だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編⑥

“重要性” に関して、もう一度検証してみたい。

『世界の創造~ゼランド編③』でも書いたように、“重要性” は、ある対象に過度な “意義” を与えた結果、生じる。

エネルギーのレベルで言えば、すべての物質的対象は同列だ。そこに何かしらの “質” や “意義” を与えるのは私たちだ。

善=悪、楽しい=悲しい、美しい=醜い、単純=複雑、などなど。そうした “評価自体” は、エネルギーの場に偏りは創らない。

③ の章でも取り上げた、部屋の中に置いた長い板切れの例でも、部屋の中に置いてあるぶんには、その上を歩くは何てことないが、2 棟の高層ビルの屋上に架かった板切れの場合は、そうはいかない。2 棟の高層ビルの場合、板切れを渡ることに大きな意義が生じるからである。板切れから落ちたら、取り返しのつかないことになるからだ。

部屋の中の板切れの上に立っている場合でも、2 棟の高層ビルに架かった板切れの上に立っている場合でも、
板切れの上に立っているということでは、エネルギーレベルで言えば同列だ。

しかし、高層ビルに架かった板切れの上に立っている場合、恐怖によって “緊張” が生じ、思考エネルギー、感情エネルギーが、エネルギーの場に異質性をもたらし、エネルギーの偏りを形成する。

自然はその偏りを解消しようとするので、その偏りを発生させた原因、つまり板切れに乗っている者の緊張、つまりその者の思考エネルギー、感情エネルギーをなくそうとする。

結果、その者をその場で落とそうとする力が働くか、その者が意識的に思考をコントロールして緊張を解消し、無事、あるいは悪戦苦闘して渡り切るか、引き返すかのどちらかになる。

もちろん、板切れにしがみついて、誰かが救助にくるのを待つ、というバリエーションもあるし、その他、無限の可能性があるが、ここではわかりやすい例として挙げている。

余談だが、緊張とは筋肉の収縮だ。不安や恐怖、怒りなどを発すると、無意識に体のどこかの筋肉が収縮して、緊張する。緊張は、先の例のように、ますますエネルギーの場に偏りをもたらすから、不安や恐怖、怒りがますます強まる方向へと、エネルギー=現実化が動く。

だから、逆説的に言えば、全身の筋肉を弛緩することができれば、不安や恐怖、怒りは解消するのである。よく何かのイベント(大勢の前で何かを発表するとか、試験のときなど)の前に、大きく深呼吸をするといいと言われるのは、緊張を和らげるために、筋肉が弛緩するからである。

そして、その不安や恐怖、怒りは、失敗したらどうしよう、失敗したらみんなに笑われる、プライドを傷つけられた(自分で巧妙に隠しておいた部分が露見してしまう)、といったように、理性が勝手に何かに必要以上に “意義” を与えていたことに原因がある。

とまた、脱線していきそうなので話を戻すが、先の “評価自体” は何も擾乱をもたらさないが、評価の対象に過度な意義を与えると重要性が発生し、エネルギーは、その重要性が解消される方向に必ず動くということだ。

評価自体が何ももたらさないという意味は、先の板切れの例で言えば、自分の部屋でのんびり寝転がっていて、目の前の板切れを見ながら、この上を歩くことは安全だが、2 棟の高層ビルに架かってる板切れの上を歩くとしたら、そりゃ危険だわなあと、評価を下すこと自体は何てことないという意味だ。

単純に評価をしてるだけなので、エネルギーのバランスには影響がない。危険だわなあ、という評価自体に過度な意義が与えられることが問題なのである。危険だから絶対に渡り切らなくてはならない、という大きな意義が加わると、恐怖と緊張によってエネルギーの偏りが生じ、偏りを解消しようとバランシングが起き、現実が動く。

だから、対象に重要性が与えられているということは、客観的な評価ができなくなっているということでもある。

必要以上に対象を崇拝すれば、つまり必要以上にその対象に重要性が与えられていれば、その対象に必要以上の威厳が生じるし、必要以上に憎悪すれば必要以上の欠陥が目につき、必要以上に恐怖すれば必要以上の畏怖が生じる。

思考エネルギーは、実際は何も存在していないところに、ある “質=重要性” を与えてしまうことがある。その結果、エネルギーの偏りが生じ、エネルギーの場はその偏りを解消しようと動く。

つまり、必要以上に崇拝していた相手からは、今までの崇拝を地に落とすような、何かひどくがっかりするようなことをされたり、あるいは目撃したりする。

なぜなら、本来は一般的な評価に見合うだけの “普通” の人である相手に、必要以上の意義を “勝手” に与えたのは私たちなので、エネルギーの場が私たちの思考エネルギーの偏りを解消するためには、本来、普通の人である相手の意義を高めるようとするよりは、私たちにとって相手の意義が下がるような言動を相手にとらせるほうが効率がいいからである。

自然は無駄なエネルギーは使わないのだ。

同じように、必要以上に憎悪、恐怖、畏怖を感じている相手からは、やはり徹底的に気に食わない仕打ちを受け、観念して奴隷のようにならざるを得なくなって、私たちの感情や思考能力を奪われるか、あるいは職場なりその環境から、私たちが追い出されるような現実化が起きたりする。

そうやってエネルギーの場は、私たちの思考エネルギーの偏りを解消するのだ。

ここで重要なことは、エネルギーの場には、善悪の判断はないということである。ただの言ってみれば力学的な作用なのだ。

実際、気圧差は風によって均一化されるし、気温差は熱交換によって調整される。こうした「平衡移動の法則」は、物理学でも「ル・シャトリエ‐ブラウンの法則」として知られている。

だから、エネルギーの動き=現実化を私たちの望む方向へと導かなくてはならない。そして、その方法はあるのだ。

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