何と 3 カ月ぶりに『おやすぴ』をアップすることができた。
高島康司氏の話を待っていた方には申しわけなく思う。
今回はトランプ政権の元首席戦略官兼上級顧問スティーブン・バノンについてうかがった。すでに高島氏のメルマガその他で発信されている内容かもしれないが、私のような酔っぱらいオヤジ相手の高島氏の解説も貴重だと思うので、どうぞお楽しみください。
同じように『宗任問答』もふたコマ控えているのだが、こちらも早めにアップしたいと思う。
*
しかし、私はどうしても効率化とか、要領よくということができないタチで、酒を飲むときくらいだろうか、そういうことが発揮できるのは。
まずは、軽くあそこの立ち飲み屋で下地を入れて、そんであいつが仕事終わるころにあそこの居酒屋で合流してって感じで、その後、ヘベのレケになっても無意識のうちにというか神の声に従って飲み続けるという…なんてこたあない、ただのアル中霊に憑依されてる頭のよくないヤツというだけだが、どうにも凝り性も祟って複数の仕事をサクサクこなすことができない。
これ、独立してる人間にとっては致命的ですわ。ホント。今の世の中では。
って、いきなり思い出したが、『新潮 45 』が休刊になったね。前回、ちょっと懸念というか、意見を書いたが、やはりそうキたかという感じもある。
私も経験があるが、雑誌の編集長だ局長だっても、会社の上の役員の決定には逆らえない。いや、逆らってもいいが、それなりの覚悟はいるから、そのへんどう按配するかになるわけだ。
私の場合、あるスポーツ選手から億単位の損害賠償を突きつけられて訴えられたことがある。私個人をだ。まあ、詳細は伏せるが、私は会社側に最高裁まで争うと息巻いたが、ンビャクマンエンで示談。
いろいろいきさつもあってしょうがない部分もあり、もう今となってはいいのだが、社員には会社の決定をひっくり返すことは難しいし、実際、会社に守られているともいえる。だって、そんな大金払えないでしょう、簡単には。
しかし、ことが新潮社のような大手版元だから、LGBT 問題は LGBT 問題としてあるが、新潮社の今回の措置はそれはそれで物議をかもすのはしょうがない。
前回の私の意見は、今回の騒動に対する知識人たちの言動に関してのものだから、『新潮 45 』の休刊については、ひとつの老舗出版社の歴史のひとコマとしてそれなりの意味はあると思うが、あまり驚かない。逆によくあることだと思う。それこそ、今の世の中。
それより、LGBT のほうだ。
前回も書いたが、2 号にわたる『新潮 45 』の記事は読んでないが、報道でだいたいのことはわかる。
この問題は「生産性」云々ということはおいといて、要するにある存在に対して「嫌い」とか「気に食わない」とか「不快」だと感じた場合の表現の仕方の問題だという気がする。
どだい、子どもを産むとか産まないということに関して、「生産性」なんて表現を持ってくるセンスもよくわからないが、これはやはり「効率性」とか、何だか知らないが「回収率」みたいなことと関係しているのだろうか。
みんな黙ってるというか、ヘンには思わないのかな。普通の感覚なのだろうか。そんなにみんな日本の GDP とか気にしてるんだろうか。
もちろん、ある経済的な指標を要する文脈の中で出生率などが関数的に扱われることもあるだろうが、LGBT はちょっとずれてる気がする。
それに、あとのほうの号で小川という評論家が、SMAG だっけ、何か奇妙な言葉を用いて、SMAG の権利も主張させろ的なことを書いていたらしいが、こうなると、私は LGBT が「気に食わない」「嫌い」「不快だ」と言っているようにしか聞こえない。
それに対して LGBT 側が、記事の内容に関して抗議するのはいいとしても、もし記事を掲載した媒体を廃刊にしろ!と訴えるとしたら、それも違うとも思う。
私は何も小難しいことを議論しようとしているのではなく、「私はこれが嫌いだなのだ!」とか「不快だ!」「気に食わん!」と正々堂々と公言する社会になってほしくないだけなのである。
たとえば、1990 年にパパブッシュが、「私はブロッコリーが小さいころから好きじゃなかった」とカメラの前で告白したことがあった。母親に無理やり食べさせられたが、私はアメリカの大統領だ! もう金輪際、ブロコッリーなんか食わないゾッ!と、あろうことか世界の前で大見えを切って見せたのである。
また、2011年にマドンナがベネツィア映画祭でファンに紫陽花(あじさい)をプレゼントされて、「ありがとう」とは言ったものの、私、紫陽花って死ぬほど嫌いなのよねと言った音がマイクを通して漏れてしまった。
