こりゃ、参った。
気がついてみれば土曜日だ。
途中、曜日もわからなかったが、かれこれ一週間近く泊まり込んでいることになる。大きな声では言えないが、風呂にも入ってないので、と言うか入った記憶がないので、これはもうほぼレゲエのおっさん状態だ。
ひとつひとつの仕事は大したことはないと言うと語弊があるが、すぐにこなせるものでも、大量となるとやはり孤軍奮闘してもつらいっちゃつらい。物量作戦でこられると弱小零細家内一応株式会社としては、白旗をあげるわけにもいかないので竹やり持って戦うしかないが、いくらねじり鉢巻きして気勢を上げても、敵には勝っても時間には勝てないな、まだ。
敵っても敵ではなく、ありがたいお仕事のわけだが、ひとりでやるってのはおのずと限界があるなあと今さらながらに思った。何で今までというか、版元にいたころは編集長だ編集局長だ鉢の頭だと言われて、月に 6 冊も 7 冊も手掛けられていたのか。
当たり前だ。自分でもいくつかは受け持ったものの、ほとんどは外部の編プロに発注していたからだ。それでも月に 7 冊がマックスだったが、さすがに7冊はしんどくても酒を飲む時間はあった。
って、こんな話をしていてもしょうがないな。
*
ともかく、ようやく一段落し、気がつきゃあ土曜の朝だったわけだ。
天気がいいぞ。
てか、あらためて外を見ればものすごく天気がいい。ほんとに。雲ひとつない日本晴れだ。と言ってふと思い出すのはやはり『日月神示』だわな。
富士は晴れたり、日本晴れ。
カミの国のまことのカミの力をあらわす代となれる、
仏もキリストも何も彼もはっきり助けて、
しち難しい御苦労のない代が来るから、
身魂を不断に磨いて一筋の誠を通してくれよ。
言わずと知れた『日月神示』の冒頭だ。
昭和 19 年の 6 月 10 日に岡本天明に降りた。
日月神示の真偽や意義についてはともかく、私はこの文が好きだ。どこか本当に晴れ晴れした感じがしてくる。後半は微妙に説教くさいが、最初はいいじゃないですか。
富士は晴れたり日本晴れ、と言われると本当にすがすがしくないですか?
今日の東京の天気のようだ。
しかし、日月神示の前にはもちろん『おほもとしんゆ』がある。
明治 25 年旧正月に出口なおに降りた。
冒頭はこうだ。
三ぜん世界一同に開く梅の花、
艮の金神の世に成りたぞよ。
梅で開いて松で治める、
神国の世になりたぞよ。
日本は神道、
神が構わな行けぬ国であるぞよ。
がいこくはけものの世、
強いもの勝ちの、
悪魔ばかりの国であるぞよ。
日本もけものの世になりて居るぞよ。
尻の毛まで抜かれて居りても、
未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。
とまあ、続いていくわけだが、でも最初はやはりいいじゃないですか。
三ぜん世界、一度に開く梅の花ってのはいいね。何かこう、粋だ。
一同も一度も、明治や大正の時代は漢字にも当て字が多く、あまりそういうことを気にしてなかったというか、そもそも開国する前まではチョンマゲを結っていた江戸時代だったわけで、漢字なんかも “けものの国” の言葉の翻訳に使われ出して、当時の正岡子規だ、福沢諭吉だなんかが作っていったわけだ。
夏目漱石にしても、小説を読んだ人ならわかるだろうが、同じ言葉でも漢字が違うなんてことはたくさんある。ヘタすりゃ、今の広辞苑にも載っていない漢字を創作しちゃったりもする。何か、こういう感じじゃね?的に勝手に作っちゃうわけだ。
これは言葉の基本だろう。
その昔、ショコタンが「ギザ、うまい!」なんて言って、司会者が「何スか? ギザって?」っても、別に意味なんかなくて、何かそう言いたくなる感じということだ。そうだそうだ、伝わりゃいいのである。
むしろ文部省じゃなかった今は文科省か、にほめられるような漢字を使って国語の作文で三重丸の花丸をもらうようなことを言われても、まったく意味がわからず、心にも響かないような言葉に比べれば、ギザのほうがいいのである。
ちなみに私は「ギザ」とか言われても、「へ? ピラミッドですか?」とか言うだろうが。
言葉は、対する漢字が合ってるか間違ってるかというよりも、伝えたい人の気持ちが伝わるかどうかだろう。場合によっては論理や文法なんかも無視していい。
私はキミに昨日こう言ったよね。キミはそのときにこう言った。それで何で今日、こうなるの? 私が言った意味がわかってなかったの? わかってたと。じゃあ、なぜこうなるわけ? おかしくない? だって、キミがやるって言ったから、こっちもそのつもりでいるわけじゃない。そうでしょ? ね。おかしいでしょ、やっぱり…
なんてグダグダ言われるよりは、
バカヤロー!
