ゴールデンウィークももう後半だ。
みなさん、旅行その他、いろいろと楽しまれてることでしょう。
まあ、私はビンボー暇あっちゃいけないってんでちょこちょことすることはあるが、部屋の四隅で切り火を切ったりしていて、自分でもよくわからない。
もう 5 月なわけだが、エネルギー的には節分から切り替わるって話もあるから、そうしたらまだ新年 3 カ月。そっちのほうが気が楽だね、若干。
そういや、来年は元号が変わる。
来年の 5 月、つまりちょうど 1 年後には新しい元号になってるわけだ。
新しい元号はいつ発表されるんだろう。わからないが、もうすでに決まってるのかな。名称は予想もつかないけれども、新しい年がはじまるぞみたいなことだといいのだが、どうだろうか。
*
平成は 1989 年からだった。
1989 年というのはこれはもう、大きな意味のある年だった。
実際、日本では昭和天皇の崩御、世界でもベルリンの壁の崩壊、そして冷戦が終わり、やがてソ連の崩壊へと進む。
個人的なことでもそれぞれに大きな変化があったはずだ。思い当たらんって人でも、日本人なら元号が変わるだけでも影響はでかいっちゃでかいし、ベルリンの壁の崩壊や冷戦の終局にしても世界に影響を与えないわけもなく、そんな世界に住んでいれば何かしら影響は受ける。
だいたい「平成」はよく言われるように、「平」の字を崩せば「一」と「八」と「十」であり、これは「一八十」で「イワト」だ。
スピ系ではよく知られることだが、1989 年は「イワト」が「成る」年がはじまったのである。
「岩戸が成る」とは「岩戸が開いた」ということだとする説が有力だが、私にはよくわからない。
私は、ひょっとしたら岩戸がまた閉じたのではないかと思っているが、いずれにしろその「平成」も来年までなのだ。
実質、今年で終わるのである。
この 30 年にはどういう「意味」があったのか。
こういうことに関しては、いろいろな説によってそれこそいろいろな「意味」や「解釈」がなされ、我田引水、牽強付会、特にご都合主義的な精神世界では、自らの妄想による世界観、あるいは宗教的な教義に絡んだ「神の計画」や「経綸」、「仕組」などに沿って語られる。
いや、それぞれの説に妥当性や正統性、根拠があると思うし、いちいちひとつひとつをあげつらって否定するつもりはない。
否定どころか、大本系の「お筆先」関係とか、いくつかのチャネリングやコンタクト情報に関してはかなり信ぴょう性があると思っているし、『盤』という小さな会で私なりの解釈を報告しているわけだが、それは私なりに探究してきた根拠があってのことである。
*
ここ数日の気持ちのいい 5 月の空の下を歩いていると、いろいろな思いが浮かんでくる。おそらく、そういう人は多いのではなかろうか。
これまでの数回の岩戸閉め、まあ5回とも言われているが、いくつかの岩戸閉めで隠れた神々はイザナミや天照大神やスサノウだ。
来年5月、平成で岩戸が開いたのであれば、その次の仕組がはじまる。あるいは平成で閉じられたのであれば、その岩戸開きがはじまるわけだ。
イザナミやアマテラスやスサノウ、あるいはエネルギー的には一体ともされる国常立大神(クニトコタチノオオカミ)や豊雲野大神(トヨクモヌノオオカミ)、同じ神でも文献によって漢字の読みや呼び方にさまざまあるが、そういう細かい整合性はおいといて、ある大きなエネルギーの変換・変容がはじまるのは、おそらく間違いないと思われる。
そう考えざるを得ない。
いくつかの文献を照合するだけである種の結論が出てくるわけだが、その文献のひとつはやはり『聖書』だ。
どんな礼拝も真理ではなく、また、知識も知恵も含まれていないだろう。
私の偽造されていない真の教えが、新しく説かれる日が来るのは、二千年後である。
それまでは、間違った礼拝宗教は多くなり、数え切れないだろう。
それらは、人間の血と憎しみと、欲望と権力の上に、築き上げられるだろう。
それらは築かれるが、再び破壊されるであろう。
真実が勝つからである。
嘘はばれない、などという不真理はないからである。
また、隠されたもので、明らかにならないものはない。
人間は、自分の目の前にあるものには気が付くが、隠されたものは、彼が真理を求め、知恵を得た時になって、明白になるのである。
真理は深いところにあり、創造の掟の中にあるが、そこに人は真理を探し、発見することが出来る。
