こないだの続きだが、光も闇も認識の形式だとすれば、先の話の流れから言えば、まず光や闇を欲したと。つまり善や悪を欲したということだ。
この善と悪という概念がくせものだ。でも、光は善で、闇が悪と、何となく象徴っぽく一般的になっている。でも当たり前だが、その境目はない。
完璧な三角形がないように、ない。だってあの角はどんなに精緻に描いても最終的には角じゃない。顕微鏡で見れば鉛筆の成分の分子だったり、何かの鉱物の結晶だったりする。だから現実の世界にはないものだ。三角形はある。でも、完璧な三角形はない。
これは物が落下しても地面には永遠に落ちないという理屈と同じだ。誰かがコロッケを落す。地面に向って落下していく。コロッケが手から離れてから、まず手と地面の間の半分の距離を落下する。さらに半分の距離を落下する。さらに半分、さらに半分…永遠に地面にはつかない。でも、コロッケは地面に落ちるから、拾って食べる。
要するに抽象的なわけだ。観念的と言ってもいい。善も悪もそういうものだと思う。光も闇も善悪のただの象徴だから、光や闇それ自体はよくも悪くもない。
また、光と闇の境い目もよくわからない。と言うか、あいまいだ。グレーゾーンとかとも言う。グレーゾーンはまた別の比喩に使われるから、ややこしいが、とにかく光と闇のクリアな境界はないだろう。
あえて言えば、光と闇の生成の現場があるだけだ。そこからどちらかの方向へ行けば光だらけになり、またどちらかの方向へ行けば濃い闇ばかりになるという、そういう領域があるだけだろうと思う。
善悪もあえて言えば、どちらかの方向に行けば、まあみんながそれは善でいいよねと認めるというような、いわゆる善になり、反対が悪だ。だから同じように、善悪の境界はあいまいで、言ってみれば、善悪の生成の現場があるわけだ。
われわれは、このどちらともつかない生成の現場を生きている。少なくともそういう自覚なり認識が必要だと思う。
善悪は概念だから、本来は実体はないが、それは良い言動だとか、それは悪い言動だということはある。と言うか、それくらいはないと社会はぎこちなくなる。でも、上司が部下のミスを注意するにしても、そのミスの規模や注意の仕方によっては、将来性のある育成だったり、ただのパワハラだったり、実は上司の個人的な鬱積をはらす口実であったりする。
注意やいやがらせや罵倒くらいならまだいいが、善を口実にした排除、暴力、殺人になればシャレにならない。ラスコリニコフがどんなに理屈をつけても殺人は殺人だ。しかし、善悪とはまた違う話にしたほうがいいと思う。
何だか、なりゆきとは言え、重い話になってきた気がするが、仕方がない。
殺人となると、かつて、どうして人を殺してはいけないのか、とか何とか、そういった議論があったように思うが、あれはどこかに落ち着いたのだろうか。結論と言うか着地点があったのかな? 私はよくわからないが、まあネットで検索すれば何かしら出てくるのだろう。
個人的にはあの問いは厳しいと思う。
殺人はどうしていけないのか、つまり殺人はなぜ悪か?という問いだろう。これはさっきも言ったように、善悪は抽象的な概念なので、条件しだいであっちゃこっちゃ変わるような代物なのだ。
悪の定義が観念的にならざるを得ない以上、この問いに対する答えも観念的になり、不毛な思考と言うと語弊があるかもしれないが、どうもそういう袋小路に入る気がする。
むしろ先の問いは、人は人を殺すことがある、それはなぜか? のほうがまだマシな気がする。と言うか、役に立つように思うがいかがだろうか。
人は殺人を犯すのである。少なくとも、今までを顧みればそうだ。戦争、いじめ、ケンカ、快楽殺人、怨恨、正当防衛、はずみ、などなど、人はさまざまな要因によって人を殺める。その要因に関しては、われわれは膨大なサンプルと言うか、実例を持っている。
どうして戦争になったのか? 何でいじめるの? ケンカの原因って? 人を殺すとどうして気持いいのか? 愉快なのか? そんなことを議論したり意見を出し合ったりしたほうが、まだマシだと思うが甘いだろうか?
少なくとも、だから殺すしかないんだ!、にいく前の時間稼ぎにはなる。
仮に、もろもろの殺人の原因が毎度毎度同じなら、たとえば戦争とか怨恨とか、殺人の原因が本当にいつも同じなら、その原因に対して何か手立てをしなきゃいかんだろう。普通は。
もちろんそこには、人を殺すことはよくないことだという、おそらく大多数が共有しているであろう考え、感覚があることは前提になっている。でも、殺人はどうして悪なのかといった哲学的な命題っぽいものではない。それは、何でコロッケは地面に落ちないのか?に近いからだ。でも落ちるわけで、落ちたら拾って食べるか捨てるしかない。
それだったらコロッケが落ちた原因を考えて、なるべく落ちないようにしたほうがいいと思うわけだ。あ、紙袋の底に穴が開いてたのね!となれば、肉屋のおばちゃんに、おたくの袋の底に穴が開いてるよと言えば済むし、熱いので思わず手から落としたのなら、熱いですよーとおばちゃんがあらかじめ教えてあげるか、友人が、恋人でもいいが、それってたぶん熱いから気をつけたほうがいいと思う、と言えばいいのだ。
そうすれば、コロッケ落下率はかなり下がるのではないだろうか。でも、殺人はおそらくそんなに単純じゃないだろうし、茶化してるのか、お前は!と怒られそうでもあるが、私はいたって真面目に言っている。
殺人もしくは、それに準ずると言うと少し違うかもしれないが、少なくとも楽しくも愉快でもない言動に関しては、いろいろそこにいたる心理作用もありそうだし、不可抗力もあるかもしれない。
だからこそ、みんなで深く考えなければいけないと思うが、そのときにどういう思考をもって考えるのか。どういうものを参照すればいいのか。
取りあえずは、誰かの頭の中で誰かが突如その処方箋を語り出した、といったようなものをのぞくとして(インスピレーションはこの限りではない)、やはり人間が紡ぎ出してきたもの、歴史や文化、文献や言動の中から、いろいろ探り出して、みんなで、少なくともふたり以上で話し合うしかないと思う。
また、長くなった。
終わるのかな…
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