前回、自分がわくわくしているのかどうか、魂の声を聞いているのかどうか、ゼランド方式では簡単にわかると言った。
言い方を換えると、わくわくしているし魂が喜んでいるので、これからしようとすることは自分にとっていいことのはずだから、私はこれをやろうと決断する。
あるいは、わくわくしたし魂が喜んでいたから、私はこれをやると決めたのであり、今でもやっているのだ。
というとき、
それは果たして本物のわくわくだったのか? 本当の魂の喜びだったのか? を判定する方法がわかるということだ。
それは、何かことを起こそうと決断するときに、それが自分にとって正しいことなのか、そうではないのかを自分の魂に聞く方法、とも言える。
なぜなら、魂は理性と違って、やろうと決断したことがらに関して、これから何が待ち受けているかをだいたい知っており、間違うことがないからである。
本人が何かを決断したとき、つまり無限にある人生のラインのひとつを “選択” したとき、そのラインの行く末にあるものを魂は “感じ取る” ことができるのだ。
そして魂は “予感” として理性に差し出すのだが、理性は自分のおしゃべりに忙しくて、魂の声なんぞには耳を傾けようとはしない。
だから、何かことを起こそうというときには、理性のゴタクは参考にする程度に留め、自分の魂に直接聞いてみるのが一番確かなのである。
どのように聞くのか?
ゼランド方式による判定方法は、バカにすんな! と言われかねないくらいシンプルなものだ。
何かを決断したとき、あるいは何かをしようと決定したときに、自分の魂に、
「気分がいいか? わるいか?」
と聞くのである。
つまり、魂の快・不快を基準にするということだ。
特に “魂の不快” に関しては、絶対的な信頼をおいてよいとゼランドは言う。
唯一頼りにしてよい基準は、魂の不快である。
これは理性がすでに下した決定に対する
魂からの否定的な反応のことだ。
魂の快・不快については、
理性が自分の目的を定めた後であれば、
確かめることができる。
あなたはすでに目的を成し遂げ、
すべては過去のものとなったとイメージしてみよう。
イメージしたら、
目的についてどうこう議論するすることは中止し、
魂の感覚に注意をはらおう。
気分はどうだろうか。
良いか悪いか、どちらだろう。
もし喜びの中に懸念、重苦しさ、
義務感などが混じっているのなら、
魂ははっきり「いいえ」と言っていることになる。
理性は、美しく包装された目的の中に
何らかの不快な成分が含まれていることを推測できない。
だが、魂はこれを感じ取る。
つまり、いくら “理性” が合理性や論理の一部、常識などに基づいて楽観的な見解を披露したとしても、魂は理性が感知できない不具合を正確に把握しているということだ。
そしてゼランドは、魂が「ノー」と告げているかどうかを判定する確実な手法として、次のように述べる。
もし、あなたが自分自身を納得させたり説き伏せたりして
「はい」と言わせなくてはならないのであれば、
魂は「いいえ」と言っている。
あなたの魂が「はい」と言っている時、
あなたは自分自身を説得する必要がない。
重要な点は、そうしたことを常に “思い出す” ことなのである。
何かの決断・決定をしたあとに、どうもうまくいかない感じ、そぐわないような感じ、何となく気に食わない感じがある場合には、決断・決定をしたときに遡って、そのときに感じたはずの魂の気分を思い出してみること。
もう一度、決断した時点に戻って、魂の快・不快を思い出すという作業を忘れないでいることが大事なのである。
そして場合によっては、いろいろな事情があるにせよ、勇気を出して、別の決断・決定を検討するべきだということだ。
だいたい人は、自分で今の状態に何かしらの不満を感じていたとしても、理性の “正論” に気圧され、理性が決定したことにそのまま従い、魂が「違うんだけどなあ…」と伝えていても、いろいろな理屈をつけながら、正当化しようとするものである。
そのためには幼稚な言い訳から、高尚?な理論や定義すら持ち出してくる。しかもそうしたものは、自分の頭で検証したものでもなく、ある種の “権威” や “常識” によるお墨付きを受けたものばかりだ。
そんなものに依拠して、本当に自分の大事な “魂” を差し出してもいいのだろうか?
ゼランドの “リアリティ・トランサーフィン” も、言ってみればひとつの理屈、理論、定義みたいなものと言えなくもないが、われわれの思考を乗っ取るような既存のイデオロギーの代わりに、別の世界モデルを提案するという形で著されており、ゼランド自身が読者に、トランサーフィンに囚われるなとも警告している。
もとより、魂の喜びがどうした、ワクワクがどうしたと言わなくても、自分のしたいことをしている人は大勢いるだろう。
この私ですらそうで、私の場合は、ただのアホさかげんからとは言え、やりたいようにやってきたし、今もそうだ。
世の “常識組” “良識派” からすれば、とんでもない!と、目を三角にして怒られそうなこともしてきた(している)が、少なくとも自分を正当化する理屈のようなものは、まったく必要とはしない。
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ゼランド絡みのことを書き出すといろいろと止まらなくなるが、糸の切れたタコにならないように、次回は「知っているものたち」シリーズ?の続きを書こう。
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