何だろうが自分と向き合えというお話しだったと思います。そこにどうしてもたどり着くと言うか、戻ってきて話し合わなければいけない論点なのかなという気がします。
そこでまた「個」の問題なんですが、前にも言いましたが、アメリカのドラマなんですよ。僕はアメリカ大嫌いな人間だったんです。原爆落としやがって、というのも含めて。ドラマと言うか、ハリウッドから入ったわけですが、まず役者がうまいんですね、単純に。これはどうもモノが違うぞと。俳優にしても何にしても。たとえば、ファンの人には申しわけないけども、高倉健とか誰でもうまい人はいると言うんですが、話にならないくらいにハリウッドの俳優はうまいと思うんですね。
それがドラマの世界にもあって、たとえばベタですが『NCIS』とか、一応ナンバーワンに近いアメリカのドラマがありますね。これはFOXですが、それを観てたりすると、非常に何と言うか、「個」でありながら「家族」なんですね。現場の捜査員たちがみんな家族のようなチームで、ギブスという捜査官がボスになってとりまとめてるんですが、家族的なんですよ。そしてそれぞれにまた家族がバラバラにいたりして、いろんな悩みを抱えてるんだけども、そうした問題もほとんど共有する。そのギブス捜査官も4回離婚してたりですね、いろいろあって、他の家族にしても、親父さんと仲が悪かったりとか、みんな全部知ってるわけです。
アメリカは個人主義だと思ってたけど、そんなこともないのかなと。たとえば江戸時代の落語の世界とか、それこそ『昭和残侠伝』に代表される東映のヤクザ映画の中でもあるような世界なんですね。家に鍵をかけない。誰でも出入りできて、勝手に飯を作って食ってるような。ある種の古きよき時代、相互扶助の世界観というのを共有してるんです。
だからそうした意味で、アメリカ大統領に立候補したレッシングもそうですが、根本にあるリバータリアニズムですか、そういう共同体主義的な相互扶助を主眼とした生き方、政府をあてにしないで俺たちだけで好きなように生きていくんだという話にもつながるような気がしたんですね。
でもこれは、ひょっとしたら寅さん的なただの郷愁で、そんなことはアメリカには実際にはないんだよということなのか、現実に根づいているものなのか、そのへんを今日はお聞きしたかったんですけども。
ヤス いろんな捉え方があると思いますね。でも、はっきり知らなくてはいけないことが一点あると思うのは、個人主義とはどういう意味かということなんです。我々の言う個人主義というのは、ひとりひとりがバラバラに生きててね、勝手に自分の世界観と価値観を持って、お互いにいっさい関わり合わないのが個人主義である、というようなイメージを持ってると思うんです。利己主義と個人主義がイコールで結ばれるようなイメージ。
西塚 東京がそうですね。あまり近所つき合いもしない。家に帰ってきてガチャンとカギを締めれば自分の世界であると。周囲から隔絶された自分だけの城、というようなイメージがありますね、確かに。
ヤス そうです。もともと個人主義というのは、個としての個人を尊重するということが前提にあるわけですね。だから、あなたが私と違う考え方を持つのは当然なんだと。あなたと私が違った現実に思い悩んで生きている。個として、相手の持っている生き方ないしは価値観を尊重するというのがベースにあるんですね。
だから基本的に違いをきっちり認めた上で、お互いに共同体を創っていくといったアイデアなんですね。ただ、共同体を創っていくためには、ひとりひとりが自分の生活であるとか、自分の責任範囲にあることを全部、自己責任においてきちんと管理しなければならない。そして、それでもなおかつ大きな不幸とかね、そういうものがあった場合は当然、共同体の救済にすがることができるし、共同体も救済を与えると。そうした共同体のひとつの倫理的な義務がある。
西塚 いい考えじゃないですかね。
ヤス いい考え方。
西塚 江戸時代にも似たようなものがありましたが、アメリカ人と日本人の違いというのは、やはり日本人は同質性というか、そっちに重きをおくということなんでしょうか?
