人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、
1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」
について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。
〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第61回
「生身の人間に還る!」
ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2016年9月10日 東京・八王子「鳥良商店」にて収録
※冒頭近辺、ヤスさんのDNAセンサーに関する発言部分に、補足・修正がありました。もう少し具体的にしたということです。20161009:記
西塚 みなさん、こんにちは。『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の61回目です。今日はまた、八王子にやってきました。ヤスさん、よろしくお願いします。カンパーイ。
ヤス どうもどうも、もう酔っぱらってますけど(笑)。
西塚 さっきからちょっと、先日の新宿のロフトプラスワンのトークイベントの話をしていました。
ヤス 角田氏の話ですが、人間には8種類の色があって、色が違うと人間のタイプが違うということですね?
根本的に人の種類が違う!?
西塚 そうなんです。人間は原初、8種類の星からやってきたといいます。それを8色としてるようですが、僕からすれば、それは振動数とか周波数、いろいろ言い換えは可能なんじゃないかと思います。
ヤス 僕もですね、ある筋から同じようなことを聞いたことがあります。今、人間の性格の基本的な特性は、DNAによって決定されていることが明らかになっていますよね。たとえば、脳内には、やる気を起こさせ楽観的な気持ちにさせるドーパミンや、逆に落ち着かせて慎重にさせる、セロトニンといった脳内物質が存在するのですが、これに対する敏感さを決定する特定のDNAがあるのですね。こうしたDNAから見ると、人の基本的な性格は次の4つのタイプの分類できるといいます。
1)楽観・新奇性型
柔軟な挑戦者のタイプ
2)慎重・新奇性型
慎重なリーダーのタイプ
3)楽観・地道型
明るくおっとりとした母親タイプ
4)慎重・地道型
誠実な役人タイプ
で、実際にDNAを検査してもらうと、自分の自己イメージとはかなり異なった結果になることもあるようなんです。ディーエヌえーバンク・リテイル沖縄研究所というところでオンラインで申し込めば、8400円くらいで判定してくれるはずですよ。やってみたいですね。
さらにですね、細胞内に外部から入って来た異物のDNAを探知するDNAセンサーというのがあるのですが、それにもっとも微細に人間のキャラクターを決定する機能があるのではないかとも言われています。まだ、われわれの科学では発見されていない。キャラクターを決定するそのDNAセンサーが違えば、わかり合うということ自体の意味が変わってくる。根本的に人間の本質が違うんですね。
西塚 なるほど。
ヤス だから、DNAセンサーが違うんだから、しょうがないでしょうと。わかり合うとかの次元ではない。
西塚 そうですね。今の世の中が不平等だというのは、もうある一定のルールができてしまってるので、みんながそれに合わせようたって、無理な人もたくさん出てきますね。本来は8種類の星かどうかはともかく地球に来て、いっせいのせではじまってるんですが、それぞれ青なら青のタイプ、赤なら赤と役割があって、それぞれが自分の役割をまっとうしていけばいい。
だから自分の色を知って、自分のタイプなり役割でやりたいことをやっていけば、おのずと同じ色が集まってくるし、それぞれに合った色が有機的に調和する方向にいくはずなのに、そうはならないように支配されている。
次に日本(赤)の位置が真南にくる危険な年は2019年だから、それまでに早くみんなに知らせたいということで、角田さんも本を書いたり、先日の新宿のイベントにも参加されたわけです。僕もそれを理解していたので、ああいう平場で、トークイベントみたいなことをやろうかなと思ったんですね。
僕の中では一応、大きな存在としてロシアの元・量子物理学者、ヴァジム・ゼランドがいます。彼もある日、夢を見て、“監視人”と称される老人が現れて、一連の「トランサーフィン・シリーズ」を書かされて活動してるわけですが、ビリー・マイヤーにしても、セミアーゼやプターなどの存在がいますね。角田さんにしてもそうです。ほかにもたくさんいますが、僕の中では共通するものがあって、リンクしてくるんです。そこが興味深いんです。
ヤス 確かにそうですね。
西塚 これはいったいどういうことなのかと、僕なりにまあ、融合というか、体系化しているところです。そういう活動のつもりなんですね。でも、誤解されやすいし、危ないんです、確かに(笑)。
ヤス そうですね。西塚さんが思ってるような“つながり”を、説得力を持って語るようなプラットホームが必要かも知れませんね。ちゃんとそれを押し出せば、だいたいわかると思います。
西塚 今回も僕は、相変わらずぶっつけ本番というか、やりながら痛い目を見ないとわからないところがあるので、それでも見えてきたこともあるので、今後も僕なりに発信していくつもりです。
“認識対象”と“ズレ”の感覚
西塚 この間、大学4年の娘が映画の『シン・ゴジラ』を観てきて、あれはおもしろかった、すごくリアリティがあった、というようなことを言ってたんです。どういうリアリティだって聞いたら、今の日本の縮図なんじゃないかというようなことを言う。
僕は映画を観てないのでわかりませんが、ゴジラが現われて政府がそれに対処するという話のようで、2011年の3.11のときの政府の対応を思わせるようなリアリティを感じたと言うわけです。
そうしたら、宮台(真司)さんが『シン・ゴジラ』について論評してるんですが、そのことについても言う。宮台さんの論評は後半、同じ庵野(秀明)さんの作品の『新世紀エヴァンゲリオン』との関連で興味深いことを書いてらっしゃるんですが、娘も確かにそのとおりだとは言うんですが、感覚的に古いと言うんですね(笑)。わかるんだけども、いつの話を持ち出してきて結びつけているんだろうと、ものすごく違和感を持ったと言うわけです。
僕はそれがおもしろくて、まあ単に娘に教養がなくて、理解できなかっただけなんですが、でも娘だけではなくて、同じ若者たちにもある種共有されてる感覚で、同じように反応する連中もいくらかはいるんじゃないかと思うんですね。
僕が何がおもしろかったかというと、この『おやスピ』でもかつてヤスさんと話したことと結びつくかなあとも思うんですが、過去から培われてきたいくつかのパラダイムがあるとして、そのパラダイムを駆使して、ものすごく洗練された言辞として分析を加えて表現していくことに長けてる人たち、まあ俗にいう頭のいい人たちがたくさんいます。
経済評論家でも文芸評論家でもいると思いますが、新しい現象に出逢ったときに、その現象をかつてのパラダイムの中で見事に解釈し、組み立て直し、それなりのものを構築していく。その職人的な手つきが優れていれば、それがまたすんなりとみんなの頭に入っていくということは確かにあるし、意義もあるし、基本的に僕はすばらしいと思います。
と同時に、これまでのパラダイムとは何かが違う、何か納まらないんじゃないかという感覚、それを娘なんかは違和感として感じたのかなあと。それは何なのか。宮台さんの優れた文章もそのとおりだし、おもしろいけれども、何か古いと感じてしまうという。それはどう思いますか?
