三日月は 痩せるはずだよ ありゃやみあがり…
ちとんしゃん♪ とくらあ
風邪から復活して、再スタートだ。
こういうこともあるから、日付けを切って告知するもんじゃない。
日付けを切るなら、何が何でも守らねばみっともない。
いや、『酔っぱらいオヤジの Spiritual Meeting 』、内部では “おやすぴ” と呼んでますが、そのことです。あと『五目通信』の創刊 1 号の件。
2 月 8 日に配信する予定だったのだが、遅れている。
8 日にしたのは 0 号が 1 月 8 日だったからだ。
マンスリーレポートなので、日付を合わせたんですね。
でも、風邪その他、遅れてしまっている。
内容は、高島康司氏翻訳による 2015 年 12 月発表の『 Web Bot 』、
スティーブン・グリアの爆弾告白、それぞれめちゃくちゃ興味深い内容だが、
概要はおそらく『五目通信』1 号の配信日と同時にサイトに掲載することになりそうだ。
また、“現実創造” に関する方法論、いわゆる “引き寄せなんたら” 的なものの間違いなども考察する。
*
たまった新聞を斜め読みしてたら、ナヌ???と、とんでもなく驚いた。
文芸評論家のドナルド・キーンのエッセイふうの記事だが、
宮本亜門が三島由紀夫の戯曲『ライ王のテラス』(ライの漢字は今ないんだね。
ワードにもインプットされてないらしい。初めて知った)をやるらしく、
三島について教えてくれと訪ねてきたとのこと。
それでつれづれなるままに話したらしいのだが、その中にこんなエピソードがあった。
1970 年の 8 月に、キーンさんは三島と伊豆にいき、知人も合流して昼飯を食いにいった。
和食割烹で、三島は中トロばかりを食い、伊勢エビを 5 人前注文した。
それでも足りなくてさらに 2 人前追加した。
何かヘンだと思ったキーンさんは、三島に何か悩みでもあるなら聞くぞと言った。
そういう関係を激しく三島が嫌うことは知っていたが、キーンさんはあえて言った。
何かただならぬものを感じたのだろう。
でも、三島は顔をそらしして何も語らなかったという。
翌日、三島が来て、キーンさんに『豊饒の海』の最終章の原稿を渡し、
お読みになりませんか?と言った。
キーンさんは前の章をまだ読んでなかったので断った。
ここがポイントだ。1970 年の 8 月のことなのだ。
三島が自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹したのは 1970 年の 11 月 25 日だ。
その日は、遺作『豊饒の海』4 部作の最終章『天人五衰』の原稿を書き終えて、
市ヶ谷に向かったとされている。実際、原稿用紙にも 11 月 25 日と書かれている。
キーンさんは、おそらく三島の最後の演出だったのではないかと言う。
また、そのとき渡された原稿を読んでいたら、何かが変わったのだろうかとも。
いやあ、個人的には引っくり返るくらいに驚いた。
これはみんな知ってることなのか。私が無知なのか。
もちろん、最後まで推敲に推敲を重ねた可能性もあるだろうが、
三島に関してはそれはないと思う。
キーンさんも言うように、三島はいつもモーツァルトのように推敲のあとのない、
ほぼ完ぺきな原稿を書いていたからだ。
たしか芥川賞受賞作品の評なども、その場で誤字脱字推敲もなく、
いっきに書いていたと記憶している。
だから三島は、死の直前まで筆を進めて、朝方に書き終えて、筆をおいて、
そのまま盾の会の制服に着替えて市ヶ谷に向かったのだ……
と、キーンさんの記事を読むまで、私は固く信じていたのである。
でも、演出だったと言われればそれもありそうな気がしてくる。
三島だからこそ、ますますありそうな気がしてくる。
もちろん、どちらでもかまわないのだが、とりあえず生きていると、
いろいろあっておもしろいなと思ったしだい。
と言いながら、また思い出したが、昨年、徳岡孝夫という人の文章を読んだ。
私は知らなかったのだが、徳岡氏は作家で、元毎日新聞社の方だ。
氏が香港で文化大革命の取材中、タイのバンコク特派員の命を受ける。
1967 年の 8 月のことである。
急なことで、いったん帰国して旅支度をし、何か本を持っていこうと、
岩波の『和漢朗詠集 梁塵秘抄』をカバンに突っ込んだ。
バンコクに着いてしばらくすると、本社から連絡を受ける。
もうすぐノーベル文学賞が発表されるが、三島由紀夫がとりそうだと。
三島は今インドに取材旅行中で、帰りにタイに寄るそうだから、
受賞した際に談話取材ができるように準備しておけとのことだった。
氏は三島が泊まりそうな高級ホテルにあたりをつけ、実際にいくと三島がいた。
氏は一度三島を取材していることもあり、それから毎朝、
支局にくる日本の新聞をホテルに届けさせたりして交流する。
実際そんな時代にタイにいて、しかも三島を知る日本人となれば氏くらいのものだろう。
三島のホテルの部屋を見ると、本棚には何もない。
ノーベル賞の発表を独りで待つのもたまらないだろうと、
氏は持ってきた『和漢朗詠集』を渡した。
帰国する日、結局ノーベル賞は別の詩人が受賞したが、
三島は「ありがとう。楽しませてもらった」と言って本を返す。
その後、例の事件が起き、氏もバルコニーで演説する三島を取材することになるのだが、
2、3 年してまた普段の生活に戻っていった。
ある日、ものを書いていて、何かの確認のために『和漢朗詠集』を開いた。
三島に返してもらってから、書棚にしまったまま一度も開いてなかった。
見ると、後ろのほうにうっすらと開いたページの癖が残っている。そこには、
「生ある者は必ず滅す 釈尊いまだ栴檀(せんだん)の煙を免かれたまはず
楽しみ尽きて哀しみ来る 天人もなほ五衰の日に逢へり」
とあった。
人は必ず死ぬ。お釈迦様でさえ死んで、薫り高い栴檀の木で造った棺に入り、
焼かれねばならなかった。世の楽しみは、やがて尽きる。永遠の命を授かっている天人も、
老いれば髪が白く、腋が臭くなるなど 5 つの老衰の兆が表れるものである云々。
(中略)
私は、それに気付かなかった。人生最後の「生存のしるし」に題をつけかねていた人に、
ハイと言って本を貸した。三島さんも身構えずにページを繰ったのだろう。
だが、そこに「天人五衰」があり、
それを見た瞬間に彼がこの世に残す訣別の書の題は「天人五衰」でなければならなくなった。
ある意味で、私は三島さん に引導を渡した。
(徳岡孝夫――『新潮フォーサイト 三島由紀夫の 45×2 』より)
……三島がキーンさんに渡したという原稿には、
「天人五衰」のタイトルが打たれていたのだろうか?
そもそも三島はなぜ、死ななければならなかったのか。
これは、∞酒林∞ のネームで FC2 ブログを書いていたときにも言ったことだが、
今度きちんと書いてみたい。“緑色の蛇” にもかかわる話だ。
もちろん、先の天人五衰ではないが、自分の美意識もあるだろう。
また、アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』を三島はひどく怖れていたから、
ある種、記号化していく人間、その流れに巻き込まれていく日本、
日本人への嫌悪もあったかもしれない。
今、三島が生きていたら今の日本をどう見るだろうか。
少なくとも、安倍政権を徹底的に批判することだけは断言できる。
早く、おやすぴをアップしなくては。
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