ヤスさんとの『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』のアップが遅れている。
すでに終わっている1月3日ぶん、10日はヤスさんたちとの慰安旅行があったから中止で、
17日ぶん、24日ぶんが整理できてない。そして昨日の31日ぶんも無事終了している。
昨日のぶんはともかく、3日、17日、24日のものは早急にアップしなくては、
時事問題的にも意味が薄れる。またもや私の怠慢というか、処理能力の遅さだ。
今週中には何とか24日ぶんまでは連続でアップするようにしよう。
来週の8日には、『五目通信 Fifth Dimension Media』創刊1号を発行する予定。
概要はまた今週中に掲載します。
しかし最近、テレビのバラエティ番組を観て思うが、ある種社会の縮図というか、
自然にそうなったんだろうけど、社会的な“枠”みたいなものが、
お笑いの世界なのかテレビ局なのかどうかわからないが、形成されているようである。
いわゆるお笑いは昔から好きだったからそれなりに観てきてるが、
『ザ・マンザイ』だっけ? あれくらいからあまり観なくなった。
漫才が嫌いなわけではなく、小学生のときはてんやわんやが好きだったくらいで、
基本的にしゃべくりがおもしろいものはみんな好きだ。
年齢とか仕事とか、そういう理由で遠ざかったのだと思う。
それでもツービートとかB&Bとか、紳助たちなんかは、
ちょっと突出していたと記憶している。
今のお笑い番組は、さんまとかたけしとか、あるいはその下の連中がMCで、
いや、たけしは今はあまりMCはやらないのか。お飾りみたいになってるのかな?
まあ、とにかく、若手や新人の芸人に何かをやらせたり、
ネタ振ってしゃべらせたりして、ワイワイやってるだけなんだね、あれ。
以前はMCはいても、各芸人が出てきて独自のネタを競ったりして、
もっと熱があったというか、過激だったんじゃないか。
こっちが歳とってたそがれてるだけなのか。このあたりは自信がない。
でも、どうもMC?がいて、MCの意向に沿ったというか、
ある制限の中でみんなが騒いでるだけといった印象がある。
それでも、言いたいことを言い合っているというわけでもなく、
たとえばベッキーの話にしても、今はもうみんながコメントしてるようだが、
ちょっと前は腫れ物にさわるように誰もが口を閉ざしていて、
テレビ番組の中にある種異様な雰囲気が漂っていた。
あれは何なのだ。
週刊誌やスポーツ紙ではあれだけガンガン報道してるのに、
テレビではまるで葬式のような感じで、葬式と言えばSMAPの生謝罪もひどかったが、
SMAPはまだよくて、ベッキーに関してはどこか異常だった。
スポンサーなり局側から出演者に対して何かしらの指示があったのか、
なかったのか。なかったとしたら、自主規制にしても、
何を規制してるのかがまったくわからない。
ただのよくある不倫の話ではないのか?
ちょっとずれるが、週刊誌の威力というか影響はまだ健在だったということになる。
『週刊文春』はこれでベッキーと甘利大臣を吹っ飛ばしたわけで、
一タレントと一閣僚では比較にならないと言われるかもしれないが、
知名度とか経済効果で言えば、どちらが上だか下だかわからないと言えばわからない。
ともかくそういった意味で、今のお笑い番組では、
局側の意向なり何なりを汲んだ、ちょっとは事情のわかったベテランのMCがいて、
まったく事情がわからないというか、配慮ができないKYなヤツとか、
暴走しそうで危ないヤツとかを無難に捌いていく、
というパターンが主流なのかもしれない。
さんまとか有吉とか、くりぃむしちゅーの何とかとかね。
たけしとか、ダウンタウンの松本あたりは、まだ過激というか、
自分の意見を言っている印象があるが、それでも枠内だろうと思う。
SMAPの例の生謝罪にしても、
紙媒体では“公開処刑”云々といった物騒な見出しもついていたようだが、
どれもこれも、世の中の組織のトップらへんにいる連中の、
グロテスクなまでに肥大化した自我がもたらしている害悪が原因である。
会社員なら、経営陣や上司に逆らえば、減給、リストラなど、
どんな報復をされるかわからないから、この時世、唯々諾々と従うしかない。
本当はケツまくって会社を辞めたくても、もろもろの事情でそうもいかない。
そこにつけ込むのがいわゆる上の連中で、意識的か無意識かはともかく、
高圧的な物言いになり、部下のやる気をそぐばかりか、
ヘタをすれば自分の普段のうっぷんをはらすという、
ちょっと信じられないような輩も出現しはじめる(そういう話を最近よく聞く)。
これで会社が業績を伸ばせるはずはない。
滅びるしかない。
とは言え、企業側にしても、特に大企業は自由化の名のもとに、
減税も含め優遇を受け、と言うか大企業が政治家を取り込んでいるから、
ますます社会システムは大企業に有利に編み直されていくし、
結果、ますます格差は開くし、ドロップアウトしたくない社員は、
ますます唯々諾々として会社に縛られていくしかない。
自由競争の結果、勝ち組負け組ができて超格差ができあがれば、
どんな業界でも強権を振るう組織が誕生してくる。
そしてその組織には基本的に誰も逆らえない構造ができあがる。
これだけは断言できるが、そうした構造はいずれ壊れる。
問題は、と言うか個人的に望むことは、壊れるのは間違いないが、
おもしろく壊れてほしいということだ。
深刻なことにならず、ああ、やっぱり壊れたよね、くらいのことであってほしい。
この世の終わりのように感じて絶望したり、あるいはあろうことか、
また同じようなシステムを拵えて、同じことを繰り返そうとしたりするのではなく、
最新のモードとして何かおもしろい構造を生み出そうとする意識が、
あちこちにできあがってほしいと思う。
だからこそ、本来はいかにもしかつめらしいことを換骨奪胎させるというか、
茶化すというか、脱力させるといった力があるはずの“お笑い”のようなものまでが、
猛然と形成されている冷酷なヒエラルキーに巻き込まれているのかしらと思って、
ちょっとびっくりしたわけだ。
以前からそうなのか、最近そうなったのかは私にはわからないが。
そうしたヒエラルキーから抜けるのは超簡単である。
抜ければいいだけだ。
そして、またおもしろおかしいことをみんなで始めておもしろおかしがればいいわけで、
これまでのあらゆる権威、社長の権威、上司の権威、アカデミズムの権威、
夫の権威、(小声で)妻の権威、天才の権威、常識の権威などなど、
そうしたものから自由になって、
車座になってもう一度みんなでああだこうだと話し合って考え直せばいい。
やっぱりこれはいいものだよね、というものがあれば残せばいいだけである。
世界が本当におかしくなる前に、おもしろおかしくやり直せることはまだまだある。
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