フィリピンのドゥテルテ大統領が「神をバカ者呼ばわりした」とかで物議をかもしている。
AFP の日本語版の記事によると、ドゥテルテは 22 日のスピーチで旧約聖書のアダムとイブの楽園追放の話を疑問視し、「このバカな神は何者なのか。完璧なものを創造しておきながら、自らの創造物を誘惑し、その品性をぶち壊す出来事を思いつくとは」と話したという。
BBC の記事で実際の発言を調べると、
Asking " Who is this stupid God ? ", Mr Duterte criticised the Biblical story of creation and Adam and Eve being thrown out of the Garden of Eden after they ate the " forbidden fruit ".
" You created something perfect and then you think of an event that would tempt and destroy the quality of your work, " he said.
とのことらしいから、たしかにそう言ったのだろう。
そして「原罪」に関しても、
The president also slammed the concept of original sin ‐ whereby all humans are tainted by Adam and Eve's wrongdoing ‐ saying:" You weren't born yet, but now you have original sin. " " What kind of religion is that ? I can't accept it. "
要するに、アダムとイブの悪事をすべての人間が背負っているといった考えに疑義を呈しているというか酷評し、「そんときゃあ、俺たちはまだ生まれてもいなかったんだぜ。なのに今、原罪を背負ってるわけだ。どんな宗教だ、そりゃ? 俺は認めないね」ってな感じだろう。
何たって数々の暴言で知られるドゥテルテだけに、それくらいのことは言いそうだが、ことは宗教であり、しかも旧約聖書の「神」だ。
フィリピンはいわばカトリックの国だろ? 当然、猛反発を食らうわな。
てか、「楽園追放」や「原罪」といったテーマは、その内容や矛盾に関してもいまだに神学上の大問題なのである。
だから、疑義を呈すること自体はまったく問題ないというか、一応、一国の、それもカトリックの国の大統領の発言なので、世界的にも注目され、論議の的になってもおかしくないはずの発言であり、むしろ聖書とは何か、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教とは何かを考えるよい機会だとも言える。
でも、言い方ってものがある。
どんなに配慮した言い方であっても、相当な反発が予想されるテーマだけに、慎重に慎重に、完全な哲学的なテーマとして扱わなければならない。
また、そうした資質というか、ある種の教養すらも求められるところだろう。
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その後の非難を受けて、政府側は 26 日、第三者委員会を設置し、政府と教会側との確執を緩和すると発表したが、一度口から飛び出たことは取り消せない。信頼回復というか、狂信的な人たちを納得させることは、おそらくできないだろう。
ドゥテルテの疑義の提示は、個人的にはいいチャンスだと思う。
この世の大きな大きなワザワイのひとつは、宗教絡みだ。
だから、世界のよきエスタブリッシュメントたちが一堂に会し、それぞれの信じる宗教的なフレームを一時超えて、冷静に知的に宗教というものについて論議するという場は常に求められているはずだ。
今回のドゥテルテ大統領の発言も、そうした方向へ向かうきっかけになることを心の底から望む。
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しかし、ドゥテルテ大統領と言えば、2016 年に来日してフィリピンに帰国した先の南部ダバオ空港で、記者団に「神のお告げがあった」と語り、もう暴言はやめると宣言したことでも話題になったはずだ。
何でも、訪日日程を終えて、「帰りの機内で空を眺めていたら『口汚い言葉をやめないと飛行機を落とすぞ』と聞こえた。誰かと思ったら神だった」(当時の日経の記事)とのことで、だから「悪態はつかないと約束した。神への誓いはフィリピン国民への誓いだ」と語ったのである。