ヤス いや、そうだと思いますよ。宮台さんに限らず、彼らが目指しているものは、わかりやすさだと思うんですね。わかりやすさとは何かというと、やはり既存の論理的な枠組みを適用して、論理的に整合性のとれる意味を発見することだと思います。あらゆる対象に論理的に整合性のある意味を発見するという、これがある意味で社会科学といったものの王道にあることだと思う。あらゆる対象に適用可能な原理を適用して、その現象にどのような意味があるのか、論理的に一貫した意味を見出すことですね。
ただ問題は、その土台として使われている論理が何なのかということです。社会科学の理論に力点をおけば、社会科学によって解釈されるような、または社会科学のモデルによって解釈されるような現実の対象というのは、果たして現実そのものなのかどうか。
そうではなく、社会科学にもいろいろな理論がありますが、それを適用して、論理的に一貫性があるように解釈された現実というのは、社会科学の理論が創り出した“認識対象”という生産物ではないのか。その認識対象という生産物は何か。フィクションですよ。
西塚 そうですね。
ヤス そういった意味では、宮台さんもフィクションの生産の職人ですね。
西塚 優れた職人ですね。
ヤス すごく優れた職人です。しかしながら、それがフィクションであるということを、同時代に生きてる人間は簡単に見抜いたりする。
西塚 僕も娘の話で興味深く思ったのはそこで、今ここでゼランドの話を持ち出してもしょうがないですが、理性というものは過去からある積み木を使って、いろんなものを組み立てることしかできない、という言い方をするわけです。新しいものを創り出すのは、まあ、それは魂からくるものだという話になるのでちょっとおいときますが、理性は古い積み木をいかに組み合わせて説明していくかという、その構築力はあるんだけども、簡単に言えば、新しいものを生み出すことはまったくできないというわけです。
でも、これには何かを感じた!という、たとえば『シン・ゴジラ』でもいいですが、新しい現象、芸術作品みたいなものに出逢ったときに感じるものというのは、おそらく既存の知的な枠組みからは説明することが難しいというか、相当無理があってですね、ひょっとすればその新しさを認識する前に、古いものに貶めていくということにもなりかねないのではないかという気がします。
ヤス たいてい、そうなんですよ。すべて古い論理のモデルに流し込んで、論理が一貫したような解釈を与えるわけです。認識対象として論理が一貫して、矛盾のない世界になるわけです。これはこういうような意味だ、ということになる。本来の新しいものを創り出す感性というのは、そこにズレを感じるものだと思います。
西塚 そう思いますね。
ヤス 圧倒的なズレ。どういうようなズレかというと、それはそうではないんじゃないか、というもの。感覚的に何か違うという。ある理論的なモデルを土台にして認識対象としたんだけど、現実そのものからすごくズレてるという直感ですね。
西塚 認識対象からハミ出してるものですね。
ヤス そのハミ出してるものを、“何か違う”のままおいとくだけでは、新しいものにならない。ハミ出した部分をまた言語化するときにですね、今まで認識対象として理論化していた理論のモデルの中に、言語として送り込むんですね。そうすると理論がぶっ潰れるんですよ。
西塚 おっしゃるとおりだと思いますし、言語活動は言葉という手段を用いるしかないんですが、少なくとも新しいものに出逢ったときは、それまでの論理の枠組みとか、パラダイムとか、常識というものをいったんはずしてですね、結局は、新しくそれに見合ったものを構築するしかないと思うわけです。言葉を材料にするんだけども、既存の論理や方程式ではなく、新しい論理や方程式を創っていくという言語活動をしていくしかない。
ヤス そうです。その最初の言語活動は、違和感というだけでは新しいものにはならない。でも、違和感は出発点だから、なくてはならいんですね。そして、土台になってるのが社会科学であれば、社会科学の理論にまで送り返す。すると、その違和感が“問い”になるわけです。社会科学のモデルでは答えられない問いになる。
西塚 “否定”にもつながる話になる。
既存の理論に“問い”を送り込んで打破する
ヤス 答えられない問いをあえてする。そして、答えさせようとしたときに理論そのものがぶっ潰れていくんです。ぶっ潰れるときに、じゃあ、これに答えられるような理論を構築するとしたらどうなるのか、ということで新しい理論につながっていく。
西塚 そうですね。そこで邪魔をするのがかつての理論だし、そこにしがみついているのが、いわゆる頭の固い連中というような言い方になるんだと思います。手段としては言葉しかない。本を書くなり論文を発表するにしても、ツールは言葉でいいんだけども、邪魔をするのはかつてのパラダイムなり論理だと思う。
