だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』vol.30 「国家の身体性に取り込まれないために」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第30回
「国家の身体性に取り込まれないために」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2016年1月24日 東京・中野にて収録

西塚 みなさん、こんにちは。『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の30回になります。今日もよろしくお願いします。カンパーイ!

ヤス こちらこそ。カンパーイ!

西塚 相変わらず、収録前から飲んじゃってますが、前回のお話はおもしろかったです。現実をどう作っていくのかという部分は有料コンテンツのほうに載せるかもしれませんが、けっこう深いお話しでした。

僕は最近思うんですけども、重要なことはひと言で終っちゃうんですよね。スピリチュアリズムがどうのこうのって言ってますけども、実はヤスさんがおっしゃったみたいに、“やり続けろ”とか、ヘタすれば“愛だよ”とか、ひと言で終わっちゃいそうな気がして、それだとつまらないんですけどね。実際、世の中はそんなに単純じゃないですから、こうやってヤスさんと毎週お会いして、いろんな時事問題を解きほぐしていくと言ったら語弊があるかもしれませんが、そこを素どおりしないところに意味があると勝手に思ってます。

それで今週もいくつかありますが、ひとつは甘利(明)さんでお聞きしたいんですけど、今回の問題は、政治家にありがちないわゆる賄賂というか資金供与、企業献金云々かんぬんという話ですが、いきなりじゃないですか。あれはヤスさんの見立てと言いますか、何かお聞きになってますか?

甘利大臣のスキャンダルの裏側

ヤス いろんな裏はあるだろうなって話はたくさんありますよね。

西塚 すごく違和感があるんですけどね。TPP担当で、安倍さんの懐刀と言ってもいい甘利さんが、何でここにきていきなりあんなことになるのか。

ヤス もしね、本当に大臣室で金銭の授受があったということであれば、あまりにもずさんですね。やっぱり数千万円の受け取りがあったのではないかとも言われてるし。

西塚 500万って言ってましたね。本人は、100万。50万、50万で。秘書に500万かな。ちょっと口利いただけですよ。何でここにきてあれが出てくるのか。

ヤス 確かにね。だから何で大臣室でやり取りされたのか。なかなか考えにくいって感じはするんですけどね。ただ本当に行なわれたとすると、あまりにも政治がずさんだなと思います。しかしながらですね、あれは何かの裏があるのではないか。

西塚 僕はそう思うんですよ。うがった見方をすると、このまま甘利がいると何かまずいことがあるのか、アメリカ側にですね。TPPの交渉の現場にいた人ですから。密約も含めて、とんでもないことがあって、甘利さえ失脚すればそれを守れるということなのか、あるいは、安倍さんがやるとは思えないんで、安倍政権にある程度見切りをつけた何ものかが、参院選まではもたせるけどもという、その序章みたいなものなのか、いろいろ考えちゃうんですね。ヤスさんは、そのへんはあまり関心ありませんでしたか?

ヤス いやいや、おそらく僕は裏はあると思う。それはTPPがらみであることは間違いないんじゃないかと思います。今回、いろんなブログや何かでも言われてるのは、まあ噂の範囲を出ないんですけど、甘利さんが相当厳しく交渉してたというのは知られてるんです。

西塚 いわゆる国益のために。

ヤス 本来の国益のために。ギリギリのところまで頑張って、アメリカの譲歩を引き出そうとした。最終的にいろんな分野でアメリカは折れてですね、今回のTPPの合意に至ったんだけども、少なくともその合意をしようというところまで合意できたと(笑)。実際、どこまで本当の意味での合意であるかどうか、大きなクエスチョンマークがついてますけどね。

いずれにしろ交渉の過程の中で、極めて強硬に自分たちの条件を押しつけてくるアメリカに対して、甘利さんというのは相当攻撃にまわってる。何かといろいろな譲歩をアメリカから引き出してきた実績のある人であると。かなり激しい交渉だった。机を叩いて怒鳴ったし、相手を詰問するような場面も多々あったと。

西塚 やっぱりそうなんだ。

ヤス 今回の事件のはるか前から、実は相当に強烈な交渉をどうも甘利さんはやってるようだと言われてたんですね。実際、交渉のあとの甘利さんは、もう二度とこういう交渉をやりたくないと。本当に疲れると言ってたんです。だから、アメリカからの報復かもしれない。

西塚 僕はよく知りませんでしたが、国益のためにギリギリの交渉はしてたんですね。頑張ったんですね、じゃあ。

ヤス 頑張ったと思いますよ。唯々諾々とアメリカの要求にすべて従うという交渉ではなかった。

西塚 だとしたらあり得ますね。嫌がらせじゃないけども、牙をむいたヤツはガツンとやるという。

ヤス 同時にですね、今後、一応TPPの合意を得たという調印が行なわれるんですけど、その後は再交渉は不可能になる。あとは、各国の議会における承認がとれるかどうかというところにポイントが移ってきます。おそらく、それが行なわれる前に甘利を下ろしたかったという、何かの力が働いたと思いますね。だから単純な報復とは思えない。報復+αが何かありますよ。今この甘利という人物を切っておかないとヤバいといったアメリカの焦りがあるんじゃないですかね。

