ゴールデンウィークはいかがでしたか?
私としてはけっこう贅沢に過ごさせていただいた。
つまり、家で酒を飲んでたのである。
んなこと、毎日やってるだろとも言われそうだが、
そしてまあ、たしかにそう言ってもいいだろうが、
ここのところはそうでもなかったのである。
書籍の校了に集中していたこともあり、
それでその本の内容が前にも書いたようにかなり深い内容で、
個人的にもいろいろ思うところがあり、
あっちゃこっちゃ寄り道というか、
資料を引っ張り出しては、
おのれの思考の足跡と言うと大げさだが、
まあ、来し方を思い、
さらに人類の、と言うとこれも超大げさだろうが、
まあ、行く末について思いをめぐらせていたわけだ。
くどいようだが、
この5月に出版される武術の書籍に関しては、
近ぢかきっちりとコメントというよりは、
論考を掲載したいと思う。
また、契約上の関係もあるのでまだ発信してないが、
3月に出版されたGLAの教祖・高橋信次氏に関する書籍、
『誰も書かなかった高橋信次 巨星の実像』のテキスト、
及びその著者・菅原秀氏へのインタビューを付記したPDF(予定)も、
ちゃんと案内したい。
*
ちょっと前に『見えない戦争 1』というブログを書き、
その前にはプラトンの“魂”についても触れた覚えがあるが、
いずれもなかなかその続編のようなものをアップしておらず、
私のわるいクセで、その場で思いついたゴタクを並べてるせいで、
「続く」といった感じで終わっていても、
次回に書くときは別の話題からはじめたり、
いや、前回、何を書いたかなあくらいはさすがの私も確かめるわけで、
違う話題からはじめたとしても、
前回に準ずるものを書こうと思っているのだが、
どうも脱線するというか、
何かの軌道に乗ってしまうとそのまま進んで、
前のブログとの関連性がとれないことが多い。
でも、自慢じゃないが、
私はいつもはじめたことは、
大きな流れやサイクルの中でのものにはなってしまうけれども、
ほぼ必ず成就させてきたのである。
“ほぼ必ず”と言うあたりに自信のなさが表われているし、
そもそも微妙に形容矛盾だし、
極端に言えば、失敗に終わってもある種の成就ではあるのだから、
実はあまり自慢にもなっていない。
何だか話が自虐的になりそうなのでいいかげんやめるが、
何が言いたいかと言うと、
私はわりと大きな流れとかサイクルで物事をとらえるクセというか、
まあ、幼いころから、そういう“ところ”があったわけだ。
“わかる”と言ってもいいかもしれない。
学校の国語の授業で先生が黒板に書き出す長い文章や、
教科書に載っている小説の一部などをパッと見ると、
ほぼ内容がわかる。
また、ほぼだが。
いや、サイキックとかそういう話ではなく、
話の内容の要点や流れがすぐわかるというくらいで、
要点というのも、その話の核、筋、ニュアンス、意味、
良いことか良くないことか(自分にとってだろうが)、
喜劇か悲劇か、ポジティブかネガティブかみたいなことだ。
これはわりと何かのできごとに遭遇した場合でもそうだ。
そのできごとの未来、結果みたいなことが何となくわかる。
でもこれは、小学生くらいだと誰でもだいたいわかることだ。
と思う。
ちなみに、私が小学生から、
当時はそういう言葉はなかったのだが、
いわゆる“オカルト”ものに興味を持っていたのは、
そういったこととはまったく関係がない。
純粋な“探究心”からだ。
いや、ホントに。
でも、高校卒業間近のあることをきっかけに、
そうしたオカルトめいたことの探究はちょっとやめて、
普通に成人して(厳密に言えばとても普通じゃないが)、
社会人になってからは、あまりそういうことには、
好奇心の矛先を向けないようにしていた。
それでも、稲川淳二の“生き人形”の話にだけは妙に反応し、
当時、私の友人が間接的に係わっていたこともあって、
ちょっとだけ入り込んだが、
今ふうに言えば、あまりにマジで“ガチ”だったので、
さすがにこれはヤバいとばかりに引いたことがある。
この私が引いたのである。
ちょっとエラソーに聞こえるかもしれないが、
こと超自然現象系に関する取材案件については、
ちょっとやそっとじゃ引かないお兄いさんを気取っていただけに、
