対象との関係性を変えるとはどういうことか、という話で終わっていたと思う。そして、それは簡単だということだ。
いい関係性を変える必要はないから、基本的にはよくない関係性を変えるということになる。
先に答えらしきことを言えば、すべて、いい関係性として対応する、ということだ。
何だ、バカバカしいと言う人も出てきそうだが、ことはそう簡単ではないのである。
ただのポジティブシンキングじゃないかとも言われそうだが、そして、たしかにポジティブシンキングはいいことなのだが、相当なリスクもある。
何でもかんでもポジティブに考え、解釈し、それに則って行動していくことは、それはその通りなのだが、そのあたりの “しくみ” をある程度でもいいから、“知識” として持っていないと、けっこう大変なことになる。
大変という言い方はよくないか。
要するにうまく機能しない。降りかかってきた不利益や不幸、災難や難問を、ただただ “すべてはうまくいく” とオウム返しに思ったとしても、つまり理屈でそう思ったとしても、潜在意識や魂で “不安” を感じ、あとこれが最悪なのだが、“恐怖” を感じていたとしたら、その不利益や不幸、災難や難問はさらによくない方向へと勢いを増していく。
人は生まれてこのかた、いろいろと紋切り型に反応することに慣れてしまっているのだ。
ゴキブリでも毒キノコでも、幼いころはものめずらしく平気で触っていたとしても、ゴキブリは汚いとか、
噛むとか(実際ゴキブリは噛む。私のオヤジが噛まれた)、触ったらかぶれるとか、食ったら死ぬとか、周囲の者が異様にイヤがる・怖がるといった状況を見せつけられていくうちに、自分も周囲と同じような反応をとるようになる。
そして、それはゴキブリや毒キノコに限らない。
だんだんと人は、外部からのネガティブな刺激に紋切り型の反応をしていくのだ。イヤなニュースには不満を、物騒なニュースには不安や恐怖を、侮辱には敵意を。
そしてそのネガティブな反応は、そのネガティブな事柄をますます強化し、その結果さらにネガティブな反応を示し、さらにさらにネガティブな事柄を招いていく。
普通は、ここまでひどいことにはならない。たいていどこかでネガティブな現象に負け、力尽き、それ以上ネガティブな事柄と闘う気力も失せて、事実それ以上、自分のエネルギーをネガティブな事柄に補給してやることもなくなるので、そのネガティブな現象も急速に収束しはじめ、ことが好転し、納まってしまうからだ。
あるいは途中で、どうにでもなれ!とばかりに開き直ることによって、同じようにことが収束していく。すべてはエネルギー、周波数、振動、何と呼んでもいいが、そのあたりのしくみ、事情を知ってさえいればわかることなのだ。その知識さえあれば、少なくとも取り返しのつかないことになることだけは、絶対にない。
紋切り型の反応は習慣となり、習慣は思考を乗っ取ってしまうのだ。
ことのはじめは、ネガティブなことに関心を示し、紋切り型に反応し、ネガティブな感情を発したことだった。ちょっとしたことでも、人はすぐにイラ立ったり心配したりしてしまう。これはワナだ。そう思ったほうがいい。私たちはすぐに “何ものか” の挑発に乗ってしまう。
“何もの” とは何ものか?
これはまた小難しい話になるので、またあとで書くことにする。
とにかく、まず私たちはその挑発に乗ってはならない。だから、特にネガティブな事柄に接したときは、私たちは最初の反応に気をつけるようにしなくてはならないのだ。
本当はコトントロールしなくてはならないのだが、それもまたあとで書くとして、さしあたっては、ネガティブな事柄に紋切り型にネガティブに反応しない、ということで十分だ。
感情や関心は、思考の流れを一定の方向に固定する。あるメロディーを聴いたり、口ずさんでいると、そのメロディーが頭から離れなくなることがある。あれと同じだ。
そのメロディーが頭で鳴ってるうちは、つまり囚われているうちは、そのメロディーに支配される。思考の流れを固定されてしまうのだ。
同じように、ネガティブな事柄にネガティブに反応すれば、ネガティブな事柄に思考の流れが固定され、さらにネガティブな事柄が現実化されてしまう。
先のメロディーの例で言えば、そのメロディーを放り出すには、ほかのメロディーに関心を移すしかない。
たとえば、夕焼け小焼けの赤とんぼ ♪ と口ずさんでいたら、どうにも頭からな離れなくなってたところに、エルガーの「威風堂々」が大音量で流れてきたとしたら、夕焼け小焼け ♪ を保つことはかなり困難になる。
ここに対象との関係性を変えることに関するひとつのヒントがある。
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ゼランドは習慣は快適さの幻想だと言う。
人は昔からよく知っているもののほうに信頼を抱くのだ。新しいものはすべて心配のタネになる。
古いものにはなじんでいるので、人はその効能や欠点を熟知している。これは知性的と言われる人ほどそうだ。だから知性的と言われる人ほど、実は常識とか科学、論理に囚われている。知性的と言われる人ほど、理性を恃みにし、理性を絶対視している。
しかし、理性はこれまで築いてきた経験や知識の中から、順列・組み合わせで物事を推し量ることしかできない。新しいことを創造することはできないのである。
そして、理性が頼りにする過去からの経験、知識というのは、魂が理性に邪魔されずに築いてきたものだ。理性はあとからそれに理屈をつけるだけである。
普通に会話したり、つき合ったり、酒を酌み交わしたりしてきた知性的なはずの相手が、ある新しい考え、可能性、事実などに話がおよび、それがその人の常識、科学、論理に見合わないとすると、猛然と批判し出すことがある。
相手の話を吟味しようとはせず、まず否定し、いかに自分の言ってることのほうが正しいかを強圧的に相手にわからせようとする。
つまり、紋切り型に反応しているわけだ。だから、知性的である、知的に見えるということも意外にあてにはならず、実は非常識なこと、相手の突拍子もない言動に接したときのその人の反応で、その人が本当に知性的かどうかがわかる。
ここでゼランド本人の言葉を引用してみよう。
いわゆる賢いといわれる人々の秘密は、意識性にある。
頭脳の明晰ぶりは、意識性の度合いで決まる。
明快に思考し明快に話す人々もいれば、
頭の中がこんがらがっている人々もいる。
頭の切れる人もいれば、頭の鈍い人もいる。
これは知能の発達のレベルではなく、意識性のレベルが異なるからだ。
頭の切れがよくないというのは、「何も知りたくない、私を放っておいて!」
とういうように、望ましくない情報からの心理的な防御だ。
反対に、頭の切れがよいというのは、
「全部知りたい!」というように、率直さ、旺盛な探究心、
情報を受け取って処理する願望だ。
そしてゼランドは、頭の切れがよくないということは、心理的発達の遅れによる結果である場合があるという。それは、たとえば幼いころに強制的に何かを勉強するようにされて、心理的な圧迫を受けたことが原因だというのだ。
そうした心理学?的なことはともかく、まずは意識的であること、ネガティブなことに紋切り型に反応しないことにカギがある。
じゃあ、否定的なことに接したときにどうするのかだが、先にも書いたように、正反対の反応をすればいい。
そんなことができるのか?とも言われそうだが、意識的であればこれは簡単にできる。
具体的に見る前に、もう一度 “重要性” に関して検討する必要がある。ここに、それこそ重要な “知識” があるからだ。
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