西塚 みんな違和感を持たないんですかね。絶対におかしい。建設会社に頼まれて口を利いた。もちろん不正ですが、よくあるじゃないですか。僕も実際、ある自民党の代議士に頼みにいったことがあります。出版社時代。社の決定で役員についていったわけですが、陳情者が並んでました。いくらでもある話です。

ヤス 突拍子もないところからいきなり出てくる。そういう問題を引き起こしてもおかしくないなという背景が以前からあってね、やっぱり出てきたかという問題ではない。突発的に出てくる。やっぱりあれは、TPPの本調印に入るときに甘利にいてほしくない。いてはダメだと。おそらく何かそういう力が働いた。

『LEAP2020』が早期に提起した世界の“多極化”“分断化”

西塚 何かの力学がありますね。わかりました。あと、ちょっとおもしろかったのは、ヒトラーの『我が闘争』の著作権が切れて、フリーになった。そしてドイツで再発売された。基本的にナチス系の書籍は発禁らしいですが、研究本なら出版できる。700ページか800ページぐらいあるんですが、それに否定的な注釈、こういうことはいけないという否定的な注釈をふんだんにつけて2000ページぐらいになった。しかも7000円くらいするんです。それで初刷3000だか4000を突破して、今1万5000で、アマゾンでも買えなくなっている。6倍の値がついているってぐらいなんですね。

それは、ヤスさんもおっしゃってたように、だんだん戦争を体験した人たちが亡くなって、ナチスの暴虐とかを身をもって体験した人がいなくなってきた。それで若者たちも、あれは何だったのだろうかと関心が向いてきたらしいという記事がありました。それで『我が闘争』が売れていると。それに引きつけて日本の神社本庁ですね。あれは宗教法人なんですが、80000万社くらいの神社が加盟している。僕は知らなかったんですが、今それらの神社で憲法改正の署名運動をやっている。

初詣にいくと、神社の境内のそばだかどこかに、今の憲法を自主的にわれわれで制定し直そうと。ついてはその署名をと。それをやってるのが神社本庁で、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」も絡んでるみたいですが、政治団体も含めて。櫻井よしこさんと日本会議のトップのふたりが絡んでる。それで1000万の署名を集めると。それが今450万ほど集まっている。去年の11月の時点で。

安倍の今回の施政方針演説を聞いても、完全に維新の会とも結託して三分の二を突破しようと必死じゃないですか。それで神社本庁も去年ぐらいから憲法改正の署名運動をはじめている。ドイツではヒトラーの『我が闘争』が再発売される。まあ、これは右傾というよりは、もっと知的な意味があると僕は思っていますが、それでも全体として見れば、やっぱりラジカルな意味で右傾化の方向に向かっているような気がするんですね。

だから以前のメディア規制の話も絡めて言うと、安倍はなりふり構わずくるという怖さがある。そのへんはいかがですか。右傾化は前からありますが、ここ参院選前にますます喧伝され、反対するものはますます規制されるという流れになっていくのではないかと。

ヤス おそらくそうですね。われわれが安倍の背後に感じている嫌悪感の正体は何か。得体の知れないものなんですね。気持ち悪さですね。ヨーロッパの有名なシンクタンクで『LEAP2020』があって、そこが「GEAB」という月刊の有料レポートを出してるんです。『LEAP2020』は2006年の2月に設立されたシンクタンクなんですね。

このシンクタンクを設立したのは、フランク・ビアンシェリといったかな、汎ヨーロッパ政党、汎EU、Pan‐EU、いわゆるそれぞれ各国別に政党を作るんではなくて、EU総体としてひとつのまとまった政党が必要だという考え方をもとにして、言ってみればナショナリズムではない、本来のEU、Pan‐Europeanismというかな。その旗手だった政治家、思想家なんですね。この人がはじめたシンクタンクなんです。ウィキペディアに載るくらいの、けっこう有名なシンクタンクです。

西塚 ヤスさんのブログでも紹介されてましたね。

ヤス そうです。何で僕が最初に紹介したかというと、おそらくあそこがですね、“多極化”という概念を捉えた初めてのところなんですね。2006年の2月というのは、まだグローバリゼーションの絶頂期のときですよ。2006年というのはまさにリーマンショックの前ですから、これからグローバリゼーションがどんどん拡大して、国民国家というものなくなるんだと。そして世界全体がグローバルな単一市場によって結ばれて、統合的な秩序の中に包含されるんだ。それがナショナルな秩序ではなく、グローバルな秩序になるはずなんだということで、ある意味でグローバリゼーション絶対主義みたいなものが一世を風靡してた時代ですね。

その絶対的なグローバリゼーションの背後に存在するのは、やっぱりスーパーパワーとしてのアメリカといったようなもの。当時、その描写に一番近い思想的な描写として注目されたのは、ネグリ&ハートの『帝国』という本ですね。その本の中で描写されてる“帝国”の概念が、グローバリゼーションで作り上げられるグローバルな秩序そのものなんだという考え方が一般的だった。