ファンに対して失礼だ!と今で言うところの “炎上” をしたところ、3 日後にマドンナは妙なビデオを YouTube にアップし、『ゴッドファーザー』の音楽とともに紫陽花を抱きしめ、慈しみながら、「あなたを傷つけて、どれだけ眠れない夜を過ごしたことか…」と字幕が流れて、「言葉はもう戻せないから、そうなると…」といきなり音楽の調子が変わり、マドンナは抱いていた紫陽花を床に叩きつけ、踏みつけ、蹴り上げ、「紫陽花が嫌いなことは変わらないし、これからもずっと嫌いよ! ここは自由の国なのよ、くそくらえ! 私は薔薇が好きなのよ!」と吐き捨ててというか字幕だが、去っていくのである。
まあ、アメリカンジョークなのか、表現の自由なのか、少なくともそれで YouTube を閉鎖せよ!とは私は思わないが、彼らの表現について何か論じたくはなってくる。
一応、その立場に応じた表現の仕方ってもんがあるだろうに、かの大統領には幼児性しか感じられないし、かの歌姫には傲慢さしか感じないのは私だけだろうか。
実際、YouTube のコメントを見ても、ブッシュには、私も同じ意見だみたいなのもあるし、マドンナも、マドンナらしいということらしい。
もちろん、いろんな意見があっていいし、どんどん媒体で表現すればいいのだが、ことがこれが「嫌いだ」「気に食わない」「不快だ」というのは、何だか危なくないか?
ただ、自分の好き嫌いを感情的に押しつけているだけだろう、あれ。これじゃ、普通の友人同士だって、夫婦だって、会社の同僚だって、砂場で遊んでるちびっ子たちだって、ケンカになるよ。
本人たちはそれこそ気分がいいのかもしれないが、私は不快に感じる。
だから、ああいう人物には投票しないし、ああいう歌姫には、こいつにはこういう面もあるのだなと認識をあらたにする。
パパブッシュの場合は、ブロッコリー農家から大量のブロッコリーを送りつけられたりもしたらしいが、それもアメリカっぽいといえばそうかもしれない。
密室でおエライさんたちが何を企んでるのかわからなかったり、ニコニコしてても腹では何を思ってるのかわからないよりは、個人的にはパパブッシュやマドンナのほうがわかりやすくていいが、それも表現の自由と表現ができる「場」があるからこそだ。
あとは、それぞれ私たちの経験と良識に応じながら、お互いにどういう関係を取り結んでいくのか、日々、実践するしかない。
生タマゴひとつうまく割るにも、方法論は教わっても、あとは自分の経験から学ぶしかないのと同じことだ。
*
何だってこんな話になったのか。
と言えば、『新潮 45 』からだったが、まあ、いつものことだが雑談みたいなことにするとして、生タマゴじゃないが、その力の入れ加減というか、状況を見極めるというか、けっこう重要なことでもあって、私などでもこうしたブログで書く内容に関してはそれなりの配慮がある。
と、何かエラソーに聞こえたらまずいのだが、取材絡みでいくら面白い話を聞いたからといって、何でもかんでも書くわけにもいかない。
未確認情報だからというのではなく、特に「予言」関係やネガティブな内容の事件などに関しては、そのニュアンスというか、書き方にもよるが、ある程度慎重に対処しないとヘンなイメージを読者に与えることにもなる。
これはゼランドからの影響もあるが、たとえば予言や占いなどは、それを信じて受け入れた者には必然になるが、ハナから信じないヤツには何の影響も与えない。極端な話。
しかし、これも実は微妙であり、結論から言えば、一度聞いた情報からは基本的に逃れられないのである。
そんなトンデモ話信じられるかよォというヤツでも、聞いたからにはどこかに残り、それがどういう形で浮上してくるかわからないのだ。
という話すら、じゃあするなよ、と非難されそうだが、そうではない。
ネガティブな予言や占いは自分に取り込まないことが一番だが、それでもこれだけ世の中に情報があふれていると、誰もがどこかでイヤな情報には接せざるを得ない。しかし、たいがいのどうでもいいネガティブな情報はほとんど影響を与えない。
でも、ゼランドが言うように、それが国家レベルのことだったり、人類、地球レベルの災害や危機に関するものだとそうはいかなくなるのだ。そうした予言が世界に広まれば、とんでもない大人数の意識に触れることになり、現実化にも影響を及ぼすようになる。
そしてそういう場合、対抗という言葉は適当ではないかもしれないが、拮抗するというか、無化する方向を保つことができるのは、ネガティブな予言とは正反対の「知識」しかないのである。
予言とは正反対の知識とは何のことだとなるが、長くなるので、今ここで手短に説明することは私にはできない。