それまでは、オバマ大統領に「売春婦の息子」だ「地獄へ行け」だのとののしるなど、過激な発言を繰り返していたドゥテルテだが、どういうわけか日本に来た後、「神のお告げ」を聞き、これまでの所業をあらためる気になったというのだ。
ところがここにきて、言うに事欠いて「神」をののしった。
いや、正確に言えば、旧約聖書の「創世記」第 2 章に出てくる「神」を「 stupid 」と評したわけだ。
日本を飛び立った後、ドゥテルテを諭した「神」がどういう神かはわからないが、少なくともドゥテルテはその神の言うことには従おうと思い、「創世記」第 2 章の「神」に関しては「 stupid 」と評した。
しかし 2016 年 の時点では、どういう神かはわからないにせよ、少なくともその神に対しては「悪態はつかないと約束した」わけであり、しかも「神への誓いはフィリピン国民への誓いだ」とまで言ったのだから、せめてその後も言葉遣いくらいは気をつけるべきだろう。
私のように特定の宗教を持たない者にとっても、ドゥテルテの発言は配慮に欠けると思われる。ましてやカトリック信者にしてみれば……
ドゥテルテは麻薬撲滅として、何千人もの人間を公然と殺害してきた人物だ。
狂信的なカトリック関係者、あるいは敬虔な信仰を持つ者ですら、「神への冒涜」としてドゥテルテに制裁を加えることには、おそらく何の痛痒も感じないだろう。
この失言は、はっきり失言と言っていいと思うが、小さい問題ではなくなる可能性もある。世界には、どんな「ネタ」でも利用して、自分たちのアジェンダを実現しようとする存在がいるものだ。
ともかくクドイようだが、今回のドゥテルテの発言は、「哲学的」なテーマとして拡大させたほうがいい。世界の頭脳を集めて、「国際宗教シンポジウム」みたいなものを開催する方向へ進ませればいいのだ。
ドゥテルテの意図はわからないが、ぜひ、その第三者委員会とやらを国際的委員会にまで発展させ、宗教のみならず、「知の探究」のグローバル化を模索してほしい。
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宗教絡みではなくても、世にはネガティブな「予言/預言」が流布している。
インターネットや SNS の普及により、それまでのマスコミからの一方通行の情報に比べれば、はるかに多くの情報が手に入るようになった。
しかし反面、かつてのマスコミとは違った形で、バイアスのかかった情報が格段に速いスピードで拡散するようにもなった。
私たちは、普段の生活においてかなりの量の情報に晒されている。
ひとつひとつの影響は少ないかもしれないが、そのつど小さく一喜一憂しながら生きている。
ある仮説によれば、小さな「一喜」は次の「一喜」を呼び、小さくても「一憂」は次なる「一憂」を呼び込む。
その人の基本的な思考の方向が変わらなければ、その一喜一憂の「振れ幅」にもそう大した変化はないだろう。
しかし、とてつもなく計算高く忍耐強い存在が、巧妙にネガティブな方向へと人類の多くを誘導しているとすれば、私たちが自分たちの「思考」に普段から無自覚であるということは、そういう存在にとってみれば好都合であろう。
少しずつ少しずつ、私たちの日常における「選択肢」を狭めていき、気がついたときには自分のこれまでの「振れ幅」のみならず、「方向」までが変わってしまっている。
だから、私たちは日常のどんなささやかなことにでも「感性」を働かせなければならない。
別に神経質になるのではなく、ときには自分の「心」や「マインド」を解放し、先入観のない目で見るように意識さえしていればいいのだ。
簡単に言えば、ときどきは頭をカラッぽにして、子どものように素直になる。そして、そのときに心に響いてくるものに耳を傾けるのだ。
そうすれば、自分の抱えている葛藤や、本来の自分の「道」も見えてくる。あとは現実的な行動だけだが、そういうときの行動のみが「現実的」であり、「創造的」なのである。
だから、常に「起きている」ことだ。眠ってはいけない。
眠ったままでいればいるだけ、「悪夢」を見せられる可能性も高くなる。
どんな情報でも、たとえばいやな知らせでも、ネガティブな予言でも、要はどう対処していくかというだけの問題だ。
情報に接したのはしょうがないとして、「で、あんたはどうすんの?」ということなのである。
