だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編④

感情は対象と自分との関係性の結果で、あとから発生すると言った。フツーは感情が先に立つとか言うように、何となく感情ありきのように思うが、どうも違うらしい。

感情の中でも、特に恐怖と怒りは強いものなので、人の本質がよく現われる。人によって、何に怒り、何に恐怖するかは違うのだ。もちろん、何かの災害に巻き込まれて、今にも命を落とすかもしれないというときには、多くの人が恐怖を感じるだろうが、実際は違うと思う。

いや、ほとんどの人は恐怖を感じるだろうが、中には普段より冷静になれたり、場合によっては昂揚を覚える人もいるかもしれない。

また、何てことないところで、いきなり怒り出すような人もいる。何かがその人の虎の尾を踏んだわけである。普段は温厚な人であっても、周囲の人が、あるいはその人と仲のいい人でも、今まででは考えられないような怒りや興奮を現わすときがある。

そういうときは、その人と周囲の関係、あるいはその人とその人と仲のいいとされる人との関係、または、その人とそのときに話題になった事柄とその人との関係などが、その怒り方でよくわかる場合がある。

たとえば、普段から部下や目下の者、周囲の人に対して温厚に接していたり、謙虚に応対していた人が、何てことのない事柄でいきなり怒り出したり、興奮していきり立ったりした場合は、実はその人が部下や目下の者、周囲の人に対して、本当は普段から自分より格下だと思っている場合が多く、何かの拍子で、普段は自分をよく見せようと演技していた余裕が崩れ、本性が現われるのである。

または逆に、普段から周囲の人や仲のいい人に劣等感を感じていて、うまく隠していたのだが、それが何かのきっかけで表面に出てきてしまい、怒ったり、嘆いたりしてしまう。

しかしその場合は、接する者にもよくわかる場合が多く、そんなことはないよとか、考えすぎだからとか何とかなだめることもできるが、先の傲慢なパターンだと、なかなかわかりにくい。

そして、人を見下したり、軽蔑することは、意識的であれ、無意識であれ、前回の話で言えば、エネルギーの偏りをもっとも発生させる過度な意義であり、自然のバランスはその者に向けて、過剰なバランスの崩れを解消するべく、手痛い一発を食らわすのである。

なぜなら、人を見下したり軽蔑したりすることは、他人を引き合いに出し、他人を必要以上に低く見積もって、自分を必要以上に高く見積もることだからである。

自然がバランスをとろうとするからといって、その者を人より高い位置に持っていくという現実化は、基本的には起こらない。

なぜなら、その者がますますいい気になるような現実化よりも、その者が意気消沈する現実化のほうが効率がいいからである。つまりエネルギーのロスが少ないのだ。

それでなくても、本来的にその者が優秀なわけではなく、他人との不当な比較によって、過度に高く見積もられた優秀さなのだ。

自然は、そういう者に優秀さが身につくように計らったりはしない。そんなエネルギーがムダにかかるようなことはしないのだ。さらにその者を落として、余計な “いい気” を挫くぼうがずっと効率がいいのである。

自分で自分を高く見積もって、自分で喜んだり誉めたりすることには問題ない。要は、他人と比較するということは、ものすごく自然のバランスを欠くということだ。なぜなら、この世のひとりひとりはみんな唯一無二の存在であり、みんなユニークだからである。

だから、先の怒り出す人の件でも普段の演技力、つまり自己韜晦に長けている(ネガティビティを溜め込んでいる)人ほど、自然のバランスを欠いているので、その怒りの噴出度合いも大きく、そのぶん周囲の人の驚きも大きい。

こうした事情を理解している人から見れば、そういう人は簡単にわかる。会話を通して、ああ、この人は本当は何にこだわっていて、意識的にせよ無意識にせよ、何を隠そうとしているかがわかるのだ。

そして、人間の意識性を一番眠らせるのは、この怒りと恐怖なのである。このふたつに駆られると、人はまともな判断ができなくなる。恐怖と怒りは、感情の中でももっとも強いものなのだ。

しかし、恐怖も怒りも、その対象との関係性を変えればなくなる。少なくとも薄らぐ。

そうすれば自然のバランスを欠くこともなく、物事は平穏に進む。最悪でも、自分が今、恐怖と怒りを感じているなあという認識・意識性があれば、大きなトラブルからは逃れられる。

対象との関係性を変えるとはどういうことか。答えはバカバカしいほど、単純だ。

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