ヤス 日本と比べると難しいんですけどね、ただ結論から言うとまさにそうで、要するに日本の場合は、まず同質であるということが共有されるわけですよ。そこでは、それぞれバラバラな個そのものの存在が許されないんです。まず同じ見方、同じ感情、同じ喜怒哀楽といったような、徹底的な同調性を共有するわけですね。
西塚 なるほど。それはもう180度違う考え方ですね。
ヤス 180度違う。特に強要されるのは、感情的な同調ですよ。
西塚 現代のアメリカはどうなってるんですか。
ヤス 僕はそれを滔々と語れる立場ではないんですが、僕の限られた体験の範囲内で言うと、本来のアメリカの高度な教育を受けたプロフェッショナルたちの行動原理とね、そうではない人たちの行動原理とはけっこう違っている。やはり、年収の高いプロフェッショナルの人たちというのは、はるかに個人主義的ですね。今ここで言ったような意味においての。利己主義ではない。ひとりひとりの個が自立していて、自立した個が自分の責任範囲の生活をする。そして何かの社会的なルールに基づいて、お互いが結合して、自分のコミュニティの社会的な責任を果たそうとする、そういった伝統がまだまだあると思いますね。
ただ、その伝統が非常に悪い方向に作用する場合もあるんですが、たとえば富裕層ばかりが集まってね、富裕層だけの共同体を創ると。そこから貧乏人は全部排除してしまう。そっちのほうが、はるかにクオリティーの高い市民サービスを実行できる街を構築することができる、と言ったりするんですね。ただ、自分たちのコミュニティはちゃんと創るわけです。
もちろん、そういった年収の高い専門家層のアメリカ人というのは、割合から言えば少ない。じゃあ労働者タイプの人たちはどうかと言うと、日本人ほどの感情の同調性は求めませんが、やはり感情的に理解してほしい、また理解し合うといった動機がかなり強い。それで、お互いがいつも自分たちの感情を吐露しながら、感情的に共感し合う共同体を創りたがるんですね。そういう共同体が一回でき上がると、おそらく日本よりも強固なんですよ。全部さらけ出しますからね。
西塚 ある意味、日本人より団結しやすかったりもするんですか、そこまでいっちゃうと。
ヤス 団結しやすい。全部さらけ出すので。私生活を全部知ってるしね。何で悩んでるか全部知ってる。
西塚 その部分だけで言うと、江戸時代もそうですよね。長屋の連中の私生活が全部わかる。感情的な同調性を強制されるんでしょうが、それ以外はわりと近い感じがします。
ヤス そうかもしれないですね。場合によっては、そう言い得るかもしれない。いずれにしろ、感情的にすべてを共有し合うような仲間の共同体を創りたがるんですね。
西塚 リバタリアンもそのような感じだったんですか、当初は。
ヤス いや、リバタリアンって思想なんですよ。たとえば、お互いに感情的に同調したいというのは、いわば身体から出てくる欲求ですね。リバタリアンは欲求かと言うと、そうではなくて思想なんです。個は完璧に自立した存在であり、自立した存在がお互いに結び合って、自分たちでコミュニティを形成すると。個人が集まって作り上げた地域コミュニティに対しては、上層の組織である国家が介入することはまかりならんというタイプの思想ですね。これが、まあリバータリアニズムなんです。思想だということです。
西塚 そうか。その思想に同調した人が集まってくる。
ヤス そうです。
西塚 それじゃ、アメリカというよりは、一部のイデオロギーにすぎないということですか?
ヤス リバタリアンはそうですね。それがいわゆるアメリカの一般的なイデオロギーかと言うと、全然そうじゃない。ただし強いことは強いです。すごく。
西塚 僕は、国家の創立にも関わったジェファーソンのように、アメリカの国自体がそういう思想をベースにしているのかと思ってました。だから移民も受け入れて、そのかわりアメリカのルールには従えと。誰でもかまわない。だからお互いの違いを認めながら、ルールに従うという…
ヤス その部分では、たとえばリバタリアンでも民主党のね、民主党左派みたいな人、たとえば今のレッシングあたりの人は基底部では同じなんですね。そうした思想の分派はもっと上のところで出てくる。自立した個の存在を社会の最小単位として、まず認めると。そして、そのような自立した個の自由を認めようと。その上で、共同体を創っていこうと。そういうようなね、基本的な前提はすべての思想で一貫してます。何が違ってくるのかと言うと、富の再配分の仕方で分かれてくるんですね。
リバータリアニズムは、富の再配分に国家が介入するなということなんです。どんな社会でも格差はあると。貧乏人もいれば金持ちもいる。社会を維持していくためには、やはり社会から取り残されてる人たちを救済しなければならない。その救済は共同体の事業としてやるから、国家は介入してはならない、というのがリバタリアンなんですね。
それに対して、民主党左派系の、ニューディール派と昔は言いましたが、その思想は何かと言うと、共同体がね、社会的な貧困であるとか教育の格差を解消できるはずがないと。共同体そのものにね、金持ちの共同体、貧乏の共同体とすごい大きな違いがあるんだと。それは、大きな政府を作って、政府が富の再配分をやってね、バランスのいい社会を創っていくしかないんだというのが、民主党左派ですね。
西塚 なるほど。江戸時代にもあった組合とかと共済組合みたいなものと近い発想ですね。みんなでちょっとずつ積み立てしながら、とんでもない不幸があった場合、そこから借りられるというシステム。それに国が介入するなという立場もあれば、国が政策としてやれ、という立場もある。