新しいものに出逢ったときは、既存の枠組みの中で無理やり解釈するだけではなく、こういう論理であれば説明できるというものがある場合は、その論理がかつての論理と矛盾したり、仮にトンデモ話になったとしても、やはりそれは認めていくしかないでしょう。
だから、新しく構築される論理、かつての論理からすれば矛盾する論理でも、そこは両方を見る目をわれわれが持ってないと、新しいものは表現できないということになってしまう。
ヤス もっと言うと、両方の目を持つと同時に、絶えず身体はズレの側におくということですね。
西塚 ああ! いいことおっしゃいますね(笑)。それは合気(柔術)にもつながるし、ゼランドのトランサーファーにもつながるといってもいいですが、その感覚の説明はけっこう難しい。その身体感覚はズレのほうにおきながら、論理をどうするかというときに、少なくとも過去の論理は関係ないというか、放擲すればい。
ヤス ある意味で、それを最初に言ったのがアルチュセールという哲学者で、1965年に『資本論を読む』という本を書いてるんですが、マルクスがどのように古典派経済学を打破していったか、ぶっ壊す過程を再現したんです。それが、今言ったような過程です。マルクスがどのように問いを発したか。
マルクスは、古典派経済学による予定調和的な世界観に納得しなかった。そうすると、彼らをぶち壊すような問いを発するわけですよ。答えられないだろうと。答えられないような問いを古典派経済学に送り込むことによって、その問いは古典派経済学を内部から破壊するような問いになる。それに答える過程で、いわゆるマルクス経済学の論理ができ上がってくる。
言ってみれば、問いによる理論的なモデルの打破と、それによって新しいものが構築されていく生(なま)の過程を追っていった本ですね。
西塚 アルチュセールは読んだことがないですが、スリリングな本ですね。
ヤス スリリングです。アルチュセールのあとにジュリア・クリステヴァとかね、後輩が続いていって、ポスト構造主義ができ上がっていくんですが、理論ではなく、もうズレの戯れの中に身をおくしかないだろう、という考え方になる。
だから、理論を結合してね、認識対象を生産することそのものが無意味なんではないかと。ズレを発見しろと。ズレを発見して、そのズレを言語化することが、クリエイティブの一番のポイントなんだと。あなた自身が運動しろということです。
西塚 そこは僕も同意できるところです。僕の拙い理解で言うと、その後のポスト構造主義では、そのズレを認識していく身体感覚は、結局といいますか、80年代に入ってある種の相対主義の地獄に陥っていった気がします。全体性を求めないでズレまくっていった結果、ズレまくること自体は否定しませんが、すべてを相対的にとらえることになって、すべてを決定できなくなっていくわけです。
われわれは生きてる以上、そのつど何かしらの選択をし、決定をして生きてるはずです。その決定性と安易な相対主義の境い目というか、そのあたりのことは、日本で言えば、ニューアカブームのときに西部(邁)さんとか中沢(新一)さんなんかが介入していた記憶がありますが、結局は落とし前がつけられないまま、なしくずしになっていったという印象があるんですね。
だから、相対主義の地獄から抜け出せずに、何も選択・決定ができなくなって、本当にデラシネになっていって、それこそ藻のように、浮き草のように生きていくしかなくなっていく。藻のようになれば、社会の支配層でもいいんですが、大きな大きなエネルギーに翻弄されるだけの人生になっていってしまう。それが今にいたるまで続いていると思うんです。
だから、ここにきてもう一度新しい哲学なり、新しい精神性を構築していかなければならない。そういう過渡期にいる気がします。そこに、たとえばビリー・マイヤーとか、あまり話を拡げてもいけないですが、あらためて見直す必要があるものが出てきているんだと思いますね。
“意味生産”の過程が、趣味の世界から生活世界に移行した!
ヤス おっしゃるとおり、その流れだと思います。僕も完全に同意します。構造主義とかポスト構造主義そのものが、相対主義の地獄の中で行き詰まっていくわけですね。言語を構築しないわけです。ただ、行き詰まってはいたんだけど、彼らは行き詰まりとして自覚はしていた。どういうことかというと、自分たちのことを原理だとは思ってないんですね。
われわれは、意味生産の過程をわかりやすく論理化しただけなんだと。意味生産とは何かというと、ある対象を認識するために構築された理論を、ズレの感覚から問いを発することによって打破していく過程なんだと。すべての領域において、この意味生産が行なわれていることを明らかにしただけなんだ、というわけです。
だから言ってみれば、自分たちには原理を打ち立てようとする意図そのものが、初めからないということだと思います。
西塚 それは、どういうことだと思いますか?