探すことをやめないで、求める者は、それを発見する。
それを発見した時、人は深い感動を受けて驚くだろう。
彼は、すべてを支配するからである。
そして人間は、王国が自分の内と外にあることに、気づくであろう。
『タルムード・イマヌエル』
(ユダ・イスカリオテの福音書とでも言うべきもの:西塚註)
Commentコメント
西塚裕一様
「平成」を「イワト・ナル」と読み替えた場合、「成る」と「開き」は、明らかに異なると思いますから、私は、「平成」を「岩戸開き」の前段階として、「岩戸鳴る」と受けとめました。
閉じられ、静止していた「岩戸」は、いまや「岩戸開き」に向けて鳴動し、その準備を始めた、それが「平成」という時代ではないかと思いました。今ごろになって、とも思いますが。
しかし、そうしますと、「平成」が終わるということを、「岩戸開き」に向けた準備が終わる、と考えてみれば、次は、本番です。
《ある大きなエネルギーの変換・変容がはじまる》
私のようなボンクラでも、個の旅と、精神宇宙的なスケールの旅をつなげて考えるようになったのですから、間違いなく《ある大きなエネルギーの変換・変容がはじまる》というか、すでに《変換・変容》は、始まっていると実感します。私など、その恩恵をいただいて考えている感じです。
コスモスは、精神宇宙。
ユニバースは、物質宇宙。
ユニバースを生み出したのは、コスモスだと思います。
コスモスの「思い」が、ユニバースを出現させたのだと思います。
宇宙の創造原理=コスモスの「思い」。
神話は、多次元的な解釈が可能な物語のようですから、「岩戸」の奥に隠れた存在を、この考察では、直霊、つまり本心、「真の自分」と考えて見ました。(もちろん、神々も、大いに関与されると思います。視点を変えれば、「真の自分」も神々の一柱でいらっしゃいますから。)
結論から言えば、「真の自分」は、「地上の自分」の自由意志をある枠組みの中で認めて導きますから、その枠は、「真の自分」のビジョンから離れた自由意志の行使もある限度内で認めていて、それが「岩戸閉め」に該当すると思います。
また、「岩戸」に隠れた「真の自分」は、「岩戸」の奥では、どこまでも不自由かといえばそうではなくて、守護の神霊(守護神、守護霊、副守護霊)たちと毎日24時間密接に連絡を取り合いながら「地上の自分」を見守り、支え、導いていると思います。
「真の自分」は、顕在意識と潜在意識を超えた、完全な自由と創造力を持っていると思います。
繰り返しになりますが、「真の自分」が「岩戸」に隠れたということは、「地上の自分」に認めた自由意志の行使に対しては、それを100パーセント「真の自分」の思い通りにはコントロールできないという「制約」を意味すると思います。
その「制約」の外においては、「真の自分」は、「地上の自分」の自由度とは比較にならない多層的な活動力(=創造力=救済力)を自由自在に駆使して「地上の自分」を見守っていると思います。
《隠されたもので、明らかにならないものはない》
この『タルムード・イマヌエル』の言葉は、まるで「岩戸開き」について語っているようです。
生命活動という視点から「岩戸開き」について考えてみます。
生命活動には、二つあると思います。
宇宙の生命活動。
地上の生命活動。
宇宙の生命活動は、「真の自分」が展開するもの。
地上の生命活動は、「地上の自分」が展開するもの。
それらの生命活動は、本来「ひとつ」のものなのに、現状では、隔たりがあると思います。クールに書いてはおりますが、個のレベルで考えれば、その隔たりの責任は誰にあるのかと言えば、もちろん私自身にもありますので、その隔たりを可能な限り最大効率で縮めたいという思いも込めてこの考察を書いています。
宇宙レベルの「真の自分」を地上に投影したものが「地上の自分」。
本来は、「真の自分」と「地上の自分」は、一体の関係。
しかし、「地上の自分」は、肉体をまとっているため、その制約を受けて「一体の関係」を維持する度合いが、様ざまに変化する。
その度合いが、大きく低下した事態が、「地上の自分」から見た場合の「岩戸閉め」。
そして「一体の関係」を維持する度合いは、「真の自分」が「地上の自分」を指導して効果を上げた度合いによって、より高まっていくと思います。
「平成」において、その高まりが充実していると期待したいです。その高まりが、「岩戸開き」の準備そのものだと思います。