ヤス そうそう。
スピリチュアリズムと自己逃避
西塚 やはりヤスさんがおっしゃる個のあり方、それが重要になってきますね。日本の場合、鎖国もしてましたからね。今になって日本人自体の生き方が試されてると言うか、向き合わされてる気がします。それがいまだに、見ざる聞かざる言わざるになってる人たちが多いという構図かなと思います。特にスピリチュアル系の人たちはまた違う逃げ道があって、ますます閉じこもっていく流れと言いますか、危険性があるのではないでしょうか。
前回のお話しで、集団的な感情というものに流されると、人類はロクなことがないんだと。だから徹底的に個に向き合わなくてはいけないんだとおっしゃってましたね。それには本でもいいだろうし、何でもいいんでしょうが、そういう個に向き合う装置が日本には少なすぎるということですね。マスコミなんかも本当はそういう番組を作ったり、もっと人に考えさせるようなものを作らなければならないんだろうけども、考えさせないようにしてるとしか思えない番組が多い気がします。
お笑い番組を観ると、何かお化け屋敷のようです。関西弁の人とかゲイの人たちとかをいい塩梅で並べて、いろいろとくだらないテーマでひな壇であーだこーだと言わせる。それで司会が猛獣使いのようにさばいていく。そしてアハハハとみんなで笑う。視聴者も笑う。お笑いだからしょうがないですが、こんなのばかり見てたら本当にバカになると、背筋が凍るような思いをすることがときどきあります。言葉が悪いですけども。大宅壮一が昔、テレビが日本人を「一億総ハクチ化」させると言ってましたが、あれは看破してたんじゃないですかね。
ヤス だと思いますよ。だから、やはりこれからの我々誰しもそうだと思うんですが、日本人という形で集合的に一般化しなくても、我々ひとりひとりが普通の立場で生きる人たちとして、何がこれから重要になってくるかと言うと、今までも重要だったんですが、「現実と向き合う」ということなんですね。現実と向き合って、それが非常に困難な現実だったならば、きちんと一歩一歩解決していくということですよ。単純に。
きちんと向き合うという行為ができるかどうかなんですね。向き合う前に、まあ大体、多くの人は逃げる。逃げてスピリチュアリズムにいくわけです。逃げる人のスピリチュアリズムというのは、実に何と言うか、グロテスクな幻想を与えてくれるわけです。あなたたちは何も考えることはない。このままのあなたでいいのよ。黙ってれば、お告げがやってくるからとかね。神の声が聞こえるとか、宇宙人が助けにきてくれるとか、言ってみれば、具にもつかないような幻想を作り上げるわけですね。そうやって、現実逃避の装置を作ってくれるってことだと思いますね。
西塚 そうですね。そこで微妙な問題になってくると個人的に思うのは、スピリチュアリズムの世界でも、現実は自分が創っていくんだとかですね、思考が現実化するとか、たしかにそういう部分があることは事実だし、そういう本もいっぱい出てます。でも、区分けが難しいと思うんです。
どんどん顕在化させていかなければいけないテーマだと思いますが、つまりまず徹底的に個であるということで、現実にひとつひとつ向き合って、現実的にクリアしていくというような自分の覚悟、自己責任をとるという意味ですね、それがなければやってはいけない思想ではないでしょうか。
似てるわけです。実際の現実から逃げて、自分が考えれば現実化するんだからと一生懸命に考える。祈る。何もせずに祈ったって何にもなるわけないのに、祈る。ものの本によっては、余計なことをやるとエネルギーが過剰に歪むから、むしろ何もしないで思考をきれいにしておけばいい、という話もあります。「引き寄せの法則」は、僕は読んだことがないので詳しくはわからないですが、おそらくそのへんが難しいと言うか、ジャッジしにくいようになってるのではないでしょうか。それでいてのめり込みやすいし、信じ込みやすい内容になっているのではないかと思うんです。そのあたりはいかがですか?
ヤス そうですね、だからスピリチュアリズムというのは、まあ価値あるものもあると思いますが、あらゆるものがごった煮になってますね。ただ、それはスピリチュアリズム自体が悪いということ以上にですね、自分がどういうような動機でスピリチュアリズムを求めるか、ということです。自己逃避ということがひとつの欲望としてあった場合、それは何を読んだとしても、すべてが自己逃避の材料になるでしょう。
西塚 その場合、精神科医とか、セラピストとか、そういう人たちの役割はどうなりますか?
ヤス 僕はセラピストとか精神科医の役割は、この分野ではあまり助けにはならないと思います。セラピストにしろ精神科医にしろ、彼らは病気を発見するプロであって、何々症とかね、たとえばパニック障害であるとか、うつ病であるとか、いわゆる何かの病状を発見して、それを治療するプロであるわけですよ。本当に病気の人はスピリチュアリズムにいかないで、病院にいきますよ。両方にいく人もいるかもしれませんが。
ただ、日本でスピリチュアリズムに走る膨大な人たちは、それほどの病気ではないと思います。だからと言って問題を抱えてないかと言うと、こんなに問題を抱えてると。じゃあ、問題と向き合えているかと言うと、向き合えてない。向き合いたくもない。
西塚 その場合どうすればいいんですか、そういう人たちは?
