今日は暖かい。もう夕方か。
またもや籠ってコツコツ仕事をしてきたわけだが、いいかげん飲みたくなってきた。
私の場合、怠惰なクセに集中力はあるから、ハッと気づくとものすごい時間が経っている。ヘタすりゃすぐ夜になり、一週間になる。
もう木曜日? こないだ木曜じゃなかったっけ。
これはまずいので、そろそろ酒でも飲もうと思うわけで、近場の人間にラインを送ったが反応がないときてる。
ひとりでもいくぞ、ほんとに。
……いい年してブログに書く内容ではないか、さすがに。
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ようやく『宗任問答』の宗任さんの「エナジーアート」関係をアップできた。
エナジーアート自体は、去年から無料シェアで公開しており、まあ、よかったらDLして、実際どんな体験、影響があったか意見をください的な感じでいたのだが、ちょこちょこ反応もあり、その反応も『宗任問答』で取り上げてきた。
ほか、いろいろメールもいただいてやりとりしてきたが、これはまとめて公開・販売していこうと思ったわけである。
私の場合というか当社・五目舎の場合、いろいろ私自身が体験・経験をもとに検証していかないと、どうも紹介できないのだ。
この本、スゲエおもしろいぜみたいなことであれば、それでもそれなりに読み込んで批評のひとつふたつみっつできなきゃ(どんなにお粗末な批評だとしても)、人には紹介はできないわな。
ましてや、こといわゆるスピリチュアル的なことで金銭も発生するとなれば、まあ、当たり前なのだ。
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このスピリチュアルという言葉も、以前から書いてはいるが、やはり使うたびにどこかこう、微妙に唇をゆがめたくなる気持ちにもなるが、意味的にもそのとおりだから仕方がない。
ほかに何かいい言い方はないだろうかと考えたこともあるが、それこそミョウチクリンなことになり、かえってスピ系以上にスピ系っぽくなるからやめた。
ヤスさんこと高島氏との『おやすぴ』の最初のほうでも話した記憶があるが、私に言わせれば、この世のことはすべてスピリチュアルなのである。
だから、スピリチュアルでいいんだが、世に言うスピ系は、霊現象や超能力者、地球外生命、高次元の存在といった超常的なことに対する過剰な興味や信奉、さらには同意しない者への排他的な態度をとるなんて人を見て、ああうぜえとか、ちょっとヤバくない?あいつ、みたいな反応をとる人たちが揶揄的に言い出した言葉なんだと思う。
そして、実際にある現象や記録を見ても、あまり深くも考えもせずにすぐそういう目で見てしまう人たちに対して、いわゆるスピ系の人たちはますます排他的になり、意固地になり、徒党を組み、つまりセクト化していく。
実際、これじゃカルトと言われてもしょうがないのだが、よく見れば超メジャーな組織でも内実はカルトなり、といった組織なんざ山ほどありまっせ、だんな。
信奉者が多ければいいってもんじゃない。
それはともかく、でも、そうした図式自体が何と言うか、もったいない。それぞれにいろいろと優秀な人がいると思うんだが、それこそいろいろな理由で「どちらかの陣営」に振り分けられる。
中間でいいんでないの? 真ん中で。
って、何の話だったか、そうだエナジーアートだが、エナジーアートに限らず、五目舎では今言った中間の立場で、今後もさまざまなアート作品を紹介していこうと思うわけだ。
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アートはインスピレーションを受けた人間が作り出すものだ。
形はさまざまだ。
絵もあれば音楽もあるし、言葉によるものもあるだろう。
言葉によるものも、詩だったり小説だったり、エッセイなど、形式はともかく内容も思想だったり、予言だったり、批評、分析等々、何でもありだ。
しかし、作品はやはり人が創るものだから、人はいちばん大事な要素なのだが、その人にまた作品が影響を与える。
人が変われば、作品も変わるのだ。
最初はどんなに素晴らしい作品だったとしても、人が変われば変わるかもしれない。逆もあるだろう。
「この世」は無常だが、素晴らしい作品は「無常」ではない世界に触れているから素晴らしい。
もちろん、感じる側の状態にもよるだろうし、アーティストにしても人間だから、作品はそのアーティストを通して現われるぶんだけ、見る人の好みも分かれるところだろう。
それはそれでいいわけで、何かを「感じる」ことが大事なのだ。
これは先の「スピ系」の話ではないが、「考えるな、感じるんだ」的な「感じる」ではなく感じることが大事なのである。
そこにはやはり「知」が重要なこととして絡んできて、「考えるな、感じるんだ」的な感性を超えるには、新しい「知識」が必要になってくるのだ。
私としてもそうした「知識」を探究してるわけで、その過程で現われてくるアート関連の「作品」も検証のうえで紹介していく。
だから、昨日今日に出逢った作品をすぐ紹介するというわけにもいかず、そこはやはり私なりの考察が必要になってくる。
これは責任とかそういう問題ではなく、私自身がわけもわからず紹介するということができないというだけだ。
だから、紹介・公開した作品でも途中で引き下げることもあるだろう。
先にも言ったように、作品は人が創るものだから、人は人の影響も受け、人が変われば作品も変わるからだ。
「この世」に普遍的な「物」などはなく、人が「この世」を超えた普遍的なものとつながろうとし続ける「意志」だけが普遍なのだ。
だから、その「意志」みたいなものに基づいて、一応、ああだこうだと能書きをたれる連中も必要で、それに対して、ちょっと違うんじゃね?とツッコミを入れる人たちも必要だというわけだ。
私は、今後はそういう人たちがどんどん増えてくると思うし、それはそうなっているのである。
じゃなきゃ、先に進めない。
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