ゼランドのいう「振り子」の概念に関してはあとで書くみたいなことを言ったまま、そのままだが、実は気が重いというか、やりきれないというか、実際に “重い” 概念なのである。
これももちろん考え方の問題で、そういうものなのだから仕方がない、ただの法則なのだ、と思えばいいのだろうが、どうにも私のサガだろうか、「振り子」に引っぱられる人間の悲しさというか、哀れさというか、そういう部分に感応してしまうのだ。
しかし、それでも「振り子」があるから人生ドラマがあるのも事実で、それはそれで楽しいとも言えるのだが、そういう具合に働く「振り子」だけならまだいいが、「振り子」が極端にネガティブに働くと始末に負えないものになる。また、そういう可能性をたぶんに備えているのであり、そこだけが問題とも言える。
と、ついここまで引っ張ってきたが、やはり「振り子」については後日、書こう。
そのかわりと言っては何だが、まあゼランドはいくつかの “法則” を提示しているが、「鏡の法則」というものもあり、これについて簡単に触れてみたい。そのほうが気分がいいからなのだが…
この法則は 7 つあって、ひとつひとつを私なりにかみ砕いて書くのは、おいおいやるとして、私なりに簡単に言えば、
“世界はあなたの思っているとおりになる”
ということだ。
それだけのことである。
あまりにも陳腐だろうか?
しかし、これはなかなかひと筋縄ではいかない法則なのだ。
“思っているとおり” というところがクセものだ。
“思っているとおり” とはどういうことか?
ここは大事なところで、世界はその人のどういうところを受けて現実を創造していくのかとか、その前にその現実はいいんだけど、その現実というのは誰にとっての現実なのか、自分の周りの人と一緒に体験する現実なのか、それとも世界の中の自分だけの層で起こる現実か?などなど、なかなか手ごわい問題がひかえているのである。
世界はその人のどういうところを受けて現実化するのか? 言い方を変えれば、世界はその人の何を反映させるのか?
世界は世界に対するあなたの “態度” を反映させるのである。
そのまんま、反映させる。どんなことがあろうとだ。この法則は揺るがない。
世界は非情だ、残酷だ、虚しいと思えば、世界はそうなる。世界が非常で、残酷で、虚しいと本気で思ってる人は、ことごとくそういう態度で世界に接する。
何かひどい目に遭って、ちょっとだけそういう態度に出た場合は、ちょっとだけ世界がそうなるだけで、その人がすぐそのことを忘れて普段の平静を取り戻していれば、大したことにはならない。
しかし、世界は非情だとか、思うようにならないものだなどと思い、それをずっと思い続けると世界はますます非情になり、とんでもないことまで見せてくれる。
これは、本当にそうなのだ。
逆に、世界はすばらしい、いついかなるときでもすばらしいと本気で思っている人にとっては、世界はそうなる。これも本当にそうで、揺るがない法則だ。
でも、たいがいは世界は非情だし、思いとおりにはならないというほうに軍配が上がるというか、たいがいの人はそう思っている。
世界はすばらしいだの、すべてはうまくいくだの、そんな寝言は頭の弱いヤツか子どもっぽいヤツか、非現実的な理想主義者か何かのただのたわごとである、と思っている人がほとんどなのだ。
実はそこにも問題があるのだが、長くなるから今はいい。結論から言えば、できるだけそういう連中の言うことは聞かないほうがいい。いや、聞いてもいいが、言ってることの内容とか、言ってる人の思考の方向をよく見極めたほうがいいだろう。
具体的に言えば、その人の大もと、根本にあるものが、ネガティブなものかどうかを見極める必要があるということだ。
どうすればいいか。
これはまた長くなって、あっちゃこっちゃに飛んでしまう。私のわるいクセだ。これはまた別の機会で、というか何かの流れでまた書くだろう。今、書こうとしていることとは、違うことだ。
要するに、世界は自分の態度を文字とおり反映させてくる、ということだけにテーマを絞りたい。
だから、世界はただただすばらしく、すべて自分の望むものを用意してくれるとそう思っていればいいだけなのだが、なかなかそうはいかないというところに悩ましさがある。
