だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

忘れもの

昨日は広島、福岡と、
非常に有意義な時間を過ごすことができた。
広島では経営哲学のようなこと、
福岡では、出来あがった書籍を著者の方にお渡ししたのだが、
その話はまたあとでちょっと触れよう。

いや、経営哲学っても、ある程度まっとうな経営者なら、
というか経営者というと、
ちゃんと従業員もいるような会社を経営している人ということだろうが、
すると私は経営者ではないな。

いや一応、株式会社を経営しているので経営者には違いないだろうが、
この時代、手続きさえ踏めばほぼ誰でも会社を経営できるので、
経営者ですと反りかえっても、その実態はよく見なければならない。
ただのフリーのだらしないライターみたいなものだったりもするからだ。

だから一応、経営者という場合の経営者は、
昨日会った広島の知人のように、
全国的に有名な飲食店を経営し、従業員ももちろんいて、
銀行の融資だ何だ、投資がどうした、
事業計画書がどうとか、そういう話がちゃんとできる人を指すわけだ。

そういう意味で、昨日の打ち合わせは本当に身になったし、
おろ?俺も経営者だったんじゃね?と前世を思い出したように思い出し、
ある種の感慨にも浸ることができたわけである。

そんなこんなで昨日は強行スケジュールではあったが、
非常に充実した1日となった。
でも、帰りにやらかした。

本を忘れたのである。

たぶん、帰りの飛行機の座席の前のポケットに入れっぱなしだ。
もちろん航空会社には連絡を入れたし、
あればあったでちゃんと着払いで戻ってくるし、
たとえ戻らなくても、また買えばいいと思う向きもあろうが、
そうはいかない。

いや、もう手に入らない稀覯本だとか、
高価な本ということではないが、
その本には自分で入れたメモ書きが書いてあるのである。
これがまずい。
文章がまずいのではない。

私は本を読んでいて、ふとひらめくとすぐ本にメモを書くから、
私の持ってるほとんどの本には、
やたら線が引っ張ってあったり、メモだらけだったりする。
まあ、古本屋には売れないわな。

というか、私は基本的に古本屋に売るような本は買わないし、
何度も何度も読み返すから、いろいろページもよれるし、
さっきも言ったようにメモだらけだから、
古本屋には売れないどころか、場合によっては人にも貸せない。

だってウザいでしょ? 人の思考の跡がメモされてたり、
わけのわからないことばかり手書きで書いてあったら。
私だったらイヤだな。

それに同じ本を繰り返し読むから、
またそのつど新たな発見やひらめきがあって、
いやがうえにもメモは増えるし、
ヘタすれば自分の過去のメモに対してメモしたりして、
もう大変なのである。

だから、メモの内容によっては、
つまりそのメモが自己増殖というか、
変容していきそうだなどと感じたりすると、
後々のためにそのメモに日付けを入れたりする。
「〇〇年〇月〇日時点」などとメモしたりする。

どうでもいいか、何の話だ。

そう、だから、本を忘れたということは、
そのメモごと失くしたというわけで、
また同じ本を買えばいいってもんでもないわけだ。

要するに、ちょっとがっかりしたのである。
でも、誰も持ってかないと思うけどね。
本が、普通に考えれば難しすぎる本だし、
さっき言ったようにメモだらけだからだ。

戻ってくるのを待とう。

そう言えば、カミさんはよく、
ではないか、
でも何度もサイフを失くしているが、
必ず帰ってくると言っていた。

昔からそうらしく、
「必ず帰ってくるのよねえ…」と、
よく感慨深げに話していたことを思い出す。
そして、そのうちの1回は私が探し出してきて、
「ほれ」と言って渡したのだ。

あれはカミさんと結婚する前で、
私とカミさんと友人何人かで、六本木で遊んでたときだ。
何軒かハシゴで飲んだり、ゲームセンターに行ったりしてたのだが、
ある時点で、「あ、サイフがない!」とカミさんが言ったのである。

「何だと!」と皆がどよめき、
あの店に置き忘れたんじゃないかとか、
落としたんだろうとか、いろいろ言い合ったが、
私は冷静にカミさんのこれまでの行動を吟味し、
本人の考えも聞き(と言っても、まったく心当たりがないとのことだったが)、
ここにある!と言って、ゲームセンターに向かったのである。

皆は「違うと思うぞぉ」とか何とか言いながらも、一緒についてきた。
で、ゲーセンではみんなバラバラに遊んでたから、
「何のゲームしてた?」とカミさんに聞くと、
あれこれ言う中にカーレースものがあったから、
そして何か響くものがあったから、
私がそのカーレースのゲームのところに行くと、
変なブースみたいなものの中に座って別の男が必死にゲームをしていたが、
中を覗くと(イラっとされたが)、
どうもブースの中にはなさそうなので、ふと下を見ると、
ブースの下と床との間に、
こってり盛り上がった(金のふくらみではなさそうだったが)サイフが落ちていたのである。

取り上げてカミさんのところへ持って行き、これか?と聞くと、
びっくりした顔をして、これよ!と言った。
どこにあったのかと言うから、
これこれこういうところにあったと言うと、
やいのやいのと言うみんなと一緒にまたブースまで行くハメになり、
「ここに落ちてたぞ」と言ったのはいいが、自分でもあらためて驚いたのである。

サイフが落ちていたところは、
さっきも言ったようにブースと床との間だが、
何かが落ちていれば、誰が見てもすぐにわかる場所だったのだ。
しかも六本木のゲーセンである。
人でごった返し、そんなサイフが落ちてれば誰かが気がつき、
フロントに届けるか、もしくは…ドロンだろう。
当たり前だ。

