昨日、『おやすぴ』の収録をした。
ちょっと間が空いてしまったが近々、アップします。
今日も東京はいい天気だ。
ふらふらーっと近所の居酒屋に行きたくなる。
どう関係してるのかいまだにわからないのだが。
この世には4つの力があると言われているが、本当はもっとあるとも言われている。
つまり、現代科学では電磁力と重力と弱い力とか強い力とかいう核の力だっけ?
実はよくわかってないが、ほかにまだ発見されてない力があるらしく、これは現代科学では認められてないものだ。
それとは別に人間には4つの気持ちがあって、うれしいという気持ちとかなしいという気持ち、で、うれしくなりそうだなって気持ちが希望とか期待に代表されるようなタイプの気持ちになり、かなしくなりそうかもってのが恐怖だったり不安の気持ちに代表される気持ちというわけだ。
普段、わたしたちは目の前で繰り広げられる現実の中で、大雑把に言えばそんな4つの気持ちの中で生きている。
そんな気持ちがいっさいないときもあるかもしれないが、でもそれはそんなに長くは続かないだろう。そうじゃなきゃ、現実が繰り広げられるはずがないからだ。
現実は縦と横の糸で紡がれていく織物のようなものなのだ。
糸の質というか、太いとか細いとか、色とか素材はわたしたちが決められることになっている。
Commentコメント
西塚裕一様
「現実は縦と横の糸で紡がれていく織物のようなものなのだ。」
「現実」は、ひとつでも、その「現実」に対する思いは、一人ひとり異なっていると思います。
「現実」についての思いは、「縦と横の糸で紡がれていく織物のようなもの」で、一人ひとり、その織り方は異なっている。
なぜなら、
「糸の質というか、太いとか細いとか、色とか素材はわたしたちが決められることになっている」から。
ひるがえって、
「糸の質」や「色」や「素材」を、思いの構成要素と受けとめて、
それらによって、すでに織り上げられた、複数の思いが、
(複合的な、つまり複数の個たちに関連する心の昇華を、天の意志として具体化して)
ひとつの「現実」が生み出されるとしてみると、
「糸の質」や「色」や「素材」を、選ぶ視点を再検討して、
新しい「織物」を織る、ということが、
(様ざまな未知の可能性を生み出す「心の昇華」を天にゆだねて、そこから)
新しい今ここの旅を創造する、ということになると思います。
その、
「糸の質」や「色」や「素材」を、選ぶ視点の方向性において、
近似的に響き合う心が、
その方向性に沿ってシンクロニシティを起こして、
より多くの人びとにとって望ましい、新しい「現実」を創り出すのなら、
その方向性の検討もまた、必要になると思います。
「堅固と思われた/定説を覆す」。
これは、『サイクリック宇宙論』の帯の、背表紙に印刷されたキャッチ・コピーの一部です。
背表紙の文章は、もう一行あるのですが、「定説を覆す」という文章に視点を止めていただきたくて、意図的に引用を中断しました。
本のサブ・タイトルは、「ビッグバン・モデルを超える究極の理論」。
今の時代は、これまで、堅固な「定説」と思われていたものを覆す、新しいビジョンが登場する時代のような気がします。
たとえば「色即是空」の「空」の定説は、「何もない、カラッポの空」という虚無的なもののようですが、今、それを覆すビジョンも登場しています。
ここで、宇宙に話を戻して、般若心経の新解釈が語るビッグバンについて。
「この書では、物質が生まれるビッグバンの時点からその直後をその境界としました。(引用者注―「その境界」とは、「《諸法》と法の境界」)現代物理学でいうビッグバンは、般若心経の「《諸法》」による「法」の発生と対応していて、ここが現代物理学と般若心経との接点となっているのでした。」
『未完成だった般若心経』P100
「『盤』第1回終了!」のコメントのご返事に、西塚さんが、
「私たちが一番気をつけなくてはいけないのは/ 視野狭窄に陥ることではないでしょうか。」
と書いておられますが、
「視野狭窄に陥る」自分を乗り越えながら、様ざまな情報領域に、
「堅固と思われた/定説を覆す」新しいビジョンを探して、
それをもとに、
「糸の質」や「色」や「素材」の選び方や、
その視点の方向性を再検討することで、
「堅固と思われた/定説」に縛られない、新しい「現実」を創造できると思います。
今、新しいビジョンの登場によって、不要になっていく「定説」たち。