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人類の未来に対するネガティブな預言のうち、その最たるもののひとつに「エノク預言」があるが、1987 年 2 月、その「エノク預言」をビリー・マイヤーに伝えたプレアデス/プレヤール人と言われるクウェッツァルでさえ、こう語っている。
エノクの預言を告げる前に言っておきたいことがある。すなわち、預言( Prophetien )というものは変更可能であり、人間がその思考、感情および行為を肯定的に変えるならば、よい方向に転換でき、そうした変化がよりよいもの、肯定的で進歩的なものにつながるのである。
預言は常に特定の原因に基づいており、そしてこれらの原因からまた特定の結果が生まれるが、先行する原因が形を変えたならば、これらの結果も常に変わり得る。
だから否定的な預言や邪悪な預言も、先行する原因が目的に沿って肯定的に変化し、そこから否定的なものや邪悪なものに代わって、肯定的なものやよいものが生じるならば、決して実現することはないのである。
なぜならば、預言の実現というものは、いかなる場合もすでにある原因が維持され、あるいはまた将来新たな原因が生み出されることを前提としているからであり、それによって初めて預言は実現し得るのである。
それゆえ地球の人間が理性的になるということを前提とするならば、理性的に思考するようになり、感情が理性的に発達し、同様に理性的に行動することによって、すべてが善に、よりよいもの、肯定的なものに転換する可能性が常にあり、そのため預言が必ず実現するとは限らないのである。
しかしこのような転換が起こらなければ、来るべき新たな千年紀において、非常に邪悪で否定的な時代が地球とその全住民を待ち受けることになるであろう。
(訳:高島康司氏)
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話は変わるが、前回、柄にもなくワールドカップの日本代表についてちょっと書いたが、「日本サッカー協会」のシンボルマークは「八咫烏」(やたがらす)だ。
あの神武天皇、カムヤマトイワレヒコが日向(ひゅうが)から東征したとき、熊野の地で大和(やまと)へ向けて道案内をしたという、あの八咫烏である。
『古事記』によれば、神武天皇=カムヤマトイワレヒコ=狭野命(サヌノミコト)の兄である五瀬命(イツセノミコト)は、瀬戸内海を通って大阪湾、浪速国(なにわのくに)の白肩津(しらかたのつ)へと着いたとき、待ち構えていたナガスネヒコの軍とドンパチすることになり、とうとう命を落とした。
つまり、神武天皇が兄たちと一緒に東征し、兄が敵に大阪で討たれので、神武天皇も兄の仇とばかりナガスネヒコを攻めるのだが、苦戦を強いられる中、八咫烏をはじめ、いろいろと神からのお告げもあって助けられるという話だ。
『古事記』はいろいろと整合性のとれない描写があるが、この神武天皇の東征も実はよくわからない。
しかし、ありがたいことに日本にも古史古伝はいろいろと残されており、神武天皇のこのあたりの話に関しても、『上記』(うえつふみ)を繙けばまったく違う世界が開けてくる。
古代日本の王朝「ウガヤフキアエズ朝」の名は、記紀ではちょこっとしか出てこないが、『上記』にはその詳細が語られている。
そもそも神武天皇の東征も東征ではなく、当時、第71代ウガヤフキアエズ天皇の時代に国内に大災害が立て続けに発生し、国中が大混乱、大飢饉が広がったので、人民たちを救うために天皇たちが立って、日本中に飛んだという話の一部だ。
史実というか調査でも、紀元前4~3世紀にはマグニチュード 9 級の超巨大地震が三陸から房総にかけて起きてることがわかっている。
紀元前後にも南海トラフの巨大地震があったとされる。
初代天皇である神武天皇の即位は紀元前 660 年とされているが、それ以前にも歴史はあるわけで、先の数ある古史古伝にはさまざまなことが書かれている。
いずれにしろ、歴史はことごとく都合のいい側に都合よく改ざんされるものだが、明治維新にせよ、太平洋戦争にせよ、国の大きな節目のときは特にそうだ。
そこに共通していることは、命をかけて国を守ろうとする人たちと、国を侵略しようとする外国勢力と、それに加担する私利私欲に走る売国奴がいるということだ。
そして日本の場合、必ず「天皇」が絡んでくるわけだが、それはもっともっとさかのぼっていけば、どうしても国家などを超えた話にならざるを得なくなり、やはり最後は「存在論」にたどり着くのである。
この6 月18 日、珍しく浪速国・大阪で震度6弱の地震が起こり、その翌日に八咫烏の日本代表は初戦で勝ち星をあげた。