そのグローバルな秩序そのものがね、別々にいろいろなモメンタム、いろんな細かな、むしろナショナリスティックなパワーによって分断されて、最終的にはグローバリゼーションがズタズタになって、多極化の方向に向かうんだといった考え方なんて、当時2006年の初めにはまったくありませんでした。イラク戦争が終わって、まだイラクの内戦は続いているんだけども、むしろアメリカのイラク戦争が、場合によっては成功裏に終わりつつあるんではないかということすら言われてた時代ですよね。

そこで初めて、いや、そうではないと。アメリカのいわゆる覇権主義が終わってね、それから実は大変な多極化の混乱期に入るんだと、初めて言い出したシンクタンクで、それをですね、どのようにして多極化に入るのかを具体的なタイムラインのスケジュールを持ち出して言ったんです。第1フェーズ、第2フェーズ、第3フェーズ、第4フェーズと言ってね。これがものの見事に当たった(笑)。

リーマンショックくらいまでというのは、本当によく当たってた。それ以降も当たってたんですけどね。それでものすごく注目されたシンクタンクだったんですね。ただ、彼らの当時の予測よりは、もうちょっと時間軸がずれて、今ゆっくりと進行してるんです。彼らから見ると、2010年、11年ぐらいにグローバリゼーションが本当に終わって、もっと分裂的な多極化の混沌時代に入っていてもいいタイムラインだったんだけども、そうはならなかった。

いわゆるグローバリゼーションへの巻き戻しの期間があって、2010年から、2013年、14年ぐらいまで、ある意味でグローバリゼーションが息を吹き返した期間があって、その間は彼らの予測が外れた期間にもなってはいるんですけど。だけどまあ、そういうシンクタンクとしては極めて評価が高い。

ちょっと彼らのタイムラインからずれてきたぐらいのころから、読むのをやめてたんですね。最近は何を書いてるのかなと思って、また戻ってきて読んだ。読んだらおもしろいことを書いてたんで、これは有料メディアなので、また僕は購読を開始したんですよ。ひとつのレポートでだいたい40、50ページあるんですけどね、すごくおもしろいですね。

この間買ったのが、12月16日に出た昨年の最後のものかな。その特集記事が何かというと、ヨーロッパの暗黒時代という記事なんですよ(笑)。さすがフランスのシンクタンクだけあって、今ヨーロッパで何が起こっているかという内部からの空気が実によくわかる。

西塚 ヨーロッパの暗黒時代といういのは、これからはじまるということなんですか?

ヤス これからはじまる。それは何かというと、今まで抑圧されたものの噴出ではないですが、ナショナルなものの復権ですよね。たとえばEUといったいわゆる国家レベルを超えた統合的な秩序ではなくて、本当にナショナルなものの復権。ナショナリズムと言ってしまえばそれまでなんですが、ナショナリズムの本義とは何のかというとね、ある意味で共同体に対する忠誠というか、共同体に対してのひとつの強い結束ですね。

その共同体たらしめてる原点にあるものは何かというと、いわゆる民族の血の結びつきであるとかね、ひとつの民族として共有しているとてつもない歴史的なトラウマ、悲劇の共有であるとか、虐殺という共通の歴史の共有であるとかね。言ってみれば、恐ろしく生々しい、身体的なリアルな記憶があるんですね。

EUの統合的な秩序は、そうした身体性を持っていない。そうではなくて、いわゆる同一的なもの、フランス的なものというのは、まさにその身体性の中で作り上げられてきた厚みがあります。ちょっとうまく言えないけども、そのナショナルなものに本来備わっているような身体的な生々しさの復権です。

西塚 そのLEAP2020のビアンシェリ本人の思想としては、そういうナショナルなものがありながらも、やはりそれを統合していかなきゃいけないという思想の持ち主なんですか?

ヤス 彼はそうですね。だからナショナルなものを乗り越えないと、われわれは未来がないんだという考え方。

西塚 それはコスモポリタニズムではないんですか?

ヤス 言ってみればコスモポリタニズムのほうですね。明らかにそうですね。

西塚 じゃあ2006年当時は、その多極化する前の世界のグローバル化はわりと認めてたというか、よかったと思ってる人なんですか?

