前回、「矛盾」について中野の老舗のバーで若者 YouTuber と議論したと言ったのはいいが、そのまま何だか話があっちゃこっちゃ飛んだ感がある。
とは言え、別段大した内容でもなく、若者は「矛盾」は「矛盾」として現にあるわけだと言い、私はそんなものは現実にはなく、概念上あるだけだと言ったまでのことだ。
実際、いわゆるこの世で言う「矛盾」は、たいがいは言ってることとやってることが違うくらいの話か、あちらが立てばこちらが立たずみたいなことなのだ。そんなときに人は「矛盾してしまうが…」などと言う。
でも、「矛盾」という言葉が成立した故事から考えれば、矛盾とは、こういう前提だとこれが成り立たないというような甘いものでもなく、もっとパラドキシカルというかジレンマというか、要するにアンチノミー、二律背反的な強烈なもので、脳がかゆくなってくるような思考が必要となるシロモノだ。
だって、前提として絶対的な原理がふたつあるのはいいが、それぞれが存在している以上、それぞれが存在し得ないような原理だからだ。
それぞれの原理が絶対的だという意味は、一応それぞれの原理が理にかなっているということである。「白い黒」みたいな形容矛盾ではなく、「何でも貫く矛」とか、「どんな矛でも貫かれない盾」というまあ、普通の言葉だ。
だから、現実にはないというか、起こり得ない。あるとすれば片方に限ってのことであり、それも制限された範囲内のことで、つまりある国のある地域のある村の中とか、ある一定期間だけ、ものすごく硬い矛が存在したり、盾があるということはあり得る。それでも、ふたつ同時には存在し得ない。
何だか細かいことを言ってるようだが、こういうことが私は大事だと思っているわけで、そういう認識がないとあとでもめるくらいならまだいいが、ヘタすれば争いになる場合があるとも思っているわけだ。
だから、そういうことをまず共通の理解として、あとは中高年が若者に大人ぶって「だからチミ、矛盾を生きていくということだよ、うん」などとかまして、ウザがられればいいのである。
そうすれば、ひょっとしたら「時間」の話や「善悪」の話まで話が発展するかもしれず、そこで若者から中高年が思いもつかなかったアイデア、論考がもたらされるかもしれない。
これはまさしくプラトン言うところの「対話」ではないか。
「時間」と言えば、中沢新一氏はかつて「時間」自体の説明ではなかったかもしれないが、人生の時間的な流れをとらえてこんなようなことを語っていた。
一冊の本がある。そこにはプロローグがあってエピローグがある。要するに前章があって最終章がある。読者は前章から読み進んでいき、物語が展開され、最終章を迎える。でも、一冊の本の中には同時に前章と最終章が存在している。
引用ではないから正確ではないが、そんな内容のことをどこかの本で語っていた。で、言ったのだ。
本自体を生きるとはどういうことか?
本当にどういうことか? と私は当時、思ったね。
また話がとっちらかるからよすが、だからそういうふうに話が発展していくこともあろうということだ。
別にいいんじゃね? 発展しようが発展しまいが。何かそれが重要なの?とも言われそうだが、これが重要なのだ。
論じると長くなるからここでは言えないが、人の話す「言葉」というのは、実はとんでもなく重要なのである。と思う。
通常の会話の中の人間の作為的な言葉ではなく、何気なく発せられたような、本人も「え? 今、俺何か言った?」みたいな言葉や、大激論中に相手が窮して、ポッと普段の相手からは出てこないようなというか、初めて聞くような厳しい言葉や話などは、ないがしろにしないほうがいい。
また、そういう言葉は、人それぞれの記憶の中にも必ずあるものであり、「ああ、そう言えば、あのときあいつ、何であんなこと言ったんだろう」とか、それまですっかり忘れていたようなことがフッと浮かんできて、それが誰かの、場合によっては電車で隣に立っていたオッサンの会話の言葉だったりもするが、なぜか浮かんでくるということがある。
それ自体の意味はそのときわからないとしても、浮かんできたら記憶にとどめて、できれば検証してみるといいだろう。
驚くようなことが隠されているかもしれない。
*
話を戻せば、それぞれが存在している以上、それぞれが存在し得ないような原理ということで言えば、たとえば宗教などもそうだ。
世界最大の宗教と言えば、いわずと知れたキリスト教とイスラム教だ。私はあまり詳しくはないが、それぞれがそれこそそれぞれの教えを絶対だと思っているのだと思う。
つまり、矛盾している。
だから、現実的に考えれば、それぞれの絶対が同時に存在することはあり得ず、あるとすれば片方に限ってのことであり、それも制限された範囲内のことで、つまりある国のある地域のある村の中とか、ある一定期間だけということになってしまう。
矛盾を生きようではありませんか。
うがったことを言ってしまえば、単純に人数の問題もあるかもしれない。
キリスト教徒が今 23 億人くらい、イスラムが 15、6 億人くらいらしいが、いずれイスラム教徒が世界で一番多くなることはちょっと考えればわかる。