ここで、思わず、「岩戸開き」が進展することへの希望を込めて「閉じられたもので、開かれないものはない」と、さきほどの『タルムード・イマヌエル』のビジョンを置き換えてみました。
《探すことをやめないで、求める者は、それを発見する。》
『タルムード・イマヌエル』のタイム・スパンを採用すると、《探すことをやめない》その探究は、《二千年》の時を経て、今、成就する可能性に直面しているようです。
般若心経解釈においても、仏陀の二千年計画に言及されていますから、今という時代は、直近の視点では、約二千年に一度の、千載一遇の時なのかもしれません。
ところで、私の探究は、相当もたついておりますが、「地上の自分」の皆様の中には、「真の自分」との「一体の関係」を維持する度合いをどんどん高めて理想に近い宇宙の生命活動を「地上の自分」の天命に重なる形で展開しておられる方もいらっしゃると思います。こちらも大いに期待したいです。なぜなら、その歩みへのシンクロニシティを通して、私を、素晴らしい未来へグイグイ引っ張っていただきたいからです。決して楽しようとだけは考えておりませんが。
《彼は、すべてを支配する》
私には、この言葉は、「真の自分」と「地上の自分」の一体化による理想的な宇宙の生命活動の展開を意味しているように感じられます。
《支配》とは、《創造の掟》を、「地上の生命たちを、守り、支え、育てる」ために駆使する自由自在性を意味すると思います。
別の見方をすれば、《すべてを支配する》存在である《彼》とは、新しくなった「真の自分」。
つまり、「地上の自分」が理想的な形で「真の自分」に一体化したので、その分、「真の自分」が、「地上の自分」から被っていた「制約」から解放されて十全な自由自在性を回復して新しくなった「真の自分」。
また、《彼》とは、新しくなった「地上の自分」。
つまり、「真の自分」と理想的な一体化を達成した「地上の自分」は、肉体をまとっているため、その物質的制約によって、どこまでいっても不完全な働きしかできないのではありますが、しかし、その不完全さは、十全な自由自在性を回復した「真の自分」と一体化したレベルで発揮される、地上レベルで最高の自由を得て新しくなった「地上の自分」。
その展開は、多層宇宙の波動システムを、最大効率で地上に投影する、と思います。
全地球人類の皆様、お一人お一人に「真の自分」が存在し、その「真の自分」は、《実在》界のレベルでは全地球人類規模で一体化したチームワークのもとで、個別的な事情を抱えた「地上の自分」を、その事情を尊重しながら、最大効率で霊的進化を進展させるように働きかけておられると思います。
その霊的進化によって、《人間は、王国が自分の内と外にあることに、気づく》のではないかと思います。
その言葉を、置き換えますと、「人間は、多層宇宙が、自分の内と外にあることに、気づく」ということになると思います。
「御心が天で行われるように地でも行われますように」(主の祈りの一節から)
「天界が、多層宇宙として営まれて、個々が意図する調和が、ぶつからずに多次元的に組み合わされて営まれているように、地上にも多層宇宙の波動システムが投影されて、制度として、組織として、テクノロジーとして、文化として、日常のふれあいとして、国家の営みとして、国際関係として、地球の自然環境として、地球外生命体との調和に満ちた関係として、機能しながら、個々が意図する調和が、ぶつからずに多次元的に組み合わされて、地球全土で、宇宙に向けて開かれた有益なつながりのもとに営まれますように。」
《隠されたものは、彼が真理を求め、知恵を得た時になって、明白になる》
《隠されたもの》が《明白になる》ためには、「地上の自分」が担うべきでありながら先送りしてきた宇宙の生命活動に参加する準備を完了させる必要があると思います。
その営みのひとつとして、「地上の自分」は、肉体の制約を受けて「真の自分」のビジョンから離れて活動した負債を解消しなければならないと思います。
それは、「真の自分」の指導の下に行われると思います。
その指導を、受け入れる決断も、拒否する決断も、ある枠組みの中で、「地上の自分」に委ねられていると思います。
「岩戸」を、別の角度から見れば、「錯覚」だと思います。
守護の神霊や「真の自分」に帰依する必要は、まったくなくて、自分の力ですべてやれるという錯覚。