ヤス よかったというか、アメリカ流のグローバリゼーションはヤバいと。それは本格的な意味でのコスモポリタンにはならない。アメリカ流の価値観の押しつけにすぎない。目指すのであれば、本来のコスモポリタニズムを目指さなくてはならないといったような考えではないかなと思いますね。ビアンシェリってね。

西塚 そういう観点から、今はちょっとまずいぞという指摘がされてるわけですね。レポートでは。

ヤス ビアンシェリはもう亡くなってしまったんですが、彼の弟子たちが引き継いでやってるんです。シンクタンクのレポートですから、データが実証的です。EU分裂の最先端の状況がわかる。そのレポートを読んで僕自身、実感を新たにしたのは、彼らの言うナショナリズム、今ヨーロッパで吹き荒れているナショナリズムですね。移民がどんどんシリアを中心にして中東から入ってくる。移民が入ってきた原因はまさにヨーロッパの間違った政策にあったんですけどね。リビアのカダフィ政権を潰してしまった「アラブの春」を応援して、主導してしまったことであるとか。原理主義運動の歯止めになっている独裁政権をヨーロッパ自ら潰してしまった。

その余波を受けているのが現在の状態。ヨーロッパが許容できないような数の移民が入ってくる。そうすると自分の生活がおかされていく。日本では、おかされた生活圏に対するひとつの防御反応としてのナショナリズムという捉え方をしている。それは間違いではないんですけども、その拒否反応の意味するものですね。

西塚 ビアンシェリさんの衣鉢を継いだ弟子たちは、いわゆるコスモポリタニズムというか、地域のいろいろな文化的な背景、個別のものを尊重しながらもナショナリスティックにならないような結びつき、そういうものを目指すべきだと言ってるんでしょうか?

ヤス GEABはシンクタンクのレポートですから、これが理想だということは言わない。

西塚 ああ、そういうことはないんですね。僕は何をお聞ききしたかったかというと、ヤスさんから教えてもらった『RT』ですね、あと『Voice of Russia』、今の『スプートニク』ですか、あのへんのロシアの思想というのは、要するにわれわれはアメリカのグローバリニズムみたいなものにはアンチであって、各地域のユニークさといったものを認めると。ましてやわれわれロシアの価値観を押しつける気もないと。

それが支持されてるというか、実際RTは全米で2位の視聴率を誇ってるぐらいですから、何かしらインパクトがあるだろうし、アメリカに対するアンチとしても機能していると思うんですね。そういった意味で、みんな違ってていいんだけども、そこでまとまろうというのは、もちろんLEAP2020にはそういう主張はないのかもしれないけど、それでも多少の傾向というか、その方向はよくないよということは出てくると思うんです。それはやっぱりロシアと同じものなのか、それとも微妙に違うものなのか。そこはいかがでしょうか?

ヤス ローカルアイデンティティーの保持ってことですね、ロシアが言ってるのは。(アレクサンドル・)ドゥーギンみたいな人もそうですけど。プーチンが象徴しているのは、アメリカ流のグローバリゼーションに解体されないような、それぞれの文化圏のユニークさを持つ権利ですよね。その部分では、LEAP2020とはあまり矛盾はしてないですね。むしろロシアのプーチン主義に関して極めて親和的ですよ。GEABのどのレポートを読んでも、ロシアに対しての評価は相当高いです。

問題は、そのローカルなアイデンティティーにはダークサイドが存在するということです。民族としてのまとまりを得るための根源にあるのは何か。ニーチェが「悲劇の共有」ということを言いましたけどもね。ある意味で歴史的なトラウマとしての悲劇の共有があって、そこでひとつの民族としての社会集団がまとまったりするわけです。

なおかつ、特定の民族ないしはその文化に共通する、感性的に共有された世界の実感の仕方があるわけです。同じ肌合いを持つ世界を感性的な次元で共有しているかどうかという問題がある。それは極めてダークなモメンタムとして働く可能性があるわけです。それはどういうことかというと、同じ世界観が身体レベルで共有されないもの、共有しない他者というのをとことん排除していく。

安倍政権が押しつけてくる国家の“身体性”とは?

西塚 このシリーズでヤスさんのお話をずっとうかがってきていますが、どうしても戻ってくるテーマですね。さきほどのニーチェの『悲劇の誕生』もそうですが…

ヤス 『悲劇の誕生』にある「悲劇の共有」ですね。

西塚 そうですね。理屈とかある種の理想論としてはですね、ロジックとしてみればいろいろな地域のコミュニティなり、文化なりをユニークなものとして尊重し合いながら、お互いに共存していくという方向というのはありなんだけども、その共存している地域のローカリティーを担保している、保証しているものの背後にあるもの。ヤスさんがおっしゃったものですね、それが表に出てこなければいいんだけども、何かの加減で出てくると、最終的には津波となって押し留められなくなってくる。

今までの戦争を見てもそうだっていうことですね。だからそこを見ないと共存共栄はできない、少なくとも。ということは、そういうことに対する知識ですか? それとも感受性でしょうか。知識プラス感受性なのか、そのへん、われわれ日本人に限らず、どのように生きればいいのかということですが。

ヤス 国家といったものに内在する身体性ってあるんですよ、やっぱり。

西塚 個人個人の身体性ではなく、国家の身体性…

ヤス 国家が強要する身体性。たとえば安倍的なものってあるじゃないですか。“美しい日本”っていう言い方ね。安倍的なものというのは、本来すべての日本人が共有してしかるべきような国家観、世界観があるのだという前提から出発するわけですね。それが美しい日本なんだと。八百万(やおろず)の神が創りたもうたこの美しい日本。それを感性の次元で直感的に共有できる人たちの集まりの日本、ということです。言ってみれば。

