昨日、韓国の知人と大久保の蕎麦屋で落ち合った。
この蕎麦屋はけっこうな老舗で、私はだいぶ前から通っていた。
当時は新宿にあった出版社に勤めていたころ、昼間から打ち合わせと称してはよくそこで飲んでいたものだ。あ、そばには有名な台湾料理屋もあって、そこでもよく飲んでいたな。
韓国の出版事情も厳しいらしく、特に紙媒体は壊滅的らしい。そのかわりネット関係、デジタル部門関係はいい。これは日本も変わらないだろう。
日本の出版業界が厳しいということはもうだいぶ前から言われていて、何を今さらといった感じもあるが、あれはいつごろだったか、業界全体の売り上げが 2 兆円を切ったあたりから騒がれ出した。インターネットが普及し、SNS が流行り出したころだろう。
でも当時も、2 兆円切ったったって、2 兆円って言えばキリンビールの売り上げくらいなんだから、しょせん出版業界と言っても、日本の全出版社がたばになってかかっても、ビール会社1社にもかなわないってことなわけだろ?などと、ビールを飲みながらほざいていたものだ。
別に斜に構えていたわけでも卑屈になっていたわけでもなく、むしろ逆で、されど出版社ってことで、俺たちはいかにおもしろおかしくエンターテインメントしていくのかと、まあ矜持を持っていたわけだ。みんなも少しは。
それが 2 兆円を切っただ、本が売れない雑誌が売れない、部数がとれない広告がとれない等々、もちろんほとんどが商業出版社だから売れなきゃ給料も出ないわけだが、それでも出版社だろ?あんた、ってところがあって、いつから守銭奴が入り込んだんだ?ってヤツがときどき出てくる。特に肩書きがつきはじめると。
これも当たり前だ。社長もよっぽどでなければ基本的には利益を追求しているわけで、その社長に媚びて出世するには守銭奴になるしかない。
これは出版社に限らずそうで、出版業界で言えば、取り次ぎや印刷、製本、その他デザイナー事務所や編プロ、カメラマン、ライター、イラストレーターもろもろフリーランスの連中もそうで、みんなお金はほしいのである。
問題はお金の稼ぎ方というか、儲け方というか、あるいは得たお金の分配の仕方というか、そういうことだと思う。
ある企画が立ち上がって、みんなでおもしろがって一生懸命になって、ものすごい利益が出たとして、そのあとそのお金をどうするのか?ということだ。
普通に考えれば、みんなでそれなりに等分というか応分に分ければいいだけの話だ。
しかし、そこに必ずと言っていいくらいに富の偏りが出はじめ、まあ言ってしまえば権力を持っているヤツ、あるいは声のデカいヤツ、単純にがめついヤツが余計にかっさらうようになってくる。
それが常態化していくとハナから自分の取り分を計算するようになり、この企画で自分はいくら儲けられるのかと、それぞれが腹の中で金勘定をするようになる。
これは純粋におもしろがってはじまった企画でも、それで利益が出たとたん、まるで別の霊に取り憑かれたかのように変わってしまう人もいる。
先の韓国の知人にしてもそうで、ある企画に関して、その知人が相当に頑張って企画を成功させ、かなり大きな利益が出た。そのとたん、関わっていた連中の間でお金のぶんどり合戦がはじまった…
知人は傍観していたが、知人が一番の貢献者であることは誰の目にも明らかで、そもそも知人がいなければ企画の成功自体はあり得なかった。そこで一応は中でも見識のある長老がとりなし、結局は仲間で等分に分けることになったのだが、知人にとっては最初に約束された金額の半額になった。
知人は「参りました」と笑っていたが、これは韓国の話である。
でも、日本でも同じだろう。
何が言いたいかと言うと、それはお金は大事だし、私だってのどから手が出るくらいにほしい。特に今。それはともかく、そういう何というか、まあ、ことだとおもしろくないと思うわけだ。
お金のぶんどり合いになっても、じゃあ、次に儲かったらこうしようとか何とか、また企画が発展していけばまだいいいが、ヘンに遺恨を残すようなことになると、せっかく発展・進化していきそうな企画があっても、そういう方向への道がスポン!となくなってしまうということも起こる。
企画とか何かを創造していくということは、みんなで神輿を担ぐようにしていかないと前には進めない。自分だけ力を抜こうとみんなが思ったら、その場でつぶれるのである。
お金はもちろん大事だ。
しかし、お金を稼げる人がえらいとか上等かとなると、ちょっと違うだろう。お金を稼ぐことはおそらくそんなに難しいことではないのだと思う。
いくつかの仕事を徹底的な効率化のもとにスケジュール管理できれば、それなりにお金は得られる。要はそれをやるかやらないかだ。
つまり受験勉強のようなもので、では一流大学に入った人がえらくて上等かと言えば…まあ、そういうことだ。
何ごとかを犠牲にしてあるいはあきらめて、一流大学に入った大金持ちになったとして、問題はそして何をやるかなのだ。
やはり人は何を目的としているのか、どこを目指しているのかが重要なのだと思う。私は個人的にはそういうことにしかほとんど関心がなく、そうして生きていく中で、それにともなうもろもろの楽しみを楽しんでいこうと思っているだけである。
*
以前、あるイギリス在住の知人が遊びにきたとき、私が今この瞬間に全世界からお金がなくなっても何も困らないし、世界はそのままだろうと言うと、その知人は心底驚いて、お金がなくなったら生きていけないじゃない!と叫んだ。
そうだろうか?