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♪ 三千世界の烏を殺し 主(ぬし)と朝寝がしてみたい ♪
ってな都々逸があったね。
高杉晋作の作だってんだが……あんま色っぽくないやね。
Commentコメント
西塚裕一様
今回、西塚さんの集中力が大いに発揮された記事を拝読させていただき、思いを、あちら、こちらへとめぐらせた感想を一言でまとめると、様ざまな動きが地球的に連動し、地球人類の歩みの「総まとめ」が進行しているという実感でした。
「地球的に連動」ということでは、最近の火山活動も相似形の様相を呈しているようです。
『過去の歴史を通じてキラウエア火山が噴火すると、中南米や日本列島周辺でも火山噴火や大地震が相次いで発生する傾向にある』
http://tocana.jp/2018/06/post_17060_entry.html
『中米で火山活動が連鎖の様相』
https://earthreview.net/series-of-volcano-activities-in-cetral-america-june-2018/
『九州パラオ海嶺、南海トラフ、琉球海溝の3つが重なる宮崎県日南市の沖合の場所へ向けて、改めてこの3つが同時に動き、大きな広い範囲で地球規模の連鎖連動に繋がらないようにという祈り』
http://mirokumusubi.blog115.fc2.com/blog-entry-3377.html
ところで、今、改めて多様な情報に接して、それをどう判断するかについては、
第一に、人間として、今ここを旅する生き方を、宇宙的なスケールで方向づける世界観を探し、発見したら、鋭く検証し、人生を賭けるに値すると判断できたら、毎日の暮らしのすべての営みに、その世界観を応用し、
その世界観を実践的に生きる姿勢を堅持することが、まず、大切だと思います。
それが、「人間」を「一(いち)」から、やりなおすことになります。
「総まとめ」のプロセスを旅するには、スタート地点を見直すことが大切だと思います。
「人間」を「一(いち)」から、やりなおすということは、「人間」をスタート地点から、やりなおすということですが、
多層宇宙における「一(いち)」とは、(多層的なメビウスの視点を導入すると)「スタート地点」であると同時に「最終到達地点」でもあります。
そして今、残された時が少ないのならば、「急がば回れ」という対応が必要だと思います。
「急がば回れ」とは、(一般的な意味とは異なり、私の所見ですが)「一(いち)」から、「人間」をやりなおすことです。
「急ぐのであれば、まず、最終到達地点まで、先回りしなさい」ということで、その先回りを可能にするものは、最終到達地点にすでに到達し、多層宇宙のベクトル群を自在に操れるお方の「指導力」です。
それが、時が逼迫した今という時代状況に、天の祝福として降ろされた「人間やりなおし」のビジョンだと思います。
残された時が少ない今、初心に帰ってスタート地点からやりなおすと同時に、その歩みに「最終到達地点」を投影し、今ここにおいて未来を生きる旅を展開することが「急がば回れ」ということになります。
達成すれば、「時を超えた世界」に入ります。そのために費やした、すべての紆余曲折の時間は、ことごとく「時を超えた世界」の中に「回収」され、あらゆる紆余曲折は祝福のうちに解消されます。
「時を超えた世界」に入れば、世界観を信じて歩んだすべてのプロセスは、どれほど遠回りのように見えても、実は最短コースであったことが理解できます。もちろん、私の直観的夢想ですが。
この夢想について、さらに踏み込んで記述すれば、思いは実現するという観点から、そして自分の旅を励ます必要性から、私は、その夢想を、自分自身に向かって宣言している、ということになります。
岩根先生の著作は『人間やりなおし』だけでなく『自分の発見』も、「急がば回れ」の視点で執筆されています。
しかし、「最終到達地点」に先回りさせていただくことには、危険が伴います。頭だけの理解で、「わかったつもり」、「できたつもり」になって、体現できていない自分を忘れたまま今ここの旅を進めても違和感を感じません。
もちろん、この文章は、私自身が、そうならないようにという自戒を込めて書きました。
「体現できていない自分」を自覚することは、極めて重要です。未来の「最終到達地点」に向かうには、「現在位置」を明確に自覚することが重要です。
なぜか?