たとえば、自然を見ることによっても同じような感性を持って、同じように感じる人々の集まり。そのような集まりを国家の源泉として措定するということが、ちょっとうまい具合に言葉になりませんけども、それが国家の身体性ですね。それを強要してくるわけです。

西塚 国家の身体性という言葉から個人的にイメージするのは、安倍に限らずですね、そういう強要されるものでもなくて、いかんともしがたくですね、同じ国家に住んでる限り、みんなに染みついているようなものってイメージなんです。

ヤス そうです。

西塚 今のお話は、たとえばですね、安倍がいくら美しい日本が云々かんぬん言っても、イヤだってヤツもいるわけですよ、まだ。昔ですね、『朝ナマ』(『朝まで生テレビ』)で、自民党の松田九郎というとんでもない、旧態依然とした代議士がいて、すぐ落選しましたけどね、それと大島渚がやりあってたんです。そのときは、米を自由化するかしないかっていうような話でしたが、米がなくなったら死ぬぞって松田が言うと、大島渚は、全然かまわないと。僕は米なんかなくても全然平気ですからと、こういう日本人もいるんだみたいなことを言うわけですね。

あれはある意味で象徴的で、僕が受け取ったのは、いわゆる米というものに象徴されるような日本人的なもの、日本性というものが前提として、当たり前にあると思っている松田九郎みたいな自民党の代議士と、徹底的に個であるという大島渚との対立を見たような気がしたわけですね。

そうなると、国家の身体性といった場合、どうなるのか。たとえば大島渚といえどもですね、何か逃れられない日本国のもの、まとっているものが僕は身体性かなと思うんだけども、そういった意味ではないですよね、今おっしゃったのは。

ヤス そういった意味ではない。本来、言ってみれば、果たして国家に身体性があるかどうかはわからない。おそらくないと思う。われわれは普通の人と文化の中でひとつの世界観を共有してるわけじゃないですか。感性次元のちょっとのズレはありながらもね、われわれは同じような世界観という肌合いを持って認識してると思うんです。だからこそ、たとえば言語的なコミュニケーションの随所に出てくるわけです。あえて説明しなくてもいいような次元の知識としてね。そういう感性的に共有された世界観が背後に存在してると思うんですね。

ただ、そうした文化として共有されてる世界観のどこを叩いてみても、どのように延長しても国家というところに結びつかないわけですよ。それは民族的な共同体にはなるかもしれないけど、自然に国家といったような機構そのものを生み出すモメンタムとして、自然にはでき上がってこないと思うんですね。

西塚 そうなると、最初におっしゃったものと僕の中でちょっと変質してきて、いわゆる国家とは、ひとつのイデオロギーでしかないっていう話になってきますね。

ヤス そう。そこがポイントなんですけど、国家を宣揚する連中っていうのは、文化に内在しているような感性的な世界をとことん利用しつくすわけですね。

西塚 官僚なんかもそうですね。巧みに利用する。

ヤス 巧みに利用する。どうやって利用するかというと、これも言葉としてうまくは言えないけども、これがお前たちが感じるべき日本人としての感性的な世界なんだと、逆提示するわけですね。それを感じる人間こそが本来の日本民族であってね、それを感じられないものは国民ではないんだ、みたいな感じの言い方、アプローチの仕方をしますよね。

西塚 なるほど。あらかじめ何かを措定して、しかも規制していくというものですね。その身体性という言葉は、僕の中でややこしくなるのでおいておくと、われわれが共有している民族レベル、地域レベルの、いわゆる先ほどのロシアのプーチンに象徴される、RTとかスプートニクが言っているようなローカリティーは、むしろ文化的なものですね。

普通に共有しているもの、こういう話し言葉とか、飲んだり食ったりとか、どうやってあいさつするとか、結婚の風習とか何とかってことも含めた文化的なものは、各地域で当然違うわけであって、国家が強要することとは全然違うわけです。

ヤス そうそう。だから国家は、民族ないしは文化的な共同体の上に覆いかぶさって、文化的な共同体が本来持ってるリソースを利用することによって、逆にこれがお前たちが感じる世界なんだと。この世界を感じるものこそが国民なんだと、逆のほうに規定されるわけです。

西塚 そうなると、美しい日本って確かに巧妙は巧妙ですよね。みんながそれぞれバラバラに持っている懐かしい日本、年配の人だったら、昔みんなで共有していたようなもの、みんなバラバラのはずなんだけど、地域地域で共有していた郷愁的な慣習を結びつけちゃって、そうか、安倍さんはそういう美しい日本を取り戻そうとしてくれてるんだ的なですね(笑)、錯覚を起こすじゃないですか。そういった意味でも利用する。

ヤス やっぱり戦後70年間の日本の国家、僕は基本的には、この戦後の日本のようなリベラルな国家は大好きなほうだったんです。僕の言葉で言うと、身体性の薄い国家なんですね。どういうことかというと、本当に機能主義的にまとまった国家であって、国家のほうから、日本国民たるべきものはこうこうこういうような感性を持つべきだとかね、日本国民の共有するべき世界観はこういうものであるとか、日本国民がどのような感性を持って、どのような世界観を持つべきかということを逆規定することはいっさいなかった。

