ここのところ東京は蒸し暑い日が続いている。
このまま梅雨に突入するのかな。
しかし毎年、梅雨はあるはずだが、なぜか記憶にないな。
たぶん期間として短いからだろう。
夏や冬のような季節と違って、
いつの間にか来て、いつの間にか抜けるからだな。
でもまあ、四季も同じっちゃ同じだが。
前回、ポジティブとネガティブの話をしようとか言った。
ニワトリとタマゴのことも言ったが、
ニワトリとタマゴはどちらが先かとよく言うが、
そんなことはどちらも何も、ニワトリが先に決まってる。
とも言った。
なぜなら、ニワトリがタマゴを産むからだ。
タマゴはニワトリを産まない。
でも、タマゴからニワトリが出てくるじゃないかと言うかもしれないが、
タマゴを産み落とすのはニワトリなのである。
じゃあ、最初のニワトリはどこから出てきたのか?
と言われれば、私は知らないと言うしかないんですわ。
世界はどうやってできたか?と聞かれても、
わからないと言うしかないのと同じである。
だから、男と女はどちらが先にできたか?と言われれば、
それは女が先だということはわかる。
お察しのように、女が子どもを産むからだ。
男は産めない。それに男にも乳首がある。
ということは、男も原初は女だったということだろう。
もちろん、
アフロディーテはウラノスの男性器から産まれたとギリシャ神話にはあるし、
聖書にいたっては、イブはアダムの肋骨から産まれたとある。たしか。
でも、それは神話や物語であって、
神話は基本的に実際にあったことだと私は思っているが、
それでも時の権力やいたずら小僧の作家によって、
改ざんや修正は当然あるだろう。
だから、神話や古い物語が、
細かいところまですべてが本当とは限らないだろうが、
そうなると、
私のダボラともあまり変わらないとも言えまっせ。
で、世界はと言えば、それはポジティブに決まっている。
ポジティブとは、陽であり、前向きであり、
積極性であり、楽観性であり、肯定だ。
ネガティブはその反対で、陰であり、後ろ向きであり、
消極性であり、悲観性であり、否定である。
最初によくわからない世界があったとして、
それが仮にネガティブなものだったとしても、
そこに何かしら、ある日アクションが起こった。
つまり何かが動いた。
そのネガティブとされる状態が、静謐だったのか、
無だったのか、混沌だったのかはともかく、
そこに何かが起きたのである。
特異点と言ってもいいのかもしれないし、
『日月神示』や『大本』的にマルチョンとか、
ス点と言ってもいいかもしれないが、
とにかく何かが動いた。
そして、それから動きっぱなしなわけで、
そこから世界が繰り広げられてきており、
今にいたるわけだ。
つまり、世界はその誕生からして、
どこかへと向かう前向きな動きなのだ。
だから、もともとがネガティブであろうがポジティブであろうが、
世界はポジティブである。
そして、何かが動けば、
同時にそれを止めようとする力が働くのも世界だ。
どちらかの方向へ力が働くと同時に、
その逆の力も働く。
作用・反作用であり、
これはニュートン物理学でも常識だ。
でも、量子物理学では云々…という話はここではしない。
私たちが今、
生活して利用している橋とかビルとか電車とか何とかは、
すべて古典物理学のたまものなのである。とりあえず。
私たちは、
私たちが築き上げてきたそういう世界観の上に、
今の世界を築いているのだ。
だから、一応ちゃんと成り立っている。
とりあえずは。
だから、これからも世界を破滅させないようにするためには、
もともとのポジティブな前向きな方向性、積極性、楽観性、
肯定とともに進んでいかなければならない。
というか、進んでいかなければ “ならない” と言うよりも、
ほっといてもそうなるのだが、
そうならないような動き、ネガティビティが働くのも事実である。
それが問題なのだ。
ポジティブな動きが起こるそばから、
その逆のネガティブな力も働く。
ポジティブな動きに対して、
どういうわけか必ず反作用として、
ネガティブな力も起こってくる。
しかし私たちは、
もともとがポジティブな力でポジティブな方向へと動いてはいるが、
同時に働くネガティブな力がなければ、
ポジティブな力ということもわからなかったかもしれない。
ひょっとしたら、ネガティブな力、方向は、
ポジティブな力、方向を確認するためにあるのかもしれない。
だから私たちは、もともと原初からある、
この世界の成立の初めからあるポジティブな力、
方向とともに生きることを考えなければならないだろう。
そして、それに反する力、方向に関しては十分、
警戒しなければならない。
しかもそれは、世界的な陰謀とかに対してではなく、
自分の身近な人、無批判に尊敬してしまっているような人、
そして一番大事なことは、
自分自身の思考の方向を警戒しなくてはならない。
世界的規模の陰謀・謀略があるとしても、
それはもうすでに自分の思考をある意味、
乗っ取られた人々が張り巡らせているものであるから、
そういうものに抵抗するよりもまずは、
身近なところからはじめなくてはならない。