ヤス やはり、それなりのワークショップやカウンセリングが必要でしょうね。
西塚 そうすると、カウンセラーとか、ワークショップを開く人なりが必要になってきますね。
ヤス だと思いますよ。アメリカでもヨーロッパでも、社会になかなか適応できない青少年がいますでしょ? 日本でもやってると思いますが、彼らをワークショップの中で自分の問題を見つけて認識させて、現実と向き合わせて、自分が見つけた問題を解決させる。そういうことができる人格に作り上げていくといったような、問題解決ワークショップがたくさんあるんですけど、むしろあっちのほうが有効かもしれません。
西塚 それである意味やりすぎちゃったのが、戸塚ヨットスクールだと思いますが、あの考え方はわかる気がします。父性を強めて徹底的にしごく。死亡事件もありますが、考え方としてはある。また一方で、山奥で原始共同体のような生活を営んでいる人たちがいて、そこにみんな逃げ込んでいく。共同体内での役割分担があるので、こなしていくうちに、いろいろと解決に向かっていく人もいるという。ある種の装置なんでしょうが、僕はイメージなんですけど、そうした一連のものにどうも釈然としないものがあるんです。
ヤス そういうワークショップは重要だと思います。現実と向き合えるような強い人格を作るということです。あと、ひとつ重要なのは人格のモデルです。強い人格とはどういうものなのか。
西塚 お手本ですね。
ヤス お手本。普通に自立した個で生きている人たちは、どういう人たちで、どういう生き方をしているのか。そのモデル化だと思いますね。
西塚 それは、どうやって表現すればいいと思われますか? 映画とかドラマとか、本とか。
ヤス いろんな表現があっていいと思います。抽象的な領域にいくのであれば、哲学的な言説や表現をとらねばならない。個とはこういうようなものだから、このような生き方をするのがベストなんだといったようなタイプの、理論的な定式化の表現があってしかるべきだし、もっと中間層のあたりでは、いわゆる個として生きるということが、どういう喜びをもたらすのかといったようなタイプの、表現領域があってもいいだろうし。
西塚 最終的にもっと形而下になれば、身体性が際立ってきて、ある人物、ヤスさんでもいいですが、そういう人に触れることによって感化されて、自分で考えながら向き合っていくということですよね。
ヤス そうです。
西塚 最終的にはそっちにいくのかなあと思うんです。まあ全部必要でしょうけど。
同調性バイアスを強要する日本
ヤス 特に日本人の場合、感情の同一性を求めるといった社会の中に生きてますから、そこから自立していくということですよ。一緒になって泣いたり笑ったりしてね、相手の気持ちの理解を極度に求めるというのは、これはね、脱出しなければならない思う。理解してほしかったら表現しろということです。きちんとね。表現もしないで、俺の気持ちをわからないのかと言ったところに留まっている限りは、我々の精神的な成長はないですよ。
西塚 幼児のままということでしょうか…子どもがそうですからね。アピールはするんですが、言葉がうまく使えないから、泣いてみせたり、暴れてみせたりするじゃないですか。そういう意味では、アピールするだけ子どものほうがマシかもしれません。いいかげん大人になったら言葉でのやり取りが必要でしょうし、それがなくて気持ちだけをわかってくれと言っても、恋愛でも上司と部下との関係でも何でも、これは幼稚になりますね。アメリカでは許されないんでしょうね、おそらく。そういうコミュニケーションの仕方というのは。
ヤス いや、許されないと言うか、わからない。俺の気持ちをわかれ!と言っても、ん?何?喋ってごらん。喋れない?じゃあ、わからないと。わかるわけないじゃないですか。
西塚 そうかそうか(笑)、単純ですね。
ヤス 単純です。
西塚 それはもう、バッシングを受けるんじゃなくて、本当にわからないんですね。
ヤス ただ、わからない。だから孤立しますよ。表現しないと。ワークショップにも関わってくるかもしれませんが、正しい自己表現ですね。どうやったら相手は自分をわかるのかという。
西塚 安倍さんなんかはどうなんでしょうか。ちょっと話が飛ぶようですが。あれは、わかってくれ!ということなのかな。
ヤス 彼なんかは、同調性バイアスのもとで育った子どもみたいな感じでしょうね。彼みたいなメンタリティーは比較的、今の日本人に一般的になりつつあるメンタリティーかなと思います。自分が作り上げた幻想の中に籠るわけです。
西塚 前回の『なんとなくクリスタル』の話も興味深かったですね。僕はあの本には否定的だったんですが、あれはあれでいいんだと。バブル的な意匠にくるまって生きるということはどういうことなのか、それをちゃんと描いて見せている。つまり、現実的に生きている生き様を表現してるということですね。なるほどと思いました。ヤスさんご自身も、そうありたいと思って生きてらっしゃるということですよね?