ヤス 永遠の脱構築ですよ。
西塚 永遠の脱構築は、それこそキリがないわけですね。たとえば量子物理学にしても、ひも理論からメンブレンまで、要するに新しい理論が構築されるたびに、またそれと矛盾する現象が出てきて、またそれをカバーする理論が出てきてという、その追いかけっこで、本当にどこまで行くんだろうという感じですね。
僕はビリー・マイヤーの書籍にもあるように、実はゼランドも同じようなこと言ってるんですが、一番興味があるのは認識活動の運動そのものです。先ほどの身体感覚の話にも通じますが、その運動に身をおいたときの思考というものに一番興味がある。そこからしかもう、新しいものは出てこないという感覚があります。
ヤス そうなんですよ。80年代とか、90年代の初めってまだ幸福な時代でね、まあ僕なりの言い方をすれば、ポスト構造主義が破綻してもよかった時代なんですね。どういうことかというと、ポスト構造主義は思考のゲームとしてやってたわけです。思考のゲームとしてやれた前提は、どんな先進国でも社会的経済的システムがえらい安定してたわけです。盤石だった。
日本では終身雇用制の世界だし、年功序列の世界。欧米でもやはりキャリアを中心とした世界であって、大学でそれなりの学位をとってキャリアを作るんだけど、キャリアもちゃんと尊重された。30年40年、ヘタすれば50年間、同じようなキャリアでも生きていけた。えらい安定した生活世界だったわけですね。
そこでは意味生産の戯れなんてことが、われわれの現実の日常生活に影響を与えようもない。だから、いわゆる脱構築と新たな再構築、そうした意味生産の実践の過程は思考の現場だけに限られていて、ひとつのある意味で贅沢だったということですよ。そういう思考の現場であれば、破滅を語ることもできれば、崩壊を語ることもできれば、脱構築を語ることができる。
西塚 その影響で、『エヴァンゲリオン』も出てきたんだと思います。
ヤス 破滅してもよかったんです。問題は、今はそうではなくて、意味生産そのものが、われわれの生活世界の内部に移行してしまったということです。そこでは、安定した社会的経済的な体制とか、安定した日常生活のシステムはなかなか成り立たない。また、SNSを中心とした意味生産の拡大作用がどんどん働いてきて、意味生産が活性化すれば、われわれの日常生活そのものを根底から崩壊させかねなくなっている。
西塚 かつてのニューアカブームは80年代初期、バブルに差し掛かっていく時代でしたが、あれは思想自体が、ある種の嗜好品として消費されていたというだけの話かもしれませんね。まあ、だけとは言わないけども、その要素は相当強かったのではないか。
ヤス そうです。しかし今は、思想が消費されているような段階、ズレが大事だ、意味生産が大事だ、『エヴァンゲリオン』だという段階ではない。そうではなくて、意味生産の破壊的な流れ、与えられたシステムの中で構築された意味に対するズレというものが、あらゆるネットワークから簡単に生じて、脱構築されて、新しいものに創り変えられていく。その不断の過程が、われわれの日常生活の最前線の中に入ってきてます。
西塚 僕の好きな評論家に小林秀雄がいて、『様々なる意匠』という作品でデビューするんですが、やはりそこに立ち戻らざるを得ないようにも思います。でも今は、その“様々なる意匠”をどのようにして実生活に結びつけていくのか。これだけインターネットが普及し、SNSも当たり前ですから、世界がもう身近なんですね。そこで何を構築していくかというときに、何かの基準みたいものが必要になってくると思いますが…
ヤス 必要というか、今のところないんですよ。
西塚 だからこそ、必要だということでしょうか?
ヤス そうですね。安定したものをみんな求めてるんです。たとえば、YouTubeで生活してる人たちがいるじゃないですか。
西塚 YouTuberですね。
ヤス ある意味で典型だと思うんですが、基本的に自分でビデオを撮って流す。アクセス数が少なかったら、どんどん作り変えていく。こういうものを作ってくれとか、こういうものはダメだというダメ出しとか、コメントでさんざんくるわけですね。コメントに従ってどんどん作っていくとなると、そこにはひとつのものを作り上げて、また脱構築されて、また作り上げられてという、永遠の意味の生産の過程が循環していくわけです。
西塚 実は息子が今、YouTuberっぽくなってるんですが、ちょっと悩んでるようで、まあ、お金が入ってくるわけですが、コメントに左右されるとダメらしいんですよ。とにかく自分がやりたいことだけを出していく。それで集まってくる人たちだけでいいと。それぞれタイプがあるんでしょうが、コメントとか視聴者のニーズに応えて、ある作品を変えていく。脱構築というよりは、微調整をしていく。
ニーズは際限もないだろうし、場合によっては、また元に回帰していくということもあるでしょう。そういうニーズに合わせて作品を作っていって、お金にしていく人もいるでしょうが、その活動は僕から見ると虚しくてですね、ある種の自動マシーンのように映るんです。
ヤス 意味の生産過程ってそうですよ。自動マシーンですから。ひとつを作り上げて、脱構築するかもしれない。あるいは何かのズレを感じて、別のものを作り上げる。それは、ものすごい早いサイクルですね。コメントといったものが起点となって行なわれる場合もあるでしょうし、そうでない場合もある。
いずれにしろ、僕が言いたいのは、かつての80年代のニューアカ時代、ポスト構造主義では、本当に嗜好品としての思考巡り、思考ゲームであったことが、今はわれわれの日常生活の一部、現実になってしまったということなんです。
西塚 そうですね。しかも、ある種のファッションだった。『おやスピ』でもよく出てきた、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に通じるものもありますね、ニューアカブームというものは。今は確かにそんなことを言ってられない。ヤスさんがおっしゃったように、あのときは経済的にもいい時代だった。
でも、あの時代の日本の思想状況がどうであったか、ニューアカだ、ポスト構造主義だという連中もいれば、片やディスコで踊ってナンパしてる連中もいた時代です。それを経済学や国際情勢レベルから、現象として見るだけでなく、そのときの若者からオヤジにいたるまでの頭の中の状況を哲学的に分析して、まとめた本ってないんじゃないですか? ありますか? 要するに、もうちょっと落とし前をつけたほうがいい気がするんですが…。
ヤス いや、僕もそう思う。多くは宮台さんのような、ひとつの理論的なモデルを前提にして意味づけをしていく本ですね。それは僕はあまり興味がないんです。なぜかというと、これこれこういう理論的なモデルだとか、そういう結論にしかならないだろうと思うからです。僕はやはり、ズレを発見していくこと、ズレこそが、どれだけ現実感覚を持てるかを決めると思うんですね。
