『盤』の第 8 回目を無事終えた。
参加していただいた方には感謝申し上げます。
しかし、だいたいがいつも『盤』の日は台風だったり、嵐だったり(同じか)、要するに天候がすぐれないのだが、今回は珍しくポカポカとした陽気で気持ちがよかった。帰りはちょっと冷えたけど。
告知でもちょっと触れたが、今回の『盤』は正直、大丈夫かなあと思っていた。というのは、内容がどうも「純和風」というか、今までルノアールやシャノアールでコーヒーを飲んでいたのに、突如、新宿の『滝沢』で昆布茶を飲んでるような感じだったからだ。って今はもう滝沢はないのか、それにわかりにくいわな。
この 3 月からスタートさせた『盤』だが、もう 8 回目だし、今年もあとわずかだってんで、取り合えずこれまで会で探究してきたことのまとめというか、結論というか、ある程度これだけは言えるし、そう考えざるを得ないということを発表したわけだ。
その内容というか、概要にするか結論だけにするかは今いろいろと思案中だが、一応 PDF になるとは思うが『盤レポート』としてリリースするので、希望者があれば購入できるようにする。
今回の『盤』のレジュメ関係と請け負っている書籍関係の仕事で、10 月はけっこう頭を酷使した感もあり、妙な感覚に陥ることもあった。
いや、妙な感覚と言っても大したことはないが、ゼランドばりのシンクロニシティー的なサインや、国常立神系の神示ばりの因果応報、メグリと花の超短時間内における現出である。
おそらく私たちは、なんか頭がかゆいからかくとか、背中で届かないから孫の手を使おうかとか、何の疑問もなく当たり前に思ったことを当たり前に普段からこなしてるように、現実も映し出しているようだ。
ってことは、これまでもさんざん書いてきたことだが、本当にそうだというだけではなく、それが私たちの役目でもあるいうことだ。
どういうことか。
ある現実と対峙したときに、誰でもその現実のその後の展開に関しては、自分にとってそうあってほしい方向へと向かってほしいはずだ。
でも、いろいろな原因によって簡単にはそうならず、なかなか厳しいことになったりする場合もあるわけだが、たいがいは大したことでもなく、つまり大問題にはならない。
なぜなら大問題にならないような範囲の中で普通は生きているからだが、それでもあまりうれしくないことは起きるし、それに対する自分の反応・態度によっては、さらにうれしくないものを招くか、もしくはうれしいことが続くラインに意図的に移ることになる。
このあたりのことは、ゼランド以上に論理的に分析・解明している人士を私はほかに知らないし、日常における実践的な理論としては、ゼランドでほぼ言い尽くされてると言ってもいいと思う。
実際、私はゼランドを知ってからはほぼトランサーファーだったわけであり、実のところゼランドを知る前からそうだったことに後に気づくことになるのだが、おそらく一連のゼランド情報は高次元からもたらされたものであることは間違いないし、ゼランド自身がそうほのめかしてもいるが、リアリティ・トランサーフィンが「効く」ことだけは、私のレベルでもかなりの例証をあげることができる。
しかし、トランサーフィンでもやはり「外部」を重視した対処法であり、それは現実的な日常生活をスムースにする方法なので当然とも言えるのだが、ことはここにきてその「外部」の日常のサイクルが、どうやら今までのようなことではなくなっているようであり、永遠にちまちま落ちているかのように思っていた砂時計の砂が、ふと気づくとけっこうなスピードで落ちていることがわかったというか、競馬で言えばっても私は競馬はやらないが、第 4 コーナーを回っているということらしいのだ。
んな終末論めいたことは『聖書』にも書いてあるし、それこそ古今東西いろんな御仁が宣ってもいるわけで、肝心の「終わりの日」は、クウェッツァルがビリー・マイヤーにもたらした「エノク預言」でも日付は出ていないし(物事が起きる順番めいたものはあるが)、あのイエスにしても「その日、そのときは、誰も知らない。天の御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」とだけしか言わない。
聖書ならぬ『火水伝文』においても、「こ度の事は元つ神の仕組みなれば、中つ神々様でも解からぬ事ぞ」と伝え、同時に「これより先、神がかり数多い出来て何だかワケ解からん様になりてしもうから」と憂えると、実際イエスも同じく、「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行ない、選民をも惑わそうとするであろう」と警告する。
さまざまな預言書や予言書、または実際の預言や予言でも、いつも人々の関心が向かうのは、そのときはいつか? ということだろう。
これは、たとえばあの出口直・王仁三郎の大本内部でも、「大本神諭」の象徴的言辞をめぐって、それは◯年の◯月のことではないかと論議するわけだが、たいがい自分たちが生きている時代のタイムスケジュールの中であれこれ当てはめ、「予想」するのである。
まあ、これは当たり前だとも言えるが、ある意味、人はいつの世・いつの時代でも何かしら迫り来るであろうネガティブなことに対して、前もって知っておきたいと思うものなのだということだ。
人の思考や想念が現実の創造に大きく影響してるということは、今やあらためて主張する必要すらなくなってきているが、だからこそ私たちは、人間や社会にとって理想的であることだけを話し合えばいいのだ。
補足すれば、ネガティブなことはポジティブなことの相対的な要素として、つまり理想的なことを実現するにあたってのマイナス要因としてのみ議論の対象にすればいいのであって、ネガティブなことがらに特別な注意を向ける必要はない。
