何と、朝っぱらから広島にいる。
出版社時代の知人と会うのだ。
彼いわく、広島駅に直結してるビルに、
○○というクズが集まる居酒屋があるんですよぉ。
そこで飲みながら打ち合わせようということなわけだが、
そんな彼の口ぶりもなつかしいが、
そのあと、今度は福岡に行かなくてはならないので、
しかも今日中に帰るので、けっこう強行だな。
おそらく、クズにはならないだろうというか、
なれないな、時間がなくて。
ならなくていいが。
しかし、iPadは文字が打ちにくい。
時間がかかる。
何だかリズムがとれないから、長文は無理か。
前回、“雲消し”にちょっと触れた。
まあ、そういうことがあるということだが、
それはそれとして、
そうした空の事情というか、気象現象は、
われわれの心、感情、要するに内面の事情と、
非常に類似しているということを強調したかったのだ。
これは、これまで書いてきた、
今はちょっと中断してしまっているが、
ゼランドの理論を思い出せば、よくわかることだ。
ゼランド自体が、人の心、意識の動静に関して、
よく気象用語を使用する。擾乱とかね。
実際の空でも、一天にわかにかき曇り、というが、
これは人の心でも何かのきっかけで、
本当にかき曇り、みるみるうちに黒い雲に覆われてしまう、
ことがしょっちゅうある。
その雲はどこからくるのか?
あ、ちなみにゼランドは、
人の顕在意識に関わるものを“理性”と呼び、
無意識、潜在意識に関わることを“魂”と呼ぶことにする、
といって話を進める。
これは大事なことだ。
心とか意識、感情、理性、魂、無意識、無、
空などの言葉は、人によって定義が違う。
名のある哲学者や宗教家でも、微妙に違う。
しかも、それらがまた翻訳されるわけだが、
翻訳家によってもまた違うときてる。
だから、無だ空だといって、
お互いに納得しているかのようでも、
実はとんでもなくアホな状況になっている場合がある。
そのへんに敏感ではない人の言うことは、
あまり聞かないほうがいい。
混乱するからだ。
そのあたりのビミョーな、
しかも重要なことが“わからない”ということは、
その先、かなり不毛な時間を使うかもしれない。
何だか、ちまちま打ってるのが辛くなってきた。
やはりデバイスというのは大きいな。
とにかく、ある本の著者やセミナーの先生、
宗教団体の教祖など、
よく観察してみればいい。
一天にわかにかき曇ったところをちゃんとみれば、
よくわかる。
ただ、その一天をかき曇らせたのが、
その人自身ではなく、
ほかならぬ自分だったりするからわかりにくい。
この場合は相手が“鏡”になっているので、
また話が全然違ってくるのだ。
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