2018.02.28 アセンション 希望 真実を探究する問答 真実を探究する問答23 「宇宙エナジー」の具体的感覚の詳細 ほか 『宗任問答』の最新版をアップする。 Share Commentコメント 好本健一 より: 2018年3月1日 10:24 AM 西塚裕一様 毎日の暮らしの中で、当たり前の現象として見過ごしてしまっているいろんなことに、『宗任問答』は、それらを、有り難いこととして気づく、いろんなヒントを提供しておられるのだと思いました。 西塚さんが、「これまでの論理によって、説明がつき、整合性が取れる」と述べておられた、そのような考え方の延長線上にある未来と、 『宗任問答』が提示するビジョンをもとに、自分なりに新しい説明をつけて、整合性を取る考え方の延長線上にある未来を考えますと、 後者の未来のほうが、楽しく、充実しているように感じます。 好本健一 返信 nishi より: 2018年3月1日 10:41 PM 好本様 まさしく。 それが「創造」ですね。 創造は楽しいはずです。 カタカムナ的に「音(おん)」を重視すれば、 まさに「創造」は「想像」ですし。 西塚 好本健一 より: 2018年3月2日 3:17 PM 西塚裕一様 「創造は楽しいはずです」 そうですね。西塚さんから、このご指摘をいただいて、私は、今、楽しさを、もっと柔軟に受けとめ直したいと、感じています。これまでの紆余曲折の旅を通して蓄積された(しかし、今となっては不要になっているかもしれない)「旅の残滓」にこだわっている気がします。 (その一方で、ぶっ飛んでいる私も存在するのですが、それは、「楽しさ」と言うよりも、「逸脱」と呼ぶ方が適切かもしれないと反省しています。でも、それは、私の性格に深く根ざしていますので、いつまた予告なしにぶっ飛ぶか分かりません。) 私よりずっと若い皆様は、私のような余計な紆余曲折は、不要のまま、創造の楽しさを謳歌していかれるのでしょうね。 これから、私も、創造に向き合う場合は、ピッカピカの一年生になって、楽しさを、伸びのびと味わっていきたいと思います。 創造も、想像も、ひらがなにすると、まったく同じ「そうぞう」ですから、言霊的には同じ営みになるのでしょうね。「SOUZOU」を分析すると、おもしろそうです。 ところで、宗任さんが「いらない想念を、スーッとニュートラルにする」とお話になったあとに、 西塚さんが、「それは、それで、別の話ができる」とおっしゃられた時に、 私も西塚さんの見解に、心の中で、深く頷きました。 ぜひ、そのお話を、今後の宗任問答で、取り上げていただきたいと思います。 また、宗任さんは、ヒマラヤ・インドの霊統とご縁の深いお方なのですね。 私の知り合いに SRF http://www.yogananda-srf.org/Japanese_SRF_Lessons.aspx#.WphSpjFG3IV の日本会員がいる関係で『人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集』が部屋にあります。 ヨガナンダ師の講話集には、聖書について語った本もあり、キリスト教のあり方に疑問を持つ方がお読みになったら眼からウロコが落ちる内容ではないかと推測します。 宗任さんの「おまかせ」の姿勢は、素晴らしいと思います。私も、「ニュートラルな空っぽ」でいたいと思うのですが、なかなかうまくいきません。 西塚さんが語られた「言葉で表せない次元」と「言葉で表せる仕方」と「矛盾をどう感じるか」というご指摘を、とても興味深く感じました。 感性を磨いて、一見矛盾した表現から、今ここの旅を豊かに進める気づきが得られたら、それは、「言葉で表せない次元」のビジョンを体現することにつながると思いました。 ここで、ふと、私は、中国武術「意拳」の創始者王向斎老師が、「矛盾老人」と呼ばれていたエピソードを思い出しました。 しかし、ラストの「素晴らしい未来への予感」というお言葉も、とてもいいなあ、と思いました。今、未来に希望を持てる言葉にふれる機会は、貴重だと感じます。