先日アップした『真実を探究する問答1』の宗任(そうにん)さんのプロフィールは、
本人に確認したので載せてもいいのだが、
〇〇大学卒業後…何たらかんたらといった、
単なるプロフィールでもつまらないので、
記事ふうにしてのちほど書くことにした。
なかなかドラマチックで面白いからだが、
ドラマチックという意味は、
芝居のようにできすぎているということだ。
何もかもがタイミングがよすぎる。
次にアップする問答では「シンクロニシティ-」がテーマのひとつになっているが、
自分に絡んだ事象がすべて絡み合っているというふうにしてしまえば、
それはすべてが共時的に起きていると言えるのだろうが、
どうもことはそう簡単ではない。
やはり、自分で自分の現実を創造している、
引き寄せている、前もって知っている、
神に操られている…これらはほとんど同じことだが、
つまりシンクロニシティーを通じて、
そういうことがわかるということだ。
これはこれで、まもなくアップする。
昨日、ある作家と思い込みや先入観について話した。
たえばある作品、これは小説でも漫画でも映画でも何でもいいが、
接する前から、あるいは接しはじめたあたりで、
ああ、これは〇〇の二番煎じだろうと思ってしまうことがある。
わるく言えば、コピーだモノマネだということになり、
よく言っても、インスパイアされたのね、となる。
もちろん実際に意図してそうしたものもあるが、
それは論外として、
また無意識の領域からの発想によるものは、
それこそシンクロニシティーとしてこれも話は別になるが、
まずは鑑賞する側、アプローチする側の問題として、ある。
つまり、その作品のタイトルや構成が、
先行する作品のタイトルや構成に似ていたりすると、
反射的に二番煎じの類いとして感じてしまうというか、
場合によってはほとんどそう思い込んでしまう。
そして、その作品をついわかったつもりになって、
まともに作品を読まなかったり観なかったり、
あるいはすでに読んだり観た気になってしまって、
ヘタすればあろうことか、
読んでも観てもいない作品の論評まで企ててしまう。
これは、タイトルや構成が似ているということで、
理性が自動的にその作品をカテゴライズして、
過去のファイルの中にヒラヒラと収め、
その作品固有のイメージや解釈も意義も、
だいたいその過去のファイルの中のものたちに見合ったものとして、
認識してしまう。
自動的にだ。
実はこれは何も作品に限ったことではなく、
人物や事象に対しても言える。
ああ、あなたは〇〇といったタイプの人ね、
ああ、これはかつてのこういう現象のパターンだ。
高じて、あなたは今後こうなるよとか、
この出来事が起こったということは、
次はこうなるぞとか、
そういうことを考えたり話したりしてしまう。
これは知識がある人ほどそうなる確率が高い。
膨大な知識があり、
それをほぼ自由自在に引き出せるということは、
膨大な知識をジャンル別やカテゴリー別に、
頭の中できちんとファイリングしているということだ。
そして、総じて厳しい受験勉強を勝ち続けてきた人は、
そういうことに長けており、頭の中の倉庫も広く、
そこに棲みついている倉庫番の製品管理、
ラベリングだったり配置の仕方も優秀なのである。
しかし長年、
さして問題も起こらない中で、
同じような倉庫管理をし続けていると、
倉庫番も平和ボケして半分眠ったような状態になり、
仕事もルーティン化してきて、
外部から同じような形や色や匂いの箱が運ばれてくると、
ラベルを確認したり中身を検査したりせずに、
右から左へと同じような形や色や匂いの箱がある場所に、
自動的に置いてしまう。
それが受験勉強に必要な箱という程度の時期のことであればいいが、
社会で生きていくために必要な箱となるとそうはいかない。
箱のラベルが細工されていることだってあるのだ。
毒物や爆弾や死体のラベルの箱に、
宝石や札束や不老長寿の薬草が入っているかもしれないし、
その逆だってありうる。
だから倉庫番はしっかりとラベルを確認し、中身を検証し、
場合によっては、飲んだり食べたり、触ってみたり、