言ってることとやってることが違うじゃねーか!
さっさとやり直せ!
って言われたほうがよっぽどわかりやすい。5秒ですむ。でも、後で恨まれたりするときもあるけどね。私もずいぶん後になって元部下に聞かされて驚いたことがある。
あんとき、死ね!って思いましたもん。
うわあ、こわ。
ともかく、ヴァレリーは言葉は「詩」となって初めて形式を持つと言った。
バランバランの言葉たちは、言葉を発する人間の心、気持ちとあいまって造形されて出てくるのが本当なのだ。
言葉は人間の心、意識、思いなどを通して、そのつどそのつど調律されて外に出てくる。その変調ぶりがそれぞれ個人のニュアンスの違いにもなり、お互いの豊かな会話にもつながる。そういう人が集まれば、集まる人たちによっては、その場所が馥郁たる森のようになる。
……
何だか、またとっちらかってきたが、先の『日月神示』でも『おほもとしんゆ』でもそうだが、岡本天明さんや出口なおさんに降りた言葉には、どういう思いが宿っているのか。
一応は、艮(うしとら)の金神(こんじn)、つまり国常立尊(くにとこたちのみこと)とされてるわけだが、たしかに両者の言葉遣いは似ている。
ちなみに、先の『おほおとしんゆ』にある「日本」と「がいこく」は、出口王仁三郎の『霊界物語』所収のほうでは、なぜかそれぞれ「この世」と「世界」に変えられている。
おほもとしんゆは明治25年に出口なおに降りて、漢字を知らないなおがひらがなで書いたが、と言うか牢屋かなんかで釘で刻んだということらしいが、それを王仁三郎が書き直した。
だから最初は、明治当時の日本の直近の行く末に焦点があてられていたが、大正時代を経て、世界大戦以降の世界に目を向けて、王仁三郎自身が「この世」と「世界」に言葉を変えて、神示に普遍性を与えたかったということかもしれない。
いずれにしろ、言葉が「降りた」のである。
これは何もローカルな日本の神示に限ったことではなく、超メジャーなキリスト教にしても同じことだ。
キリスト教の神とは何か?