この瞬間に世の中からお金が消滅しても、もちろんいきなりであれば混乱するだろうが、おそらくこの先もパン屋はパンを作り続けるだろうし、材料屋は材料をパン屋に届けるだろう。電車もバスも動くだろうし、農家も米や麦やりんごを作るだろう。
たとえお金がなくなっても、今あるものやシステムはそのまま使えばいいだけだ。強いて言えば、おかしなシステムはもっと効率のよいシステムに変わるかもしれない。電車の運転手も本当にやりたかった人だけがやるようになり、それぞれがそれぞれにふさわしい職を見つけやすくなっていくかもしれない。
怠ける人が出てきたらどうする?と言うムキもあるかもしれないが、どんな時代にでも問題はあるものだ。それでも、今よりはましかもしれないし、実際、やってみなければわからないのである。
最悪なことは、変化を嫌い、今の状態を維持していこうとすることである。そういう精神には、おそらく新しいことを創造する力は与えられないだろう。
なぜなら、精神は自らが進化していこうとする内に精神を精神たらしめている力が漲るのであり、安定性への志向は精神の自死へと向かわざるを得ないからだ。
逆に言えば、そういうことを熟知している者たちがこの世を現状維持に留めさせようとしており、自分たちが享受している莫大な既得権益を既成事実化し、さらに今、世界の前提にすらしようとしているのである。
世界人口の数%の人間を頂点に、そうしたやりきれないようなピラミッド型のヒエラルキーが、相似形として大小さまざまに地球上の各地を覆っているわけだ。
しかも、これは何も陰謀論でも何でもなく、でもないこともないが、私がやりきれないなあと思うのは、人はわりと無意識にそうしたピラミッド構造に率先して加担していくということなのである。
そのあたりのことはそれこそゼランドその他、私がエラソーに優秀だと思うなどと言っているいくつかの書籍で論じられていることであり、それを読んで自分で考えればすぐにわかることでもあるのだ。
だいたいが数%の人間のわけだから、では対抗している人間はどれくらいいるかと言えば、99 %以上もいるわけで…要するに今すぐにでも、どんな世の中にでも変えられるということでしょ? ちょっとやろうとさえ思えばさ。
だったら、今のままでいいですなんて言えますかってことで、自分さえよければいいという考えもあるからアレだが、少なくとも今の子どもたちの未来とか将来とか、大きく言えば地球の未来とか、スピ系っぽく言えば過去でも未来でもなく、今の自分の内と外のことに関してもっと目を見開いていけば、とてもこのままでいいとは言えないのではないだろうか。
やりきれないピラミッド構造を支えていく意味とは、いったい何なのだろう?