宇宙的な視野で、地上の営みを見つめる必要は、まったくなくて、地上の視野ですべてやれるという錯覚。
自分を取り巻く人間環境や、自然環境や、文明環境や、文化環境によって、人間は「生かされている」と考える必要は、まったくなくて、すべて自分の力で生きているという錯覚。
生命の本質レベルでは、完全に一体となって、役割分担を受け持ちながら宇宙の生命活動を展開しているというビジョンに思いをめぐらせる必要は、まったくなくて、自分が、あるいは自分たちが一番偉くて、世の中は、自分中心に、あるいは自分たち中心に動いているという錯覚。
毎日の暮らしの中で、自分が選択した方法で、錯覚を解消する努力を積み重ねるたびごとに、少しずつ「岩戸」は開かれて、「真の自分」の素晴らしい光が、日常生活を彩ると思います。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
ご考察に圧倒されまして、
どうコメントしていいものやらって感じです。
この欄では狭すぎますね。
>私は、「平成」を「岩戸開き」の前段階として、「岩戸鳴る」と受けとめました。
なるほど。
確かにそうも読めます。
「大山鳴動してネズミ一匹」となるやもしれませんが…
やはりローマの賢人たちは傾聴に値する言葉を残しています(笑)。
神話や預言の言葉は、
言葉が象徴的に使われていたり、
数字が多いなど、
何通りにも読めるというか、
意味を重層させながら読む者に伝えようとします。
聖書でも日本の神示でも、
明確にそういう意図があることがわかります。
逆に言えば、思わせぶりだったり、
正反対のことをどちらにもとれるようには、
伝えないということのようです。
「平成」を「岩戸成る」と「読む」ことに一応のれば、
やはり岩戸自体が成立したというのが基本的な意味合いでしょうから、
その岩戸が「鳴る」、つまり確かに動き出す時期とも読めますね。
>コスモスは、精神宇宙。ユニバースは、物質宇宙。ユニバースを生み出したのは、コスモスだと思います。コスモスの「思い」が、ユニバースを出現させたのだと思います。
何とも美しい表現です。
言葉は音であり、カタチなので、ものすごく重要なわけです。
だから本来「文学」というのは、
ほとんど人間にはそれしかいらないのではないかというくらい、
大事なものだと私は思っています。
古代からいかに言葉、文字が大きな意味を持っていたか。
日本のカタカムナ、つまり言霊にしても、
48音すべてに神が宿っているというくらいですから、
神を根本のエネルギーのバリエーションと言ってもいいですが、
私たちは言葉を発するたびに神あるいはエネルギーを発しているわけで、
そしてそれに見合った現実を創り出しています。
ちょっと話がずれました。
要するに、言葉の表現は大事です。
思考も言葉です。
否定的な言葉にはあまり美しさは感じられませんね。
そして美しさは力を持ちます。
>神話は、多次元的な解釈が可能な物語のようですから、「岩戸」の奥に隠れた存在を、この考察では、直霊、つまり本心、「真の自分」と考えて見ました。(もちろん、神々も、大いに関与されると思います。視点を変えれば、「真の自分」も神々の一柱でいらっしゃいますから。)
>結論から言えば、「真の自分」は、「地上の自分」の自由意志をある枠組みの中で認めて導きますから、その枠は、「真の自分」のビジョンから離れた自由意志の行使もある限度内で認めていて、それが「岩戸閉め」に該当すると思います。
>また、「岩戸」に隠れた「真の自分」は、「岩戸」の奥では、どこまでも不自由かといえばそうではなくて、守護の神霊(守護神、守護霊、副守護霊)たちと毎日24時間密接に連絡を取り合いながら「地上の自分」を見守り、支え、導いていると思います。
ここの部分は、それだけで大著になるテーマを含んでいますね。
岩戸にまつわる神話もフラクタルに私たちの日常につながっています。
そして相似象の連関をつなぐ神々の存在というものは、
それこそ古今東西の文献に表わされているとおりです。
問題はそうした物語の中身、内容ですね。
一文献の物語が世界を封じ込める力を持つこともあるわけですから。
私たちはひとりひとりが目を開いて、
今、目の前にあるテキストをよく読んで、
偽教師の解釈に気をつけながら解読していかなければなりません。
目の前にあるテキストとは何か?
