『宗任問答』や『おやすぴ』のアップが遅れているというか、新しい収録がまだできていない。それでも、『宗任問答』の最新版は収録してあるので、今晩遅くか明日にはアップできるかもしれない。
『おやすぴ』のほうも早く収録しなければならない。何てったって世の中動いているから、収録が終了したそばから世界の状況が激変したりする。だから早いアップが望ましいのだが…何とも悩ましいところだ。
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ちょっと前に『言葉の力 1 』として書いたブログがあったことを思い出し、しかも「続く」としていたはずだからってんでその記事を見返したら、何だか冒頭は雨の話だったが、今も外は久しぶりの雨が降っている。
昨日に比べていきなり寒暖差があるわけだが、Yahoo の通知でもそんなことを知らせてくれる。別にどうでもいいことでブブーとくるので、どことなくうざくもあるのだが、ときには、まあ適当に言えば 20 回に一回くらいは、お!と思うこともあるから、これはこれでいいのだ。
何か、またつまらないことを言ってるが、『宗任問答』でもテーマはいつも何もないので、ヘラヘラと私が四方山話をはじめながら、成り行きで「問・答」を繰り返していくということになる。
そもそも問答とはそういうものだろうが、ってこれも以前に書いた気がするが、ソクラテスに言わせると、というか正確に言えばプラトンに言わせると、問答はお互いがお互いの中に「知」を見つけていこうという愛ある行為のことだ、みたいなことだ。だからこそその行為を「愛知」と呼び、つまりフィロソフィーなのである。
ソクラテスは本を書いてないから、というか本を書くということ自体が間違っているというようなことすら言ってたらしいが、プラトンやその他の人が書き残しているものから類推するしかないが、それでもソクラテスが片っ端から議論していたらしいことはわかる。
あげくの果ての「ダイモニオン」というか、要するに人間ばかりではなく「神」のような存在とも問答していたようだ。と言っても、じっと立ち止まって耳を傾けていただけのようだから、何かを一方的に聞いていたのだろうか。
それもたいがいは「警告」のようなことで、何々をしてはいけない、ということだったらしい。どうもソクラテスはそうしたダイモニオンに忠実だったようで、確か毒と知ってて毒を飲んだのも、ダイモニオンが止めなかったからみたいなことを言ってなかったっけ?
ちなみにダイモニオンと言っても悪魔とかじゃなく、土俗の神みたいなものだ。デーモンが悪魔になったのはキリスト教が普及してからだ。キリスト教にしてみれば異教の神はみな悪魔だろう。
いずれにしろ、私的にはソクラテスはすごいヤツだったと言うと怒られそうだが(プラトンに)、だって神が止めないことはきっといいことなのだとばかりに死んで見せるわけだからね。
やはりデルポイの神殿でソクラテスほど賢い者はいないと言われるだけのことはある。
言わずと知れた「無知の知」ってヤツだが、ソクラテス本人でさえ、んなわけねーだろと信じず、賢人と言われる連中とこれまた片っ端から議論するわけだが、みんながみんな知らないことなどひとつもないとばかりに、あーだこーだとまくし立てる。みんながだ。
で、ソクラテスはああそうかと。
私は自分が知らないということを知っているが、こいつらはどうやら自分が何も知らないということを実は知らないんじゃないかとわかった。でも、私は知っている。そのぶんだけ自分はこいつらよりは賢いというわけだ。さすが神様だなあと。
しかし、当時は賢人と言ってもソフィストと言われる連中ばかりで、議論のための議論の技術に長け、ディベートで政敵を負かしたり、民衆にアジって人気を得たりっていうことを教える詭弁家みたいのばかりだったわけだから、まあ最初から話にならないとも言える。だって、ソクラテスは本気モードの哲学者だったのだから。
つまり、「言葉」と言っても、ソフィストのようにそれこそ口先だけというか、「 1 + 1 = 2 」だから「 2 = 1 + 1 」のような表層的な論理だけでは、ものごとの本質にはたどり着けないだろう。
というか、そういう人たちはおそらくたどり着く必要がないのだ。実際、ソフィストたちの目的はお金だけだった。
ちなみに「 1 + 1 = 2 」だけど、「 2 = 1 + 1 」じゃないからね。
これは、私は地元の居酒屋のオヤジに教わった。
まだ今のところに越してきて間もないころ、私は毎日のように酒場めぐりをしていたが、あるキッタネー居酒屋が目に留まったので入ってみると、星一徹のような強面のオヤジがどこか色っぽい女将を従えて店をやっていた。
刺身を注文すると、昔は魚屋をやっていたというオヤジは、ざくざくっと切った刺身を皿に山盛りに乗せて持ってきた。
何だかうれくなった私はオヤジと意気投合し、ばかばかと熱燗を飲んでいた。オヤジは不良の息子をぶっ飛ばした話なんかをしてくる。
オヤジ だからよお、俺は言ったんだよ、ヤツに。殴るなら殴れと。でも、ヤツはこんなよ(体がデカイというジェスチャー)。
西 へえ。
オヤジ したら、バチーッ!って(自分の手のひらを殴る)。
西 おお!