同じ予言や占いでも、その情報に触れる人によって受け取り方が違うわけだ。ある人にはそれがある種の「警告」として届き、ひとつの有意義な情報として活用できたとしても、また別の人には余計な「恐怖」「不安」を取り入れることになってしまうかもしれない。
釈迦も「無記」として、この世は無限なのか有限なのか、死んだあとはどこにいくのかといったことについてはいっさい語らなかったし、相手によって説法を変えていた。相手が知っていいかどうか、知る必要があるかないかを見極めてから話していたのだ。
誤解のないように言っておくが、これは相手のレベルが高いとか低いということではないし、ましてや私がそういうことを見極められるなどと言ってるのではない。
逆に、わからないから、私としても面白半分、興味半分に迂闊な情報は流せないということなのである。
図らずも、私の記事によって誰かを不必要に不安にさせたり、その人らしくない方向へと高揚させたりすることもあるかもしれない。
ことに弊社のサイトはスピチュアルなことを探究しているので、私もこれでもけっこう慎重に吟味しているつもりなのである。
実は、先のパパブッシュやマドンナのクリップにしても、張りつけるか、文字だけにしようかどうか、だいぶ迷った。
あんまよくないでしょ? あれ。
何が?って言われるとちょっと困るが、つまりは「波動」みたいなことである。あまりこういうことを言うとアレだが。
だから、『盤』のような小さな探究会で話すことと、サイトの記事に書くこと、またコメント欄に書くことはそれなりに変えている。
だって、たとえば先の釈迦の話にしても、釈迦とかイエスと言えば、普通はとんでもなく精神性の高い存在であって、言ってみればこの世の人間の “アガリ” みたいなポジションなわけだ。
でも、ヌーソロジーで言えば、釈迦のいう「悟り」とは「観察精神」のことであり、つまりオリオンの「負荷」、第 13 番目にある力と方向性ということになる。
そして、釈迦の意識は今、ψ8 (プサイ 8 )という覚醒球領域というところにあり、これはイエスもそうなのだ。
つまり、釈迦はそういった意味ではまだ悟っておらず、というか悟るということは、人間の「最終構成」のときに起こるものなので、実はいまだ人間は覚醒を起こしたことはないのだ。
ということになる。
ちょっと前にもヌーソロジーについて書いたが、要するに釈迦の意識もイエスの意識もある段階にはあるが、さらにまだいくつもの段階があって、これはヌーソロジーの OCOT (オコツト)のことはよくわからないが、『ラー文書』の第 6 密度の存在も、ビリー・マイヤーに接触しているプレヤール/プレアデス人も、あれもこれも、みんな知ってる「知識」でもあり、そうした大きなといっていいのかどうかわからないが、とにかくサイクルのようなものに関係している「法則」に「奉仕」しているようなのだ。
少なくともそうした世界観を共有している存在たちがいる。
そのようなサイクルの外観図から俯瞰すると、今のこの世界のタイムスケジュールにもいろいろ興味深いことが浮き上がってくるわけである。
こいつは本格的にオカシイと思われてもまずいが、つまりは「知識」を共有するときに、相手によって何でもかんでも話せばいいということでもなく、また同じ内容でも相手によって表現を変える必要も出てくるということである。
もちろん、信じる信じないはあなたしだいですという、どのテレビドラマが気に入ったか選ぶような話ではなく、テレビの放送システムやドラマの脚本がどうのように作られているのか、知らせてくる存在がいると考えざるをえないということだ。
そして、そのドラマは私たちが作っているということなのだ。
Commentコメント
西塚裕一様
私は、やはり、共感の和、そして共感の輪を、自分の今ここの旅における、暮らしの中のふれあいとシンクロニシティのふれあいを通して、深めたり、拡大していくことが大事だと思います。共感と言っても、濃いものもあれば、淡いものもあり、重なっているものもあれば、ズレているものもあります。私は、濃いものだけでなく、淡いものも大事であり、重なっているものだけでなく、ズレているものも大事だと思います。「濃いもの」や「重なっているもの」は、シンクロニシティを強めるという意味で大切だと思いますが、そのシンクロニシティを多層的に拡大するためにも《濃さや重なり具合の質的な多様性》もまた必要だと思います。「淡いもの」や「ズレているもの」とは、新しい和、そして新しい輪を生み出すための《濃さや重なり具合の質的な多様性》を孕んでいると思います。普遍性の探究とは、新しい可能性の探究でもあると思います。