誰かに教えてもらいたいくらいだが、その最大の理由のひとつは、間違いなく “お金” にあることだけはわかるのである。
Commentコメント
西塚裕一様
西塚様から、韓国と日本の出版事情を教えていただき、改めて言語文化のネット&デジタル化についてとりとめなく考えてみました。
電磁気力と強い力と弱い力と重力の統一理論を求めて探究を進める過程で生まれた量子力学。それが現代文明に多大な影響を与えている。私が「ネット」から連想するのは「脳」です。脳は、意識活動を営みます。現代物理学は、観察の対象から意識を排除しています。現在、統一理論に最も近いと言われる超弦理論の最後の課題は重力の解明。西塚様は「重力とは意識」と語られました。超弦理論が重力を解明できないのは、観察の対象から意識を排除しているからかなあとも思います。
ところでヴァジム・ゼランドは量子物理学者としてのキャリアを持っておられますが、「シュレディンガーの猫」論争では「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」などあっておもしろいですが、「波束の収束」を手がかりに意識の働きが解明されてほしいと思います。とても関心があります。しかし、最新物理実験で猫の存在は「生きている」と「死んでいる」が共に存在することが部分的に証明されたと言われています。
その「並列する可能性」ということから私が連想するのは量子電磁力学で、「あり得ることは、すべてあったことにする」という視点です。その確率を計算する数学的手法がファインマンの経路積分。私のぶっ飛び思考では、「あり得ることは、すべてあったことにする」というのは、潜在意識の力学に言及しているのではないかと思われます。
やはり確率の問題ですね。サイキッカーがクライアントの要請で近未来を透視した場合、(透視する対象は潜在意識)そこには「あり得ることは、すべてあったことにする」力学に基づいて過去現在未来の現象が並列的に複数存在し(だから時間の特定が困難)、サイキッカーは、その膨大な並列データのほんの一部から情報を入手すると思います。それがハズレになった場合、確率の低い情報群が存在する波動域にアクセスしたからではないかと思います。ファインマンが経路積分を一般向けに解説した『光と物質のふしぎな理論』について、東晃史氏は、意識の領域に踏み込んでいると述べておられます。
肉体をまとった顕在意識(&潜在意識)の世界においては、「現実社会の荒波」に揉まれながらお金を稼ぐことも重要な修行のひとつだと思います。
ところで、「現実社会の荒波」は、《「顕在意識&潜在意識」を超越した意識》の多次元プログラムによって運営されていると私は夢想しています。
また「現実社会の荒波」を生き抜くということは、自力を駆使して生きるということだと思います。
私は、情けないことに、17歳の時に、「自分の力」というものが、まったく分からなくなって、途方に暮れてしまい、何とかしなければと思って探究を開始したのですが、最近、ハッと気がついたら64歳になっておりました。まるで浦島太郎が竜宮城に行ってもらってきた玉手箱を開けたら白煙が出てあっという間に老人になってしまったようなものであります。
図らずも浦島太郎人生を生きてしまったことが、我が人生最大の不覚であります。
そこで今、私は、これから「現実社会の荒波」に揉まれながら「結果」を出そうと努めております。
間に合うのかなあ、とも思うのですが、トロピカルな脳細胞に埋め尽くされた私の脳は、呑気に、間に合うんじゃないの、とつぶやいております。
なぜかと申しますと、ご自身の人生体験を踏まえて「お金を稼ぐことはおそらくそんなに難しいことではないのだと」思っておられる西塚様が、次のように述べておられる、そのお言葉に励まされるからです。
「やはり人は何を目的としているのか、どこを目指しているのかが重要なのだと思う。私は個人的にはそういうことにしかほとんど関心がなく、そうして生きていく中で、それにともなうもろもろの楽しみを楽しんでいこうと思っているだけである」。
やはり、「目的」が大事なのですね。
浦島太郎人生から名誉挽回を図ろうとしている私の目的は、私の残りの全人生を賭けて、《「顕在意識&潜在意識」を超越した意識》の多次元プログラムを信頼して、自分の「楽しみを楽しんでいこう」という生き方が間違いのないものだったとうことを検証する、ということです。
その楽しみを満喫できたら、《「顕在意識&潜在意識」を超越した意識》の多次元プログラムは、「私の夢想」から「私の現実」に格上げされます。
そうしますと浦島太郎人生として夢のように過ぎてしまった17歳から64歳までの人生が、はかない夢ではなくて現実を創造するドリーム・カム・トゥルー・プロセスとして肯定されます。