キリスト教を絶対とし、イスラムを敵視する立場があるとすれば、これは相当な脅威だろう。また、イスラムにとっては大いに発奮するところでもあるだろう。
でも、両者は同じ神、ヤハウェを信仰しているのだ。ヤハウェはアラビア語でアラーだ。そしてイスラムでもイエスはムハンマドに連なる預言者なのである。
キリスト教で言えば、イエスはユダヤ教から出てきたわけで、当時のユダヤ教に携わる権力者というか支配側の腐敗や誤謬を蹴散らして回った。ルターも当時の絶対的とも言える教会を否定して、プロテストした。釈迦も当時のバラモンを否定したからキリスト教に限ったことではないにしても、キリスト教には何と言うか、既存の体制の過ちに対して問い質していく力が脈々と受け継がれている気がしないでもない。てか、そう思いたい。
むしろ、そうしたある種の革命的な指向を内包している宗教ということなのかもしれない。もっとちょっと正確に言うと、キリスト教の教えには、そういう人間を輩出するような何かの力があるのかもしれないということだ。
でも、それもイエスの本来の教えとは基本的には関係がないということもあり得る。
あまりにもパウロの影響がでかいからだが、ひょっとしたら当初はあれだけキリスト教を弾圧する側に回っていたパウロが、イエスの霊?と会ってから正反対の立場に 180° 転換するのだから、まあ激しいっちゃ激しいわけで、そのパウロの思想がほとんどキリスト教の教えの根幹になったことを思えば、キリスト教のそうした指向性もむべなるかなという気もする。
いずれにしろ、今のキリスト教、特に福音派と呼ばれる人々や原理主義的な立場の人の強硬な感じを見ていると、今日求められている「プロテスト」とは、少なくとも物理的・暴力的なものではなく、ある種の平和的な解決であることこそが「過激」と呼ばれるべきだろう。
そういう指導者なりグループが、キリスト教から現われないかしら。
などと言うと、まさにメシア信仰みたいだからアレだが、私自身はキリスト教信者ではないし、何の宗教も持たないわけだが、イエスの説いたことには関心がある。それはソクラテスやプラトン、釈迦、その他多くの哲人たちの説いたことに興味があることと同じだ。
もっと言えば、そうした地球の哲人たちが何をきっかけとし、何を源泉としてそれぞれの思想を抱くに至ったのか、ということに最大の関心があるわけだ。
で、その答えがひょっとしたら(ひょっとしたらが多いが)今、その「源泉自体」からもたらされはじめたのかもしれないということなのである。
Commentコメント
西塚裕一様
「絶対的な原理がふたつある」というフレーズを、私は、とても興味深く感じました。
私の類推では、「絶対」は、「普遍」とワンセットで成り立つ原理だと思います。
まとめます。
「絶対」と「普遍」がワンセットになって、真の「調和」が成り立つ。
これが、宇宙の原理。
「絶対」は、「唯一絶対」ということで、「多」を超越します。
「普遍」は、「Aにおいても、Bにおいても、Cにおいても(以下省略)、あまねく存在する」ということで「多」を確保します。
「多」を超越する原理と、「多」を確保する原理がワンセットになって、真の「調和」が成り立つと思います。
「調和」の外向きの顔は、「普遍」。
それによって「多」が確保されて、ひとまず「調和」が保たれます。
しかし、この「調和」は、あまねく確保されなければなりません。
外向きの顔は、内向きの顔によって支えられています。
両者は、ワンセットで「調和」を成り立たせています。
内向きの顔は、「絶対」。
「多」を超越して「唯一」を主張します。
ひとまず保たれた「調和」は、
「唯一」の原理によって裏から支えられることによって、
つまり、あらゆる多様性の中に「唯一」の原理が存在するがゆえに、
真の「調和」になる。
ということだと思います。
「もとは、ひとつ」ということで。
ところで、
「矛」が「絶対的な原理」だとします。
「盾」も「絶対的な原理」だとします。
そうしますと、
「矛」の中には「普遍」が存在します。
「盾」の中にも「普遍」が存在します。
ここで、唐突に結論が顔を出します。
「調和」とは役割分担である、という結論。
さらに、先まわりして、関連する、別の結論も述べます。
自由とは、「調和」を確保する力である、という結論。
そして、話を、もとに戻します。
「絶対的な矛」は、すべてを突き破って、相手の自由を侵(おか)します。
「絶対的な盾」は、すべてをブロックして、相手との自由なふれあいを絶ちます。
ここからは、矛盾がシフトする話になります。
と言っても、「裏」の「裏」は、「表」である、くらいの単純な話です。脳は、かゆくならないと思います。
「裏」を、裏返す、ということは、「裏」にあるものを「表」に出すということ。
「裏」を、裏返せるのは、「普遍」の力。
「普遍」は、あまねく存在する力ですから、「裏」にも「表」にも存在します。
「普遍」にとっては、「裏」を「表」にすることも、「表」を「裏」にすることも自由自在です。