生命は、多様な個性にあふれていますから、本質ではつながっていても、表層では、多種多様、それが生命活動だと思います。たとえば、私が岩根先生の般若心経解釈に基づいて抱いている釈迦についてのビジョンと、ヌーソロジーの釈迦のビジョンとは、明らかに、根本から異なっていますが、私が実践的理解を微力ながらも継続して学びを深めるのは岩根先生のビジョンで手一杯なので、ヌーソロジーを実践的に学ぶ余裕はゼロですから、私としてはヌーソロジーを実践的に理解しようと継続しておられる方の実体験に基づく「生きた知恵」をシェアしていただけたら嬉しいなあと思います。「生きた知恵」とは、多様な個、それぞれに、独自に与えられた天命を成就するために必要なものだと思います。そして「生きた知恵」とは、そのような成就を志す様ざまな個に対して、それぞれ、その異なる位置の一人旅を励ますハーモニックなエールを響かせていると思います。知識は、自分の歩みに応用し、個が、主観において応用の手応えを実感した時、「生きた知恵」へとシフトすると思います。宇宙の本質は、主観宇宙だと思いますが、個が、天命に基づいてその「生きた知恵」を表現し、その内容に共感する個が出現するたびごとに主観が共有され、その共有領域において、主観的成果は客観性を持つと思います。(私が書く文章は、師のビジョンをもとにした類推に日々のドタバタ的な実践からフィードバックしたエッセンスを加味したもので、「ドタバタを乗り越えようとする知恵」になりますのて常にお粗末なありようを含んでいますが、そしてフィードバック前の実情はジタバタしてはおりますが曲がりなりにも実践から生み出したものです。)本質と表層の間には、多様な波動の層が存在すると思います。多様な個の、地上の今ここの旅は、個それぞれが、個別に、本質と表層の間の、実に様ざまな層と響き合って進められ、そしてそのプロセスの中で分かち合いが営まれていると思います。そこにおける、共感の和、そして共感の輪は、限りなく味わいが異なる、それでいて不思議とつながっているおもしろさに満ちていると思います。岩根先生の般若心経解釈の言葉の中で私が大好きな言葉は、「不欠不満」です。その言葉を私なりに受けとめ直しますと、本質においては、「不欠」、つまり欠けているものはない、しかし、表層においては、「不満」、要するに、もう、これでいい、という具合に満ち足りているものではない、だから、「不欠不満」の実践は、多様な個の今ここの旅に、和気藹々とした分かち合いの営みを展開する大いなる可能性をもたらす、と思います。また「不欠不満」を、「欠けているものはない」からこそ、その「不欠」の本質的な、超多面体的なありようが、今ここに投影されて、あますところなくは満ちていない状況を演出し、そのありようを拡大し、その勢いの中において、さらに新しい、個のオリジナリティに輝く「欠けているものはない世界へ向けた創造」をエネルギッシュに後押ししていると受けとめることもできると思います。今ここの旅のポイントは、「不欠」と「不満」を、自分独自の「思い」を活かして、どのように響き合わせていくのか、ということで、そのありようが「創造」だと思います。「違い」が厳然と存在していても、「不欠不満」を念頭に置けば、そして本質と表層の間の多層性を踏まえれば、地上の旅においては、その「違い」こそが、天来の妙味としての調和を生み出す契機になると思います。くだけた表現に置き換えれば、ある情報にふれて、『なるほど、そこがこちらの情報とは決定的に違っているな』と思っても、『でも、そのような違いを認識させるお互いのコミュニケーションの全体に眼を向けると、おもしろいことに、「道」の探求姿勢において、不思議とつながっている気分にもなるんだけど』という思いも生まれて、『分からないことだらけなのだから、このつながりの気分は、とても貴重。それでいいんじゃないの。今ここの旅とは、「不欠」の旅であり、そして同時に「不満」の旅であり、その「不欠」と「不満」は、お互いを補い合う働きをしているんだから、それで、やっていけるんじゃないの』という具合に思いが進む場合もあると思います。余白を楽しむ心、と言いますか。要するに、遊びの心だと思います。(日常においても、接近した物質間に遊びの空間がないとギチギチになりますし、人の心と心のふれあいにおいても、それが―多様な目的のもとに―深く接近したふれあいにおいては、遊びの心がないとギチギチになると思います。また、物質の最小構成単位を探って物質を細分化していくと、様ざまなレベルを構成する物質の間は隙間だらけで、これは、遊びの空間であり―物質宇宙を創造したのが精神宇宙とするなら―、その空間は遊びの心になると思います。)