みんなで話し合っていきましょう。
西塚
西塚裕一様
ご返事、ありがとうございます。
『本来「文学」というのは、/ほとんど人間にはそれしかいらないのではないかというくらい、大事なものだと私は思っています。』
私の師である岩根先生の御著書は、『自分の発見』においても『人間やりなおし』においても『暗号は解読された 般若心経 改訂版』においても『未完成だった般若心経』においても、極めて論理的に記述されています。
大学院まで物理を学ばれて、その過程で数理論理学も学ばれておられますから、必然的に論理的な記述になるのだと思います。
ここから『自分の発見』全6分冊の中に記述された師のお言葉を、私の記憶に頼って(つまり、すぐに該当する師の文章をそのまま引用できないので、私の記憶に頼った表現で)引用します。
「行」が、進むと、情緒性が、論理性を超える日がやってくる。
そこでは、理屈は、いりません。
情緒的判断が、論理性を超えた的確さで、その場を納めるために働きます。
そのような内容の記述が、『自分の発見』の中にあります。
今回の投稿文の最初に引用した、西塚さんのお言葉を拝読した時に、私は、岩根先生の、お言葉を、記憶の中で思い浮かべました。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
この世の現われは振動、響き、みたいなものからスタートしてますからね。
早い話が言葉です。響きの形が文字です。
この世のことを考えるということは、
ことごとく言葉に絡むことと言っていいのではないでしょうか。
そして、言葉を発する大もとには思いがあります。
言葉をさんざん浪費、空費した先に行き着くのは、
やはり思いへの思いです。
その思いを今、見つめなおそうとしている人たちが増えているのではないでしょうか。
なのに、まだ言葉に対して資本主義的に大量生産大量消費することでしか、
わからない、アプローチできない人たちがいます。
言葉と思いのリンクに気がつけないのだと思います。
でも、この世の現われは人の思いであり、意識なのですから、
この世の変容もまず言葉に現われてくるでしょう。
言葉もこれから大きく分かれていくと思います。
ひとつの方向は好本さんがおっしゃるように、
間違いなく岩根和郎氏の方向ですね。
西塚
西塚裕一様
師の方向性を、評価してくださいまして、ありがとうございます。
ところで、『早い話が言葉です』という文章から、情緒性と絡めて「話」を展開するイメージが湧きました。
私は、「話」は、「早い話」が好きです。そして、私は、「言葉」が好きです。
情緒性が、論理性を超えるということについて、まず、思うのは、(これも、「早い話」についての話です)意識が、ビジョンを実践するに当たって、最初は、そのビジョンの論理構造を把握し、納得する、というプロセスが不可欠だと思います。
実践の現場においては、論理構造のフィードバックは、後回しになり、ビジョンの論理構造が放つエネルギーを、それについて納得した「思い」が、そのエネルギーを、納得した度合いにおいて体現して動いていくことになると思います。
行動の結果を検証するに当たっては、その結果を、論理構造の特定の位置に当てはめて、その前後関係から、結果についての検証が可能になると思います。
「情緒性」を、他の言葉に(ある角度から)置き換えると、「納得した度合いにおいて体現したエネルギー」になると思います。
般若心経は、師の解釈によれば、たった262文字の中に、宇宙と人間の本質が語られ、その本質を体現する「無の修行」のアウトラインも語られ、衆生救済の原理と方法論まで語られているそうですから、たった262文字で、これほど「早い話」を展開した経典は、世界に類がないのでは、と思います。
そこには、凝縮された「論理性」があります。
「早い話」を展開するに当たって、凝縮された「論理性」は、大いに役立つと思います。
それは、情緒にも似て、凝縮された「論理性」にも無駄な理屈はなく、ビジョンの論理構造のエッセンスが輝いていると思います。
宇宙の存在は、それぞれ、ひとつの構造体を形成していると思います。その構造体は、とてもシンプルに表現できると思いますし、また逆に、精緻に記述すれば、複雑な構造を開示すると思います。
シンプルなビジョンが、複数の事態に対応できるとすれば、そのシンプルさの中に、複数の事態に対応できる、複雑な構造が内蔵されているからだと思います。
特定の事態に、特定の対応構造を、とっさに選択するのは、洗練された情緒性だと思います。
「シンプルさ」と「複雑な構造」をつなぐのは、実践で、その行動においては「シンプルさ」が威力を発揮し、その結果のフィードバックにおいては「複雑な構造」を土台にした分析が功を奏し、そこからは、新たな「シンプルさ」が生まれてくると思います。
