前回、少なくとも週に一度は更新しようと言ったわけだが、実は毎日でも更新しようかと思っていたことを白状する。
結果、できなかったわけだから、こうしているわけだが、習慣というのは本当に頑固なものだ。
これはネガティブだろうがポジティブだろうが関係なく、精神のクセ、無意識のなせるワザで、そうしなかった(あるいはそうした)ということは、そういう選択をしたということであり、そういう選択をしたということは、その瞬間いくつもあったはずの選択肢の中でそれを選択したということで、つまりそれは、長くて申し訳ないが、そういう選択をさせた根本にある願望・欲望が、ほかにいくつもあったはずの願望・欲望の中でも一番強力な願望・欲望であり、それが作用したということである。
だから、過去に◯◯したということは、今、過去を振り返って、ああ、俺は何てバカだったのだろう、今の俺なら決して◯◯しないのに、と思ってもそれはせんないことで、まったく同じシチュエーションに戻ったとしても、また同じことをするに決まっているのだ。
なぜなら、そういうことをさせる大本の願望・欲望が同じように起動し、本人はそれに逆らうことができないからである。
しかし、一度◯◯して(◯◯の中は何でもいい)、エラい目に遭ったとして、その体験の記憶を持ったまま、◯◯した過去に戻ったとすれば話は別だ。
それがひどい体験であればあるほど、記憶が消されていない限り、◯◯するという選択はしないだろうし、あえてまた◯◯するなら、それは心底◯◯したいということか、もしくは◯◯させる願望・欲望に支配されていて、それに抗うことができないか、あるいは自分の中(あるいは外でもいいが、外の話はやっかいなので今は端折る)に、そういう願望・欲望が存在するということをまったく知らないかのどれかだ。
いずれにしろ、そうした知識を持って◯◯した過去に戻れば、◯◯するかどうかについては、自分の“意図”しだいということになるが、知識がなければまた同じことを繰り返す。
だから、仮に時が戻ったとしても、人間は何度も同じことを繰り返すのであり、そもそも時が戻ったということを知らなければ、当たり前だが同じことをくり返しているということもわからない。
だからこそ、先史の哲人たちはこぞって経験・体験から学べと言ったわけであり、もっと言えば、経験・体験以外からこの世で学ぶべきことはないのだ。
そして、経験・体験から学ぶものの多くは、たいていは失敗とか挫折とか言われたのちに、だからこういうことはやめましょう的な“教訓”として語り継がれ、同じようなことに挑んで失敗した人がいると、だから言わんこっちゃないと憐れまれるのである。
でも、歴史から学ぼうとか、人の振り見て我が振り直せといった教訓めいたものには、どこか効率とか合理性を優先させる気配が感じられるだけではなく、おそらく人間の精神を堕落させる蜜の味もありそうだ。
ここでいう堕落とは、せっかくこの世に生れてきたのに、肉体的な快楽(いろいろある)を得続けること以外のことをしようとしない精神性のことをいう。
これは、私自身の個人的な志向もたぶんに絡んでくるのでアレだが、要するに何というか、プレスリーの歌で言えば、大人たちに揶揄される“FOOL”のほうにシンパシーを感じるし、他国同士が植民地を奪い合っているところを高みの見物ときめ込み、自分の国はどちらにつけば得か損かばかりを考えていたビスマルクのような人物には魅力を感じないということだ。
何でビスマルクかだが、経験ということで思い出したわけだが、彼は、愚者は自分の経験に学び、賢者は歴史に学ぶみたいなことを言ったとされ、私などはさしずめ愚者の典型となって、ハナも引っかけられそうもないといじけたということで、私はやはり、愚行を固執すれば賢者となるを得んとのたまったブレイクのほうがしっくりくると思うわけである。
もちろん、ビスマルクは政治家として有能だったんだろうし、その“合理的な”判断を見本とするムキもあるだろうが、人間的にはあまり友人にはなりたくないタイプというか、たしか猜疑心のかたまりの御仁で、夜眠っていても昔の腹立つことばかりが浮かんできて、ムカツいて眠れないと言ってなかったっけ。
なんじゃ、そりゃあ!って感じだが、今ふとカミさんがいつか、あなたは忘れるかもしれないけど私は死ぬまで覚えているから、みたいなことを言ってたことをなぜか思い出して戦慄するわけだが、それはともかく、経験なのである。
失敗ったって、経験・体験しようとするから、するのだ。
失敗も経験だと言いたいのではない。いや、失敗ももちろん経験なのだが、その前に失敗するということは、基本的に今まで自分がしたことのないようなことに挑戦するから、失敗するのである。
失敗とは何かということにもなるが、ここでは他人がそれを失敗とみなしているというようなことを指している。だから、自分が失敗と思っていなければ、それは失敗ではないのだが、今言いたいことはそういうことではない。
何かをしようと思うことには、いわゆる世間でいうところの失敗はつきものであり、極端に言えば、失敗したことがない言う人は、何もしなかった人か、あるいはやはり世間的には失敗でも自分では失敗と思っていない人だ。
人間にとって大事なことは、おそらくこの「何かをしようと思う」ということだと思うのだ。その「何か」は何でもいいし、人それぞれだろう。
重要なことは、効率とか合理性とか、損だとか得だとか、儲かるとか儲からないといったくだらないとはいわないが、人間ひとりが何かをしようということとは本来は無縁であるはずのことには煩わされずに、「しよう」と思ったことをすればいいのではないかということである。
小学生のころからしてそうだが、こいつは本当に絵がうまいなあ、とてもこいつのようには描けないなあとか、あいつはめちゃくちゃ足が速くてカッコいいなあとか、やれ歌がうまい、美人だ美男子だ、話が面白い、頭がいいなどなど、いろんなヤツがいたわけだが、ほとんどが活かされていないというか、私が知らないだけかもしれないが、ともかく非常に残念である。
才能はある種のその人のタイプなので、枯れるということはない。そりゃ、高校生のときに 100 メートル 11 秒で走ってたんだから、今 50 すぎでも走れるだろうってわけにはいかないだろうが、それでも私は不可能だとは思わない。
例によって何が言いたいかわからなくなってきたが、要するに効率とか合理性ってもういいか、つまりそうした大人の事情的なものはちょっとおいといて、自分の心にふと点火されるものに注意してみようということだ。
ドアーズではないが、心の中の「火」はものすごく大事であり、まずは何をおいても火が先に来るべきなのだ。
火って何って話だが、情熱でいいと思う。情熱をかきたてる思いでもいい。
その火を消すわけだ、その効率やら何やらは。
そして、効率やら何やらを延々と創り出してきたあげく、私たちにある本来の自分の火を忘却させ、あろうことかその私たちの火の働きによって、効率やら何やらによって創られたシステムが強化されるという、何ともバチあたりな構造まで創り上げてしまった。
誰が創り上げたかはともかく、私たちはそろそろ失われた火をとりもどさなくてはいけないのではないか、ということだ。
つづく
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