どこかの実験室に持って行ったり、
別の倉庫番とあーだこーだと、
打ち合わせをしたりしなくてはならない。
そして箱の保存場所を決定し、あるいは破棄し、返品し、
発送元との取り引きを停止したり、
別の倉庫を建てたりしなくてはならない。
それは理性のオートマティズムの話だが、
そうしたオートマティズムに安易に流されると、
その作品や人物や事象の個別・固有の世界に、
リアルな体験として参加するチャンスを失い、
新しい体験、新しい発見、
つまり新しい知識・叡智を得ることができずに、
そのままその人は既存の知識の枠の中で、
永遠とグルグルと回ることになってしまう。
しかも既存の知識の中の、
その人の得た知識の枠の中の世界なのだ。
そうなれば、
何か巨大な邪悪なものの存在があったとしても、
そうしたものの存在自体が認識できなかったり、
何か既存・既成の枠組みの中に“自動的”に落とし込めて、
それなりに納得・安心してしまう。
巨大な“悪”ははるかに“創造的”なのである。
グルグルと回る“知性”では、
そうした創造的なものは見極められない。
*
人は「体験」をするためにこの世界にやってきた。
それだけは間違いないだろう。
そうでなければ、肉体も世界も必要ない。
その両方がなければ「体験」はできないからだ。
より厳密に言えば、その両方がなければ、
肉体を通して世界を体験することはできない。
だから、先の話に戻れば、
まず、思い込みや先入観にとらわれずに、
その作品や人物や事象に接し、
その固有の世界に触れることだ。
そうすれば、あとはその人なりの個別の体験を通して、
その人なりの個別の判断なり解釈なり認識を経て、
その人なりの知識となる。
そうした自分なりのリアルな体験から得た知識を持ち合わせている人たち、
そういう人たち同士の話し合いや、
知識の交換から得られる何かしらのビジョン、
それはそのつどそのつどのビジョンでしかないだろうが、
私はそうしたビジョンの中に、
ある種の可能性なり希望の存在を感じる。
しかし反面、
特定の作品・人物・事象などの個別・固有の世界に足を踏み入れるということは、
その世界観をいっときでも共有するということで、
それなりに危険でもある。
世界観を共有するということは、ともに共振するということだ。
その世界とその世界に住んでいる住人と、
自分がいっときでも共鳴し、
共に生きるということなのである。
共振は、相手が一冊の書物でも、一篇の映画でも、
ひとりの人物でも、ひとつの偶然でも起こり得る。
ひとつの物語にひとり、
あるいはふたりで埋没して暮らし、
外界をいっさい閉ざしてしまうということにもなりかねない。
ましてや、広く人口に膾炙した作品や、
ひとつの教義やイデオロギーのもとに集まった大組織、
世界中に流布するデマゴーグ、
特にネガティブな大予言などのことを考えれば、
「共振」の持つ危険性はあきらかだろう。
だからこそ、
理性のオートマティズムの中で惰眠を貪ることなく、
果敢にリアルな体験を求め続け、
しかも体験が与える快楽にも搦め取られることなく、
新しい知識を獲得/創造していく、
ということを“自覚”していくしかない。
してみれば、「安定」こそ罠なのかもしれない。
シュレーディンガーじゃないが、
エントロピー増大の法則の中で生命体が維持されるのは、
生命体が周囲の環境に働きかけているからで、
つまり私の言葉で言えば、
「体験」を通じて熱放射を行なっているからで、
単体の生命体それ自身が単独の系として安定志向を持ってしまうと、
それこそエントロピーの法則によって、
その単体は解体されていくしかない。
それぞれの生命体が単体で体験を続けていくからこそ、
その単体の生命体が維持されるわけで、
そういう単体が増えれば増えるほど、
その生命体全体の系も維持される。
つまり「進化」の可能性が維持される。
人類の希望は、人類の進化の可能性の中にしかない、
と私は思う。
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