なぜなら、
思考を乗っ取られてゾンビのようになった人々が運営する企業や国家、
その他の共同体がせっせと仲間を増やそうと、
今でも躍起になっているからだ。
だから、そういうところの仲間にならないように、
大事な仲間たちにいろいろと伝えていかなければならない。
そういう意味で、私はジュリアン・アサンジを支持するし、
『ウィキリークス』はかなり有効な “目覚まし時計” だと思っている。
願わくば、ジュリアンがネガティビティに取り込まれないことを。
そしてこのネガティビティとは、“エゴ” から発生する場合が多い。
しかし断っておかなければならないのは、
エゴ自体は何もわるくはないということだ。
エゴがなければ、
人間はおそらく人間としては生きてはいけないだろう。
なぜなら、
エゴを否定するということは “欲望” を否定することであり、
そうすると欲望に変化する前の “願望” をも否定することにつながり、
願望を否定してしまうと、結局その人は、
自分に幸福をもたらすはずの本来なすべき仕事を、
なすことができなくなる可能性があるからである。
もちろん、“欲望” のようなものは持たないほうが人生は混乱しない。
欲望とは、
願望が叶わないかもしれないという理性の余計な心配・恐怖から、
願望が変質したものだ。
そしてそれはゼランドが言うように、
“重要性” の発生原因の最たるものである。
そういうことを踏まえたうえでの欲望の否定、
エゴの否定というなら話は別になるのだが、
その詳細はまた『世界の創造 ゼランド編』シリーズ(というほど大そうなものではないが)へ譲るとして、
ちまたでよく言うエゴの否定論は、
人を思考停止に陥らせる可能性が高く、
さらに言えば、あるまじきことではあるが、
それを唱えるエゴ否定論者自身が “無意識” に、
相手を “支配” しようとしている場合すらあるのである。
だから問題は、
自分のエゴが動き出したときの、
その方向性にある。
それを見定める “目” を養わなければならない。
イエスは、
ただの(ただのじゃないか)ユダヤ教の一宗派だったが、
それまでのユダヤ教にアンチを唱えた。
最初からキリスト教があったわけではない。
仏陀もそれまでのバラモン教を否定した。
生まれ、出自によって現世において差別される仕組みを否定した。
最初から仏教があったわけでもない。
イエスの死後、仏陀の死後に、
その弟子たちがあーだこーだと聖書や経典を作成し、
あろうことか、聖書などはみんなで集まって、
ここは俺のところじゃ都合がわるいからとか何とか言い合って(たぶん)、
じゃあこういうことにしようかと、
聖書の中身を決める会議まで作られたのである。
何じゃ、そりゃ?と、
これまた反旗を翻したのがマルチン・ルターなわけで、
そして金で罪が拭えるような免罪符や教会の土地所有などを否定し(当たり前だ、聖書にはそんなことひと言も書いてないのだから)、
つまりそれまでのキリスト教を “否定” したわけである。
それまでの宗教、経典を否定するとはどういうことか。
ちゃんと正しいことを伝えようということだ。
何が正しいのかという問題は、
これまたその時代時代で大問題である。
だから少なくとも、
あまりに歴然と正しくないと思われることが横行していれば、
たとえばイエスは、仏陀は、ルターは命を懸けて(おそらく)、
否定したのである。
だから、正しいこととは何なのか(何だか尾崎豊みたいでアレだが)、
常に皆で考えようよということだ。
何とかなんじゃね?って、
世界が金持ちであった時代に(実はそんな時代は一度もないが)、
酒飲んで歌って踊ってばかりいれば、
エスタブリッシュメントたちも、
みんなとりあえずは楽しそうだし、
文句もなさそうだからいんじゃね?と権力にあぐらをかき、
そのうち堕落して、
すぐにネガティビティに取り込まれてしまう。
絶えず世界はポジティブに進んでいるとしても、
同時にネガティブな動きもあるわけだから、
ボーッとしているとすぐにネガティビティに取り込まれてしまうのだ。
中世の教会の連中にしても、政府の連中にしても、
企業でも何とか団体の連中でも、
それぞれはそんなにわるい連中でもないのだろうが、
環境によってはすぐに堕落し、
既得権益を守る方向、
あまりに個人的な欲望・エゴを守る方向、
つまり閉じる方向、
ネガティブな方向に引きずられてしまうわけだ。
今の世界でもそれは同じだろう。
どうしてネガティビティに引っ張られてしまうのか。
まずはそのへんの仕組みやら何やらを知らなければならないだろう。
いつの時代でも、大切なものは “知識” なのだと思う。
知識とは何か。
それは古代ギリシャにまで遡らないと、
なかなかわからないことでもある。
しかも、“魂” が関係してくるのだ。
あ、ちなみに “混沌” とか “カオス” の反対語は、
“秩序” とか “調和” ではなく、
“進化” である。
ポジティブであるということは、
進化するということなのだ。
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