自分の人生ですから、はかないものとして捨て去るのではなくて、温かく抱きしめてやりたいと思います。
ところで、「地球帝国」を支配するためのお金は、これから、「地球村」を温かく営むお金へとシフトしていくのではないでしょうか。「村」人同士で助け合えれば、お金はいらなくなるようにも思います。高度な物々交換のシステムがネットを通して営まれるような気もします。当面はキャッシュレスの決済が広まったり、ローカルな国単位の(政府が発行する)仮想通貨が使用されたりして、「地球帝国」を支配するお金の威力は薄れていくような感じがします。それにつれて、お金で買える幸せという「共同幻想」も薄れていくと思います。そうなれば「共同幻想」を土台にして稼働していたシステムもシフトしていくと思います。
そのシフトにつれて、これまでの強固な現実が、実は夢であったのだという認識が広まっていくのではないでしょうか。私の「夢想」を逆にしものが、般若心経の「夢想」だと思います。私のレベルで般若心経を引き合いに出すのは実に畏れ多いと自覚しつつ。
遠離一切顛倒夢想 究境涅槃(おんりいっさいてんどうむそう くきょうねはん)
「一切の間違った想いを切り離すことが出来て、大いなる救われを得ることができた。」
岩根和郎著『暗号は解読された 般若心経 改訂版』P217
「一切の間違った想い」とは、「あり得ることは、すべてあったことにする」潜在意識の力学に基づいて保存されたすべてのデータだと思います。言うまでもなく、潜在意識のデータすべてが間違っているとは思いません。しかし、潜在意識は玉石混交の世界と言われています。いったんすべて否定する方が安全だと思います。どれが「玉」で、どれが「石」か、すぐには分からない場合もあり、「玉」だと判断しても間違っている場合もあります。それらの未確定要素を洗い直す意味で否定する振る舞いもまた優れた「検証」のひとつの手法だと思います。確実に未来につながる道を示すデータは、顕在意識が否定しても、《「顕在意識&潜在意識」を超越した意識》がそのデータを預かってくれて必要になった時に気づかせてくれると思います。
「あり得ることは、すべてあったことにする」、そのすべての経路(プロセス)を積分する(究極の)視点は、涅槃に立脚することではないかという気もします。
「顕在意識&潜在意識」のみに支えられた現実が、《それを超越した意識》の世界に目覚めていくにつれて、現実と夢の逆転が起こり(遠離一切顛倒夢想)、そこから、和気藹々とした「地球村」の歩みが新しい現実として形成されていくことを心から願っています。
好本健一
好本様
コメントありがとうございます。
>超弦理論が重力を解明できないのは、観察の対象から意識を排除しているからかなあとも思います。
おそらく、そうですね。
この世の最高速度が光速なのは、
この世の現象を測定する尺度が光だからです。
理論上はタキオンとか何とか、
光速を超えるものがあるようですが、
私たちが見る現象においては、
相対性理論では光速に留めさせられてしまいます。
これは観測者問題でも同じでしょう。
私たちはまだまだ五感の世界に囚われています。
>それがハズレになった場合、確率の低い情報群が存在する波動域にアクセスしたからではないかと思います。
そうだと思います。
逆に言えば、あらゆる可能性が、
好本さん的に言えば、あらゆる「情報群が存在する波動域」となりますが、
それがあるからこそ、占いや予言が当たることがあるということです。
>「現実社会の荒波」は、《「顕在意識&潜在意識」を超越した意識》の多次元プログラムによって運営されていると私は夢想しています。
また「現実社会の荒波」を生き抜くということは、自力を駆使して生きるということだと思います。
問題は、その多次元プログラムを誰が作成しているのか、
ということだと思います。
そして、それに関してはさまざまな情報があるわけです。
単なる個人の妄想から、ある程度は(今のところという意味です)、
しっかりとした骨組みに支えられた論理的な根拠によって、
地球人ではない存在から伝えられているとされる情報です。
また、「現実社会の荒波」を生き抜くときも、
「多次元プログラム」が大いに「自力」に関係してくるようです。
だから、「自力」と「多次元プログラム」との関係性に対する「知識」は、
この世を生きるためにかなり重要になってくると思われます。
>間に合うのかなあ、とも思うのですが、トロピカルな脳細胞に埋め尽くされた私の脳は、呑気に、間に合うんじゃないの、とつぶやいております。
そう、おつぶやきになった時点で間に合うのではないでしょうか。
ちなみに「トロピカルな脳細胞」というのはどういう意味でしょう?
そこだけ理解できないのですが・・・
酒漬けという意味でしょうか? 私のように(笑)。
脳天気?