どちらの面にも、あまねく自分の力が及んでいますから。
結論。
「絶対的な矛」が、「真の矛」であるならば、その「裏」には、「普遍」が存在する。
「絶対的な盾」が、「真の盾」であるならば、その「裏」にも、「普遍」が存在する。
その「普遍」の働きを通して、「真の矛」と「真の盾」は「調和」する。
それによって、軋轢を生む矛盾は、シフトする。
「絶対的な矛」と「絶対的な盾」は、
役割分担において「調和」し、
それによって、
「絶対的な矛」は、相手との自由なふれあいを絶つブロックを、
その絶対力で無効化し、
「絶対的な盾」は、相手の自由を侵す思いやりのなさを、
その絶対力で無効化し、
それによって、多様な「調和」を、さわやかに、愉快に育てます。
ところが、「現実」という現場においては、
私は、「調和」を生み出すために、いつもジタバタしています。
でも、西塚さんのキーワードを、ひとつ、
お借りするならば、
そのドタバタは、(手前味噌で恐縮ですが)「粋」な振る舞いと呼べるのではないでしょうか。
ところで、プラトンの対話に帰結する、西塚さんの中高年の「ウザ」さをめぐる考察は、
掛け値なしに、
とても「粋」だと思います。
「一冊の本の中には同時に前章と最終章が存在している」。
プロローグである「前章」を、そもそもの始まり、と受けとめると「源泉」になります。
「一冊の本」を「歴史」と受けとめますと、
「一冊の本」の全体は、地球人類の歴史。
その中には、無数の「章」があり、それは、個人の歴史。
「源泉」からスタートした歴史が進展するうちに、
「源泉」について、「普遍」を欠いたまま、多様な解釈がなされ、
それを「絶対」として打ち出したために、いろんな対立が生まれたのではないでしょうか。
その意味で、
現代においては、「普遍」の回復が切実に望まれているように感じます。
私にとっての「源泉」とは、「絶対」と「普遍」がワンセットになって成り立つ「調和」です。
西塚さんの、次のお言葉に、私は、「普遍」の響きを感じます。
「矛盾を生きようではありませんか。」
それが、「最終章」の読み方、生き方だと思います。
明日の『盤』で、その読み方、生き方が検証されることを望みます。
好本健一
好本様
コメントありがとうございます。
まさに般若心経ですね。
色不異空空不異色
色即是空空即是色
>現代においては、「普遍」の回復が切実に望まれているように感じます。 私にとっての「源泉」とは、「絶対」と「普遍」がワンセットになって成り立つ「調和」です。
人はいろいろな立場で意識的であれ、無意識であれ、
そうした「場所」というか「境地」への方向性が備わっているようです。
いわゆる善人も悪人も、金持ちも貧乏人も。
ただ、それぞれが抱えるさまざまな二項対立の中において、
まあドラマがあるわけですね。
明日の「盤」でもちょっと触れると思いますが、
「ヌーソロジー」を提唱する半田広宣氏によれば、
というか正確に言えば、冥王星のオコツトからもたらされた情報によれば、
今後人類の意識は二極化していきますが、
一方の意識としては、「認識の完全化」ということが起こります。
「認識の完全化」とは、
二項対立を統合する力を持つ認識プログラムです。
つまり、認識しているものと認識されているものの完全な一致です。
これは「仏性」と同じです。
そして、今の太陽系は第8次太陽系へと次元が上がるというのですが…
ビリー・マイヤー、RA文書、それこそ大本系のお筆先のようなものまで、
すべてが連関してきますが、まずは好本さんご指摘のように先の、
>現代においては、「普遍」の回復が切実に望まれているように感じます。
の部分ですね。
そこが重要です。
なので、第1回目はゼランドを取り上げて、
みなさんと検証・議論したいと思っているわけです。
ゼランドはそこをかなり理論的に、
そしてここが重要ですが、実践的な手法を提示します。
そしてゼランドから入って、
私がこれまでの探究からおのずと絞り込まれてきた文献との関連など、
とても1回の時間だけでは語れませんが、
できるだけ概要をみなさんに伝わるようにします。
そしてご批判も仰ぎながら、
「盤」を継続させていきたいと思います。
その意味は明日、述べます。
今、私たちには、どうやら新しい意識の「形」、
文字通りの「形」を認識することが求められているようです。
そして、ここも肝心ですが、
そこには明確に「思考」が介在します。
たとえば、「愛」とは思考によって認識されるもののようです。
そして「愛」は、次なる人間への進化があるとすれば、
その「大前提」となるものです。
そういうことは、
古代の ‶インチキ” 文献とか、
現代の ‶ニセモノ” サイキックなどの話をちゃんと読めば、
みんな書いてあるんですね。
そういうことに気づくためにも、
なぜか無視されているゼランドを取り上げていくことからはじめます。
西塚
矛盾という言葉が日本に知られるようになったのは、最近の事ではないでしょうか。
もしかしたら、戦後の教育あたりから?