だから、戦後70年間の日本国の姿は極めて機能的だったわけです。そういう文化的に逆提示するようなベクトルはほとんどなかった。でも、戦前戦時中そうだったわけです。文化的に本来の日本民族の共同体はこうあるべきだと。これが日本民族の共同体であって、これが日本国民が感じるべき世界観で、この世界観を感じられないものは国民ではないという形でね。いわゆる文化が内在しているような世界観とかね、物事の言い方、感性といったものをとことん利用することによって、国家というものを質的に規定したと思うんですね。

西塚 しかも国家神道ですからね。国家神道を持ってきて、また同じことをやろうとしているわけですから。

ヤス そう。安倍的なものの気持ち悪さは、国家神道もまさにそうなんですけどね、それだけではなくて、今まで戦後70年間忘れてきた、国家というものに内在する質的なもの、よく言えば文化的なもの、それを引っ張り出してきたわけですよ。戦前型の国家と同じような掲示の仕方をする。これを感じられないものは非国民じゃないかと。

西塚 特攻隊で亡くなった人たちは気の毒だと思うし、僕なりにいろいろ思うことがありますけど、そういうものすら引っ張り出してきて、英雄だったんだとかね、それこそヘタすればジハディストだったんだ的なぐらいなことまで持ち出して、あれがわれわれ日本人の大和魂云々というところまで、いくかもしれませんよね。

ヤス そうですね。もっと言うと、あの特攻隊でね、散った英霊に涙できないのは日本人じゃない。そういう感性次元で、国家は規定するんですよ。

西塚 これはもうすさまじいアナクロニズムです。

ヤス そうです。ただね、これが安倍的なものである、これが今日本で起こってることなんですけど、国家といったものの質的な再提示。それがちょっと僕の言葉では語弊があるかもしれないけど、国家に内在した身体性を引っ張り出してきたってことなんです。

西塚 いずれにしろ、ずいぶん前のテーマでもあったんですけども、戦後70年間、もちろんアメリカの庇護の下で共有してきたんですが、日本人ももともとそれなりにユニークな感性を持ってたでしょうから、かなりだらしない部分もあったんだけども、大いに自由を享受していた。ヤスさんの言葉で言えば、国家の身体性に取り込まれない自由を謳歌し、しかもそこから文化も生み出してきた。

今、ここに至って危うくなってるんだけども、そこに気づいたのが、例の安保法制で拳をあげはじめた人たちで、その感性の中に希望があるって話も出ましたけど、やっぱりそこに戻らざるを得なくて、だからわれわれはそれをそのまま、今度はわれわれでやっていくしかないっていうことですね。自覚しながら。ここでちょっと踏ん張らないと、またそれこそ国家の身体性に取り込まれるという流れになっていくのは目に見えてますから。

ヤス そうなんですよ。やっぱりね、国家が提示するような共同体というのは、われわれの普通の文化の中に内在するような世界観であるとか、われわれの感じてるような感性的な世界を逆提示してくるわけですね。ということでは、絡み取られていく。日常で感じている世界観そのものを、ある意味で国家のほうがイデオロギーとして先鋭化していくわけです。それは本来の日常生活に内在するものなので、親和性があるんですね。絡み取られるわけですよ。

西塚 僕はそれで、ちょっと安心と言えば、あまりにも楽観的すぎるかもしれませんけど、けっこう体制側は、何と言うか、それこそ感性が古くてですね、ダメだと思いますね(笑)。前にも出ましたけども、アニメで絡め取ろうと思って、安保法制であのヒゲの隊長とアカリちゃんのビデオを作った。そうしたらとたんにYou Tubeで、それこそ的を得た批判をした、揶揄をした、皮肉なパロディビデオが出てくる。

今回も例の普天間の飛行場を早く返還して、そこにディズニーランドを招致するということを売りにして、宜野湾市の現職の市長がやってますね。それで菅官房長官も約束を政府に取りつけてるかのごとく言うんだけど、よく調べると菅さんは個人的に政治家として働きかけると言ってるだけであって、政府としては何も保証してない。何を言いたいかというと、そんなですね、普天間基地の跡にディズニーランドを招致するということを公約に掲げて、それで住民が支持してくれると思ってる感性ですよ。

ヤス (笑)。

西塚 普通、怒っていいと思うし、呆れるって言うか、舐めてるどころじゃなくて、バカなんじゃないかと思うんですよね。だから、それぐらいの感性しかないんだから、これは大丈夫かなって気もするわけですね。絡め取られようとしても。

と言いながら、まあ巧妙な人もいるだろうから、安倍のブレーンの中には。何をやってくるかわからないんだけども、美しい日本だ、あるいはかつての日本人の心の琴線に触れるような物語をいくら持ってきても、そんなベタベタなウェットな若者ばかりじゃないですよ。けっこう冷めてますから。僕はわりと楽観視してるんですね。