オヤジ 俺は 5 メーターくらい吹っ飛んだね。
西 ああ…(5 メートルは大げさだろ)
オヤジ 俺は起き上がってって、ヤツにツラ出して、ほれ、殴ってみなって。
西 ほお…
オヤジ したら、下向いたまんま黙ってやがんのよ。やっぱりオヤジは殴れねえって。だからよお、何だもう殴らねえのか、じゃあ、今度は俺が殴るって、河原の石でボコボコに殴ったのよ(そう言えば、河原でのことだった)。したら、ヤツは血だらけで…
ってな話をしている中で言ったのだ。
オヤジ あのよお、1 足す 1 は 2 だけどよ、2 は 1 足す 1 じゃねーからな。
西 いや、そうでしょ。
オヤジ 違うんだよ!
西 いや、そうでしょ、だって……
って考えて、私はハッとしたわけだ。ホントだ。オヤジの言うとおりだと。1 足す 1 は必ず 2 だが、2 は 1 足す 1 とは限らない。等式がどうしたとかいうことではなく、オヤジの言ってる意味はわかった。
私は腕組みをしてうなってしまったが、その後も気に入って店には何回か通ったが、いつの間にかなくなっていた。
そりゃそうだろ、いつも山盛りの刺身を出して、酒飲んで息巻いてんだからさあ…
*
また話が飛んだ。何だっけ。ソフィストだ。言葉だ。
だから、「初めに言葉ありき」だとしても、その言葉自体が空疎だったり、さらに空疎な言葉だけをつないで空疎な論理を紡いでいったとしても、空疎な世界しか創り出せない。
世界は「言葉」から発したが、その言葉になる「思い」というか「意図」のようなものが先にあるはずだ。その「思い」や「意図」が、「無」の中からある「響き」というか「波紋」のようなものを創り出し、それが「音」として「言葉」になる。
だから、出てきた「言葉」といっても最初は「響き」や「音」、つまり「振動」や「波動」みたいなもので、後からその「振動」や「波動」に「概念」が付いて、いわゆる「言葉」になる。
私たちは、後からくっ付いてきた「概念」でもって「言葉」を「言葉」としてとらえているが、それは本来は「響き」だったり「振動」「波動」であり、もっと言えば、最初はその存在の「思い」や「意図」のようなものが先にあるのである。
だから、後から作り出された「概念」だけで「言葉」をとらえていくと、ソフィストたちのようなことになり、ましてやそもそもの「思い」や「意図」のことがわからないソフィストたちに教わった政治家などに、まともな政治ができるわけがない。
だからこそ、ソクラテスは徹底的にソフィストたちに嫌われたし、プラトンもソフィストたちを徹底的に嫌ったのである。
ちなみに国常立大神(くにとこたちのおおかみ)系の神示に出てくる「あやま知」は、私に言わせればこうしたソフィスト系のヤツらの知のことであり、国常立大神はソクラテスもイエスも「あやま知」によって殺されたと言うわけだ。
だから、「言葉」は大事だが、先にある「思い」や「意図」のようなものは一番大事なのだと私は思う。
マザー・テレサの有名な言葉にもあったでしょ。
思考に気をつけなさい。
それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。
それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。
それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。
それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。
それはいつか運命になるから。
「初めに言葉ありき」という言葉は、言葉が「世界」を創っていくということを伝えているのである。
Commentコメント
西塚裕一様
(今回の考察は、『神秘へ』にも跨がっています。)
『大きな変化が、今、人類に起きはじめている』
私も、そう思います。私の場合、師のビジョンにふれて、そう思っているのですが。
その大きな変化の波に乗って、今ここを旅する。
大きな変化は、自分の心の中で、その深みにおいて起きている。
ということは、人類、一人ひとりの心の中で起きている。
その多様な変化が、複雑に組み合わされて、地上に投影されて、地球各地の現象になっている。
つまり、どれほど大きな物質的変化であろうとも、それを引き起こす要因は、心にあると思います。
そこで、立ち返るところは、常に、自分の歩み、自分の心。正直なところ、それすら、どこまで的確に把握しているのか、という課題も残ります。
その、自分の心の中の変化を、どのように読み取るのか。
私の場合、その手がかりは『人間やりなおし』ですが、それぞれの皆様が、固有のご縁でつながったテキストを手がかりに、自分の心の中の変化を、読み取っておられると思います。
人間やりなおし、とは、人間を、「一(いち)」からやりなおすこと。
「一」とは、自分の「位置」のことです。心の位置です。
つまり、人間を、「心の位置」から、やりなおす。
その位置には、二つあります。
A 宇宙の源から、天命を与えられて、その源のエッセンスは、そのまま引き継いで、そこから離れて、天命を果たす旅を展開している自分、という位置。
B 宇宙の源のエッセンスをそのまま引き継いだことを忘れて、諸行無常の世界で、「力の論理」で生きている肉体人間としての自分、という位置。
師のビジョンを踏まえてAを書き、私個人の旅を念頭に置いてBを書きました。
内観する際には、この二つの「自分」の位置づけは、決定的に重要です。Bの世界だけで内観していたら、袋小路から抜け出せなくなります。
しかし、宇宙における、自分の位置、その本質的な出発点は、Aですが、肉体界において今を旅している以上、徹頭徹尾、Bから出発し、その旅の全行程において、Aを仰ぎ見る姿勢が袋小路からの脱出を可能にすると思います。
A&Bをシンプルに表現し直すと、守護の神霊の御指導をいただいて、今を旅するということです。私個人の受けとめ方ですが、その守護の神霊が、真の守護の神霊であるならば、自分に帰依する個人を、「Bの自分」のありようを尊重しながら、「Aの自分」に一体化させる方向で導いてくださると思います。
大きな変化の波に乗るには、自分の心の中に起きている変化を、宇宙的な視野の中に位置づける読み取りが必要だと思います。
大きな変化自体、宇宙の運行に促されて起こっていると思われますし、その変化を起こしている宇宙的な視野の中に自分を位置づけることで、大きな変化の動きと自分の心がシンクロナイズして、その変化の波に乗りやすくなると思います。
大きな変化の中を旅することは、たとえて言えば、未踏の山に登るようなもので、登山中は、地図で、自分の立ち位置を確認する営みは不可欠だと思います。
地図に相当するのがテキストになりますから、細心の注意を払ってテキストを選ぶ必要があります。
今、どこにいるのか?
これから、どこに向かうのか?
