仕事の原稿を書かなければならず、パソコンを開いてはみたものの、窓から差し込む陽光がポカポカとしていて、陶然としてしまう。
“陶然” などと言うと何かしら高尚めくが、要は頭がボォーーッとするということだ。
この感覚は私にはよくあるなと思っていると、高校時代に授業をサボッて寺に行って、魚肉ソーセージ食って牛乳を飲んだときを思い出した。
禁止はされていたが、私はいっとき高校にバイクで通っていたが、バイクを近くの市営球場に停めて、校門の前までテクテク歩いていくと、ふいに「やーめた」という気分になり、市営球場に引き返して、バイクに乗って、どこかへ出かけていくというクセがあった。
そのときも高台にある寺に行き、見晴らしのいい丘から霊園を見下ろしながら、ソーセージを齧っていたのである。遠くに富士も見えてたかな。
あのときも日を浴びながらボーーッとしていた。そして、そういうときはいつも家持の歌を思い出していた。
うらうらに照れる春日にひばりあがり
こころかなしもひとりしおもへば
万葉集の歌はあまり知らないが、この大伴家持の歌はなぜか心に響いたというか、忘れなかったのだ。
“こころ” というのは、“情” という漢字があてられていたと思う。教科書には。たしか。
ポカポカとした陽気の中を歩いていると、今でもこの歌が浮かんでくる。
この歌の解釈についてはいろいろとあるんだろうと思う。でも、何となくわかるわけだ。家持の気持ちが。
そんなんだから、もちろん高校時代は遅刻の連続で、回数の多さでは 2 位だった。
1 位は高野というヤツだったが(あ、言っちゃった)、なかなかいいヤツで、ある日、町の雀荘で私がマージャンでボロ負けしたときに、払えなくてどうしようかと思っていると、軽く肩代わりしてくれたのだ。
私はハナから負けるつもりはなかったので、お金をほとんど持って行かなかったのである。
高野は本当に “軽く” 払ってくれた。そのときのメンバーは同じクラスの私と高野と、あとのふたりは別のクラスのヤツだった。別のクラスのヤツに私がボロ負けしたのである。
何の話だかわからなくなってきたが、あの “軽く” 払ってくれた “感じ” が何とも不思議で、今でもときどき思い出すくらいだ。
何と言うか、お金にこだわりがないというか、どうでもいいというか、そりゃないときはないわな的というか、高野自体に金銭感覚が欠如していたのでないかと、今になってみると思えなくはないが、いずれにしろ共感したのである。
金を払ってくれたからそう思うだけだろうと、おそらく言われると思うが、そうではないのだ。
“お金” というものに対する態度というか、感覚というか、要するにお金に “重き” をおいていない感じ。
本質的にはあってもなくてもどうでもいいもので、あればあったで、もちろん今の世では便利だし、人によってはそれが “アイデンティティー” にもなるようだし、安心感や優越感にもなる。
そういう感覚と無縁の感じといったらいいだろうか。
いつぞやの同窓会のときにそのことを高野に言ったら、「覚えてない」と言ってたような…
ちなみに高野は、高校当時はいわゆるリーゼント頭で、電車の中で国士館のトッポイ大学生の兄さんと、ガチンコで睨み合ったまま一歩も引かないようなヤツだった。
何のこっちゃ?って話だが、仕事の原稿がはかどらないものだから、ブログの更新をしようと前回の記事をのぞいたら、カタカムナに触れていたことを思い出して、“過去” というものに思いを馳せ、そして陽気のこともあって、ふと高校時代を思い出したということだ。
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日本のカタカムナを世界に伝えようと奮闘されている、吉野信子氏がいる。
この人はすごい人で、ネットを見ていたら、“カタカムナ” という言葉が目につき、これは “カタカナ” の間違いだろうから、書いた本人が恥をかくと思って、間違いを指摘してあげようとして、あ、本当にカタカムナというものがあるのだ、とわかり、勉強をしはじめたという人である。
そうして、自称 “一介の主婦” だった氏は、今や誰も解明できなかったカタカムナの奥儀に、かなり迫ってきているということなのである。