ヤハウェとかエホヴァということになるが、その神は誰も見たことはない。おそらくイエスは見たのだろうが、イエスは死んでしまっている。もしかしたらイエスも実際には見てなかったのかもしれないが、少なくとも声は聞いているし、話している。
で、それを周りの人間に教え、説いた。そして、その言葉が書きとめられて残っているわけだ。「福音書」である。マルコ伝でありマタイ伝であり、ルカ、ヨハネ伝だ。
要するに「言葉」なのだ。
キリストは本を書かなかった。そばにいた12人の使徒も書かなかった。彼らはほとんど文盲だったのではないか。最初に弟子になったペテロたちにしても、漁師だったはずだ。
実は、なぜイエスはいわゆる学のない連中ばかりを弟子にしたのかということについても、非常に興味のあるところなのだが、それはまあいい。
12 人の使徒にしても、マタイ伝は 12 使徒のマタイが書いたという説もあるし、正式には認められていないようだが、ユダの福音書というのも出てきたし、まだまだ本当のところはよくわからないが、いずれにしろ、イエスが神と会ったかどうかはともかく、イエスが神から教えられたことを周囲に説いて、その言行録みたいなのが書かれて福音書となり、パウロの書簡と合わせて新約聖書ができたわけだから、キリスト教とは、イエスが神から教わった内容とイエス自体の行動が記録されたいくつかの物語を、自分たちの言動を律するための絶対的な基準にしている宗教だと言うことはできる。
で、キリスト教にもいろいろと主流や傍流があるということだ。
いや、何もキリスト教を論じようと言うわけではなく、私にできるわけもないが、とにかく誰かに神らしきものの言葉が降りて、それが書きとめられて、その書物というか文献が何ごとかの宗教の経典になったり、研究対象になってるということで言えば、『日月神示』でも『おほもとしんゆ』でも、キリスト教でも、そして『ラー文書』でも、一連のバシャール本でも、つまりチャネリングと称する現象で書かれたものでも、みな同じだと言いたいのである。構造的には。
私がよく引用するヴァジム・ゼランドにしても、本人が詳しく語らないからわからないが、それでも本人が書籍でちょっと明かしているように、どうもある種の「夢のお告げ」的なもので書かれたらしい。
声が聞こえる。声が降りる。考えが吹き込まれる。ひらめく。
私に言わせれば、構造的にはまったく同じ現象から発生したものでも、超メジャーになるものもあれば、超マイナー、ヘタすればニセモノ、インチキ、でっちあげと言われる。
その根拠はと言えば、あまりにもおかしなレベルのものはともかく、だいたいが科学的ではないということだったり、常識はずれだとか、論理的に整合性がとれないとか、宗教的にそういう考えは承諾しかねるとか、信じらんなーいとか、どうでもいいわそんなことと言われるのだ。最後はカミさんの言葉だが。
でも、最初のふたつは覆されてきた歴史そのものの中から、かろうじてオーソドックスが生まれてくるわけだから、いつでもその時代の仮のものであり、3番目もまだまだ論考が十分に足りていないのでないかという部分もあるし、そのあとのものは個人的には論外である。
何だか、久しぶりにブログを更新しようと思っただけなのだが、止まらなくなってきた。まだ仕事があるのに…
日月神示で思い出しことに端を発しているから、最後も日月神示に締めてもらおうか。これも私が気に入っているというか、重要だと思っている部分のひとつだ。
日本にはまだまだ何事あるかわからんぞ。
早く一人でも多く知らせてやれよ。
魂磨けば磨いただけ先が見え透くぞ。
先見える神徳与えるぞ。
いくら偉い役人頑張りても、
今までのことは何も役に立たんぞ。
新しき光の世となるのぞ。
古きもの脱ぎ捨てよと申してあろがな。
まこと心になりたならば、
自分でもわからんほどの結構出て来るぞ。
手柄立てさすぞ。
いくら我張りても我では通らんぞ。
我折りて素直になりて下されよ、
これでよいということないぞ。
いくらつとめてもつとめても、
これでもうよいということはないのざぞ。
神の一厘の仕組わかりたら、
世界一列一平になるぞ。
枡かけ引いて、
世界の臣民人民、
勇むに勇むぞ。
勇むことこの方嬉しきぞ。
富士はいつ爆発するのぞ、
どこへ逃げたら助かるのぞという心我れ善しぞ。
どこにいても救う者は救うと申してあろが。
悪き待つキは悪魔のキざぞ。
結構が結構生むのざぞ。
声が降りる、声が聞こえるという人がいるわけだが、さらに地球外知的生命、高次元の存在とされるものに実際に会っていると主張する人も多くいる。
これも、あまりにもおかしなレベルはともかく、興味深い例もあり、もちろん今のところビリー・マイヤーだったり、コーリー・グッドだったりするが、また世に出ていないそういう情報はまだまだある。
実際、地球外知的生命とか高次元の存在というが、早い話がそれはまさしく「神」のことではないか。
なんてことも、31 日にスタートさせる『盤』でも探究していく。また、そういうことを探究する意味・意義も参加者にはお伝えする。
Commentコメント
西澤様
ずっと事務所に泊まり込みされてらしたのですね。
ブログを拝見しながら思わず、太陽にほえろ!の張込みシーンが浮かびましたよ。
お疲れさまです。
やらねばならぬ事が山盛りなのに、湧き出るブログの文章と格闘されてるところもナイスです。
それは、期末試験前に限って机の整理なんかを始めてしまう心情に似ているような。
さあ、桜も咲き始めました。
サケナクテ・・・
ではなく、サケアリテをお楽しみ下さいね。
たき様
コメントありがとうございます。
痛いところをつかれています……
酒も飲みますし、
咲かせます!