まさに、宗任問答23、輝ける結びの言葉。 好本健一 返信 nishi より: 2018年3月5日 11:36 AM 好本様 コメントありがとうございます。 >これまでの紆余曲折の旅を通して蓄積された(しかし、今となっては不要になっているかもしれない)「旅の残滓」にこだわっている気がします。 僭越ながら、不要などということはないと思います。 個人的には、とことんこだわっていただければと思います。 「客観的」であろうとするようなこだわりは、むしろ必要かと思います。 なぜなら、あるときハッと気づけば、こだわりもオセロのように反転しますし、 もし失敗談のようなことであれば、人に教えることもできます。 キーは「客観」ですね。おそらく。 私たちは「経験」をするために存在していると思っているので、 特に失敗談、後悔、懺悔は非常に有意義だと思います。 私にもたくさんでもないですが、あります。 ただ、この世を去るときには後悔したくないように生きているつもりです。 というふうにありたいです。 「ぶっ飛び」はものすごく大事ですね(笑)。 それがないと面白くありません。人も自分も。 今は、それぞれが自分の「ぶっ飛び」や人の「ぶっ飛び」を抑えようとする方向にあります。 もっとも良心的かもしれないような人々が率先してぶっ飛ばないようにするのです。 でもそれは、自分たちは好き勝手にぶっ飛んでいる存在が作った「仕組み」である可能性が極めて高いと思っています。 そろそろルールを変えて、違う遊びをしたいですね。 というか、今の「ルール」はちょっと陰険です。 >また、宗任さんは、ヒマラヤ・インドの霊統とご縁の深いお方なのですね。 そうらしいです。 私も知りませんでした。 インド、ヒマラヤには聖者がよく出現していますね。 『ヒマラヤ聖者の生活探究』やマグダラのマリアの逸話を調べれば、 イエスが処刑後、インドに逃れて布教したという話が出てきます。 なぜ、ナチスがインドまで聖杯を探しに行ったか? このあたりは本当に興味深いですね。 >感性を磨いて、一見矛盾した表現から、今ここの旅を豊かに進める気づきが得られたら、それは、「言葉で表せない次元」のビジョンを体現することにつながると思いました。 まさに。 言葉で表せないことも、ある感覚、感性を得ればわかるのです。 問題は、だからこそ、わからない人にはわからないんですね。 しかも言葉では伝えられないから、気をつけないと絶望的な状況になります。 海を見たことのない人に海を説明するようなものです。 あるいは、水に入って泳いだことのない人にその感覚を伝えるようなものです。 でも、海で泳いだことのある人同士であれば、何も問題がないばかりか、 さらに船で沖まで行ったり、世界一周の計画まで立てられます。 海を知らない人に世界一周の話は理解できないでしょう。 >ここで、ふと、私は、中国武術「意拳」の創始者王向斎老師が、「矛盾老人」と呼ばれていたエピソードを思い出しました。 知りませんでした。 今度、ご教示ください。 西塚 好本健一 より: 2018年3月5日 3:07 PM 西塚裕一様 ストレートなご教示、ありがとうございます。 これからは、安心して、こだわらせていただきます。 コメントの投稿を始めてから気になっていたことが、解消されました。ありがとうございます。 また、「客観」についても、しっかり見つめ直したいと思います。 「ぶっ飛び」については、西塚さんの励ましをいただいて、これからも「ぶっ飛び」芸を磨いていこうと心に誓いました。 そして、 「そろそろルールを変えて、違う遊びをしたいですね。」 というご提案は、極めて、有意義で、おもしろく感じられて、 私の中の遊び心が、勢いよく動き出してしまいそうです。 ところで「矛盾老人」については、(その呼び名は、他称ではなくて、自称でしたが)下記のサイトに詳しく出ています。 太気拳(意拳)拳学研究会 https://blog.goo.ne.jp/kengakukenkyuukai/e/19786a32a7a8719e22cf2100a5b11c87 好本健一 返信 nishi より: 2018年3月6日 4:45 PM 好本様 URLをありがとうございます。 のちほどゆっくりと拝見します。 西塚 お気軽にコメントをお寄せください コメントをキャンセルメールアドレスが公開されることはありません。 名前(ニックネーム) コメント ※ Δ