ヤス 何?『なんとなくクリスタル』? ブランドファッション着て、イエイ!って?(笑)
西塚 いえいえ(笑)、個人の表現として…
ヤス そうですね。僕の場合はサラリーマンをやった時期がちょっとしかないので、同調性バイアスのかかるような現場にもいなかったんですね。ただ、同調性バイアスのかかる現場にたまにいくと、ものすごく気持ち悪いわけですよ。
西塚 違和感というよりは、気持ち悪さ…
ヤス 違和感を通り越して、気持ち悪さですね。無理やり幼児にさせられるといったような。この具合悪さはたまらない…。長年ひとりで個人として生きていく気持ちよさを味わっているので、それをすべて放棄することを要求されて、自分の考え方を全部曲げて、自分がまったく納得しない考え方に対して感情的に同調していくというようなやり方。信じられないですね。
ただね、日本の経営者というのは、いい意味で個人主義的な人がすごく多いんですよ。全部ひとりでやってきている。そういう経営者の人たちと話してると、面白いことを言うんです。我々はサラリーマンの気持ちがわからない。本当にわからない。ほとんど社会のことに関して興味を持たないし、猫の額ほどのちっちゃい関心事で生きている。常識という枠を超えた発想をしようともしない。ちっちゃな仲間うちのサークルの中で生きてる。それは信じられないと。そういうことを言ってましたけどね(笑)。
西塚 なるほど。まあ、安心感なんでしょうけどね。夫婦の話で言えば、だいたいの奥さんたちがそうなんじゃないですか? 専業主婦とかは、家庭を守ってさえいれば安全で安心だということですね。それはいい悪いじゃなくて、タイプなんでしょうね。
ヤス 安心感を求めてひとつの会社に勤めて、ずっとサラリーマンをやっていくという生き方は、それはそれで尊敬すべき生き方だと思います。どの国でも、そうした生き方のほうが一般的なわけですしね。それは否定するべきものではない。ただ問題は、それと個を捨てるということは違うということなんですよ。日本の場合、特に大きいのは、仲間うちの集団になってくると、個を捨てることを要求されるんですね。集団とともに感情を同調させることが要求されるんです。
西塚 家庭の主婦だろうが何だろうが、個を持ってる人はいますからね。
ヤス います。たとえば海外。海外を理想化するわけじゃないですが、欧米の社会で勤めてる場合、そこでお友だちができた、仲間ができた、仲間うちの集団ができた、そこでね、個を抑制しませんよ。逆にひとりひとりの個の存在のユニークさを見て、楽しむんですね。コミュニケーションして喜ぶ。
たとえばね、小学生の集団があるでしょ? 小学生の低学年の集団。あそこは、どちらかというと本当にフラットな共同体で、あいつは野球がうまい、あいつは剣玉がうまいとか、それぞれの特技によって個性が明らかになってるという感じなんですね。たまにお山の大将みたいのがいて、俺の言うことを聞け、というイジメっ子もいるかもしれないけども、だいたいはひとりひとりが感情に対して敏感に同調してね、自分の個を捨てるなんてことはないですよ。むしろ、前のアメリカのドラマに出てきてるようなアメリカ人の共同体というのは、小学校の低学年の共同体に近いですよ。
西塚 近いんです。そこがわりと僕は好きなんです。
ヤス 気持ちいいですよ、ああいうところにいると。ただ大変です。朝から晩まで一緒にいるし、朝から晩まで電話がかかってくるしね。今日はどこそこでみんなで飲んでるからこいよ、と言うから、うん、いくと。オレも共同体の仲間に入ったかと思って、いく。次の日も電話がある。次の日もいく。次の日も電話がある。
西塚 個人的には無理だなあ。それこそ個性を発揮して、今日はいきたくない、ひとりにさせてくれと(笑)。
ヤス ああ、いいんですよ、それ言っても。それを言いすぎると、電話がかかってこなくなる(笑)。
西塚 それもちょっと寂しいですね(笑)。なるほど。それは微妙なさじ加減というか、つき合い方があるわけですね。
ヤス つき合い方があります。だからガッチリ入ると、いやあ大変ですよ。
西塚 ヤスさんはどうですか、そのへん。抵抗がないほうですか?
ヤス いや、抵抗ある。だって体力が続かないもん。毎日一緒にいて、毎日一緒に酒飲んで、毎日一緒なんですよ? そして日常生活のちっちゃいことまで全部報告し合う。でも当然、100%受け入れられますけどね。感情的に同調するという強制感も全然ないし。
西塚 それは白人ですか?