西塚
西塚裕一様
「富士は晴れたり日本晴れ、と言われると本当にすがすがしくないですか?」
私には、この発言をしておられる西塚さんは、まるで意識を未来にワープさせて、「富士は晴れたり日本晴れ」が実現した日本の、その日の天気を見つめておられるように感じました。
私も「富士は晴れたり、日本晴れ」について、乏しい知識を駆使して類推してみました。
結論。
「富士は晴れたり、日本晴れ」とは、「三ぜん世界一同に開く梅の花」のこと。
『日月神示』で述べられた「日本晴れ」の日には、「梅の花」が、(四季のめぐりとは関係なく)さわやかに香るのではないでしょうか。
「三ぜん世界一同に」という次第ですから、多層宇宙の各波動域において、また日本列島が位置する地球の全土において「日本晴れ」の天気が広がっているように感じます。
神が見ておられるのは、多層宇宙。
地上の旅人を励ます神のお言葉には、多層宇宙が反映される。
多層宇宙を三層で考えます。
A「不二(ふじ)は晴れたり、日本晴れ」。
B「〈富士〉は晴れたり、日本晴れ」。
C「富士は晴れたり、日本晴れ」。
A 宇宙の本質=神仕組み。
B 神仕組みの地上への投影過程。
C 地上に投影された神仕組み。
「不二」とは、二つとないこと。
ということで、ひとつだけ存在するもの。
それは、宇宙の本質。
多層宇宙における、宇宙の本質とは、多層的な和。
そこには、それを顕現する神仕組みが内包されている。
Aにおける「日本晴れ」とは、神仕組みに内蔵された霊的元型としての「日本晴れ」。
「不二は晴れたり」と神が宣言されたのは、それまでは、「不二」が雲に覆われていたから。
「不二」自体には、(自らをお覆い隠す)雲は存在しないので、
異なる次元から「不二」を見上げて、その次元に、それまで掛かっていた雲が祓われたということ。
天運循環。
神仕組みの進展。
すべては神芝居。
楽しくもあり、厳しくもある神芝居。
すべての生命体たちに、多層的な配慮のもとに立場を与えて、霊的修行を進めさせる神芝居。
記憶のままに書きますが、出口王仁三郎師の道歌に、「江戸」(つまり、現実界)を「穢土」と蔑まないように、そこは神の守る楽園であるという内容の歌があったと思います。霊的視点に偏りすぎたまま現実を見つめないように、という意味でもあると思います。
ここで、単純な視点ですが、「江戸」を、芝居における善玉、「穢土」を悪玉に置き換えて、
そこに、道歌の視点を当てはめますと、
善玉の心の中にも悪玉が潜んでいるし、悪玉が善玉の役をすることもある、
という具合に、神の守る楽園が、さらに意味深い内容になると思います。
基本的に、あくまで善を追求し、悪を退ける姿勢で、旅を進めていくことには、
そこが神の守る楽園であっても、一筋縄ではいかない苦労と喜びがあると思います。
《多層的な和を顕現することを阻む雲は祓われて、その和を、宇宙の各波動域に顕現させる宇宙経綸は、全貌を現し、プログラムを実行していく。》
私の記憶の中に、出典は不明ですが、「富士山は、日本神界の中心地」というものがあります。
この「富士」は、Bの〈富士〉に相当します。Bは、多層的な和が、宇宙の各波動域に、そして日本に顕現されていくプロセスを表します。
その結果、Cの「富士は晴れたり、日本晴れ」が実現します。
艮の金神とは、大本神話では、地球を修理固成された国祖国常立尊。今まで鬼門に閉じ込められていた神様。
国常立尊の世になるということは、国常立尊を閉じ込めていた霊的システムが改編され、その霊力が無力化されるということ。
そのシステムは、地球各地のシステムとも連動していたでしょうから、それらすべてが改編されて国常立尊の世になる。
そのシステム改編は、今現在、継続して進行中。
そのフィナーレは、いつ?