矛も盾も日本の戦闘道具ではありませんもの、だから中国の故事からの熟語として教科書に載っていたかと思います。
日本にも相反する意味の言葉は昔からあったと思いますが、もっとニュアンスが柔らかい。
例えば(辻褄が合わない)とか。
そして辻褄が合わなければ糸を引き抜き、合うようにし直す、そんな柔らかい発想が日本人にはあるのではないでしょうか。
たとえ相手が、一番硬い矛と盾のようなどちらもガチガチなものを持ち出して「どうなんだ」と詰め寄ってきても(トンチ)でさらりとかわす、それはあたかも(一休さん)のような。
ガチガチな物ではなく、あり得ない世界をも見せる文化=歌舞伎などの舞台での黒子=見えているのに見えていないことわりがある。
もとよりカエルやウサギが相撲をとる発想の鳥獣戯画が漫画の源泉となる国だから、子供のロボットが正義に暴れる国を手塚治虫さんは描き、それに続く柔軟な考えの創造物ができてくるところがクールジャパンと憧れられるゆえんなんだろうな、と思います。
もっとも、柔軟過ぎて今や、初詣の神社からお盆のお寺からハロウィンの大騒ぎからクリスマスのパーティから全部一緒くたに飲み込んでいますけど。
ちなみに、テレビで放映されている中国歴史ドラマを見ると、なるほど矛と盾を持っています。
たしかに広い荒野での戦闘にはそれらが必要ですね。
高尚な問答をされている中で、水をさすようなコメントを書いて申し訳ありません。
が、日本人には馴染みの無かった言葉が残り、日本の文化の言葉が廃れるのもなんだかなあ、と思いましたのでちょっとお目汚しさせていただきました。
ごめんくださいませね。
たき様
コメントありがとうございます。
まったくおっしゃるとおりですね。
落語の世界が好きな私としてはよくわかります。
私自身がいい加減で適当な男なので、ご発言を心強く感じました。
このふたつの言葉にもそれぞれ微妙に反対っぽい意味もありますね。
また、がちがちっぽい西洋の科学の世界にも、
円周率や黄金比のようなものもあります。
日本や西洋のそのあたりに宇宙の生成の秘密がありそうです。
西塚
たき様
日本文化の中に生きる、
矛盾を越える、いろんな振る舞いに眼差しを注ぐ、
たきさんの心に、
ヤドカリ(私のことであります)は、ワクワクしました。
ヤドカリは、五目舎から、あったかいヤド(宿)を、おカリ(借り)している、
ヘンテコな生き物です。
(思わず、ヤドカリは、自分で書いた「ヘンテコ」という言葉から、
ペンテコステ、
という単語を思い出してしまったりする、
「なんじゃ、それは」みたいな生き物でもあります。)
キリスト教的プラトン主義の思想家のビジョンと響き合う一面も持つ五目舎。
そこに投稿されるたきさんの心に、
そのビジョンから降臨した「聖霊」が、
たきさんの指先を通して、
和を大切にする日本の粋な味わいに、
光を当てておられるように感じました。
これからも、自由にお書きになって、
ヤドカリを、ワクワクさせてください。
好本健一
西塚様
好本様
温かいお心のこもったコメントをいただき、ありがとうございました。
盤の創生
おめでとうございます。
「個」でありながら個ではなく
「他」でありながら他ではない
それは知恵の「わんど」かしら?
大阪の空の下より、これからの展開を楽しみにしています。
よろしくお願いいたします。
たき様
コメントありがとうございます。
知恵の「わんど」とは!
なるほど、なかなか含蓄のある表現ですね。
本山博氏の瞑想の表現を思い出しました。
ちょっと長くなるかもしれないので、
これはブログのほうで書きます。
忘れていたことを思い出させていただきました。
ありがとうござます。
西塚