それらの「定説」の中には、これまで役に立ってきたものもあれば、私たちの心の可能性を縛ってきたものもあると思います。
後者の「定説」は、ゼランドが述べている、私たちの新しい創造を阻む「振り子」の一種だと思います。
物理学の「定説」のひとつに、不確定性原理があります。
ファインマンは、この「堅固と思われた/定説」を覆しています。
「もしわれわれが旧式な考えを完全に捨て去り、私がこの講演で説明しているような考え方、すなわちある事象が起こり得る経路全部の矢印を合わせる考え方を使っていけば、もはや「不確定性原理」などわざわざ持ち出す必要もなくなる。」
『光と物質のふしぎな理論』P79
しかし、このファインマンのビジョンは、あまり支持されていないようです。
東晃史氏は、『光と物質のふしぎな理論』は、意識の領域に踏み込んでいると述べておられますが、
意識を観察対象にしない物理学が、
意識の領域に踏み込んだ『光と物質のふしぎな理論』において不確定性原理が不要と述べられているビジョンを評価すると、
具合が悪いのかもしれません。
物理学の門外漢としては、何となく、ゼランドの「振り子」はやっかいなものだと呟くことしかできませんが。
そうしてみますと、ヌーソロジーは、「物理学とは、唯物論である」という、当たり前すぎる「定説」を覆して意識物理学を展開することによって、新しい「定説」の構築に挑んでいるように感じられます。
ヌーソロジーには、よくプラトンが顔を出しますが、西塚さんもヌーソロジーに深い関心を持っておられます。
ウィリアム・ブレイクとヌーソロジーをつなぐプラトン。
西塚裕一氏の全身には、やはりプラトン的情熱が漲っているのではないでしょうか。
ところで、
今、新しい創造を志向する心は、
「いとおかし」という、
日本の古典において、多様に表現された心の、味わい豊かな方向性のもとに、
美しい「現実」を、
見事な「現実」を、
趣のある「現実」を、
興味深い「現実」を、
場を和ませる愉快な「現実」を、
創造していくと思います。
(ジャパノート。
https://idea1616.com/itookashi/ )
その創造のためには、論理的な思考は、不可欠だと思いますが、
瞬間的な対応には、論理的な思考を、その場にふさわしいありように向けて、
エモーショナルに整える「気持ち」が力を発揮すると思います。
「いとおかし」の機微を、直観で瞬時に表現する「気持ち」。
常に「気」の持ちようを整えていたいと思います。
そうしてみますと、
「現実」が、ひとつなら、
不要になった「定説」を踏襲する人びとが創り出す「現実」と、
新しい「定説」をもとに「思い」を軌道修正した人びとが創り出す「現実」とは、
ひとつの地球空間において、
どのように棲み分けられるのでしょうか?
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
「コメント」とか「論考」をありがとうございますと、
これまで何気に分けていましたが、
今後はこの欄へのご意見は「ポスト」ということにしますね。
みなさんの「ポスト」(投稿)は文字通り「原稿」なので、
そのほうがいいと思いました。
いただいたご意見すべてを引用して考察したいところですが、
それは『盤』のレポートの参考にさせていただいて、
いくつかの点で私なりの意見を述べます。
>「この書では、物質が生まれるビッグバンの時点からその直後をその境界としました。(引用者注―「その境界」とは、「《諸法》と法の境界」)現代物理学でいうビッグバンは、般若心経の「《諸法》」による「法」の発生と対応していて、ここが現代物理学と般若心経との接点となっているのでした。」
ゼランドを援用すれば、まさに「バリアントの空間」と「現実」の境界ですね。
ゼランドは「バリアントの空間」(岩根和郎氏の言葉で言えば「超実体」でしょうか)から、
現実化・現象化が起きる「しくみ」と起こさせる「方法」を説いているわけです。
さらに言えば、
般若心経の「受想行識」と「色」との関係を検証していると言ってもいいかもしれません。
複雑と言うかわかりにくいのは、
ゼランドはその関係を説明するわけですが、
どうしてそんなことが可能なのか、
ということは問わないという立場なので、
どうしてもそこまで知りたいと思う読者にとっては、
その「答え」らしきものをゼランドの本の中に求めてしまいます。
それで余計わかりにくくなる場合がありそうです。