多層多重宇宙とは、肉体の頭脳では認識不可能の、肉眼においてはもちろん、心の眼においても不可視の、その全体像を把握することもまた不可能の唯一神が、無数の個性に、ご自身の本質をそのまま(分割しないで、そのまま―まさに神業)宿らせて、そして、その多様な個の自由意志による、宇宙創造の思いをお認めになって、私たちの宇宙を、ご自身のビジョンを核にされて、多層的に、多重的に、そしてその意を託された多様な個の独自の創造性を満喫されながら、何がどうなろうとも(もちろん、それらの多肢にわたるプロセスが大切で、そのつど、真摯に取り組む必要がありますが)最終的には愉快に運営させておられる、たった「お一人」の神遊びの宇宙、と思っています。
「遊びをせんとや生れけむ」。『梁塵秘抄』。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
>たとえば、私が岩根先生の般若心経解釈に基づいて抱いている釈迦についてのビジョンと、ヌーソロジーの釈迦のビジョンとは、明らかに、根本から異なっていますが、私が実践的理解を微力ながらも継続して学びを深めるのは岩根先生のビジョンで手一杯なので、ヌーソロジーを実践的に学ぶ余裕はゼロですから、私としてはヌーソロジーを実践的に理解しようと継続しておられる方の実体験に基づく「生きた知恵」をシェアしていただけたら嬉しいなあと思います。
そうですね。
私もヌーソロジーを実践的に学んでいるわけではないですが、
提唱者の半田広宣氏はいろいろと発信されてまして、
それこそ実践的なアプローチに関することもあります。
また別の機会に、私なりの解釈も入りますが、
シェアすることもあるかと思います。
岩根氏のレクチャーはYouTubeや書籍で多少は存じ上げておりますが、
私は岩根氏に限らず、すべての「教え」のようなものがどこからくるのかに興味がありました。
簡単に言えば、どこからともなくやってくるのですね。
神の言葉であったり、自動書記であったり、啓示であったり、
少なくとも私なりに響く書籍、文献、人物が語ることはすべて同じで、
これは私の頭で考え出したことではないということです。
じゃあ、何なのか。
となると、またそれに関する内容が、どこからともなくやってきて、
それを発表する人物がいたり、文献があるわけです。
われわれはどうしても自分の頭で考え、
その通りにものごとが進んでほしいと思うようです。
もしくは自分で考えず、誰かに委託しながら、
自分の思う通りに進まないと、
委託した相手のせいにしたがるようです。
ゼランドなどはそんへんのことをこれ以上ないくらいに考察していますが、
それももともとはどこからともなくやってきた「知」を自分で解析したものです。
OCOTからの交信を受けた半田広宣氏も同じです。
やはり最後は、好本さんがおっしゃるように、
日々の実践の中でしかわからないことがあるんですね。
また、そうした実践を通じて、
何ごとかを達成しようとしている精神たちがあるということです。
それぞれに内容は違うのでしょうが、
それぞれがそれぞれに表現していくということでしょうか。
『火水伝文』に、
この方が今今に、神のマコトは学でも知でも解からんと、
ハキリ止め置くのであるぞ。
神のマコト申すは、真釣りて行に結ばねば、
末代取るるは適わぬ事ぞ。
という部分がありますが、
「この方」というのは国常立尊とされていて、
それに関しては、あれが違うこれが違うと論議もあるようですが、
『盤』も7回目を終えるにあたり、
ひとつの区切りといいますか、
ある種の「成果」が出てきました。
近日中にシェアさせていただきますが、
どうもまた話がとっちらかったようです。
いずれにしましても、
われわれはブロッコリーが嫌いだったり、薔薇が好きだったりしながら、
大きな意味の中を日々、それぞれに生きているようです。
西塚
「1例を挙げてみよう」と思う。「私の、知らない知識のオンパレード」だから。「曼荼羅に出てくる、神様像を、みじん切りに、切り刻んで、膨大な数の妖精にして、母親のヘソの尾から、胎児の体内に、流し込めばよい」わけだ。つまり、「神様の分身である多数の派遣労働者(=妖精群)が、胎内(=赤ん坊の体内)で、魂を創る仕事をする」ことを、「図で示せばよい」わけだ。「漫画で動画を創れば、義務教育で、神の授業として、教育できる」ハズだ。「結果的には、宗教の授業が、理科の授業に成る」ハズである。
東様
ポストありがとうございます。
驚きくべきご指摘です・・・
まさに、まさに!
西塚