なぜなら世界の現実化は、自分が思っていることと、それに対する魂の “感じ” が一致したところで起こるからだ。つまり、理性と魂が一致すると現実化がはじまる。
だから、いくら理性が世界はすばらしい、世界は自分の思うとおりのことを用意してくれるのだから、明日行なわれる私のプレゼンはうまくいくだろうし、明日の野外のイベントは晴れるだろうし、いつも渋滞するあの道も混んではいないだろうし、駐車場は空いてるだろうし、支払日までにお金はできるだろうなどなど、いくら理性がそう思ったとしても、魂が同意していなければ、なかなかそうはいかない。
しかし、魂も問題ないと同意していれば、プレゼンは実際は今イチの内容だったとしても大成功し、午前中は雨でもイベント時には晴れ、渋滞の道は自分が通るときだけなぜかガラガラになり、満車の駐車場に着いたとたん 1 台の車がちょうど出ていくことになるのである。
これは本当にそうなのだ。
ただ、何回も言うように、魂がなかなか納得しない。なぜなら理性は必ずと言っていいほど、期待することと反対のことを考えていて(本人が気づいてなくても)、その反対のほう、そうあってほしくないほうに引きずられ、がゆえに魂は不快な状態になるからだ。
表面上は理性がいくら望むことがこれから起きることを納得しているとしても、自分の気がつかない部分でそれを疑っているので、いつもそううまくはことが運ばないのである。
なぜ、理性が疑っているかと言えば、まずひとつは、理性つまり論理的な思考は、一種の自動マシーンのようなものなので、あることを想定する場合、自動的にその反対のことも前提としてしまうからだ。
またもうひとつは、うますぎる話には裏があるし、物事はそう都合よくは運ばないという “常識” がおせっかいにも立ちふさがってきて、その人の明るい未来にイチャモンをつけてくるからだ。
ましてや、そうかなあ、そうかもしれないなどと、明るい未来が約束されていたにもかかわらず、その常識クンの意見を聞き入れ、実際にたまたま何かがうまくいかなかった経験をしたりした日にゃあ、常識クンは、だから言っただろう? あるいは、それ見たことか! としたり顔になり、その人も、ああやっぱり常識クンは正しかったんだとなり、ますます常識を頼りにし、常識に縛られ、せいぜい常識の範囲内の喜びや成功しか得られなくなり、あろうことかその “真実” を他人にアドバイスさえするようになる。
そして、どんどんどんどん多くの人が “常識人” になっていく。
だから人は、世界はなかなか思うとおりにならないという “常識” からなかなか抜けられなくなり、自分の望む世界の現実化からも遠く離れていくのだ。
そのかわり、不安、わるい予感、あってほしくないことはかなりの確率で現実化される。なぜならば、そうしたネガティブなことでは、理性と魂は一致しやすいからだ。
理性が抱いた望みは、理性自体がどこかで疑っており、その結果、魂もその不快を味わっている。だから、理性が抱いた望みはなかなか現実化されないが、理性が描いた不安なシナリオやあってほしくないことなど、ネガティブなことに関しては魂も同意するので、現実化する可能性が極めて高くなる。
絶対にあってほしくないことをしょっちゅう考え、その対象から関心が離せなくなり、全身全霊で憎んだり、心の底から嫌ったりしていれば、そのことはほぼ間違いなく現実化してしまう。
当たり前だ。
ゼランドのモデルで言えば、あってほしくないことを一生懸命、現実化することに励んでいるようなものだからだ。
だから、ネガティブなことは考えてはいけないし、もしネガティブに考えざるを得ないようなことに遭遇したら、どんなに無理があってもそれをポジティブなものと考えればいい。
そんなのムリ!という人は、心の中ではムリかもしれないが、態度を変えることならできるのではないだろうか。
つまり、とんでもない目に遭ったら、おお!ラッキー!!!とか、すばらしい! ありがとう!とか、手を叩いて喜んで見せたりすればいい。
もちろん、バカみたいに見えるだろう。気が狂ったと思われるかもしれない。
しかし、先の法則を思い出してほしいのだが、世界はあなたの態度を反映させるのである。文字どおりにだ。
