だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

神々の黄昏

なかなか見越した通りにならないのは世の常だが、ご多分にもれず私などはその典型、そもそも見越そうという料簡もあんまなく、その日暮らしのていたらく、と言ってもそれなりのお役目はあるわけで、不義理をしちゃあ小言をいただく…

なんてこたあない、午後に書くとほざいた記事が午後というより深夜になったってな話だが、それも先のていたらくから発するもろもろの無理難題、っても無理というのはこちらの都合で先方様には大問題。

要するに今年も押し詰まったこの時期に、いわずと知れた掛け取りだあね。

掛け取りと言えば、この時期いつも思い出すのは圓生の「掛取万歳(かけとりまんざい)」だ。圓生は大好きな噺家で、噺はどれもこれもいいが、ことに音曲噺はまたひと味違う。

掛取は音曲じゃないだろうとも言われそうだし、実際に学問?的にはどう言われてるのか知らないが、私にとっては立派な音曲噺で、あれを演れるのは六代目しかいない。

てか、圓生しか演れない噺はゴマンとあり、本人はフラがないとか何とか、志ん生あたりと比べていわゆるコンプレックスも感じてたようだが、フラもフラフラ、圓生オリジナルのフラはいくらでもある。

フラってのはまあ、その噺家ならではの “ 可笑し味 ” みたいなもののことで、作為もあざとさもなく醸し出される演者天然の味のことだ。正式にはどう定義されるのか知らないから、ひょっとしたら間違ってるかもしれないが。

そんな落語半可通なゴタクはおいといて、この時期になると毎回思うんだよね、「掛取」を。懐に金がうなってようが思い出したものだ。飲み屋街をブイブイ飲み歩いてても、心の中になぜかふと「掛取」の狂歌が出てくる。

貧乏の 棒もしだいに長くなり 振り回されぬ年の暮れかな

とかね。続いて、

貧乏を しても下谷(したや)の長者町 上野の鐘のうなるのを聞く

とくる。特にサラリーマンの最後は上野勤務だったから、毎年の暮れには必ず出てきたね、これ。で、真打ちっぽい歌として、

貧乏を すれど我が家に風情あり 質の流れに借金の山

が出る。

まだほかにも歌はあったと思うが、とにかく貧乏三昧だ。

落語を聴かない人には何じゃそれって感じだろうが、まあ、いいんですよ、圓生は。

圓生ってば、ひょんなことから先日と言ってももう 1、2 カ月前になると思うが、先輩の出版社を訪ねたら船瀬俊介氏と出逢い、そのまま 3 人で飲みに出たが、船瀬氏が圓生通なので驚いた。

圓生通どころか、黒澤映画の大ファンでもあり、というか映画評論もされてることを知り、黒澤映画のシーンをまんま演じて見せてくれたのには驚愕した。

だって、志村喬から三船敏郎から仲代達矢から、まったくもって本人が憑依したのではないかというくらいの激似で、実際に今でもあれは何かが降りたんじゃないかと思っている。映画のそのシーンが眼前で繰り広げられるのだ。

神保町から新宿 G 街に移動してもその勢いは衰えず、あの外波山文明御大の「クラクラ」でもずっと仲代達矢のままだった…

何の話だったか。

噺はじゃなかった話はガラっと変わるが、ここのところ Q アノン情報その他、ディスクロージャー関係の話題が目立つように思う。

以前は、陰謀論者やスピ系オタク、あるいはあっちの世界に行っちゃった人みたいに言われた連中が、わけわからんことを言って騒いでるといったふうに見られてたと思うのだが、最近はメジャーな話題とまではまだいかないが、それなりに人口に膾炙している感がある。

トンデモ話だとある種、蔑まされてもきたジャンルなのに、ここにきて SNS の普及もあってか、人の口に戸は立てられぬ通りに、あれよあれよとおそらく虚実入り乱れた情報が飛び交い、ときどき混ざる真実に当局含め当事者、陰謀者、悪代官、悪魔もびっくりで、こりゃあどげんかせんといかんばいとなって、みょうちくりんな情報も流れ出すから油断がならない。

まあ、賢明なる読者方におかれましては、そのようなことはないと思うが、悪魔でも霊性沈着に、勢いよく飛び込んでくるものを審神(さにわ)というか賞味・吟味し、常にオルタナティブは確保しておきましょう。

このような状況に関連して、先達と言っていいかどうかわからないが、少なからず私たちと縁少なからぬ存在たちのひとつ、プレアデス/プレヤール人とされるものたちの弁を聞いてみよう。

これはスイスのコンタクティー、ビリー・マイヤーが 1975 年 7 月 17 日、プレアデス/プレヤール人のプターに、アンタたちはいつ公式に人間の前に登場するのかね?とたずねたときに、プターが応えたものである。

 

プター 

我々の側ではまだずっと先までその予定はないが、他の多くの人種についてもそうだ。

反対に、ある事情が生じたら、ほとんどすべての地球外生命体は再び君たちの惑星から撤退するだろう。

それは、君たちがこれまで知らない人種が宇宙から現れて地球を訪れる時だ。

我々の確率計算の結果によれば、それは千年紀の変わり目をかなり経過してから起きる。それまでに不測の要因が生じて、この予見された企てを頓挫させなければの話だが。

が、そのような否定的な要因が生じなければ、千年紀の変わり目より後の時点で、別の惑星の生命体と初めて公式に遭遇することになるだろう。

しかし、この宇宙旅行者の登場はまだ確定してはいない。というのも、地球上で今後実現しなければならない多くの要因があるからだ。

地球人の非理性と自称コンタクティーの嘘に惑わされた地球人に、この未知の生命体は最初は大変な驚愕を呼び起こすであろう。

しかし、この人間生命体にはまったく危険はない。それらは平和的で無害であり、地球人に平和を教えるだろうから。

彼らの文化や、霊的、意識的なレベルは地球人をはるかに凌駕しているので、彼らが前触れもなくいきなり地球に着陸するということもない。

まず最初に公式のコンタクトを通じて自分たちの到来を告げ、地球人に準備させたうえで実際に出現し、八人から十二人の生命体を乗せた独特な形態の宇宙船で着陸するだろう。

将来やがて、すべてがそのとおりに実現するかどうか判明するだろう。しかしそれまでに地球人とその行動が絶対に改善されていなければならず、さもないと何も起こらないか、またはもっとあとの時期に延期されるだろう。

ビリー

実に興味深い。だが着陸するとしたら、どこになるのかね?