いや、普通に警戒したり、気をつける必要は当然あるが、今言っている意味は、本来はただのまぼろしぃ~であるところの木偶の坊を存在せしめ、わざわざ「力」を与える必要なないということである。
先の『火水伝文』でも、
汝等(ら)、巷に大変知らすオフレガミ数多(あまた)あるを知り居るな。
なれどこれより起き来たる危難、事細かに知りて何とするおつもりか。
逃げ道探るは破滅のミチじゃ。
そろそろ卒業結構ぞ。
この期(ご)に及びて尚(なお)、逃れんと欲するは《身欲》を基(もと)の『あやま知』で
《我善し》力で押し進み、ミロクの御代(みよ)に残らんと、
思える程に曇りて居るのであろうから、
この方(ほう)、末期(まつご)の今今に辞世の歌を聞いて遣(つか)わす。
思いの侭(まま)になさるが善いぞ。
(ルビ:西塚)
と言って、艮の金神様も厳しく私たちを諭しているわけだが、時世の歌を聞いてつかわす、というところで思わず笑ってしまった私はいけないが、たしかに笑いごとではなさそうである。
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聖書も含め、いくつかの古典やスピリチュアル系の文献に共通して浮かび上がってくる数字、たとえば 3 とか 5 とか 7 とか 12 といった数字の意味・解釈は今ここで検証することはできないが、少なくとも宇宙に存在する知的生命の抽象能力の基盤になっているだろうことは間違いなさそうで、いわゆる預言/予言を解釈する場合でも重要なキーになってくる。
「終末論」というか「終末」という言葉自体にどことなくネガティブな響きが漂っているが、あまりにベタな言い方だが、終末は同時に何かの「はじまり」でもある。
ギリシャ語のアルファベットを円形に並べていけば、オメガはアルファに重なるのだ。
梅で開いて松で治めるっても、花札を順番に丸く並べれば、松( 1 月)は梅( 2 月)に重なる。
そういえば、旧歴の 1 月 1 日は、太陽暦ではだいたい 2 月 3 日のことだ。節分だ。
1892 年(明治 25 年)の 2 月 3 日(旧 1 月 1 日)に京都の綾部で出口直に艮の金神が神がかり、ビリー・マイヤーは 1937 年 2 月 3 日に生まれた。
そして、1944 年(昭和 19 年)にスイスでビリーにスファートがコンタクトしはじめ、同年に千葉で岡本天明に『日月神示』が降りはじめる。
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ちょっと長いので紹介はしないが、出口王仁三郎の「大本神歌」は「エノク預言」も真っ青のある種の預言歌だが、その解釈をめぐってやはり当時(大正 6 年)から、それはいつだ、何だってやってるが、今の時代でも今後大切なことはやはり解釈なのだろう。
言ってみれば「審神者(さにわ)」である。
審神者とは、霊媒が神がかりを起こしたときに、懸かっているものが何なのか見極める役目の人だ。
だから、預言/予言だけではなく、先の艮の金神様やイエスが心配していた「神がかり」や「にせキリスト」でも同じことで、要するにそれが何なのか?を見極める目が重要になってくるということだ。
しかし、あの大本の浅野和三郎にしても鎮魂帰神というか審神では苦労したようで、出口王仁三郎によれば、
審神の出来る者があると思うか?
あの浅野氏にしたって、
悪霊がかかって来ると一生懸命談判をやっている。
朝から晩まででもウンウン言ってやっている。
そこへ私が行って「オイオイ先生エエカゲンにしたらどうや」と言うて、
背中を叩いてやるとおさまってしまう(笑)
古い信者は経験しているだろう。
神懸りをやらすのは狂人に刃物を持たすようなものだ。
ということだから、審神者はよほど魂が磨かれた者でなくては難しいし、理屈を並べてたとえば「悪魔」と直談判というか問答をしても、よほどのことではないと見抜けない。
だから、神がかりということが普通にあることは、私もこれまでの取材を通して知っているが、懸かっているものが何なのか、また懸かっている当人の「我」というか、潜在意識がどのくらい影響しているかをその言動から判断していかないといけない。
これはけっこう難しく、普段からその人物の言動をよく見ていないとわからないのだ。ましてや、一見でわかるなどという芸当は、それこそもう王仁三郎や高橋信次レベルの能力者でない限り無理だろうと思う。
そういった意味では、いわゆる神がかりというか、霊能力を持った人に何か頼む場合は、何か小さいこと、たとえば失くした物がどこにあるとかその程度にとどめて、自分の人生の重要な決定は委ねないほうが無難だろう。
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何だか、またとりとめもないことを書いている気がするが、要は私たちには物事の行く末を判断するにあたって、自分の望む方向か望まない方向かを「決定」する権利があり、それを実現する「能力」が備わっているということである。
だから何も、わざわざ望まないほうを選択する必要もなく、ましてや人に決定してもらうことはない。
でも、自分の判断に自信がないとか、どうしていいかわからないという場合もあるかもしれないが、ちゃんとわかる方法があるのであり、それはマニュアルめいたものに頼るのではなく、自分の「感覚」としてわかるのである。
そんなものは自分にはないという人でも、ただその感覚が奥に引っ込んでいるだけのことで、いつでも蘇えらせることができるのだ。
そして、これからはそういう人たちで「世界」を創っていくことになるのだと思う。また、その「青写真」も最初からあるようなのである。
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