ヤス 白人ですよ。
西塚 すごいな。じゃ、けっこうベタベタですね。
ヤス ベタベタですよ! アメリカ人は。
西塚 それは何なんでしょう。そうやって知っておかないと不安だとか、何を考えてるのかわからないのが怖いとか…
ヤス 怖さが背景にあるというわけじゃなくて、それがもう人間関係のひとつのスタイルになってしまっているということだと思います。ただ、どの階層の人とつき合うかによる。階層社会だから。中産階級以下の場合は、特にベタベタ感が強いですね。
西塚 知的なレベルや年収が高い人たちになると、違う意味の個人主義になる…
ヤス そうだと思います。あまり共同体でつるまないって感じはしますね。僕の英語の生徒さんで、外資系の社員が多いですが、前にひとりいましたね。昼飯になると逃げるんですよ、会社で。要するに、見つかると仲間のグループに入れられて、昼飯を食べさせられるから。昼飯にいくと、今晩どこにいく?って話になって、晩飯も一緒に食べさせられると。晩飯も一緒に食べにいくと、今週末はどこかに遊びにいこうって話になって、それにも引っ張り込まれる(笑)。あれはたまったもんじゃないと言って、逃げ回ってる人がいましたけどね(笑)。
西塚 嫌がっている人もいるんですね。
ヤス いや、感情的に嫌だというより、体力が続かないということなんですね、我々。
西塚 それはたしかに体力が続きませんね。みんなよくやってますね、逆に。好きなのかなあ。
ヤス 好きなんですよ。だから、悪い意味で言えば、日本のほうがはるかに個人主義的です。社会生活の中では同調性バイアスを求められる。そのために相手の感情にとことん敏感になることを求める。そういう社会生活は疲れる。だから、家がある意味で避難所になる。感情的に同調性を共有するようなストレスの高い場所からの避難場所になるわけです。そうすると、家にはいっさい人をいれないという状態になります。家では近所づき合いどころか、すべての人間とのつき合いを断ちたい。それが普通の状態になるということだと思います。
コミットメントを持たない人間関係
西塚 そうすると、スピリチュアル的に共同体で生活している人たちというのは、それはそれで好きだということですかね。絶えず他人がいることは構わないし…
ヤス 詳しいことはわからないけども、スピリチュアルな共同体で生活してる人たちというのは、普通の社会生活ができない人たちが中心かなという感じがしますね。たとえば、普通に社会生活やってサラリーマンやってOLやって、家に帰ってきてから、じゃあスピリチュアルな共同体だという人はあまりいないんじゃないか。おそらくね。
西塚 ああ、なるほど。僕が知る範囲で言うと、夫婦、家族がいるんだけども、何かで壊れて、あるいは嫌で逃げる。でも、ひとりでいると寂しい。人と触れていたいから、そういうスピリチュアル的なところにいく。ある種、理想のコミュニケーションの仕方というのを持っていて、ここだったら私の気持ちをわかってくれるかもしれない、という話ですよね。
そうなると、さきほどヤスさんがおっしゃった、俺のことをわかってくれよという気持ちが、その場所だとうまく伝わってるという錯覚を起こすのか、実際に本当に伝わってるのか、そのへんが僕にはわからないんですね。人とは接したいんだけども、いざ現実問題で恋人、あるいは実際に結婚した相手でも上司でも、とにかく合わない。全然、自分のことをわかってくれない。でも、そっちにいくとみんなわかってくれる。仲間なんだと。いきなりそうなるわけですよ。
それは精神構造的にどういうことなのか。宗教だったら、ひとつの神様なりを拝むことによって結ばれているんでしょうけど。
ヤス 夫婦にしろ、恋人関係にしろ、何かのコミットメントを要求するわけですね。コミットメントを要求するということは、相手に対する責任を個人として負うということですよ。相手からもいろんなことを要求されるわけだし。その責任を負いたくないんです。
西塚 ああ、そういうことか…
ヤス そういう責任は負いたくない。それでも人間関係だけは欲しい。それじゃ、どういう関係になるかと言うと、コミットメントしない人間関係になってくるわけです。大勢の人たちとそれなりに浅く広く人間関係を持てる。それができるような現場、場所に必要であるときだけいく、という感じじゃないでしょうか。
宗教云々の話は別にして、もし西塚さんがおっしゃったような人たちがいるとしたら、おそらくコミットメントを持つ必要性がないような人間関係ですね。自分が人間関係を必要とするときにだけいく、というような人たちが集まりやすい現場じゃないかなと思います。
また、それは宗教には直結しないと思います。あくまで、宗教にあるのは超越性。超越的な視点から自分を俯瞰して相対化するということです。その結果として、そのような教団になったということはあり得るかもしれない。でも、教団の見かけの姿から、その精神的な内実を想像することは難しいと思います。
西塚 宗教じゃなくても、ある研究グループでもいいんですが、何となく同じような匂いを感じるんですね。そのへんは何なんだろうなと、最近考えるんですが…
ヤス コミットメントを深く持ちたくないということが前提にあると思います。どういうことかと言うと、特に日本人がコミットメントを深く持つということには、相手の感情に対して同調するということも十分含意されてると思うんです。それはすごく重荷に感じるだろうと思う。
西塚 宗教でも研究グループでも、それはそこにいれば何事かにコミットメントを持つということですよね。神だったり、その研究グループのルールとか。コミットメントを持つ対象が違うということなんでしょうか?