しかし、少なくとも岩根氏もゼランドも、
私たちの世界というものは大きくふたつの観点から分けられることができ、
ふたつには分けられたものの実はそれは一体であること、
そしてそうした認識と理解からスタートさせて初めてわかることを、
可能な限りわかりやすく言葉にしたという点では同じかと思います。
そしてその認識は、
今後は私たちの新しい「常識」になっていくのではないでしょうか。
>今、新しいビジョンの登場によって、不要になっていく「定説」たち。それらの「定説」の中には、これまで役に立ってきたものもあれば、私たちの心の可能性を縛ってきたものもあると思います。後者の「定説」は、ゼランドが述べている、私たちの新しい創造を阻む「振り子」の一種だと思います。
そこなんですね。
ヌーソロジーでも説くように、
これまでの科学的知識ほか、
いろいろな知識は私たちの文明の発展に必要なものであって、
それは最後の最後にオセロの石が引っくり返るためのものでもあるようです。
つまりゼランドの言う「振り子」の作用というものは、
そういう意味で必要なものなのですが、
最後の最後に人間は「振り子」に、
ヌーソロジーで言えば「プレアデス的統制」の力に、
取り込まれてしまい、
これまで進んできた「方向」から逸れてしまうことがあるということです。
「最後の最後」とは何か、
「方向」ったって何のどういう方向かということは、
『盤』で詳しく取り上げていきます。
>「もしわれわれが旧式な考えを完全に捨て去り、私がこの講演で説明しているような考え方、すなわちある事象が起こり得る経路全部の矢印を合わせる考え方を使っていけば、もはや「不確定性原理」などわざわざ持ち出す必要もなくなる。」
まさにファインマンの語っている通りですね。
先日の『盤』で言えば、
私たちは「0」の地点に立って「起点」を選択できるので、
「不確定性原理」などを持ち出す必要もなく「確定」できるわけですから。
なので、
「ある事象が起こり得る経路全部の矢印を合わせる考え方を使っていけば」、
今後の世界には限りない可能性が開かれます。
とは言え、好本さんが言うように、
「その方向性の検討もまた、必要になる」
わけです。
なぜなら、
いわゆるカルトもほんの小さな勉強会にも、
「振り子」は発生し、
いくつかの法則に則って作動しはじめ、
「振り子」の成員の「思い」によっては、
とんでもない方向に進むからです。
>物理学の門外漢としては、何となく、ゼランドの「振り子」はやっかいなものだと呟くことしかできませんが。
いや、やっかいです。ほんとに。
でも、ゼランドも言うように、
この世は「振り子」でできていますし、
私たちを最終的に「幸福」にしてくれるのも、
やはり「振り子」なのです。
>「現実」が、ひとつなら、不要になった「定説」を踏襲する人びとが創り出す「現実」と、新しい「定説」をもとに「思い」を軌道修正した人びとが創り出す「現実」とは、ひとつの地球空間において、どのように棲み分けられるのでしょうか?
前回の『盤』では時間がなくて取り上げることができませんでしたが、
ゼランドはその点、比喩を用いて説明していて、
ひとつのヒントになるかと思います。
観光地にいるホームレスと旅行者の比喩です。
正確ではないですが、こういうような内容です。
旅行者は風光明媚な街を歩き、
名所旧跡に感嘆の声を上げ、
人生を謳歌している市民たちの笑顔を見ています。
ホームレスは旅行者が通り過ぎようとするゴミ箱のそばで、
ゴミ箱の中の空きビンや汚れた壁、
ライバルのホームレスをうかがっています。
旅行者とホームレスはそれぞれ別の次元にいるわけではなく、
ひとつの「現実」を共有しています。
ただ、ふたりの人生の「ライン」が違っているわけです。
それぞれ「因果の鎖」によって人生ラインを紡いできて、
つまりそれぞれがそれぞれの物質的な「現実化」を続けてきて、
今、ひとつの物質化された現実で出会ったわけです。
前回の『盤』の説明に戻れば、
それぞれの方程式の線(人生のライン)が、
ある1点(現実化)で交差した(出会った)わけですね。
そして、よほどのことがない限り、
この旅行者とホームレスはもう会うことはないでしょう。
ライン、つまり今後現実化されていく「流れ」が違うからです。
ここからもっと興味深い考察も可能ですが、
また私は長くなるのでやめときます(笑)。
>ひとつの地球空間において、どのように棲み分けられるのでしょうか?
