前回、“罪悪感” について書いたが、“劣等感” を抱く原因もそもそもは罪悪感だ。
自分のどこかに劣等感を持っている場合、それは他者との比較によって生じたことである。
ここがまたわかりにくいところだが、自分の内なる裁判官が自分と他者とを比較し、(どの部分を比較したかは関係ない)取り調べが行なわれ、他者より自分のほうが劣っている(自分のほうに罪がある)と判断したから、劣等感を持つことになった、のではなく、何か別の事態が進行しているのだ。
最初から自分に罪を引き受ける気持ちがあるのである。最初から他者のほうが自分より優れていることを大筋で認めている。最初から自分が被告席に座ることに同意しているのだ。
自分が自分のままであること、また他人が他人のままであることを認めず、勝手に何かしら架空の “意義・価値” を他者に与えた結果、劣等感が生じた。
他者に与えた意義や価値が、ありのままの相手より高く見積もられたものならば、劣等感・罪悪感になるし、
低く見積もられたものならば、優越感になるだろう。
いずれにしろ、本来ありもしない意義・価値は “重要性” となり、エネルギー場に異質性を持ち込むので、
偏りを解消すべく “平衡力” が作動し、架空の優越感は挫かれ、劣等感はさらに劣等感を感じている部分を悪化させ、他者もそれを認めることになる。
ちなみにゼランドは、ホクロやシミ、肥満その他、肉体的な欠陥だと(勝手に)思っていることは、鏡などで毎日確認し、いじくりまわし、不快な思いをすればするほど悪化するという。
ゼランド理論のモデルで言えば、これは当たり前のことだ。
毎日毎日、自分の不快な現実を確認しながら、毎日毎日それを強化・育成することに励んでいるようなものだからだ。
ちょっと話が逸れた。
とにかく、他者と自分を比較し、他者が自分より優れていると最初に容認したのは、自分自身なのである。だから、そんなことはつゆとも考えていなかった他者も、自分を劣った者として裁くことになったということだ。
自分が自分自身である権利を取り戻し、被告席から立ち上がり、自分で勝手に開いた裁判(しかも最初から自分が被告だ)から立ち去れば、傍聴人も陪審員もそのまま退場するだろう。
つまり、誰も自分を劣っている(罪がある)と思う者はいなくなる。
前回も見たように、私たちが罪悪感や劣等感を一瞬でも持てば、意識的か無意識かに関わらず、必ずそれを察知する人たちが擦り寄り、自己肯定化をはかるべく、さらに私たちが罪悪感や劣等感を強める現実化に協力するようになる。
逆に、私たちが罪悪感や劣等感とまったく無縁であれば、誰も私たちを犠牲にして自己肯定化しようとは思わないのだ。
そんなバカなことがあるか! と思うだろうが、実際に試してみればいい、とゼランドは言う…
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何だか、「世界の創造~ゼランド編」と称してはじめたシリーズだが、どうにも止まらなくなってきた。いずれコーナーを創って整理するしかないだろうが、取りあえず、このまま続けていこう。
記憶を頼りに(もちろんあやしい部分は本書にあたるが)、泥縄式に書きなぐっているので理路整然というわけにはいかないが、ビリー・マイヤーや宇宙人情報、角田よしかず氏理論、あるいはまた誤解されるといけないのだが、GLA の高橋信次理論などなど、現時点でゼランドのモデルと関連していると思われることは、
もっと書いていくつもりである。
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