>私の残りの全人生を賭けて、《「顕在意識&潜在意識」を超越した意識》の多次元プログラムを信頼して、自分の「楽しみを楽しんでいこう」という生き方が間違いのないものだったとうことを検証する、ということです。
おそらく間違いはないと思いますので、
多次元プログラムのことやその目的、存在意義、
その他、好本さんが新たに体験するもろもろについて検証していただき、
また何かおもしろいことがありましたら教えてください。
>「地球帝国」を支配するためのお金は、これから、「地球村」を温かく営むお金へとシフトしていくのではないでしょうか。(中略)そのシフトにつれて、これまでの強固な現実が、実は夢であったのだという認識が広まっていくのではないでしょうか。
卓見ですね。
>「あり得ることは、すべてあったことにする」、そのすべての経路(プロセス)を積分する(究極の)視点は、涅槃に立脚することではないかという気もします。
「あり得ること」というのは、
現実化する可能性があるということですね。
「すべてあったことにする」というのは、
すべて過去に現実化していたことにする、
ということでしょうか?
同じ個人の視点を軸とするなら、
それは並行宇宙(多次元宇宙でもいいですが)の存在を前提にするということでしょうか?
そうなると、
「すべての経路(プロセス)を積分する(究極の)視点は」、
もう創造主しかないわけですから、
並行(多次元)宇宙を前提とする個人的な視点というのは、
創造主と同じ視点だということになります。
有限の範囲の積分だからこそグラフもできますが、
無限の積分(微分でも同じです)となると、
全であり一であるという世界ですね。
西塚
西塚裕一様
ご返事、ありがとうございます。
「トロピカルな脳細胞」は、熱帯の、強い日差しを浴びて、こんがりと陽気な明るさに焼き上がった脳細胞というイメージのジョークだったのですが、分かりにくくて失礼しました。
ところで、
「問題は、その多次元プログラムを誰が作成しているのか、ということだと思います」というご指摘について。
そのもとになる思いを抱く自分について、また宇宙と人間の関係については、『場の創造』へ、コメントを書いておりまして書き上げたら投稿しますので、ここでは、旧約聖書に登場する神の名前I AM THAT I AMをキーワードにして(詳しくは学んでいない旧約聖書のビジョンに敬意を払いつつ借用して)シンプルに考えてみます。
まず、英語にとても弱い私が、類推をもとにして、I AM THAT I AMを、二通り、解説的に意訳します。(お互いにとって有益な未来へ進む視点で、皆様の検証を、ぜひお願い致します。)
A「私は存在する、という形態において、私は存在する。THAT以下は、私の存在形態を示す。それがI AMであるということは、私は、付属するあらゆる形態を不要として存在する、ということを意味する。(この部分に、近似値的に響き合うと思われる言葉は、天上天下唯我独尊。)ここには宇宙の創造原理が秘められている。I AM THAT I AMは、最初のI AMと次のTHAT I AMに分かれる。私とは、最初のI AMである。私は、私のみで存在するが、その私の中に多次元宇宙のすべてのプルー・プリントが存在する。私は、そのプルー・プリントをもとにして、次のような方法で宇宙を創造し、その創造は、時間と呼ばれる座標軸の中において、また同時にその座標軸を超越した世界において同時に展開され続けている。その具体的方法。I AM THAT I AM THAT I AM THAT I AM THAT I AM THAT I AM THAT I AM…(以下、省略。)」。
※次に示す解説的意訳は、I AM THAT I AMを二つに分けた後半のTHAT I AMに登場するI AMに視点を定めて書いています。
B「宇宙の始源において、私は、始まりもなく終わりもない大生命から、その全体性をそのまま引き継ぐかたちで、同じ本質を有する無数のI AMと共に生み出され、多次元チームワークのもとに多層宇宙の創造の一翼を仲間たちと共に担い、私独自の個性を通して仲間たちの無数の個性と調和しながら宇宙創造の旅を続けて、今、私は、地球人類、一人ひとりの肉体に宿っている。」
「その多次元プログラムを誰が作成しているのか」→ 自分→ では、宇宙における自分の構造は、どうなっているのか?