西塚 僕は当時、浅田彰の言ってることでおもしろいなあと思ったのは、都市の話、東京の話だったんです。東京にはいろいろな街があり、ファッションがあり、表層的な構造がありますが、レイヤーのある段階を見れば、都市としての地下構造があり、さらに下部には下水構造があるわけですね。そういうふうに視点を移していけば、ガラッと見え方が変わる、世界が変わるというようなことを話していた。それは非常におもしろく思いました。
浅田さんは、フランスを中心とした当時のヨーロッパの現代思想、最先端の思想をチャート式に紹介したという功績は大きいんでしょうが、あまり僕は興味がなかった。むしろ『ヘルメスの音楽』のような、僕は散文詩だと思っていますが、ああいう浅田さんの感性のほうに惹かれましたね。
ヤス 今の東京の地下世界の話とか、視点が変わる話ですが、視点を変換することが、実は思想的なおもしろみになるんだと。それがひとつの消費文化になるんだよと、提示したということだと思うんですね。言ってみれば、思考の趣味の範囲で済んでいた。なぜ、思考の趣味の範囲で済んでいたかというと、日常生活の根底を支える社会システムが徹底的に安定していたからです。
われわれは今、そうじゃない。意味生産の戯れというものが、まさに現代に生きているわれわれの社会システムの根幹に入り込んでいるわけです。
西塚 ニワトリとタマゴになるかもしれませんが、われわれは、生活基盤というものがもうずいぶん前からグラついてきている中で生きていて、社会システムの矛盾というか亀裂から噴出しているある種のネガティブなエネルギーみたいなものが、われわれの思想やマインドをまた変えはじめているという気がします。
これからは、何となくモヤモヤッとしたまま微調整されつつある、このわれわれのマインドが重要であって、このままだととんでもないところにいく可能性もあるわけじゃないですか?
ヤス いや、いきますよ。極端に言えばね、人間の大脳が持っている可能な限りの、あらゆるタイプの意味を生産する方向にいきますよ。それはものすごく残虐的な、暴力的な意味もあるだろうし、そうではなく、びっくりするぐらい超越的な意味でもあり得ます。言ってみれば、人間の大脳が何をできるのかという、実験場にいるわけですよ、今。
西塚 一番いいのは、ものすごくシンプルにみんなが和気あいあいと、ひと言で言えば、平和に住めばいいんだけども、おそらくそう簡単ではない。
ヤス それをね、倫理として出すとすぐ脱構築されますよ。それを意味として提示したとたん、すべて脱構築される。何かしらの倫理的な規範を提示すると、意味生産のサイクルの中に搦め取られて全部、脱構築されるんです。
西塚 そうですね。
ヤス とは言え、意味生産の戯れのサイクルに乗っていかないと、飯が食えないという状況にもなっている。
自分に対する“意味づけ”
西塚 そこで、また戻るようですが、僕はやはり重要なのは身体感覚だと思うんですよ。身体感覚という言葉も適当かどうかわかりませんが、スピ系なんかだと、たとえば直感とかですね、感覚、感情、考えるな感じるんだ!というようなことに巻き込まれるので、何とも難しいんですが、もう少し言葉でわかるような形で打ち立てなければならない。身体感覚、感覚というものは、相当に重要だと思ってます。
ヤス だと思う。僕は最終的には、基準点は出てくると思うんですね。今言った80年代のニューアカブームから、現在までをひとつの歴史的な状況として立てると、かなり単純でわかりやすいと思う。
80年代は、意味の生産性の戯れというものが思考レベルに留まっていた。そしてそれは、安定した日常生活を支えていた社会経済システムには、いっさい影響を与えなかった。知的な趣味としての戯れだったんですね。
西塚 ファッションですね。
ヤス ファッションレベルでは、破滅しようが何しようが関係ない。日常生活が安定してるからです。しかしながら、そのファッションレベルで見出した意味の生産の戯れは、特にインターネットでSNSを中心にえらい拡大して、やっぱりグローバリゼーションによる経済社会の崩壊ということがありますから、その戯れが日常生活の中にまで入ってくるわけですね。
具体的にどういうことかというと、終身雇用制が崩壊する。今まで長年就職していた会社から放逐される。そうすると、全然違った状況が待っている。労働市場の中で生きていかなくてはならないわけです。自分が培ってきたスキルをいかに商品化するかが問われる。そうすると、相手が求めるような商品になっていかなくてはならなくなる。
どういうことかというと、自分を今までとは違った何者かであると、自分を演出しなければならなくなるわけです。これができますよ、あれができますよ、というふうに。そうしなくては売れないわけですから。それでどこかで自分が売れて、就職できたりする。すると、そこもどんどんダメになったと。ダメになったら別な環境で、また自分を別の何者かとして演出せねばならない。
それは、永遠に自分を意味として生産し続ける過程ですね。つまり、80年代のニューアカブームにおいては思考で行なわれていた過程が、今はまさに現実の生活レベルまで降りてきたということですよ。
西塚 それはおもしろいですね。ファッションだからこそ着せ替えが可能だった思想と同じように、今は生身の人間が就職という形で自分の価値なりを変えていかなくてはならない…けっこう厳しい、アイデンティティーに食い込んでくるような事態になっているということですね。
ヤス そうです。自分にどんな意味づけをするのか、それをマーケットでどのようにアピールするのかにかかっている。極端な例で言えば、たとえば自分は高校の教師だったと。高校が閉校して解雇される。ほかに就職もない。そういう人はどうするかというと、自分の持ってる能力を別の分野で使うしかないわけです。たとえば、自分は多くの人に対して積極的に講義を行なうことができる。そして、わかりやすく説明することができる。少なくとも、このふたつの能力はあると。
となれば、自分はいろいろな研修会社のプレゼンターとして役立つということになりますね。そこで研修会社に行って、私はこういう能力がありますよとアピールする。そのアピールとは、自分に対する意味づけです。意味づけとはまさに、ニューアカブームのときの意味の戯れですよ。脱構築して、また再構築するという流れですから。
西塚 たとえば、教師が天職というくらいにその人に合っていて、自分も喜びを感じている。でも、たまさか解雇されたりしたときに、別のところに行って、その能力をまた発揮する。それはそれでいいんじゃないでしょうか?
