9 月 30 日に行なう『盤( VAN )』第 7 回の告知や、先日の大阪取材でヌーソロジー関係者と『宇宙人 ルルーシャの時間』の作者と邂逅した話などを書こうと思っていたが、今回の『新潮 45 』騒動が必要以上に大きくなっている感を受け、しかもある大学教授、コラムニストが『新潮 45 』は廃刊にすべきだみたいなツイートをしているのを見かけるにいたって、ひと言申し上げたくなった。
結論から言えば、『新潮 45 』は廃刊などする必要はないし、むしろしないでほしい。
当たり前だ。
『新潮 45 』のようなオピニオン誌は言論の場としてあるのであり、そういう雑誌に書いてあることが自分の意見と違うから(気に食わないから)、廃刊にしろなんてことはいったいどの時代に、あるいはどの国に生きてるヤツの発言なのだろう?
私も記事は読んでないから、まあLGBTに関する否定的な意見を述べていることぐらいは想像がつくし、おそらく私も読めば不快になると思うのだが、それと廃刊にしろということとはまったく別問題というか次元が違う。
書いた本人に対して抗議する文章を書くのは自由だし、『新潮 45 』の編集部あるいは編集長に掲載の真意を質すことくらいは普通にあってもいいことで、場合によっては抗議デモもあってもいいかもしれない。
しかし、廃刊にすべきだとか、雑誌に関わった者たちへの進退問題などに関する攻撃は言語道断である。
いまさらヴォルテールの例を持ち出すまでもなく、相手の意見にまったく同意できなくても、相手が自由に意見をいう権利は命をかけても守るというのが、まともな知識人ではないだろうか。
言論の自由、表現の自由を現わす場としての雑誌、媒体の存続自体を糾弾するような行為は、言論の自由、表現の自由を自ら放擲する行為に等しい。
表現行為が人を傷つけることがあることは今にはじまったことではないし、言ってみれば、永遠のテーマかもしれないのだ。
だからこそ、表現者は自分の表現に気をつけなくてはならないし、また責任を持たなくてはならない。
これはいわゆる表現者のみならず、生きている私たち全員に言えることでもあろう。
表現者は表現行為をわかりやすい形で生業にしているので、ことさら慎重さが求められるというだけだ。
そしてそうしたことは、それらについて論議する「場」があるからこそ、検証もでき、コンセンサスも形成されていく。
急激な社会的変化を起そうという短慮に陥らないためにも、そういう「場」が絶対的に必要なのだ。
今回の騒動は、安部の再選とも絡んでいるのではないかといったうがった見方もあるようだが、そんなことよりも前に確認しておかなければならないことがあるだろう。
よくある何気ない騒ぎとも言えるが、ひさびさにちょっと背筋がうすら寒くなる発言だっただけに、書き留めておきたい。
Commentコメント
西塚裕一様
LGBTについて詳しくは知りませんが、大きくまとめると、真の自分とひとつになる旅における乗り越え課題のひとつだと思います。それについては、肯定・否定の様ざまな意見に対して短絡的な思考に陥ることなく、真の自分とひとつになる旅においては、誰もが、どこかでつながる訳ですから、どのような課題であろうと、そのクリアに向けて支え合う心の姿勢が必要で、個別的に、多様な課題に取り組む人びとへの一般的な支援は、他の課題の克服に向けた共感を、自分自身の課題に取り組む歩みの中で持つことによってシンクロニシティの輪を広げることが大切だと思います。そして論陣を張るなら、自分が直接取り組む課題と何らかの関連がある領域の旅人の関心を可能な限りすくい上げる形で共感の輪を広げる言論が着実に未来を創出する今ここの旅を充実したものにすると思いました。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
ちょっと勇み足気味ではあったのですが、
マイノリティーや社会的弱者擁護というポーズをとりながら、
よく理由のわからない形式的な「正論」をぶってみたり、
感情的な自己憐憫、
あるいはルサンチマンをまき散らすような「論戦」はよくありますが、
またあってもいいのですが、
そうした「論戦」も一応はまともに機能している「場」がないと、
ただの口ぎたない罵り合いに終始するハメになります。
そういう「場」をこともなげに「なくせ!」というヤカラがいたんで、
ついアドレナリンが放出されました(笑)。
私は「表現の自由」は何よりも大事だと考えています。
なぜなら、すべては「表現」だと思うからです。
西塚