人生は、複雑だと思います。しかし、その枝葉を体験していくと、いつの間にか、太い幹を味わい、楽しみ、ついには根っこにまで、体現的に思いが融合していくのではないかと思います。(そのためには、そうする、という思いの発動が不可欠だと思いますが)。ですから、人生体験を積み重ねていけば、もたつく私の足取りも、いつかはシンプルになるのかなあ、と希望を持って今を旅したいと思います。
たとえスッキリしなくても、「もたつき具合」がシンプルになるだけでも、かなりエネルギーのロスは抑えられるのでは、と思います。
般若心経解釈で説かれる《実在》の世界は、ある意味、すべてのことが根本からスッキリした世界だと思います。そして地上の「非実在」の世界は、ある角度から見れば、いろんなことがもたついている世界だと思います。
「非実在」の世界は、諸行無常で、もたついていますから、苦の世界でもあります。観音様が、《実在》の世界から、「非実在」の世界を全肯定しておられるのは、早い話、苦を超える楽しさを地上にプレゼントしておられる、ということだと思います。
進化のプロセスには、個人ごとに、様ざまな課題があると思います。ひとつの課題を、取り残しなくクリアすれば、次の課題に進めます。私は、「早い話」も好きですが、「話」を早く終わらせる、ということにも深い関心を持っています。ここで、「進化のための課題」を、「話」という言葉に置き換えます。もたつく歩みでないと先へ進めない私は、いつも、進化のプロセスにおける、そのつどの「話」を(取り残しなく)早く終わらせるには、どうしたらいいのかと考えています。そのためには、「思い」の持ち方を工夫する必要があります。
五目舎では、『言葉と思いのリンク』に、様ざまな角度から気づきをもたらすメッセージが発信されていると思います。これからも、よろしくお願い致します。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
>進化のプロセスには、個人ごとに、様ざまな課題があると思います。ひとつの課題を、取り残しなくクリアすれば、次の課題に進めます。(中略)もたつく歩みでないと先へ進めない私は、いつも、進化のプロセスにおける、そのつどの「話」を(取り残しなく)早く終わらせるには、どうしたらいいのかと考えています。そのためには、「思い」の持ち方を工夫する必要があります。
そうですね。
これまでは、各自の課題のクリアシステム(輪廻転生)のようなものがあったようですが、
ここにきてそのシステムが通用しなくなった可能性があるようです。
通用しなくなったという意味は、
さらに上位の大きなシステムの変換・転換に入っているようだからです。
ご存じのように、『盤』ではそのシステムの検証・考察と、
では、どうするのか?ということを探究・論議する場です。
いずれにしろ、あまり(物理的な)時間はないようですね。
「そのつどの「話」を(取り残しなく)早く終わらせるには」、
「視点・視座」の転換もひとつの方法ですね。
世界は基本的にフラクタル・相似象なので、
現実世界、それも日常生活のどんなレベルのことでも、
深く洞察していけばどこまでも深く入り込んでいけます。
そのため、現実的には立ち止まってる感に苛まれることもありますね。
ときにはある意味、枠を広げて、
同心円的な環のひとつでもふたつでも外側の枠で考察すると、
意外な解答が自動的に内側の環へともたらされるときもあります。
「もたつく」ということであれば、
私などはその最たる者ですが、
要は何に対してもたついてるかですね。
もたついておらず、
さっそうとした行動力を見せているような人でも、
実は同じ環の中をグルグル回ってるだけという場合もあります。
前人未踏のジャングルや、
大きな川の流れの中を進むときなどは、
もたつくほうが当たり前です。
足腰の強さや体力があるからもたつけるのであって、
何よりもたどりつこうとする目的地、
あるいは情熱があるということです。
じゃなきゃ、迷子になって果てるか、
川に流されるかしてしまうでしょう。
私なんかその可能性は大ですね(笑)。
でも、ジャングルの向こうの世界とか、
いくつもの川を越えた先の世界に行きたいと思う人がいるわけです。
航行距離をちょろまかしてスペイン王宮の承諾をようやく得た、
コロンブスのように。
話がずれましたが、
ちなみにゼランドの言を引けば、
やることがたくさんあってどこから手をつけていいかわからないというときは、
基本的に着手する順番に優先順位がないなら、
手当たり次第にこなせばいいということです。
最後の最後まで、
人間の考える効率とか合理性というものは、
非効率であり、不合理であることがほとんどのようです。
最後まで最短で目的地にたどりつかせてくれるものは、
真の情熱、思いでしかないとやはり私は思います。
そして、そういうことについて「効率」よく、
「合理的」に書かれた文献があるということですね。
>五目舎では、『言葉と思いのリンク』に、様ざまな角度から気づきをもたらすメッセージが発信されていると思います。これからも、よろしくお願い致します。
過分なるお言葉、おそれいります。
こちらこそ、よろしくお願いします。
西塚