意外と盲点で、そういう見つからない場所というのがあるし、
人というのも意外と気がつかないもんなんだよ、
というかもしれないが、そんなレベルではない。
あきらかにおかしかった。
しかも、ゲーセンに行ったのはその夜でも初めのほうで、
もういいかげん時間が経ったときに、
カミさんがサイフを失くしたことに気づいたのである。

どう考えてもおかしかったし、実際友人のうちの何人かは、
これは西塚がカミさんをモノにするために、
わざと何か演出をしたんだろうと考える者があったくらいだし、
実際冗談っぽくそう言われたりもした。

もちろん、そんなことはないし、
第一、私にはそんな器用なマネはできないし、
そういう発想もない。
と、これまた友人のうちの何人かはそう考えたし、
実際冗談っぽくそう言われたりもした。

でまあ、その後1、2年してカミさんと結婚することになるが、
しばらく経ってからカミさんが、
実はサイフを失くしても必ず帰ってくる、
という話をしたのである。

それで私は六本木の夜を思い出し、
そう言えば、あのときは不思議だったという話をしたのだが、
カミさんはほとんど覚えていないのはともかく、
私は自分の功績を忘れてほしくなかったので、
一部始終、細部にわたるまで、記憶の限りを尽くして説明すると、
ようやく思い出してくれたのはいいが、何と、
「あれ? でも、あのときは私が自分で見つけたんじゃなかったっけ?」
とヌカしたのである。

私は天を仰いでから、
気を取り直して、そのとき一緒にいた友人たちすべてに電話をして、
証言してもらおうかと真剣に思ったのだが、
急にバカバカしくなってやめた。
ということがあった。

途中から、何でこんな話になったのかと思いながら書いてはいたが、
まあいい。

それからは、カミさんはサイフを失くすことはなくなったようだが、
1万円札を人にわたすときに、あ、人って私のことだが、
「必ず帰ってきてね、諭吉」と、
1万円札を両手でつかみ、
じっと福沢諭吉と何事かを交感することが多くなり、
私はその姿を横目で見ながら札をひったくって、
競馬場じゃなかった酒場に行く、
というパターンが何度も繰り返されてきたわけである。
若いときだが。

今の我家では、ユキチくんたちはどうやら集団家出をしたままで、
いまだに帰ってこないという日々が続いてるわけだが…

いや、メモだ。
何が言いたかったというと、メモなのだ。

前にも書いたが、ふと誰かが言った言葉とか、
何かのかげんで耳に届いた誰かの会話の一部とか、
そういう言葉は大事にしたほうがいいということである。
これは、ふと自分に浮かんだ言葉でもそうだ。

これはものすごく重要なことなのだ。
その理由もまたちゃんと書くが(とんでもなく長くなるのと、難解だからなのだが)、
とにかく、そういうものだと知っているということだけでもいいのだ。
きっと、あなたの役に立つだろう。

最近、社長とか上司とか、
どこかのセミナーのセンセイとか教祖とか、
そんな人たちが登場するような話をしてる気がするが、
社長はなかったかな、
とにかく、そういうリーダーっぽい人たち、
あるいは何かしらエラソーな人たち、正しそうな人たち、
権威のある人たち、そういう今まである種、
われわれが盲目的に従ってきてきたような人たち、
夫でもいいし、父でもいいし、教師でもいいが、
そういう人たちの言葉を真に受けてはいけないというか、
十分に気をつけましょうねという話である。

そんなの当たり前だと思うかもしれないが、
これからは、できるだけ、可能な限り、
そういうことに注意したほうがいい。
そういう時代だ。

どう注意するのか。
差しあたっては、
何か自信を持って説教っぽいことを言う人に会ったら、
この人の言ってることは、
とりあえずは注意しなければならないなあ、
と思うだけでいい。
そう思うことを忘れなければいいのだ。

簡単だと思うだろうが、そうではない。
すぐに忘れてしまうのだ。
そしてこれまでと同じように、
社長、上司、教師、セミナーの先生、教祖、父、兄、夫、
何でもいいが、
ほぼ習慣的にそういう人たちの言うことを真に受けてしまう。
ああ、そうかと思ってしまうのだ。

いや、いちいち疑えということではない。
自分を明けわたしてはならないということである。
自分を明けわたしたぶんだけ、
あなたは相手の世界観に取り込まれるのだ。

ちょっとだけならいいだろうと、
カトちゃんのストリップみたいなことを思っていても、
取りつかれた部分、取り憑かれた部分、取り込まれた部分、
表現はいろいろあっていいが、
その部分をきっかけにして、最終的には、
あなたは相手の世界観の中で生きることになるハメになる。
その可能性が高いのだ。

相手の世界観とはどういうことか。

相手の“世界”ということだ。
ちょっとしたことで、あなたは相手の、
あるいはよくわからないし、実はよく知らない人の、
何だかエライ人かもしれないなあと思った人の、
“世界”の中で生きることになるかもしれないのである。

それでもいいという人がいるかもしれない。
もちろん、それでもいいのだ。
でも、その事態がどういう事態かは知っておいたほうがいい。
そしてできれば、それでも私はこの人の世界の中で生きていくと、
“自分の”意志でもって決断してほしい。

自分の舟の梶棒を人にわたさず、
自分の舟の梶棒だけは自分で操作していたいと思っている人には、
自分の好きな世界を生きるチャンスが訪れやすくなる。
もしその梶棒を誰かにわたしてしまったら、
そのチャンスは、少なくともこの世では訪れないだろう。
おそらく。

まずは、自分の鼻輪に通された革の紐を噛み切り、
できればその鼻輪自体も引きちぎり(痛いが)、
いつの間にかはめられた手錠を叩き壊さなければならない。

簡単である。
そんなものはハナからなかったと思えばいいのだ。

ああ、福岡の先生の書籍の話に触れなかった…

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