だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

善-悪 2

前の前のブログで善悪についてゴタクを並べて、また続きを書きますとか言っておきながら忘れるところだった。

前回のブログでもまた続きを書きますとかほざいてるから、何も気づかないでそのまま生きていたら、延々と続きが先延ばしと言うか、忘れてしまって何もなかったことになっただろう。きっと以前の FC2 のブログのときも同じようなことをやってたな。と想像はできるが、今さらしょうがない。

善悪だった。

いや別に大そうなことを言いたいのではなく、実はあのとき何を言いたかったのか忘れてるのだが、同じ人間が書くんだからたぶんこんなようなことだ。

善悪は観念的なことだということで、どちらが善でどちらが悪かという話はあまり意味がない。状況や条件でいくらでも変わってしまうからだ。こないだはロシアかなんかの映画の話をしたと思うが、あそこでミソなのは、光(善)で闇(悪)を照らすより、闇(悪)で光(善)を覆うほうが楽だという箇所だ。

当然、どうして?と思う人もいるはずで、闇を光で照らすほうが楽だ、という考えもあろうかと思う。スピ系でもよく言われるように、闇の中で光を灯したり作り出すことはできるが、光の中では闇は作れない。何かの影としてしか闇は存在しない。だから、大もとは光なのだというわけだ。

ここで言う光と闇は、見える見えないということだろう。光は明るいから、そこにあるものが見える。光は何も見えない闇を照らして、そこにあるものを見えるようにする、くらいのニュアンスだと思う。

一方、闇は暗く、ものが見えない。すべてが見えている光の世界を暗くして、何も見えなくするわけだ。

これは視覚と言うか、目で見る話だろうか? 盲目の人は外の世界は見えないが、心あるいは脳でもいいが、そこに映るビジョンはどうなのだろう。夢は? 外界の景色は見えないとしても、何かしらのビジョンを見ているとすれば、そのときの光とは何だろう。

ものが見える、見えないということは、光だ闇だということとは別に、ものが見えるという形式で認識できるということだ。何かしらそういう認識ができるシステムなり作用があるということである。ものが見えない場合は、そういうシステムなり作用がないか、機能不全になっているか、もしくは、ものが見えないというシステムなり作用が別にあるということだ。

そう言えば、ものが見えるということは不思議らしい。そもそも何で目なるものが、要するに視覚ができたかわからないという話がある。これは何で鳥に翼があるのかにも近い話だが、もっと不思議なことだ。

何で目ができたか。ものを見たかったからだという答えがある。いや、冗談じゃなく。私なりに言い換えれば、ものが見えるということを、あるいはものを見るということを欲した結果、こういう目ができた。この先、また違う形を欲すれば、今はそれがどういう形かわからなくても、何かができあがる。

それでまた思い出したが、イカの目ってなんであるかわからないらしい。たしか中沢新一がそんなことを何かに書いていた。要するに、視神経が脳に連絡していない。脳だったかな? 脳がないから、そもそも視覚があってもしょうがないとう話だったかもしれない。よく覚えてないが、今度調べておきます。

それで、じゃあ何で目があるのかと言ったときに、それは地球の目だって言うのね。地球が、イカの目を通して見ているのだと。

そもそも、なんで手ができて足ができて、翼ができたり、目ができたりするのか。これは生物みんなにあるわけじゃないからね。要するに、あれもこれもが何でできたのか? それは、コミュニケーションするためだと。

中沢新一はたしか、何で人は生まれてきたのかとか何とかの話で、それはコミュニケーションするためだと言ったような気がするが、同じことだ。コミュニケーションったって、人とは限らない。世界と言ってもいい。

しかし世界は初めからあって、そこにコミュニケートしたいから、手や足や翼や目を作ったのかと言えば、それはわからない。ひょっとしたら世界も同時に作ったのかもしれないという話だ。と私は思うわけだ。

さっき言ったように、光も闇も認識のある種の形式だとすれば、まずは、光や闇を欲したわけだね。最初に。つまり、善や悪を欲したわけだ。

また長くなった。また続きを書きます。ほんとに。

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