ヤス いい人はいいんですが、それができない人がほとんどなんですよ。
西塚 僕は、そのできない人というところに問題というか、テーマがあると思うんですが、本来はそういう人じゃなかったということにもなりませんか? 巡り合わせか何かで、たまたま教師になったんですが、実はそういう人ではなかったから、厳しくなるということじゃないでしょうか。
ヤス それはありますね。それはキツイです。だから、自分を何かの形で意味づけをして、新しい意味を見出して、自分を押し出すしかない。それがサバイバルの過程になってしまうということですね。
西塚 また逆に、閉校して、みんな教師がバラけたときに、本来的に教師の実力がある人はあっちゃこっちゃ行けるかもしれないけども、実力のない人は見透かされて、審査なり何なりに通らず、落とされていくということでしょう。
ヤス そうです。それがまさに、今のアメリカや日本で起こってる過程です。どんどん淘汰されていく。今までは能力があるないに関わらず、ひとつの社会組織に入って、そこで何十年も安定した仕事を継続できるという世界に生きていたわけです。若干、ボーナスの査定はあるかもしれないけれども、その人の生存を脅かすほどの能力の査定はない。でも、そうじゃなくなってきた。
西塚 となると、本来、その人は教師になる人ではなかったり、あるいは別の能力があるはずで、まとめるわけじゃないですが、今後は、本来その人が持っている能力は何なのか、ということが問われるということですね。
ヤス 本来、というものがあるのかどうかですよ。
西塚 ああ、それは難しい問題ですが、少なくとも教師ではなかったとか…
ヤス どのような存在として、自己を相手に打ち出していくのかということです。今の言葉で言えば、意味づけということになります。自分をどのような意味として再定義していくかということですね。変化しつつある外部環境に対して、自分に異なった意味づけを与えて、押し出していかねばならない。言ってみれば、これがまさに意味の戯れというか、80年代に思考のゲームしてやっていたことが、生きる現実になってしまった。
西塚 本当にシビアな時代に…まあ、とっくのとうに入ってるんでしょうが、ますます前面に出てきた。
宮台真司は“戯れ”を拒否したか?
ヤス そのような意味の戯れの中に、今の若い人は生きてるわけです。それで、オレはこれは無理だなと思うヤツもいれば、できると思うヤツもいる。少なくとも、これだけ変化の多い戯れの中で生きていて、どのような意味を発信して、自分をどう演出すればいいか、そこにすべてオレのキャリアがかかっていると思って、生きてるわけです。どこかに就職すれば、30年間ずっと安定するなんていうことは、みんな考えてないと思う。おそらくね。
西塚 根本的なことを言っちゃえば、自分には何ができるのか、という話になってきますね。
ヤス 基本的にはね。そのような状態から見たときに、僕は先ほど西塚さんの娘さんが言ったことも、もっともだと思うんです。宮台さん的な世界は、古く感じるんですよ。それは、思考のゲームとしてやってるんじゃないのかと。われわれが生きる現実をあなたは理解してないだろう、ということだと思います。
西塚 宮台さんの本なんか、いっさい読んだこともない21歳ですから、そんなことが言えるはずもないんですが…
ヤス 僕は、娘さんの言うことはわかる気がします。戯れの中で生きてる生活環境をよく知ってるんですね。前にも話しましたが、後輩の大学の教授がいて、すごく優秀なんですが、一緒に飲んだときに社会科学は無意味だと言うんです(笑)。認識対象の生産なんだと。そうではなく、ズレをいかに感じるかがリアリティだと。
西塚 なるほど。
ヤス だから高島、お前は学者にならなくてよかった。お前には、この道は合わないって(笑)。
西塚 ああ、そうですか(笑)。
ヤス オレがどれだけガマンしてるか、わかるかって(笑)。
西塚 いや、僕はですね、ヤスさんは教授になるべきだと思うし…
ヤス いえいえ(笑)。
西塚 いや、すべては個人からはじまるものだと思うので、ある大学が太っ腹で、学部を作っちゃえば変わるんですよ。僕はこれから、そういうことは相当あり得ると思ってるんです。仮に商売的なスケベ心からだとしても、ちょっとトッポいオーナーがおもしろいと思えば、すぐできちゃうことですから。
ヤス ちょっと話が飛ぶかもしれないけど、誰が戯れがうまい人で、誰が戯れがヘタな人かというのは、だいたいわかる。オレは戯れがうまいぜ、ということをトレードマークにしている人は古いんですよ。宮台さん的な人(笑)。
西塚 宮台さんは、そんなこと言ってますか?