突飛なようですが、思いは実現するから、です。
「現在位置」を明確に自覚できたら、その自覚を踏まえて未来の「最終到達地点」に向かうための「思い」をプログラムすることができます。
「現在位置」の自覚が曖昧なら、未来の「最終到達地点」に向かうための「思い」には、その曖昧さが反映され、その後の実際の旅にもその曖昧さが反映されてしまって、旅の効率性が落ちます。
せっかく投影していただいた「最終到達地点」を今ここで生きるには、「現在位置」を明確に自覚することが重要だと思います。
ところで、その投影は、まず「現在位置」から「最終到達地点」に向かう自分の未熟な歩みを効率よく深めるために働きます。
次に、その歩みが、かなり深まった段階においては、その投影は、「最終到達地点」の光を「現在位置」からご縁のある皆様にプレゼントする働きへシフトします。
「最終到達地点」は、ひとつの大きな節目ではありますが、奥には、さらに奥があるようです。
世の中のあらゆる取り組みを、発端、展開、結論、と三つの言葉でまとめて、発端から結論を見つめれば、それは未来に位置します。
岩根先生の二冊の般若心経解釈本は、二冊共に、最初に結論が示されていて、読者は、探究の発端において未来を体験できますので、それらの本も「急がば回れ」の視点で書かれていると言えます。
そして、読書の展開において、未来が効率よく意識に根づいていくようにプログラムされています。
私のささやかな実感としては、未来が効率よく意識に根づくプロセスを通して、自分の『感性』は、より奥行き豊かな直観的認識力へと育て上げられていくと思います。
「顕在意識」も『感性』も共に意識の多様な形態のひとつですが、ここでは、意図的に「顕在意識」よりも上位に位置して顕在意識を導く働きをするものとして『感性』を描写します。
どれほどポジティブな情報であろうと、あるいはどれほどネガティブな情報であろうと、その情報を、「そのようなもの」として認識する『感性』は、それらの情報が有する波動の幅を超えた波動域において機能する意識なので、
(世界観によって、そのように育てられている意識なので)
認識対象を、どの程度のポジティブな情報であるのか、あるいは、どの程度のネガティブな情報であるのか、瞬時に把握しているのですが、
顕在意識が、自分の『感性』を、そのように機能するものとは熟知していない場合があるので、そうなると『感性』が瞬時に把握した情報を顕在意識に送っても、顕在意識は、それを、どのように活用したらいいのか、分からない、という一面があると思います。
その状況下において、『どんな情報でも、たとえばいやな知らせでも、ネガティブな予言でも、要はどう対処していくかというだけの問題だ』というメッセージを読み、それを肚に入れて、臨機応変な対応姿勢を鋭敏に保っていれば、
『感性』が顕在意識にアップロードした情報に対して、「ん?今、何か気づきが生まれそうだ。具体的には、どうしていいのか、分からないけれど、でも、ここで新しく生まれそうな気づきの予感を内観していれば、何か対処法が見えてくるかも」、と実感して新しい展開を目の当たりにできる可能性が出てくると思います。
ここまで書いてきたように岩根先生の御著書を見つめ返して、改めて思うことは、やはり、今という時代状況は、「急がば回れ」が大いに必要とされるほど、時が差し迫っているのではないか、ということです。
世の中の情報は、多肢にわたるために、すべて、その真偽を検証する時間はとてもありませんが、
あらゆる情報を、(その解読したい情報が、全体状況のどこに位置づけられるのかなどという細かなことは分からなくても)それらを、世界観が示す、世の中の、大枠としての流れの中に位置づける、と思えば、思いは実現しますから、それらの情報は世界観の中に位置づけられます。
私は、どれほどポジティブな情報であろうと、あるいは逆にどれほどネガティブな情報であろうと、それらのすべてを、いったん世界観の中に預けてしまいます。
そして、まず、私は、伸びのびとリラックスし、世界観のビジョンが、あらゆる情報を包み込み、方向づけて大展開されているとイメージします。
そして、その上で、自分の人生を着実に生きていけば、