テキストに示されたビジョンの中で、それらの自問に対して、自答する形で、旅を進める「思い」をプログラムする必要があると思います。
その旅においては、取り組み手の、真剣さ、心の柔軟さ、未踏の旅の体験を分かち合う心、そして、取り組み方を解説したテキストの精確さ、またそこに示された、個々の歩みを先取りして導く用意周到さが、変化の波に乗れる度合いを決定すると思います。
『だから、「言葉」は大事だが、先にある「思い」や「意図」のようなものは一番大事なのだと私は思う。』
内観とは、意識の表面に現れる「言葉」を手がかりに、その「言葉」を生み出す元となる「思い」や「意図」に心の眼を向けて、そこに、思い込みはないか、宇宙の運行とのズレはないか、本心(Aの自分)との隔たりはないかをフィードバックしながら、自分の立ち位置を確認し、それを手がかりにして「思い」をプログラムし直す営みだと思います。
構造的に言えば、まず、本心の「思い」や「意図」があります。
本心は、それを、顕在意識に投影します。その過程で、潜在意識の(複数の)「思い」や「意図」を活用します。
そこには、「玉石」が「混交」されています。
ここで、「思い」や「意図」の「責任者」を規定します。地上レベルの責任者は、顕在意識。宇宙レベルでの責任者は、本心。
本心によるすべての指導は、顕在意識の旅を、本質レベルで安定させ、創造的な自由度を拡大させます。
宇宙の責任者は、潜在意識から情報をアップロードするに当たって、地上の責任者に向かって、『この「石」を自分で拒否し、この「玉」を自分で受け入れて、あなたの創造的自由度を、自分で拡大しなさい』と指導します。
「玉」であろうと「石」であろうと、すべては、あなたが形成したものなのだから、自分で決着をつけなさい、ということで。
しかし、そのアップロードされた内容は、地上の責任者の、今現在の課題と、そして指導を受け入れる許容度を考慮して、本心と守護の神霊によって編集されています。(師のビジョンを、未熟なレベルで実践し、フィードバックの中で生まれた実感に基ずく類推です。)
こうして、「石」の情報も、アップロードされますが、それは、本心が、ある枠の中で「石」の働きを認めているためです。
「石」の思いは、昇華を拒否し、変化することを拒否し、今のままでいることを求めているため、地上の責任者の眼差しを、「玉」の情報から逸らし、自分の思いを受け入れることを意図したフェイクを展開します。
自分が、どこまで的確に、宇宙的な視野の中に、自分を位置づけているのか、ということを判断する指標のひとつは、毎日の暮らしの中でジタバタ・アタフタする度合いが大きいか、小さいかで判断できると思います。
もちろん、創造的な取り組みの進展具合も、重要な判断材料です。
過去生からのものも含めて、自分の「思い」が、その蓄積されたものが、昇華を求めて、自分の暮らしの中に投影されると思います。
宇宙的な視野の中に、自分を位置づけていると、(未踏の山の、どこを、今登っているのかを確認すると)今、必要な「思い」をプログラムするに当たって、確実に、そして効率よく前に進める「思い」をプログラムできると思います。
(現在地点の確認がズレていると、前に進むために組み立てる「思い」もズレたものになります。)
その投影には、もちろん守護の神霊の皆様が関与しておられて、多層宇宙から、皆様が担当しておられる個人に向けて、独自のご配慮を展開しておられると思います。
大きな変化というものは、潜在意識に、複数存在する、それまでの旅の(ポジティブな、あるいはネガティブな)成果が、大きなうねりをもって昇華されるプロセスであって、その昇華されたものは、顕在意識が受けとめる(バージョン・アップされた、未来へ進むための)指針になります。
これまでにない変化の中を旅していると、これまでにない潜在意識の昇華が起こり、潜在意識から顕在意識にアップロードされる情報も、これまでにない(個人向けに組み立てられた独自の)質を持つので、それを的確に顕在意識に収納するには、これまでにない意識の内圧の克服が求められると思います。
と、いうことは、玉石混交の潜在意識からアップロードされる情報には、これまでにないほど「玉」と「石」が混交しているので、極めて慎重に「玉」を選び、「石」を退ける内観が必要になります。
要するに、昇華されたくない「石」は、自分の居場所を確保するために、顕在意識にフェイクをかける働きかけを、これまでにないレベルで展開すると思います。
「玉」をいただいて確実に前に進むために、あるいは「石」のフェイクを見抜いて確実に前に進むために、(様ざまな角度から検証された)指針を、毎日の暮らしで実践し、顕在意識にしっくり馴染ませる必要があります。
しっくり馴染んだ指針は、改めて潜在意識に送り返され、新しい昇華を待つ、複数の「成果」とブレンドされて新しいアップロードのプロセスに入ります。