ヤス そのコミットメントの意味合いが…ちょっと語弊があったかもしれないけど、要するに責任をとると。
西塚 僕が言うコミットメントは、責任がともなう約束事といったような認識なんですが…
ヤス そうです。まさにその責任。個人としての責任をともなうような環境なのかどうか、ということだと思いますね。
西塚 宗教団体でも研究グループでも、それなりの責任を負わされたりするんじゃないでしょうか…
ヤス どういう研究グループかちょっとわかりませんが、勉強会的なものであるならば、お互いに関心を持っているような同好の士たちが集まってね、研究したり、勉強したりする。そうしたサークル的なものというのは、そんなに相手に対してのコミットメントは高いものではないですよ。結婚とか家族なんていうレベルから見るとね(笑)。
西塚 そうかそうか。
ヤス たとえば、宗教教団に入ったとすると。このようなルールに従って祈ってください、行動してください、実践してください、ということがあったとしてもね、ルールに従うかどうかというのは、ある意味で自分の自由にまかされてる部分でもありますね。それをやらないから、じゃあ、お前は責任をとれなんてことは言われないわけですよ。宗教教団に対して何かの義務を負うかと言うと、あまり負わないわけです。
宗教教団が言うのは、そのような祈り方と実践をすることによって、第一に我々が提示する超越的な視点が確保されますよと。第二にその超越的な視点から、あなた自身を俯瞰することができますよと。第三に俯瞰することができるので、今のあなたの悩み多い自分自身を、相対化することができますよと。その三点セットは必ず含められていると思うんです。それをやるかやらないかは自己責任の問題で、やらなかったからお前責任とれよということにはならないと思うんですね(笑)。
ただ、それと夫婦関係とか恋人関係を考えるとね、たとえば家族を持つ場合、これは家族に対しての個人としての責任ですよ。父親および夫という立場を持つわけですから。自分に与えられた立場としての非常に大きな責任を持つことになる。逃れられないようなタイプの責任を持つわけです。恋人関係になった。たとえば肉体関係を持ったと。持ったら、女性のほうからその責任を問われるわけですよ(笑)。
そういう責任は極力問わないような人間関係を求めたいということであれば、はるかに柔らかい、ゆるやかな人間関係ですね。自分が寂しくなったら入りたいときに入れる。言ってみれば、コンビニ的な人間関係ですね。コンビニ的な共同体、コンビニ的な物。たとえばSNSなんてそうですよね。そこでつながってる人たちは何者か、実は見えないわけだし。社会的な責任がともなうわけでもないと。
西塚 ゆるやかなつながりですね。リアルなもの、現実的なものからの逃避の装置でもありますからね。SNSをきっかけにして、実際に逢って楽しむという場合もあるんでしょうが。
「個」「超越性」「法則」
ヤス 日本のみならず、世界的に大きな問題だと思うのは、「個」の処分の仕方と言うか、これから「個」をどうしたらいいかということです。たとえば、全体主義社会の方向に吸い上げて、個を消滅させていくというわけにはいかない。または宗教的なイデオロギーによって、極めて強固な超越的な視点を打ち立てて、その超越的な視点に向けてね、個を完璧に吸収させて失くしてしまうというわけにもいかない。だからと言って、個といったものを欲望の主体として野放しにしておいていいかと言うと、そういうわけにもいかない。
個というものを、我々はどのうように処理していけばいいのか? どのようなところに落ち着かせればいいいのか? この問題はごく大きな問題です。
西塚 ヤスさんはどう思われますか?
ヤス 個というのは比較的最近の現象だと思うんです。たとえば18世紀の啓蒙主義的な思想、フランス革命前後の思想から、やはり個といったものがどんどん自覚化されて出てきたと思うんですね。カントもそうですが、いわゆる個を中心とした哲学、自我の哲学みたいなものが出てくるわけです。自我哲学のいきついたところは何か。ひと言で言えば、個にまかせておいて大丈夫なんだ、という考え方ですね。
個にまかせておいても、社会は合理性を持ったバランスのいいものになるんだと。それは経済学でもそうで、アダム・スミスの「神の見えざる手」がありますね。その「見えざる手」がもたらすものの主体になっているもの。それは何かと言うと個ですよ。自分の欲望のまま行動している個ですね。
個は限られた手段で最大限の欲望を充足しようとする。そのためには、自分の持ってるものを交換して最大限の価値を得ようとする。それから交換行為が始まる。最大限の欲望を持つような個を主体として定めて、そうした個が相互に行なう、いわゆる交換行為によって市場ができ上がり、その結果需要と供給のバランスが生まれるんだということです。だから社会は、とにかくすべて個にまかせておけば大丈夫なんだよと。そういうふうな考え方だったと思います。
それが果たしてそうなのかと言うと、全然そうではない。たとえば今の市場原理。アダム・スミス流の市場の原理は、国家が介入しない世界です。純粋な市場原理をどんどん追い求めるとどうなるか。すさまじい格差社会になるわけですよ。手がつけられないような格差社会の中で、社会そのものの維持が不可能になってくる。だったならば、そこに個を超えた何かの超越的な実体が必要になってくると。それは国家なり、宗教教団なり、個を超えた何かで、社会全体のバランサーとして必要になってくる。