多様な情報の中で、自分の人生を充実させるために必要な情報については、
それらを取り込んだ世界観の中から反照が起こり、それを自分の人生に活かすよう導いていただけるので、
内観によって、しっかりその導きを受けとめ直せばいいと思います。
世界観から反照が起こる理由は単純です。
私が学んでいる世界観とは、静止し、固定された3次元の情報ではなく、多層宇宙に、多次元的にネットワークされ、様ざまな階層の生命体の皆様によって発展的に運営されている、生命力に満ちた、知的システムだからです。
とにかく、変化変滅しない世界観に、自分の人生を賭けて立脚することが第一で、
そこから、多様な情報を見つめ、位置づけ、その後に、それらを、しっかり受けとめるのか、あるいはスルーするのか、それとも判断保留して関心を持ち続けるのかを、決めればいいと思います。
情報源が定かでないすべての情報は、自分の人生を賭けた世界観の中に(それらは、すべてこの世界観の中に方向づけられているとプログラムして)位置づけていれば、
必要な思考が、必要な時に、世界観からの反照によって、より無駄なく展開され、不要な思考はパスすることが可能になると思います。
私の場合、ボチボチですけど。
また、たとえその展開がジタバタ・アタフタを伴うプロセスであろうとも、世界観に立脚する、あるいはしない場合とでは、もしくは世界観を深める、あるいは深めない場合とでは、雲泥の差が出ると、未熟な自分の実践の積み重ねを振り返って思います。
「神」について考えるということは、ある意味、「絶対」と「普遍」について考えることだと思います。
「絶対」は、ぶつかりやすいと思います。
「普遍」は、ぶつかりにくいと思います。
「神」について考える場合、ぶつかりにくい角度から知的探究を積み重ねると、紆余曲折を経るにしても、より調和的な成果が得られると希望的に考えています。
「真の神」を仮定すると、そのような「神」は、全地球人類(例外なく)お一人お一人の個性を、他との調和のもとに育て、その幸せの実現を全体とのつながりを親密にする方向で実現するように導かれると思います。
そして、この仮定を逆から見つめれば、全地球人類すべての幸せを願っておられる「神」こそが、「真の神」だということになります。
『だから、世界のよきエスタブリッシュメントたちが一堂に会し、それぞれの信じる宗教的なフレームを一時超えて、冷静に知的に宗教というものについて論議するという場は常に求められているはずだ。』
不器用な、ジタバタおじさんである私は、そのような会議の実現を、そして進展を、末端からではありますが心から祈らせていただいています。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
いつもながら、文章の熱量には驚きを禁じ得ません。
そしてこれまたいつもながら、すべてにコメントはできませんが、
浮かんできたことを書きます。
おっしゃるように、物ごとはいろいろと地球規模で連動しますね。
今の日本の歴史的な水災害もそのようです。
この時期の日本は毎年、台風や河川の氾濫に見舞われますが、
今回は尋常ではありません。
しかも、その被害区域を見ると、
古代に遡る日本の国造りに関連しているようです。
現象界で起こるさまざまな事象は、
先行する「想念」の世界、
潜象界といってもいいし、霊の世界といってもいいですが、
霊の世界というと誤解を生むかもしれませんが、
王仁三郎のいうところの「霊」ですね、
そうしたものの反映として現象化するわけです。
となれば、
今の日本の災害も何ものかの「思い」の反映となります。
もちろん、それは日本の国民の思いだったり、
世界の人間の思いもあるでしょうし、
古来の日本人の「常識」でいえば、
「神々」の思いでもいいわけです。
言うまでもないことですが、
これは災害が起こればいい、
などというたわけた思いのことを言ってるのではありません。
善悪を超えた「型」の形象化の話です。
だから昔は大災害が起きたり、国がいきづまったりしたときには、
天皇を中心に元号を変えたりして日本の思いを変え、
神々の思いと連動させながら、
現象界の国を変えようとしてきたのだと思います。
今回というか今年に入ってから日本には、