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西塚裕一様
毎日の暮らしの中で、当たり前の現象として見過ごしてしまっているいろんなことに、『宗任問答』は、それらを、有り難いこととして気づく、いろんなヒントを提供しておられるのだと思いました。
西塚さんが、「これまでの論理によって、説明がつき、整合性が取れる」と述べておられた、そのような考え方の延長線上にある未来と、
『宗任問答』が提示するビジョンをもとに、自分なりに新しい説明をつけて、整合性を取る考え方の延長線上にある未来を考えますと、
後者の未来のほうが、楽しく、充実しているように感じます。
好本健一
好本様
まさしく。
それが「創造」ですね。
創造は楽しいはずです。
カタカムナ的に「音(おん)」を重視すれば、
まさに「創造」は「想像」ですし。
西塚
西塚裕一様
「創造は楽しいはずです」
そうですね。西塚さんから、このご指摘をいただいて、私は、今、楽しさを、もっと柔軟に受けとめ直したいと、感じています。これまでの紆余曲折の旅を通して蓄積された(しかし、今となっては不要になっているかもしれない)「旅の残滓」にこだわっている気がします。
(その一方で、ぶっ飛んでいる私も存在するのですが、それは、「楽しさ」と言うよりも、「逸脱」と呼ぶ方が適切かもしれないと反省しています。でも、それは、私の性格に深く根ざしていますので、いつまた予告なしにぶっ飛ぶか分かりません。)
私よりずっと若い皆様は、私のような余計な紆余曲折は、不要のまま、創造の楽しさを謳歌していかれるのでしょうね。
これから、私も、創造に向き合う場合は、ピッカピカの一年生になって、楽しさを、伸びのびと味わっていきたいと思います。
創造も、想像も、ひらがなにすると、まったく同じ「そうぞう」ですから、言霊的には同じ営みになるのでしょうね。「SOUZOU」を分析すると、おもしろそうです。
ところで、宗任さんが「いらない想念を、スーッとニュートラルにする」とお話になったあとに、
西塚さんが、「それは、それで、別の話ができる」とおっしゃられた時に、
私も西塚さんの見解に、心の中で、深く頷きました。
ぜひ、そのお話を、今後の宗任問答で、取り上げていただきたいと思います。
また、宗任さんは、ヒマラヤ・インドの霊統とご縁の深いお方なのですね。
私の知り合いに
SRF http://www.yogananda-srf.org/Japanese_SRF_Lessons.aspx#.WphSpjFG3IV
の日本会員がいる関係で『人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集』が部屋にあります。
ヨガナンダ師の講話集には、聖書について語った本もあり、キリスト教のあり方に疑問を持つ方がお読みになったら眼からウロコが落ちる内容ではないかと推測します。
宗任さんの「おまかせ」の姿勢は、素晴らしいと思います。私も、「ニュートラルな空っぽ」でいたいと思うのですが、なかなかうまくいきません。
西塚さんが語られた「言葉で表せない次元」と「言葉で表せる仕方」と「矛盾をどう感じるか」というご指摘を、とても興味深く感じました。
感性を磨いて、一見矛盾した表現から、今ここの旅を豊かに進める気づきが得られたら、それは、「言葉で表せない次元」のビジョンを体現することにつながると思いました。
ここで、ふと、私は、中国武術「意拳」の創始者王向斎老師が、「矛盾老人」と呼ばれていたエピソードを思い出しました。
しかし、ラストの「素晴らしい未来への予感」というお言葉も、とてもいいなあ、と思いました。今、未来に希望を持てる言葉にふれる機会は、貴重だと感じます。まさに、宗任問答23、輝ける結びの言葉。
