だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

サケナクテ、ナンデオノレガサクラカナ

どうも日中は暖かいのだが、夕方以降はまだ冷え込む。

まあ、3 月が近いから何だか暖かくなってきたと浮かれていたが、お花見のときでもまだまだ夜は寒かったなあと思い出した。東京の話だけれども。

のせいかどうか、風邪を引いたらしく、というか体の調子が思わしくなく、そんなに室温は低くないのに何だか寒気がして、どこか節々もおかしく、ヤバ!これインフルか?と思ってくじけそうになったが、なかったことにして事務所に行ってちょこっと仕事して、1 日で元に戻すつもりでいたら本当に戻った。

どうも前の晩の飲みすぎで腸がよわったか、知恵熱のようなものだったらしい。カミさんにいたってはハナから二日酔いとしか思ってなかったようだが、断じて二日酔いではなかった。

風邪っぽいとか、熱があるとか、そんなのは自分でわかる。普通は。

二日酔いで寒気がしたり、味覚がおかしくなったり、節々が痛むか? 人が体調がわるいとか言うと、二日酔いとしか思わないのはやめたほうがいい。

風邪に限らず、いわゆる病気というのは体の “症状” であり、ある状態のことを指す言葉で、“病気” という独立した “もの” があるわけではない。

んなの当たり前じゃん!と言われそうだが、ここんとこは大事だ。

胃や腸が痛いとか、頭が痛いとか、だるいとかかったるいとか、医者に行けばそれぞれ立派な病名をつけられそうだが、要するにそういう症状が出る “原因” がどこかにあるはずだ。

しかし、多くの医者はまずは病名を決め、その原因はやれ〇〇ウィルスのせいだ、どこそこに炎症があるからだ、◯◯が◯◯を圧迫しているからだとか言う。おそらく。

それはそのとおりだろうが、その〇〇ウィルスが発生する原因とか、炎症が起きた原因、そこが圧迫しているされている原因があるわけだ。

でも、これもベタな話だが、たいがいは医者は、じゃあこの抗生物質を飲みましょうとか、抗炎症剤を飲みましょう、ヘタすりゃ、手術してここを除去しましょうとなる。

でも、熱めの風呂に入るだけで対処できたり、刺激物を摂ることを控えたり、姿勢を正しくすることで元に戻ったりする場合もある。

もちろんひどい場合は入院したり、手術することも必要だろう。

でも、本当は自分で自分の体の異変に気づき、何が体をおかしくしたのかを考え、ああ、あれかと思い当たることがあれば、それを矯正すれば大事にはいたらない。

昔は、落語なんかを聴いても、ちょっと体をわるくしたので、しばらく上州のおじきのところでやっかいになっていたら、そのうち塩梅がよくなって…なんて話がよく出てくる。

つまり、体がおかしくなったということは、それまでの生活の仕方に問題があるわけだから、田舎に行って生活習慣を変えて治そうということだ。そういうことが庶民の中に普通の認識としてあったのだ。

だから本当は、会社員でも何でも、部下の体調がおかしくなったら、上司は「しばらく休め」と言えばいい。

もし、そういうときに安心して休める習慣というかシステムが確立していたら、部下も休んで、じっくりと自分の今の生活を見直すことができ、よし!あれとあれはやめて仕事に専念しようとか、よし!やっぱり会社を辞めてあれをやろうとか、その人にとってよい方向へのひらめきがおのずとおとずれるだろう。

当たり前のことだ。人間の体は大自然の一部なので、人間の体にもホメオスタシス、恒常性を保とうとする働きがあるので、体がおかしくなればもとに戻そうする。

それこそ “理性” が〇〇せねばとか、これは〇〇のせいだから〇〇しとけば大丈夫とか、ひとりよがりな命令とか知ったかぶりを自分に強要しなければ、つまり “普通” に自分の気持ちに従って対処すればいいだけなのである。

その “普通” がよくわからないということになってしまった。

普通ってどういうこと?ってことだが、これはこれが普通だっていう全世界共通のものはなく、それぞれが普通に普通を感じるしかないわけだ。

そしてより多くの人がその普通を感じていくことでしか、人がおかしくならないような世界は立ち上がってこないだろう。

となれば、その普通を “感じる” という、感受性という受容感覚の問題になってくるが、それがスピリチュアリズムの本懐にもつながってくるし、ビリー・マイヤー的に言えば、“霊性の進化” ということになってもくる。

今は人は自分で上州のおじきのところへはいかず、病院に入院し、ホメオスタシスに信頼をおかず、医者に依存するようになってしまった。

三島由紀夫は腹を壊してもなかったことにして、ビフテキでも何でもガツガツ食べて、そうすれば翌日には治ったみたいなことをどこかで書いていた記憶がある。酒を飲みすぎたときは、やかんいっぱいの番茶だかをがぶ飲みしてから執筆にかかったとか。

ずいぶん豪快な話に聞こえるが、まあ三島さんはバルザックに憧れてたから、あの高笑いというか哄笑にしても、どこか豪放磊落ぶりを気取っていたのかもしれない。

だいたいが、どんなに外で酒を飲んでいても、どんなに仲間に誘われたとしても、笑いながら固辞して、必ず 11 時には書斎に帰って執筆をしていた人である。それにあの文体にしてもバルザックとは正反対だ。

二日酔いで言えば、山口瞳がいくつかの対処法を紹介していたことがあり、棋士の升田幸三だっかは、ぬるい風呂に浸かってだんだん熱くしていくんだとか。

山口氏本人はと言えば、二日酔いというのは精神的な部分が大きいから、どんなに辛くても出社して、午前中は頭を使わなくてもすむ軽い仕事、書類の整理とか、デスクの上の片づけとか、そういうことをやればいいという。

会社を休んだりしたら最悪で、これは誰にでも経験のあることだろうが、その自己嫌悪感たるやそれこそどんだけ体に悪いんだかって感じだから、それだけは何とか避けるようにというふうな、しごくまっとうな意見だったと思う。

私のように酔っ払いながら仕事をしていたのとはちょっと違うようだが、というかだいぶ違うわけだが、まあある種の正論で、三島ではないが、二日酔いも何もなかったことにして、そのまま普段通りに仕事をこなしていれば、そのうち二日酔いも消えるものなのだ。

で、また飲む。

何の話だ。

時間がなくなった。これから町田に行って飲むのである…

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