“常識” から見れば、これは嘆き悲しんだり、悪態をつくような場面だとしても、そんなワナは無視して、地獄へ転がり堕ちていくような状況だとしても、すばらしいことだと思い、すべてはうまくいくと叫んでみよう。
世界はあなたの態度を反映させるのだ。起こっていることの内容は関係ない。“常識” から見て、それが不幸なことか、ラッキーなことかには関係なく、世界は、起こっていることに対する、あなたの態度のみを現実化させる。
感情とは、ある事象に対してあなたがとった態度のあとに形成される。
“常識” から言えば、悲しむべき状況でも笑ってみればいい。多少の無理があってもそうしてみればいい。その結果は、自分で確認できるはずだ。
だんだん、書いてるとキリがなくなる。
とにかく、世界はあなたの思うとおりになるので、理性のたわごとには眉に唾をつけ、世界を信用してみてはいかがだろうか。
ゼランドが書いている寓話を、多少アレンジして紹介する。
ある人が自分の世界と共に魔法のバスに乗り、
夢が叶うところへ出発しようとしている。
「さあ、私の愛しい人、あなたの夢が叶う場所へいきましょう!」
「うん、そうしよう! 世界よ、それは素敵なことだね」
楽しいドライブにあなたの期待はふくらむ。
すてが順調に進み、足りないものは何もない。
ところが、心配性の理性はそんなことには慣れていないので、
どこかに問題があるはずだと、始終、あたりを見回している。
何しろ、万事順調なんてことがあろうはずはないからだ。
「ねえ、ちょっと停まって。ほら、あそこにいるのは、
僕を諭してくれる心の清らかな人みたいだよ。あの人も乗せてあげようよ」
「いいえ、私の愛しい人。そんな考えは頭から追い払いましょう」
「乗せようよ。そうしないと、僕の気持ちが落ち着かないんだよ」
バスは停車し、しつこい客たちが乗りこんできた。
さっそく、彼らは何か文句を言ったり、要求してくる。
「われわれは、お前の裁判官である」
しかたなく、バスは出発した。
おおむね、すべてがそんな具合わるいわけではないが、
その人はまたじっとしていられなくなってくる。
「ねえ、あそこにいる人たちは何とすばらしいんだろう。
お手本にしてみたいから、彼らも乗せてあげようよ」
「とんでもありません、愛する人。
何のために、これ以上お客さんを乗せるのでしょうか?」
世界はささやかな抵抗を試みたが、結局、同意せざるを得なかった。
バスの中は、自分ほどの者はいないだろうと、
あからさまに示そうとする傲慢な人たちで混雑してきた。
「われわれは、お前の理想だぞ!」
道端にいる “恐怖” “不安” “疑念” “わるい予感” が、
バスに向かって手を上げている。
われらが主人公さまは、したり顔で自分の考えを披露する。
「あそこにいる賢そうな人たちも乗せてあげたらどうだろう?
ひょっとしたら、進むべき方向を教えてくれて、
無駄骨を折ることのないように、守ってくれるかもしれないからね」
「あなたの言うとおりにしますよ、私の愛しい人」と言って世界は同意し、
がやがやと騒がしい連中をバスの中に招き入れた。
「われわれは、お前さんの良識だぞ!」と彼らは名乗り、
その良識あふれるわめき声のせいで、
せっかくのドライブが耐えがたい苦痛になっていった。
あげくの果てに、バスの行く手を “不満” “非難” “憎悪” がさえぎった。
われらが主人公は、彼らとの出会いだけは何とかして避けたかったのだが、
世界のほうとしては、理性が注目した者たちを全員バスに迎え入れることを、
すでに当然と思うようになっていた。
「われわれは、お前さんの悪夢だ!」と招かれざる客たちは叫び、
高笑いしながらドタドタとなだれ込んできた。
われらが主人公は、こんなうんざりずる客たちから逃れることができたら、
さぞうれしかっただろうが、すでに後の祭りだった。
バスは定員オーバーになり、それ以上、前に進むことができなくなった。
人形遣い、張り子の偶像、ヒステリー、アドバイザー、
その他もろもろのろくでなしたちは、すべてを台無しにした。
ところで、いったい誰がわるいのか?
なぜ、彼らをバスに乗り込ませたのか?
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