ツイッターとかいわゆるSNSの普及もあるから、ちょっとしたことでワッて面白がられちゃうというか、バレていくという。もちろん負の側面もSNSにはありますが、それはそこでまた違う意味で、何かを発揮するんじゃないかと期待します。

ヤス 確かにね。ただやっぱりね、逆の部分もあって、僕の友人に朝日新聞の記者がいるんですけど、これをぜひ読んでみてくれと言われて、ちょっと名前は忘れましたけど、1976年か77年に生まれた直木賞作家がいるんですね。この人のエッセイなんです。自分の友だちとの対話。自分の友だちがやっぱり30歳ぐらいの人なんです。

彼が戦前の日本を賛美すると。いかに戦前の日本がすごかったか。それを、お前は戦前の日本を知ってるのかよ、みたいな形で、その作家は自分の学んだことによって彼を論破しようとした。そしたら彼が怒り出した。お前は人権の匂いがすると。作家の言ってることに対して拒否反応を示した。

それで結論なんだけども、僕が対話してる相手というのは社会的弱者だと。グローバリゼーションの波に飲まれた現在の日本社会の中で、本当に生きられなくなったような社会的な弱者なんだと。社会的な弱者である人間ほどね、一番いやらしい国家の掲示の仕方に引っかかる。もろ手をあげて国家的な共同体の中に自分を埋没させようとすると言うのね。

その逆説について書いたエッセイだったんです。だから、それこそアカリちゃんみたいな提示を出したりね、そのディズニーランド云々というような形で提示しても、誰でも拒否反応を起こして、あんなバカなことをと言うんだけど、もっとアナクロニックな提示の仕方、もっと土俗的な身体の観念に訴えかけるような提示の仕方をしたならば、場合によっては簡単に人は引っかかって、なびいていくということがあるのではないか思うんですね。

西塚 そうですね。まあ、必ずしも結びつかないかもしれないけど、新年の一般参賀で旗を振る人たちとか、崩御のときの土下座でもいいんですけど、確かにそういうものはありますからね。

ヤス これは、もう現在ではなくなった道徳なんだけども、戦前戦中にかけて基本的に一貫してた親孝行の道徳というものがあるわけですよ、ずっとね。それが、たとえば教育勅語であるとか、いわゆる国家の規範として掲示されてなくてもね、普通の共同体の中で当たり前の倫理観として実践されてきた、当たり前の世界観の一部になってるわけですね。親孝行すると言うのは当たり前の倫理だったし、祖先を崇拝するというのは当たり前としてあったと。

なぜ祖先を崇拝しなくちゃならないのかというと、祖先の霊によってわれわれ自身が守られ、それで生活が維持されてるといったような感じの世界観が、やっぱり存在してたわけですね。その世界観に覆いかぶさるようにして、天皇制の論理が出ててくる。その場合にどのような言い方をするかというと、たとえば小学生に対する教育として、君らにとって一番大切なのは誰だ、親だろうと。お父さん、お母さんだろうと。天皇というのは、みんなのお父さん、お母さんなんだという。

西塚 ちょっと個人的なことで言うと、母親は元気ですが、父親は亡くなった。もちろん感謝はありますが、普通の近しい親としての感謝ですね。今、おっしゃったような、薄情かもしれませんが、いわゆる親孝行をせねばならないうことでは、僕は限りなく薄いかもしれません。

たとえば、会社に勤めてたときの社長にも感謝はします。そういうものとは、親の場合はもちろん違った、もっと濃いものですが、基本的にはあまり変わらないんですね、僕自身は。でも、こうして生きてる以上は、祖先に対する感謝の念はありますが、何かちょっと…

“リア充”の重要性

ヤス 僕は、西塚さんの感性のほうが主流だと思うんですね。だから、それは戦後日本がそうである。僕が今言ったのは、戦前の日本ですよ。戦前は農村共同体を中核にして、日本国民の80%以上がまだ農民だったという時代ですから、そのときの中核になっているのは家族主義的な世界観であり、その中核になってるのはいわゆる親を大切にする倫理ですね。その倫理観は極めて一般的なものとして、多くの日本人に共有されてたいた。それに覆いかぶさるようにして、天皇制国家が出てくるわけです。そうした場合の天皇という存在は、みんなのお父さん(笑)。

西塚 そうですね。そうすると、日本全国民が家族になりますからね。それこそ玉砕という話にもなってくるし、みんなが我慢しているときに我慢しなきゃ、非国民って話にもなってくる。

ヤス 当時のような家族国家観的な天皇制国家は、今は作りようがないと思うんです。おそらく、そうではない。作りようがないとは言えないけれども、かなり希薄にならざるを得ない。

そうするとですね、これから掲示されるような天皇制国家、そうした国家が、本来文化の中に内在しているような世界観というものを、もう一回再定義して提示するがゆえにわれわれが絡み取られる構造があるとしたならば、おそらくですね、それは現在のわれわれの日常の中に内在しているひとつの倫理観。内在しているようなひとつの世界観といったものを、象徴化して取り出してきたものだと思うんです。

西塚 それは何でしょう?