いろいろと象徴的な現象が起きていると思います。
細かくはここでは書けませんが、
また私のクセで本題ともずれてくるのでやめますが。
私たちの外部にあるとされる外界(現象界)から、
何事かを象徴的に読み取り(解釈し)、
そのフィードバックとして私たちの内部とされる領域に取り込んでいく、
ということには慎重であるべきだと思われます。
どうしても個人的な感情やそのときの心の状態、
心理的反応のクセみたいなもののバイアスがかかり、
結局はそのつどの事象に対して、
それまでと同じような認識が発動し、
いろいろな意味であまり進展が望めない、
ということになる可能性が高いからです。
そこで登場するのが、好本さんがおっしゃるように、
たとえばテキストですね。
先行する書籍と言ってもいいし、
先達の教えと言ってもいいでしょう。
私にしてみれば、神の啓示でもOKです。
それらは、
私たちがその時代時代で影響を受けている、
ゼランドふうに言えば「振り子」であり、
心理学的に「同調圧力」と言ってもいいし、
単に「常識」でもいいですが、
そういうものを無意識・無批判に受け入れることに、
ストップをかけてくれることがあります。
そしてそのテキスト、教えの内容によっては、
何ごとかの地点に達した先人の思いとともに、
さらにその思いを今度は自分たちが先へと運んでいくこともできます。
そういうテキストや教えというのは、
私の大したことのない経験の中では、
いくつかに絞られるというか、
大きくいくつかにまとめることができ、
あとはその亜流だったり、細分化だったり、
フェイクだったりします。
そして絞られたものに共通していることのひとつに、
基本的に人間には滝に打たれたり洞窟にこもったり、
瞑想し続けたり、試練に耐えたりすることはなく、
先人が到達した境地を伝えるテキストや教え、
神託などを素直に受け入れ、実践していくことが大切である、
と言っていることです。
信じる必要はなく、
ただ試してみればいいと言うわけです。
もちろん、いろいろな修行をしてもいいし、
瞑想自体もOKなのですが、
別にしなくてもいいんですね。
私たちはどうしても、
何ごとかを成し遂げるには努力が必要だと思いがちですが、
その「努力」とは何か、
ということはあまり考えません。
現象界で降りかかってくることと格闘すること、
くらいにしか思わないわけです。
でも、先のいくつかに絞られるとしたテキストは、
まったく違う「努力」に関して伝えています。
ひと言で言えば「思いが現実となる」ということであり、
そのメカニズムというか、仕組みについて教えているわけです。
しかしながら、
この「思い」というヤツがなかなかやっかいな概念で、
「心」とか「意識」とか「思考」、
「気持ち」、「気分」、「感情」、「マインド」、「魂」などなど、
私たちには概念を分離して細分化していくクセがあるので、
似たようなニュアンスのバリエーションをどんどんと生み出してしまい、
いつのまにかそのオートマティズム自体に快感を覚え、
本来の意味というか、その概念が持っている、
その人にとっての役割みたいなものが見失われていくんですね。
まあ、言葉はそういうものを運命的に背負っているようですが、
大もとにはやはり「直観」、「直知」みたいなものがあり、
そこがすべての現象と一体となって、
初めて私たちは「わかる」のです。
たとえば数学がわかりやすく、
1 + 1 = 2
ということは、
「これとこれでふたつになる」ということですが、
これは本能的にもそうだと「わかる」し、
言葉でも公式でもつまり論理的にも理解できるし、
実際の現象として見た目でもその通りなわけです。
要するに、すべて一体となってわかります。
言い換えれば、「思い=現象」です。
そして先のテキストたちにこれまた共通していることは、
「思い」が先だということです。
つまり、ある方法というかコツというか、
しかるべきやり方で「思う」と、
現実化するということです。
私はやはりここに秘密があり、
また人類の役割があると思っています。
つまり、どういう「思い」か?
ということなわけです。
どうやらこの「思い」に関連して、
私たちはそれぞれに何ごとかの「仕事」があるようですね。
西塚