それは、個の自由を深く信じる人間にとってはとんでもないということになるんですが、別に言うと、ああいう個を超えたものに託していかない限りは、社会のバランスは保てないのではないかともはっきり自覚化されるし、実際にそういう側面がある。しかしながら、その個を超えた存在に託したままでいいのか。放っておくとそれがまた暴走して、さらにとんでもないことになるぞと。どこかの部分で個を介入させねばならない、となってくる。
西塚 そこで僕は個人的に思うのですが、法則、自然の法則ですね。この世はやはり因果であって、原因があって結果がある。細かい原因と結果の鎖から成り立っている世界だと思います。そういうものを含めた大きな法則、掟、流れ、呼び方はいろいろあっていいですが、ビリー・マイヤーやヴァジム・ゼランドが言うように、やはりそういうところにたどり着いていくだろうという気がします。それは神ではないですね。人間的なところから敷衍させた、ある種のメタフォアとしての人格を持ったような神ではなく、やはり法則としか言いようがないものです。
ヤス 万人が納得できるような客観性を備えた法則であれば一番いいんですよ。科学でも実証できるし、我々の感性的なレベルから見ても、まさにそうだと合点がいく。そういった超越のまた超越といった法則ですよね。
西塚 それは何か?ということですが、けっこう今、絞られてきてるようにも思うんです。ひょっとしたらもっと遡って、聖書にも見られるかもしれないようなものであって、第一原理に近いものではないかという気が僕はするんですね。それを炙り出したり、日々の日常の中から引っ張り出して、統合して、理論化して、論理的に提示していくという作業が、相当重要になると思います。それがほとんど、スピリチュアリズムの書籍を見てもない気がするんです。言い方を変えれば、ある一面でしかなかったりする。
もっと大きな第一原理みたいなものについてもヤスさんにお聞きしたいし、こういう話の中でも浮き出てくるかもしれないと思っているんですが…
ヤス ただしね、第一原理を言語化した段階でね、やはりそれは言語の概念の世界になるんです。
西塚 そこなんです。
ヤス 言語の概念の世界になった段階で、第一原理のいわゆる原理性が失われる可能性がありますよね。限定ということですから。それだけではなくてですね、「絶対善」と「絶対善」の争いに入ってくる可能性もあるわけですよ。私が定義したのが第一原理だ、いやいや私の定義したのが第一原理だと。
西塚 そうですね。そこは、ヤスさんがおっしゃったような、おそらく身体感覚と密接に関わってくるんだと思います。言語化して、それを読めばいいというものではなくて、頭で読んで、体で感じて、日々の行動の中に溶かし込んで、そこでも認識できる、感得・体得できるような何かだと思うんです。だから武道なども重要なファクターになってくると思うのですが…僕はもちろん全然わからないですが、おそらくそういうものだろうなと。ただ、静的なものではなく動的なもの、ダイナミズムのようなものかと思っています。
ヤス またね、けっこう科学やテクノロジーの進展が、ある程度のキーになるかなあと思いますね。
西塚 それは僕も感じますね。
ヤス 9月23日にCERNで、超高速加速器ですね、素粒子の実験をやりますね。時間を逆行する中性子のようなものが見つかってるわけですよ。おそらくそういう微小な世界からですね、ある意味で「宇宙の見えざる法則性」というのが出てくるかもしれません。第一原理と呼んでもいいものが、必ず何かの形を持って出てくると思うんですね。
西塚 歴史を見てもそうですからね。いろいろな法則のいろいろな面が出てきています。
ヤス あるひとつの科学の領域が出てきてね、他の領域も同時に発見される。そうなったときに、やはり疑い得ないようなひとつの法則性というか、傾向として、宇宙の中に何かがあるといったようなタイプの発見が出てくる可能性はありますね。
西塚 そうしたものが、人間の感性を規定していくということもあります。影響を受けますからね。考え方、思想も含めて、ガラッと変わる可能性があります。
ヤス 抽象的な言葉になりますが、「認識論的な切断」と言いましてね、ある意味で今までの認識が全部切断されて、別な認識といったものが突如として生まれる。
西塚 そう思います。コンピューターで言えば、書き換えられちゃう。
ヤス デカルトのコギトの果たした役割と同じようなものですね。世界観が大もとのところで転換する。それに合わせて人間の意識も変わるかもしれない。我々というのは、まさにその流れの中に生きてると思います。
西塚 ヤスさんはそのあたり、見えてるんだと思います。
ヤス 見えてはいないですが、感じるものはあります。
西塚 これからこのミーティングでも、どんどん出していきたいなと思いますが、僕もどこまで話していいか、わからないところがあって…
ヤス いえいえ、いいですよ、規制は全然ないので。
西塚 すみません、今日はちょっと漫然としちゃいました…
ヤス いえいえ、(西塚が)二日酔いだからしょうがないですよ(笑)
西塚 今日はありがとうございました。
ヤス ありがとうございます。どうもどうも。
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