ヤス いや、言ってないけど、自分は現代をわかってるという…(笑)。
西塚 僕は、『videonews.com』をずっと観てると、宮台さんは、自分ができることを徹底的に、ノスタルジーと言われようが何だろうが、自分の持ってるものを全部出すというふうに、むしろ決断した人なのかなと考えるんです。
ヤス なるほど。僕はちょっと違うのは、彼はかなり早いうちに戯れを拒否した人だと思います。
西塚 援交にしても、かなりフィールドワークをやってきた人で…
ヤス いや、あれは戯れじゃないですよ。与えられえた古い理論的な枠組みの中に、現在の認識対象を持ってきて、埋め込むという役割ですね。だから、認識対象は新しいんだけども、基礎となる理論はえらい古いものです。
西塚 遊んでいたように思ってましたが、ちょっと違うのかな…
ヤス 宮台さんは、戯れを怖がった人だと思うんですね。現代思想を大嫌いだと拒否するわけですから。思考のレベルでも趣味にしかすぎない、ニューアカ時代の現代思想を拒否するわけです。それは戯れの拒否ですね。嗜好的な趣味としての戯れもイヤだと。
与えられえた権威があるというか、確定した、安定した理論の中に認識対象を埋め込んで、論理的に一貫した整合性のある意味として生成しないと気がすまないと。だから、それを脱構築するという戯れのおもしろさを感じたとしても、自分はイヤだというタイプかなと思います。
西塚 そうなると、昔から脈々と、まあ世界中にあるのかもしれませんが、日本で言えば、日本のアカデミズムの中に延々とあるような、エリーティズムにつながる話で…
ヤス そうです。彼はそうじゃないですか。
西塚 そうですか?
ヤス エリーティズムじゃない? 古くさいじゃないですか。ごめんなさい、僕は宮台さんは尊敬してますが、90年代の終わりころに、ちょっと古くさいと思いました。マックス・ウェーバでも何でもいいんですけど、彼が準拠枠とする古い理論があって、その古い理論に極めて現代的な対象を当てはめて、理論を解説していく。そして、その現代的な対象のほうに自分を引き寄せるんですが、話している内容は古いと思うんですね。
西塚 ヤスさんがご覧になったかどうか、『videonews.com』で矢作直樹氏が出たときに、矢作さんは『人は死なない』を書いた方ですね、宮台さんの歯切れが珍しくものすごくわるいわけです。ご本人も、今回は一番苦手なテーマだというようなことを言ってました。簡単に言えば、幽霊の話ですね。でも話を聞いてると、宮台さんもいわゆる霊媒体質というか、その手の経験をされている。お母さまが亡くなったときの話なんかをするわけです。
ご本人も言ってますが、これはどういうことなのかといろいろ解釈するわけですが、あまり表立っては言わない。自分にもパブリックイメージがあるからと、はっきり言ってました(笑)。だからテーマとしては、苦手だということです。そこで矢作さんは何も言わないんですが、宮台さんは、僕は矢作さんの目が怖いとか何とか言うわけです。こいつは何を言ってるんだと、全部見透かされてるような気がするみたいなことを言う。もちろん矢作さんは、そんなことないですよと言うんですが、要するに、宮台さんのある種の弱点なんでしょう。
僕はそこに正直さを見ました。霊媒体質でありながらも、そういうことも既存の枠内で解決させているんでしょうが、ちょっと子どもっぽいところを感じました。でも、アカデミズムの世界では過激な言動をとる。そこにちょっと、人間・宮台真司を見たように思ったんですね。
ヤス 僕も嫌いではないです。でも、本来ズレにこだわれば、その霊媒体質にこだわってしかるべきなんですよ。
西塚 そう思います。僕は宮台さんにはこだわってほしいんですが…
ヤス それを脱構築してね、そこに新たな意味の理論的な構築をするなり、新たなものを創り上げる。彼はそれを拒否したということです。
西塚 少なくとも躊躇はしてますね。パブリックイメージがあると言いましたから。語るに落ちてるわけです。
ヤス パブリックイメージに合わせて、自分を演出していった人です。
西塚 基本的にヤスさんがおっしゃるような人かもしれませんが、いろいろな権威に対してかなり反発してきた人で、過激な人だと思うんですが…
ヤス 過激ですか…戯れは、拒否した人だと思うんです。『videonews.com』のイスラム国に関する解説とか、けっこう陳腐ですよ。今ごろ何を言ってるんだという。意味の戯れはね、意味生産の過程ででき上ってきたものですね。意味生産の過程が最終的にどこに行き着くかというと、怨念の噴出ですよ。恨みの噴出です。
西塚 そのことは、宮台さんも『videonews.com』で言ってますね。
ヤス それが、われわれの日常生活の根幹まで侵しつつあるということですね。戯れていくと、ネガティビティの噴出にしかならないということなんです、どうも見てると。循環的に、意味の生産、脱構築、また意味の生産と行くと、最終的に現れてくるのはネガティブなものです。
生身の人間に立ち戻る!