でも、ここは気をつけなければならないところです。
今後、こうしたことについての、
私に言わせればそれこそ「トンデモ」系の話が、
大真面目に語られはじめる可能性が極めて高いと思われるからです。
どうしても私たちには、
「違い」を求めることは必要ではあるものの、
その違いによって「優劣」を求めようとする傾向があります。
そこにマインドが落ち込んでしまうと、
なかなか抜け出せないようです。
「違い」はただの違いであって、
そこに優劣や善悪はないですね。
サッカーは私はあまり詳しくはないですが、
たとえばゴールキーパーやフォワード、デイフェンスなど、
それぞれポジションや役割の違いはあるでしょうが、
優劣や善悪とは関係ないでしょう。
ましてや敵と味方に分かれて戦うにしても、
そこに憎しみは本来ないはずです。
観客にしても、
ひいきのクラブやプレイヤーはあるにしても、
それ以外のクラブやプレイヤーに対する憎しみや、
善悪の観念はないと思います。
プレイヤーたちはそれぞれの立場で、
これまでの数々のスーパープレイを超えるプレイをすることを、
おそらく目指しているのだろうと思います。
その結果、素晴らしい試合が生み出されることがあるわけだし、
観客もそういう試合を目撃したいのではないでしょうか。
そしてまた、
観客は観客でそれぞれ職場に帰ったり、
家に帰れば何かのプレイヤーだったりするわけです。
私たちは、
これまでの世界の既存のものに執着したり、
あるイデオロギーを金科玉条にしたりすることからなるべく離れて、
そういうものを参考にしながらもどんな新しいことができるのか、
ぶっちゃけ言えば、おもしろいことができるのか、
そういうことを考え出すこと以外に、
何かすることがあるのでしょうか。
なんて考えてしまいます。
これまでのスーパープレイを超えるプレイ、
あるいはサッカーよりもおもしろいゲーム、
そういうことを創り出すことにみんながエネルギーを注いだとしたら、
いったい人類はどんな世界を創るのでしょう。
これまでの世界を「超える」世界、
これまでの世界より「おもしろい」世界とは、
どういう世界でしょうね。
西塚
西塚裕一様
ご返事、ありがとうございます。
ゼランドは、読者思いの方であるという前提で、
『現実化・現象化が起きる「しくみ」と起こさせる「方法」』において、
『どうしてそんなことが可能なのか、/ということは問わないという立場』を取っているのは、
あくまで『どうしてもそこまで知りたいと思う読者』の思いも、しっかり考慮しながらも、
『その「答え」らしきもの』は、「皆さん、どうぞ、私の本から自由に、この記述が、それに該当するのかなと考えて、一人ひとり、自分なりに受けとめてください」と思っているのかなと感じました。
その結果、
『それで余計わかりにくくなる場合』が発生したら、それもまた、
「一人ひとり、自分なりに受けとめてください」。
それは、
「創造」の現場が、そのようなチャレンジの現場だから。
その現場の中にのみ、『どうしてそんなことが可能なのか』という問いに対する答があるのだから。
また、
『大きくふたつ』に分けられているように見える世界のありようが、
『実はそれは一体である』ことさえ把握していれば、
それ以外の心の揺れは、すべて「創造」の旅の通過儀礼だから。
そして、
その心の揺れを味わうことが、個独自の旅を成就させるのだから。
ということ、なのかなあと思いました。
『新しい「常識」』が、愉快に、最大効率で、「ひとつの現実」に根づくことを祈っています。
私が「棲み分け」という言葉を使う際に意味を調べたら「共存」とあったので、これはいいなと思いました。
結局、
A 新しい定説も、様ざま。
B 堅固と思われている定説も、様ざま。
Aを必要とする人びとも、様ざま。
Bを必要とする人びとも、様ざま。
そして、
Aにおいても、Bにおいても、その必要性の度合いも、様ざま。
それらの複数の多様性が、
多様な個の今ここの旅の課題を提示しているのなら、
そして、その旅が、
めぐりめぐって、お互いを支え合っているのなら、
(異なる『人生のライン』による、出会いと別れ。
その無数のふれあいを統括する天の采配が、
それらのふれあいの蓄積の果てに、
『実はそれは一体である』ことを見出させてくれる、その)
天の采配によって進展する、神妙な「心の昇華」を、
多様な個のつながりを通して受けとめ直す「場」として、
(途中経過の)「ひとつの現実」があると認めて、
個のレベルにおける「棲み分け=共存」の原理を、ユーモラスに、大雑把に表現すれば、
「ま、いっか」という境地を洗練させていくこと。
になるのかな、と思いました。
堅固と思われた定説が覆されていく現代を歩む旅人たちには、
『ぶっちゃけ』思考が、大いに求められていると、深く思いました。
『これまでの世界より「おもしろい」世界』を創造する「思い」を練り上げる場として、『盤』の営みが進展していくことを願っています。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます、
>『これまでの世界より「おもしろい」世界』を創造する「思い」を練り上げる場として、『盤』の営みが進展していくことを願っています。
ありがとうございます。
西塚