全人生という名の舞台で連続公演される、神芝居の、
そこに参加する、すべての役者たちの、
(善玉であれ、悪玉であれ、真に迫った)演技に贈られるカーテン・コールの拍手の質とその集積が、
フィナーレの時を早めもすれば、遅らせもすると思います。
ポイントは、カーテン・コールの拍手の内容を、新しい舞台に向けてフィードバックして活かすこと。
演じている最中にもフィードバックは可能で、そうしている自分は、よりハートのこもった拍手を心の中で聴きながら、フィードバックに磨きをかける。
臨界点を迎えるという、峻厳な幕切れの可能性もあり得ると思いますが、そうだとしても、それは、あくまで新しい幕開けだと思います。
ということは、事態が、加速度をつけて臨界点に向かうようであれば、そのプロセスの全体に、新しい幕開けの可能性を見出す視野が人生を切り拓いていくと思います。
ところで、個人の心の奥に、宇宙のすべてがあるのなら、無数の個性で演じられる神芝居とは、ある意味、一人芝居とも言えます。
ところで『霊界物語』では、「国祖を地上霊界の主宰神たらしめた」のは、「神素盞嗚命」です。http://www.aizenen.info/modules/az/index.php?content_id=15
ある見方からすれば、地球レベルのシフトを伝える『霊界物語』。
そこにおいて、教えを伝える「宣伝使」の旅が「一人旅」と定められていることを、おもしろく思います。
『アヽ宣伝使も実に愉快な者だワイ。(中略)併し乍ら今になつて見れば、実に一人旅位愉快なものはない。(中略)広大無辺の大宇宙を住処とし、天地の間を跋渉する心の愉快さ!』
霊界物語 第30巻 海洋万里 巳の巻
http://onidb.info/bview.php?obc=rm3016&T1=%E5%A8%81%E5%BE%B3&yure=yes&koumoku
宣伝使の愉快さと、西塚さんの「粋」は、シンクロナイズしているように感じます。
「三ぜん世界、一度に開く梅の花ってのはいいね。何かこう、粋だ。」
ともかく、国常立尊を閉じ込めていたのは、「体主霊従」システム。
それが、国常立尊の世になると、シフトして、「霊主体従」システムに変わる。
グラデーションで切り替わっていくシステム。
両足をもつれさせながらも、その切り替わりに歩調を合わせようと努める私。
そのシステムを、多様な思いのもとに稼働させようと努めておられる、地球各地の皆様。
そのシステムを、そして、その皆様の歩みを祝する『日月神示』。
「富士は晴れたり、日本晴れ。」
その晴れ渡った空を眺めるためには、
「古きもの脱ぎ捨てよと申してあろがな。」
そのための努力には、
「これでよいということないぞ。」
それらすべての努力を包括的に活かすのは、
「神の一厘の仕組わかりたら、/ 世界一列一平になるぞ。」
ということで、A、B、Cをひとつに重ね合わせると、
「三ぜん世界一同に開く梅の花」になると思いました。
それは、また、
宇宙経綸は、多層宇宙を構成する各波動域を順次降下してきて、ついに、そのプログラムを、今、惑星地球レベルで実行する最終段階に入った、と受けとめることもできるのではないでしょうか。
「勇むことこの方嬉しきぞ。」
好本健一
好本様
コメントありがとうございます。
好本さんは文学的・哲学的ですね。
ビリー・マイヤを評価する高次元存在も、
ビリーのそういう点(特に哲学的側面)に着目していたようです。
そして、人間のそういう側面、能力こそが、
人間の進化、創造への奉仕(これは誤解される単語ですが、コメント欄ではいいでしょう)、
その全体的なシステムに関係してくるようです。