氏の話の “核心” のひとつに、“過去” に関するものがあり、簡単に言うと、私たちが “今” と思って見ている世界は、実は “過去” だと言うのである。
過ぎ去った世界、過去になった世界を “今” と思って見ている。
では、“今” はどこにあるのかと言うと、その “過去” を見てどう思っているのか、自分の中にある “想い” の中にあると言うのだ。
つまり、私たちは目の前にある現実を見て反応する。目の前で起こっている現象に対して、イヤな気持ちになったり、憎らしく思ったり、妬んでみたりしている。
その想いの “振動” が、まためぐりにめぐって、目の前の現実を創造していく。
ネガティブな想いの振動は、そのネガティビティに見合ったものを正確に創造していく。これはもはや法則と言ってもいいだろう。
私たちは、自分の過去の想いが創造してきた現実を見て、またある想いを抱いて、判断をして、反応して、順繰りに順繰りに、過去を創造していっている。
それを高速以上のスピードで、絶えず繰り返しているわけだ。
だから、目の前の現実(本当は過去)を見てどう反応するか? また過去と同じような現実に接した場合に、また同じように反応するのか?
何かムカツいたヤツがきたときに、また同じようにイヤな顔をして否定するのか?
何か超苦手なできごとと遭遇したときに、また同じように逃げるのか?
自分に降りかかるすべてのことを受け入れ、たとえばすべてを “学び” としてとらえたり、人の気持ちを理解するための “経験” としてとらえて、マイナスのものをプラスに変換していくと、その想いはプラスの振動として自分の中に蓄えられ、今度はそのプラスの振動が現実を創造していく。
すると、現実が変わる。
これも当たり前だ。この世のすべてのものは、“振動” とか “波動” でできている、とする立場からすれば、振動が変われば、すべてはその振動に合わせて、変わっていくのである。
プラスの振動は、そのプラスに見合った現象を創造する。
そしてプラス現象が勢いづいてきたときは、
「あ、これはいかんな。調子にのらずにちょっと控えよう」
とか、
「あ、自分ばかりがいい気になっているな。もう少し、ほかの人の気持ちも考えよう」
とか、マイナスの振動も取り入れて、バランスをとっていく。
この世にプラスしかなかったら、創造は起こらない。すべてプラスとマイナスの動きでできているのである。“陰陽” の世界だ。
だから、すべてのことを受け入れ、それぞれがそれぞれなりに、マイナスをプラスに変換していくこと。
そこにおそらく、私たちが生きていくための “秘密” が隠されている。
でも、これまで、その “秘密” や “奥儀” は巧妙に隠匿されてきた。隠匿している連中がいるということだ。
だって、こういうシステムというか仕組みがわかれば、人々は現実を変えはじめるよ、きっと。誰だって戦争や人殺し、不公平や格差はイヤでしょ?
でも、ここに大きな問題も横たわっていて、バカのようにいつも私が持ち出すゼランドや、その他、いわゆる高次元の存在? 地球外知的生命? からもたらされる情報、さたには 26 日に出る角田氏の書籍など、いろいろな人が指摘しているように、なかなかひと筋縄ではいかぬこともあり、マイナスやネガティブに引き寄せられてしまうという、言ってみればエネルギーのようなものもあるわけなのである。
それは何だ? というこだ。
それはともかく、おそらく先の吉野信子氏は、カタカムナを伝えていくことに、今後の生涯のすべてをかけたような人なのだと思う。
ちょっと長いが、下記の YouTube を見るとそれがよくわかる。
カタカムナというものの概要、吉野氏の想いのタケが、十分に伝わってくると思う。
いわゆるマカバも、六芒星も、秘密結社の言う “すべてを見通す目” も、日本人とユダヤ人のことも、すべてカタカムナで説明されている。しかも明確にだ。
吉野信子氏は、今後の世界にとっても、重要な人物のひとりである。
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