《I AM 》→I AM THAT I AM THAT I AM 。
《I AM 》とは、Aの意訳に登場する《私》。その横の三つのI AMのうち、左端のI AMは、(以下、地球の旅に視点を定めて、物質界をこえた世界との関連を示します)真の自分。真ん中のI AMは、潜在意識の自分。右端のI AMは、顕在意識の自分。
宇宙の創造原理。《私》が、I AMを投影して真の自分を創造し、真の自分は、I AMを投影して潜在意識の自分を創造し、潜在意識の自分は、I AMを投影して顕在意識の自分を創造した。当然、顕在意識の自分の中には、潜在意識の自分から投影されたI AMが宿っている。
肉体をまとった人間が、自分探しというテーマに目を向けることができるのは、I AMによって、人間が、宇宙の根源とつながっているから。
しかし、潜在意識の自分も、顕在意識の自分も、エゴに振り回されているので、自己の姿を、I AMとしては見ていない。
言うまでもなく、私自身の旅を念頭に置いて(全体を整理しながら)書いています。
知識で理解しても、(知識は、エゴを浄化しないので)見えるのは、I AMではなくて、エゴに覆われた「I AM」。
ところで三種類の自分の中で一番パワフルなのは、真の自分だと思います。
それなのに、I AMがエゴによってゆがめられて「I AM」になるのは、私はエゴに引きずられながらでなくては思考と行動を展開できないからで、真の自分は、そのような私に(前に進むための)反省材料を提供するために、ある枠内で私のエゴの暴走を黙認しておられるからだと思います。申し訳なく思います。
ここで視点を変えて、《I AM 》→I AM THAT I AM THAT I AM を、多次元宇宙の創造プロセスと見なせば、THATは、投影の力学を意味します。
その投影された次元のどこかに属するI AMには「地球人ではない存在」が位置して、地球人類にウェイクアップ・コールを送るために活動していると思います。
「あり得ることは、すべて、あったことにする」についての西塚さんのご指摘は、その通りだと思います。以下は、補足です。
「あり得ること」とは、肉体を伴って実行には移されなかったけれど、心を働かせて生み出したすべての思い。
「あったこと」とは、肉体を伴って実行された思い、またそのプロセスのスタートから終了までの間に発生した様ざまな思いのすべて。
どちらの思いも、新しい今ここの旅を前進させるために、あるいは後退させるために働くために、それらを見つめ直すことが必要。
多次元宇宙に発生する、あらゆる思いのうち、真の自分から投影された思いが、潜在意識の自分と顕在意識の自分を、真の自分の宇宙活動を受け入れて展開するように導くと思います。
その導きにおいては、潜在意識の自分と顕在意識の自分が、真の自分の思いを拒否する自由も、真の自分は条件つきで認めるので紆余曲折が発生します。
三種類の自分が抱く思いが統一されていると、今ここから未来へ向かう旅の、時間のロスとエネルギーのロスと人間関係のロスが最小限に抑えられて旅は円滑に進みます。
しかし試練はなくならない。
試練を円滑に乗り越える力が養成される。
創造の知恵と力も増幅される。
並行宇宙は、《I AM 》の多層的な創造の多彩さを示すものであり、同時に、道に迷った、さまざまの次元における「I AM」を救済するシステムでもあると思います。
宇宙の創造がシステム化されているということは、道に迷ったI AMたちを救い出すシステムも完備されているということだと思います。その救済システムにおいて、真の自分は、守護の神霊たち(I AMたち)とチームを組織して指導に当たっていると思います。個々人に属する神霊たちの全体は、顕在意識の自分が今生で果たす天命と深く関わる形で組織されていると思います。
自分の旅を振り返って思うこと。
本来は、光り輝くI AMが、エゴに閉じ込められた「I AM」になったために堂々めぐりが発生し、その過程において自分がI AMであることを忘れて「I AM」を抱え込んで苦役の旅をみずから引き受けて今を旅している。
今ここの旅とは、自分が、自分に気づく旅。
(カギカッコなしの、つまり本来の)幸せの青い鳥は、遠くにいるのでも、近くにいるのでもなくて、自分の意識の中に、今、ここにいるのだけれど、それが「I AM」の眼差しには(エゴによって変形された)「幸せの青い鳥」に見えてしまうので、今、手を伸ばせばひとつになれる幸せの青い鳥には気がつかないで、明後日の方向に幸せの青い鳥を探してしまう。
そして、真の自分の采配で、心に光が差して一瞬幸せの青い鳥が見えても、やはり意識はそれを「幸せの青い鳥」と誤解して遠ざけてしまう。
64歳までの自分の旅を振り返って、紆余曲折は、少なければ少ないほどいいと、しみじみ思います。