第3密度、3次元、どういう言い方でもいいのですが、
現実システムの創作にはいわゆる理系(物理学を含む)の知識、
アイデアが必要でしたが、やりすぎて今は盲目的になっており、
また人々もそうした盲目的な権威(特に「学者」と言われる人たち)に依存し、
自らを苦しめているように思います。
そこで今、いろいろな人たちが現われ出しました。
そして、それらの人々は例外なく、
いわゆる高次元の存在と関係しています。
中には低次元の存在に誘導されている場合もありますが、
私は取材を通してある程度見分けることができるようになりました。
それだけは自らのそれこそ盲目的な体験主義が功を奏しています。
>基本的に、あくまで善を追求し、悪を退ける姿勢で、旅を進めていくことには、
そこが神の守る楽園であっても、一筋縄ではいかない苦労と喜びがあると思います。
そうですね。
その苦労と喜びは、
地上の「善」と「悪」を等し並にとらえる視線の中に息づいています。
その「視線」は、実は「体験」とか「経験」というものにともなう「感覚」を養うことの中にしか、
現われてこないもので、
それをたとえばゼランドなどはこっそりと「修行」と呼ぶのですが、
書籍の中ではもうすこし柔らかく「仕事」と呼んでいます。
「修行」と言うと、これも誤解を与える言葉ですが、
まあ、そういうことです。
何もどこかの寺に入るとか、苦行・難行をするとかいうことではなく、
日常生活の中のこまごました大変を処理していくことも同じです。
だから、何の学問も知識もないフツーの主婦やおっさんの中に、
驚くほど知的(本来の意味で)で、
実践・現実的な人たちがいるのです。
だから、体験・経験を通した「感覚」が養われていないと、
人に「共感」することができず、
ひとりよがりな自前の「哲学」に固執し、
一定レベルを超えていく「探究」へと進むことは難しくなります。
なぜなら、体験・経験不足からくる脆弱な感性・感覚への防御反応が起きるからです。
これは仕方ありません。
普通の意味でホメオスタシスが働くからです。
だから、「真実の探究」などは「バカ」しかできないのです。
この「バカ」も語弊がありますが、
そこにはただならぬ意味が隠されています。
いずれにしましても、
大きな大きなシステムが作動している中で、
あるスイッチが入れられたようです。
第一回目の『盤』で、
みなさんとお話ししていきたいと思います。
西塚
西塚裕一様
ご返事、ありがとうございます。
西塚さんが、
様ざまな霊能力をお持ちの方々に直接接した体験を検証して得られた洞察には、
体験主義の意志が貫かれていて、
その貫徹からしか得られない貴重な情報をお示しくださるので、とても有り難いです。
現実の体験を通して精錬された「感覚」には、共有すべき知性が生きているのですね。
市井の皆様の中には、暮らしの中で研ぎ澄まされた知的感性で、
「大きな大きなシステムが作動している中で、/あるスイッチが入れられた」
その様子を直観的に把握して、
日々の歩みの中で活かしておられるのでしょうか。
その「大きな大きなシステム」についても、また「あるスイッチ」についても、それらの実態には、とても関心がありますので、
『盤』でのご講義を、とても楽しみにしております。
ところで、私の頭は、ぶっ飛びコメントでもお分かりのようにドタバタ・タッチであります。
でも、師である岩根先生は、物理や数理論理学を学ばれたお方で、
その著書は、霊的視点で数理論理学を駆使して書かれているようなので、
いつのまにかドタバタ・タッチの私も、初歩的ではありますがロジカルに考えるようになりました。
好本健一