ヤス 何だと思います?

西塚 いや、僕は、今おっしゃったような戦間期の家族主義ではおそらくないだろうし、だとすれば何だろうな、アニメみたいなものかなあ、かといって自己犠牲、ジハディストみたいなものでもないだろうし、それこそカーゴカルト的な、何かが自分を救ってくれるみたいな、超越的なものかもしれませんね。

ヤス 僕は、日本人にある意味で広く感性的なレベルで共有されているようなね、あるひとつの姿というか、世界観があるとしたならば、それは“三丁目の夕日”的なもの。郷愁でしょうね。ひとつの共同体。かつて自分たちが存在していた共同体に対する紐帯を、もう一回取り戻したいというやつですね。

西塚 それは、ある年齢層に限られませんか? そんなことはないですか?

ヤス わからない。たとえば、18歳の女の子を三丁目の夕日を再現したようなところに連れていっても、懐かしいって言うのね。

西塚 あ、言いますか? それは意外だな。

ヤス 不思議だけど、こんなところ生まれて初めてなんだけど、懐かしいって。

西塚 僕も思いますよ。僕は基本的にはそういうタイプの人間なんです。カンケリして遊んだり、夕日が沈むようなね、町中に育って、友だちと遊び回ってたほうだから、それはよくわかります。個人的には大好きですけどね。懐かしい世界。

でも、そこまでの強さはないような気がするんですね。むしろ、うがちすぎかもしれませんが、むしろアニメオタクが待ち望むような、そういう“三丁目の夕日”的なものから疎外された連中が求めるようなもののほうが、強力な気がするんですよ

ヤス もしかしたらそうかもしれない。

西塚 それも、ある種超越的なものなり、どんなヤツらでも、『電車男』じゃないですけど、架空の物語にも共感できるんですよね。いわゆるそこには身体性があまりない。ひょっとしたら、そういう身体性を得たかったけど、得られなかったもの、記憶にはないんだけども、フィクションでそこにいたいという人たち、というもの。

だから、むしろ作りやすいというか、巻き込みやすいような状況にあるんじゃないかなと。そういう優れた物語作家なり、デザイナーとか、ブレインが安倍と組んだときには、僕は怖いなと思うわけですね。そういうものができちゃったら、あっという間に僕はいくと思うんです。

ヤス 百田(尚樹)氏あたりがね、いわゆるブレーンとして…

西塚 ああ、やりそうだな(笑)。『永遠の0』みたいなヤツ。

ヤス 言ってみれば、かつてはなくした共同体、個を超えた共同体に対する紐帯をやっぱりどこかで取り戻したい。

西塚 だとすれば、かつてそれを味わった人が懐かしい郷愁として取り込まれるし、なかった人も新たにそこに参加したいという意味で取り込まれますよね。

ヤス 取り込まれます。だからね、“三丁目の夕日”って単純なノスタルジーではなくて、個を超えた共同体に対する紐帯を取り戻したいという欲求の表現だと思いますね。

西塚 なるほど。

ヤス それが“三丁目の夕日”という形で表現されてくる。それとは違った表現の仕方もたくさんあると思うんですよ。

西塚 それは危ない。確かに(笑)。

ヤス それをどこまでわれわれが日常生活の中で、そういう共同体へもう一回戻りたいといったような願望を強く感じてるかどうかですよ。意外に強く感じてる。

西塚 わかります。僕はそこで何も、処方箋も何も思いつかないけども、でもヤスさんと話してる中で思うのは、ひとつは本当にリアルな世界で、そういうものを小さいところからでいいから作ればいいと思う。そこしかない気がします。

ヤス そうです。だから“リア充”なんだけど、やっぱり本当に共同体を作って充足してる人たちっていうのは、国家がそうした偽装した共同体をね、再提示してきた場合は、それに対する抵抗力が強いと思いますよ

西塚 強いですね。見抜くし、取り込まれないですよね。

ヤス 取り込まれない。まさにそれが思想なんです。だから、“リア充”ってすごく重要なんですよ。

西塚 新たな意味を付加して、もう一回その意味を再定義したいぐらいですね。本当の意味での“リア充”ですね。

ヤス 本当の意味での“リア充”ってすごく重要です。だから言ってみれば、安倍的なものは、国家の持っている文化的な一部のダークな連中ですね。国家を文化的な共同体として、もう一回再提示しようとしているということですね。それが戦後70年間、いわゆる禁忌、タブーとしてね、あえて誰も立ち入らなかった部分なんです。

西塚 わかりました。今年はまだ1月ですけども、これからやっぱり“リア充”ということでですね、どんなことができるか。僕がどこまでできるかわからないけども、自分のことも見せながらですね、提起していって、ヤスさんのお話をうかがっていきたいと思います。“リア充”ですね。

ヤス “リア充”です。

西塚 じゃ、また次回もそのあたりからやりたいと思います。今日はありがとうございました。

ヤス いや、こちらこそ。どうもどうも。

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