西塚 そこをゼランドは、何でそうなるのかということを論理的に語るわけです。繰り返し繰り返し、何でそうなるかということを語る。これはこういうことなんだぞと。そこに気づけば、ワナにはハマらないということです。
ヤス ワナにハマらないということは重要なんですが、ネガティブなものに対する対抗軸は、何になるのかということね。
西塚 ポジティブなものしかないですよ(笑)。
ヤス 戯れの過程の極点に、ポジティブなものがあるのか。それを構築するにはどうしたらいいのか、ということですね。楽しい戯れってないのかと。
西塚 いや、あるに決まってますから。
ヤス 脱構築ではなくてね。
西塚 そこは、やはり運動しかなくて、運動という言葉はアカがついてますから難しいですが、やはり運動しかなくて、要するにダイナミックなものだと思うんです。それと一体化して、かつ思想もですね、生きた思想というと抽象的ですが、その感覚と一体化したものだと思うんです。その感覚というのは、先日行なった小さなトークイベントみたいなもの、この『おやスピ』もそうですが、そういう生(なま)なものに関連していて、そこから発していくしかないんじゃないかなと思うわけです。
ヤス そうなんです。以前、テレビで観たんですが、若い子たち、中学生、高校生、10代の女の子で、売春に走ったり、リストカットしたり、一部両親がいなかったり、家庭が崩壊していて、学校にも来てなという女の子がたくさんいる。自分の安定した意味としての主体性がないわけですね。そういう自分自身に対してものすごい嫌悪感があって、コンプレックスがある。
安定した主体性を構築しようとすると、ものすごいネガティビティが噴出してきて、脱構築されるわけですよ。脱構築されて、新しい主体性を構築しようとしてまたぶっ壊されるという、その循環の中に生きていて、すごく苦しい状況におかれている。そのような循環の中で生きてる者たちに対して、プロのカウンセラーがいるんです。そのプロのカウンセラーがおもしろいことを言ってた。
僕はびっくりしたんですが、とりあえずセックスしろと。誰でもいいから、男に抱いてもらえと言ったんですね(笑)。それが拠点になると言った。ぬくもりを拠点として、もう一回自分を見つめ直せ、みたいなことを言うんです。
西塚 それは、おもしろいですね。
ヤス 西塚さんも、見つめ直したんでしょ?(笑)
西塚 僕は違いますよ!
ヤス 脱構築されたからね(笑)。
西塚 ちょっと待ってくださいよ(笑)。まあ、あながち否定はできませんが…
ヤス 僕は脱構築されたことはないからね。
西塚 脱構築と言っても、何を脱構築するのかによって…まあ、それはいいや。
ヤス まあ、とにかく人間が戻るような準拠点って、やっぱりあるんですよ。
西塚 そうですね。それで思い出しましたが、かつて宮台真司と大塚英志のバトルがあったんですね。簡単に言っちゃうと、先ほどの話じゃないですが、援交少女ですね。女子中学生や女子高生が簡単に体を売って、お金を儲けて好きな物を買う。もはやセックスも記号化されたんだといったようなことを、宮台さんはさんざん言う。彼女たちには後悔もなく、傷つきもしない。自分がひとつの記号と化していて、それは新しいというようなことを言うわけです。
すると、大塚英志がそれは違うと。彼女たちは傷ついているんだと。いろいろな状況でそうなってるかもしれないけど、まったく違うんだみたいなことを言って、バトルになるわけです。最終的には、宮台真司が敗北宣言をする。自分が間違っていたと。大塚さんが言っていたことのほうが正しかったと言うわけです。
宮台さんは、援交処女たちが傷ついてるということを知って、驚愕するんですね。彼女たちは全然、傷ついてないと思っていた。おそらく宮台さんの頭の中で、彼女たちがある種、記号化されていたんだと思います。生身の人間だから、傷ついたりするのは当たり前です。宮台さんはそれに驚愕し、自論を撤回していく。
先ほどの矢作さんとの鼎談のパブリックイメージの発言もそうですが、宮台さんご自身には、何というか人間くさいところがあって、東大出身の学者の中ではちょっと異質ですね。年齢的に言えば、ヤスさんや角田さんたちと同じです。だから個人的には、僕よりちょっと上の先輩たち、58年、59年生まれの人たちには、なぜかおもしろい人が多いように感じます。
ヤス それはわかりますよ。宮台さんの個人的なおもしろさとして。
西塚 そうですね。ただ、当たり前ですが、みなさんそれぞれプロなので、言ってることや活動の話はまた別ですが。
ヤス 少女が傷つくという話になりましたが、戻っていくべき準拠点はそこなんですよ。人間としての普遍性がある。相手のぬくもりという…
西塚 生身の人間ですから。
ヤス 生身の人間というところに戻ることが、意味生産の準拠点になるわけです。
西塚 僕もそう思います。そのことには、最終的にですね、少なくとも僕なんかにはわからないというか、今は言葉では表わせないんですが、おっしゃったぬくもりでもいいですけど、生身の人間に戻るというところからはじまる思想が、これから新しく打ち立てられるんだと思います。そして、ビリー・マイヤーやゼランドが言うように、自分自身の中に準拠するものがあるんだということ。そこから現実を創造していくということ。やはり、そこにいくしかない。
ヤス 生身の人間同士の、非常に素朴な人間関係を打ち立てていく。
西塚 それぞれが尊重し合っていく。
ヤス その準拠点にいかに戻れるかですね。戻るにはたぶん、勇気がいるんですよ。
西塚 そうですね。この『おやスピ』ももう61回になりましたが、1回目はビリー・マイヤーの話にしても、どうやってその話に入ろうかと相談したりしましたが、ヤスさんに引っ張られてここまでやってきて、僕の中でもいろいろ発見がありました。60回になって、還暦じゃないですが、ここでまたビリー・マイヤー的なものの話に還っていくのもいいかもしれません。
ヤス ビリー・マイヤーが言ってることもそうです。人間が本性として持ってるものがあるだろうと。意味の生産性とかごちゃごちゃ言いますが、そうではなくて、極めてシンプルなことだと。そこに戻れということですね。困ってる人がいたら援助するとか、友情や愛情を感じるような人間関係、当たり前の地点に戻る。それが準拠点です。
西塚 次回からは、ビリー・マイヤーに立ち戻ったところで、ちょっと難しい話になるかもしれませんが、突っ込んでみたいと思います。
ヤス そうですね。ビリー・マイヤーでとことん突っ込みたいですね。
西塚 また、お付き合いいただければと思います。じゃあ、今日はこのへんでいったん終わります。ありがとうございます。
ヤス どうもどうも。
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