そのためには、千変万化の変装の名人である「I AM」が、姿を変えて心の中に出現する「思い」を、内観を通して、そのつど発見しては捨て、発見しては捨て続けるほかはないと思います。
おもしろいことに、この内観する眼差しは、クリエイティブな方向にも働くと思います。
「I AM」が化けた「思い」を、捨てれば捨てるほど、(I AMの本来の光がエゴに邪魔されないで、ナチュラルに輝きわたるので)クリエイティブな力は豊かになっていくと思います。その輝きは、人間のあらゆる営みを励ましてくれると思います。
I AM =幸せの青い鳥。
人間の本来の姿。
《I AM》=真の自分I AM =潜在意識の自分I AM = 顕在意識の自分I AM。
(三種類の自分の中にI AMは存在していても、潜在意識をまとったり、顕在意識をまとったりすると、I AMの活動は、それらの波動域の制約を受けると思います。さらにI AMがエゴに覆われると、それ以上の制約を受けると思います。
逆から言えば、それらの制約を受けることを覚悟でI AMは地上に降りてきたのだと思います。そして間抜けな私は、その制約にがんじがらめになって道に迷ってしまったのです。 また私より、遙かな先を旅しておられる皆様は、地上の旅を終えられたら、肉体と顕在意識を脱ぎ捨てたI AMとなって、潜在意識をまとったI AMと一体になって広大な潜在意識を上昇する修行を進めていかれて、それも終えられたら、潜在意識を脱ぎ捨てたI AMとなって、真の自分のI AMと一体になられるのではないかと思います。)
私の今の姿。
《I AM》=真の自分I AM =潜在意識の自分「I AM 」=顕在意識の自分「I AM」。
私の真の自分は、エゴにゆがめられた「I AM」の背後から、私を、I AMの多次元力学によって、宇宙に接続してくださっていると思います。
接続されていなければ、潜在意識の自分「I AM 」も顕在意識の自分「I AM」も存在できないと思います。
そうしてみますと、愚かな私が存在できるということは、私が、間違ったことを思い、間違ったことを行っても、真の自分が、少しでも早くその間違いに気づいてやりなおしなさいと、毎日24時間、私を導き、励ましてくださっているということを意味すると思います。
今のところは、大まかに、そのように考えています。様ざまな欠落点があると思います。今後とも、いろんなご指摘をいただきたいと思います。よろしくお願い致します。
好本健一
好本様
コメントありがとうございます。
そうですね。
いろいろと物議をかもしている
I am that I am
旧約と新約の「神」は別人のようでもあります。
そもそもモーゼに「十戒」を与えた存在とは何か?
ですね。
基本的な大前提が覆ることもあるかと思います。
西塚
西塚裕一様
ご返事、ありがとうございます。
I am that I amは、「いろいろと物議をかもしている」のですか。
初めて知りました。
「基本的な大前提」を覆す可能性、というものが、あるのですね。
興味津々です。
とは言いましても、聖書の世界について、いっさい詳しくない私は、「基本的な大前提」が何かも分かりませんので、いつか学べればいいなと思います。
今、思いつく「基本的な大前提」を覆す可能性とは、
たとえば、それは、トマスによる福音書やグノーシスが、これまで以上に注目されるようになる、ということなのでしょうか。
宇宙人情報かなあ、とも思います。
確かに、私たちが手にしている歴史には、たくさんの裏があり、そこに被せられた覆いが、これから、どんどん取り払われていくような気がします。
ところで、私のI am that I amについての考察は、聖書の背景を踏まえてのものではまったくなくて、
いっさい詳しくありませんので、
あくまで「借用」であり、そこからあとは、聖書の世界を離れて自由に考えたのですが、
ま、いっか、とも思います。
好本健一
好本様
コメントありがとうございます。
物議をかもしているというのは、
いろいろな人が解釈をめぐっていろいろなことを言っているという意味です。
私も全然詳しくありませんので、
教義論争になっているかどうかというようなことはわかりません。
基本的な大前提が覆るというのは、
おっしゃるように偽書と言われているようなものや、
地球外知的生命から得ていると言われる情報などの研究から、
とんでもないイカサマが発覚するかもしれないという意味ですね。
私ごときでも、ヘンだなあ、おかしいんじゃね?と思われることが多々あり、
私見を叩き台に論じ合う場を設けようかと。
何か思わせぶりに聞こえてたとしたら、申しわけないです。
本当にただの酔っぱらいオヤジですから。
西塚