好本健一
好本様
コメントありがとうございます。
>これまでの紆余曲折の旅を通して蓄積された(しかし、今となっては不要になっているかもしれない)「旅の残滓」にこだわっている気がします。
僭越ながら、不要などということはないと思います。
個人的には、とことんこだわっていただければと思います。
「客観的」であろうとするようなこだわりは、むしろ必要かと思います。
なぜなら、あるときハッと気づけば、こだわりもオセロのように反転しますし、
もし失敗談のようなことであれば、人に教えることもできます。
キーは「客観」ですね。おそらく。
私たちは「経験」をするために存在していると思っているので、
特に失敗談、後悔、懺悔は非常に有意義だと思います。
私にもたくさんでもないですが、あります。
ただ、この世を去るときには後悔したくないように生きているつもりです。
というふうにありたいです。
「ぶっ飛び」はものすごく大事ですね(笑)。
それがないと面白くありません。人も自分も。
今は、それぞれが自分の「ぶっ飛び」や人の「ぶっ飛び」を抑えようとする方向にあります。
もっとも良心的かもしれないような人々が率先してぶっ飛ばないようにするのです。
でもそれは、自分たちは好き勝手にぶっ飛んでいる存在が作った「仕組み」である可能性が極めて高いと思っています。
そろそろルールを変えて、違う遊びをしたいですね。
というか、今の「ルール」はちょっと陰険です。
>また、宗任さんは、ヒマラヤ・インドの霊統とご縁の深いお方なのですね。
そうらしいです。
私も知りませんでした。
インド、ヒマラヤには聖者がよく出現していますね。
『ヒマラヤ聖者の生活探究』やマグダラのマリアの逸話を調べれば、
イエスが処刑後、インドに逃れて布教したという話が出てきます。
なぜ、ナチスがインドまで聖杯を探しに行ったか?
このあたりは本当に興味深いですね。
>感性を磨いて、一見矛盾した表現から、今ここの旅を豊かに進める気づきが得られたら、それは、「言葉で表せない次元」のビジョンを体現することにつながると思いました。
まさに。
言葉で表せないことも、ある感覚、感性を得ればわかるのです。
問題は、だからこそ、わからない人にはわからないんですね。
しかも言葉では伝えられないから、気をつけないと絶望的な状況になります。
海を見たことのない人に海を説明するようなものです。
あるいは、水に入って泳いだことのない人にその感覚を伝えるようなものです。
でも、海で泳いだことのある人同士であれば、何も問題がないばかりか、
さらに船で沖まで行ったり、世界一周の計画まで立てられます。
海を知らない人に世界一周の話は理解できないでしょう。
>ここで、ふと、私は、中国武術「意拳」の創始者王向斎老師が、「矛盾老人」と呼ばれていたエピソードを思い出しました。
知りませんでした。
今度、ご教示ください。
西塚
西塚裕一様
ストレートなご教示、ありがとうございます。
これからは、安心して、こだわらせていただきます。
コメントの投稿を始めてから気になっていたことが、解消されました。ありがとうございます。
また、「客観」についても、しっかり見つめ直したいと思います。
「ぶっ飛び」については、西塚さんの励ましをいただいて、これからも「ぶっ飛び」芸を磨いていこうと心に誓いました。
そして、
「そろそろルールを変えて、違う遊びをしたいですね。」
というご提案は、極めて、有意義で、おもしろく感じられて、
私の中の遊び心が、勢いよく動き出してしまいそうです。
ところで「矛盾老人」については、(その呼び名は、他称ではなくて、自称でしたが)下記のサイトに詳しく出ています。
太気拳(意拳)拳学研究会
https://blog.goo.ne.jp/kengakukenkyuukai/e/19786a32a7a8719e22cf2100a5b11c87
好本健一
好本様
URLをありがとうございます。
のちほどゆっくりと拝見します。
西塚