これまでにない変化は、待ったなしで進みますから、アップロードされた指針を、的確に受けとめ損ねると、そこで直面するフィードバックは、「待ったなしの流れ」の中でのフィードバックになります。
それなりに「踏ん張る」必要が出てくるのではないでしょうか。
もちろん、無事にフィードバックできるように守護の神霊の皆様が毎日24時間ご指導くださっておられると思います。
こうして、顕在意識は、日々、内観を怠らずに、バージョン・アップされた、未来へ進むための指針を、新しい気づきとして、しっかり受けとめて旅を進めます。
西塚さんが、ソクラテスに言及された文章は、内観を励ます、素晴らしいエールのように感じました。
西塚さんの文章を通して、私は、ソクラテスに対する敬愛の念が深まりました。
「汝自身を知れ」というソクラテスに対して、
私は、(お粗末ながら)17歳の時に、本当の自分と一体になって、真の人生のスタートラインに立ちたいと思いましたから。
そして、その探究を継続して、47歳の時に、『自分の発見』という著書をお持ちの師にめぐり逢いましたから。
私の問題点は、ジタバタ・アタフタするという、抜き難い性格をしていることです。
私が前に進もうとしたら、性格上、それは必然的にジタバタ・アタフタした歩みになります。
それは、64歳の今も、残念ながら、まったく変わりません。
(トホホ、という意味も込めて)筋金入りです。
これも、私の「心の現在位置」の確認のひとつです。
なので、毎日、どれほどジタバタ・アタフタしても、私としては、それをとことん楽しむのみです。
内観には、自分のダークサイドを直視する苦しみも伴いますが、徹頭徹尾、明るくやってこそ内観だと思います。
そのダークサイドから、決して自己正当化によって逃げないで(実際には、よく逃げますので、逃げたらアカン!、とジタバタしながら踏ん張っています)、それを直視し、守護の神霊の御指導をいただいてそのダークサイドを突き抜けて本心に到達するのが内観だと思います。
ソクラテスが指摘する「汝自身」は、私のアタマによる理解では(つまり体現が伴っていない理解では)、多層的に、360度の方向に、明るく光り輝いている存在だと思います。
内観の最終目的は、その「汝自身」を見つめて、そこに一体化することにあると思います。
これを楽しむために私は地球に来たのかなあ、と思います。
「これ」とは、もちろん「ジタバタ・アタフタ」です。
それなら、大いに納得いくなあ、と思います。なぜなら、毎日直面しているからです。
どうしても避けられないものは、しっかりと受けとめて、乗り越えるのみです。
なので、今日も、明るく、元気に、さわやかにいってみたいと思います。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
>A&Bをシンプルに表現し直すと、守護の神霊の御指導をいただいて、今を旅するということです。私個人の受けとめ方ですが、その守護の神霊が、真の守護の神霊であるならば、自分に帰依する個人を、「Bの自分」のありようを尊重しながら、「Aの自分」に一体化させる方向で導いてくださると思います。
守護霊、守護神、守護天使などなどいろいろな呼び方がありますが、
いずれにしても自分の発するものと同調する存在のようですね。
このあたりの話も、古代よりかなり重要なこととして伝わってます。
むしろ今は、そうしたことを迷信、オカルトとしてないがしろにされているからこそ、
世の中がおかしくなっているとも言えます。
私に言わせれば、唯物論や不可知論、
あるいは現実主義という名の思考停止など、
何かしらのイデオロギーを教条主義的に盲信した結果だと思います。
古代の賢人でも宗教教団の教祖でもセミナーの先生でも、
自分が信奉する人物が寄って立っているところくらいはわかってないと、
まずは話になりません。
それがわかって初めて自分に取り入れることもでき、
その後の検証なり、行動を起こせるわけですから。
>私の問題点は、ジタバタ・アタフタするという、抜き難い性格をしていることです。
いいのではないでしょうか。
みな、それぞれにアタフタしてるはずです。
むしろ、ジタバタ・アタフタしたくないからとあらかじめ計算し、
前もって想定内に納まるような行動しかしないということは、
ある意味で体験を拒否していることにもなります。
まあ、いくら人間の理性の範囲内で想定しても、
想定外のことが起きるのが普通であり、
頭が真っ白になるくらいの体験・経験がないと、
人間は進歩も進化もしないと思います。
予想の範囲内でしか行動を起こさない人は、
勇気が欠如しているのであり、
さらに言えば臆病ということです。
臆病は字を見ればわかるように病気です。
つまり、普通ではない状態とも言えます。
普通はアタフタ・ジタバタしても、
未知なる領域へと進みたくなると思うのですが・・・
私はそうした人間の「情熱」のようなものを愛します。
「理性」が自分の「理性」を信奉している様は、
まあ、何と言うか、
美しくはないですし、
退屈ですね。
西塚