自分でも自分のヘタレぶりに驚いたくらいだ。
詳細はここでは言えないが、とにかく大きな事故や不幸が係わっていて、
これはさすがに離れようと思ったのである。
でも、これも今はまだ語れないのだが、
巡りめぐってその二十数年後にまたガチで係わることになる…
何の話だったか…
とにかくそういう系は軽く流してきたわけだが、
出版社を辞めて、独立をして、
満を持してというとカッコつけすぎだが、
本来の自分のやることだと勝手に思っていることをやりはじめたあたりから、
また、あの大雑把な感じ、
物事の核心をパッとつかむといったヘンな感覚がはじまったのだ。
初対面の人と会っても、
まずその人の印象というか、言葉ではうまく言えないのだが、
まあ、その人との相性から、その人の思考の傾向、
ものの考え方、過去のトラウマみたいなもの、
その人のものの好き嫌い等々が、だいたいわかる。
でも私は、相手が自分に合っていないことがわかっていても、
わりと関係ないというか気にしないほうで、
何か大きなトラブルというか、いずれ問題が起こることがわかっていても、
そのまま流れにまかせるところがある。
これも、私にとっては大きな意味があることなのだ。
またわけがわからない話になってきたが、
そういうある種、超アバウトなテキトーな感覚ということでいいのだが、
その感覚をもってして、
いわく“想念戦争”ということをずいぶん前のブログに書き、
こないだも“見えない戦争”と表現して、ちょっと触れたわけである。
普通に日常のあれこれのことをブログの記事に書こうと思っていても、
そういう感覚からふと、そういう話題に移っていく。
途中からそうなるから、尻切れトンボになる。
だったら、前もってちゃんと構成を考えてから、
きちっとそういう小論をかませばいいというムキもあるかもしれないが、
それはそれでちゃんとそういったコーナーでやりましょう。
というか、やらざるをえない。
私にとっても大きなテーマであることは間違いないのだから。
がしかし、このブログの記事では、
テキトーにというと叱られそうだが、
言い換えれば感覚的に、
なおかつある程度は論理的に書いていくものにしたいわけだ。
ほとんど酔ってもないのにグズグズの文章だが、
だから、想念戦争とは何かという前に、
私はまず取材や何かを通して、おそらく普通の人よりは多く、
いわゆる“スピ系”のセミナーを見てきているとは思うわけだ。
いろいろな講師や先生、教祖、グールー、指導者がいるし、
それぞれに生徒や信者もいる。
各セミナーの内容もさまざまで、
私は論評する立場にはないが、
ただひとつ言えることは、どれもがほぼ間違いなく、
またほぼだが、
間違いなく“共依存”関係に陥っているということだ。
そしてこれは“スピ系”のセミナーに限らず、
今ではネットビジネス系のセミナーでもそうで、
ネットビジネス系はもはや、ほぼスピ系と言ってもいいと思う。
ほぼ“共依存”関係と言ったのは、中には、
最終的にはセミナー参加者たちを、
“依存”状態から抜け出させることを目的にしているセミナーもあるからで、
だから“ほぼ”なのだが、それでも“共依存”関係になっていることを、
当の先生がわかってらっしゃらないということも多いようだ。
時間がなくなってきたので、また強引に結論めかすと、
とにかく神は、
この場合の“神”は“絶対者”でも“創造主”でも、
“一なる者”でも“無”でも、呼び方は何でもいいのだが、
また私が言っている意味はわかってもらえると思うのだが、
とにかくその“神”は、
私たちの中にカギをかけられて閉じ込められているのである。
そのカギを壊せば、神はおもてに現われてくるのだ。
そして、そのカギを壊すのは“知識”であり、
そのカギとはもちろん、“無知”のことなのである。
私たちは自己を完成させるために生きているのであり、
そのために必要なのは知識だということだ。
そして得た知識を実践していく。
自己を完成させるとはどういうことか?
知識とはどういう知識か?
どういう実践をしていくのか?
そういうセミナーならセミナーをしてもらいたいと思うのだが…
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