プター

確実ではないが、アメリカの可能性が高い。

ビリー

またもやアメリカか。なぜだろう?

プター

アメリカには宇宙空間と交信するための、最良の技術的前提があるからだ。

それにこの国の住人は、地球外生命体およびその実在に関する啓蒙という点で、一番準備ができているのだ。映画産業のおかげだろうが、過度なパニックに陥ることなくその公式の登場を受け止めるだろう。もっとも、地球外生命体の来訪は映画ではたいてい極めて否定的に描き出され、往々にして不安と恐怖を生み出してはいるが。

(『プレアデス/プレヤール人とのコンタクト記録 5 』/水瓶座時代出版)より

 

プターとはセミヤーゼの父親で、簡単に言えば昔、ヤハウェと呼ばれていたポジションにいた人物だ。

いや、旧約聖書のヤハウェではなく、あれはペレゴンであり、アールス(アウラス)であり、その息子のエホバだが、要は指揮官であるポジション名ということであり、神ともいう。

何のこっちゃ?って感じだろうが、これはプレアデス/プレヤール人が伝えることであり、それはヘロドトスの歴史やバビロニアの天文学、先代旧事本紀、かごめかごめの童謡、半田広宣氏のヌーソロジーなどと同等の人類にもたらされた知識の体系だ。

ビリー・マイヤーと言えば、同じプレアデス/プレヤール人・クウェッツァルの「エノク預言」も有名だが、あれはこのままいくと世界はこうなっちゃうかもといったちょっと陰惨な内容で、クウェッツァルによれば 92 %だったかな、そんな高確率でそうなるだろうとのことで、みんなびっくらこいたわけだ。

でも、クウェッツァルも言ってるように、預言とは変更可能であり、ある種の警告の役目を果たすので、こんなん、ヤだったら何とかしなさいということだと思うが、それとは別に、こりゃ第 3 次世界大戦もあり得るし、それをしかけるのは、ハルマゲドンに絡んだいわゆるキリスト教原理主義の急進的な部分が関係してるんじゃね?と思うのが普通だと思うが、そうでもないよと言う、また別の宇宙、ダル宇宙の存在であるアスケットもいる。

 

アスケット

現在、そして今後もアメリカ、ロシアおよび中国が、世界を支配して隷属させようと躍起になっています。が、将来大量虐殺という暴力行為とキリスト教という手段を用いてその血塗られた剣を研ぎ澄ませて地球を制覇するのは、多くの人々が思っているようにユダヤのシオニストたちではなく、より小規模な勢力やもろもろの悪質な教派でしょう。(略)

彼らは、権力を拡大して国を支配する地位を手に入れるために、すでに最初の決定的な打撃を準備しています。

ですから地球人は、そうした権力欲に憑かれた教派や支配者の手助けになるようなことは一切するべきではありません。なぜなら彼らは、どんな些細な援助でも援助者の生命を脅かす武器へと変換し、自分たちの世界制覇の野望の達成に一歩一歩近づこうとするからです。

一部の権力者が世界を制覇して隷属させようとしているように、教派主義もただただ金銭欲と権力欲に根差しています。

教派主義は信者や信奉者を目的のための手段として利用するだけですが、これは本来すべての宗教、あらゆるイデオロギー、世界制覇を目論むすべての秘密結社、そしてすべての政治権力者に特有のものです。

(同 4 )より

 

上記、残虐行為で世界を制覇しようとするのは、「ユダヤのシオニストたちではなく、より小規模な勢力やもろもろの悪質な教派」なのだとアスケットは言うが、ここには書かないが具体的な組織名まで明らかにしている。

これは 1953 年 2 月 3 日にアスケットがビリーに告げたことだから、もう何年前だ、えらい前の話だが、んなこと言っても、このあとアスケットとビリーは西暦 32 年に行くのだから何をかいわんやだろう。そう、イエスが処刑された年だ。

ちなみに、アスケットはセミヤーゼやプターとも仲がいいというか、マブダチっぽく、実際、アスケットはセミヤーゼたちから分岐した民族になる。

何が言いたいのかというと、こんな物語もあるし、あんな物語もあるわけで、これからアメリカ方面からどんな物語が出てきてもいいが、そうした物語のうちのひとつだと、まずは思っておいたほうがいいと思う。

聖書も含め、いわゆるスピリチュアル関連のテキストを検証し、また自分の取材体験を通してわかってくることはいろいろあるが、プレアデス/プレヤール人たちがいうところの「創造と自然の法則と掟」と『ラー文書』の第 6 密度の存在がいうところの「一なるものの法則」はさておき、その前に、セミヤーゼがアラハト・アテルザータについて、

 

セミヤーゼ

その水準はすでに最初の実存在そのもの、つまり純粋な霊的形態の段階に入っているのです。

私でさえこの水準と交信することはできないのです。

それは、すでに準備的形態に達している、私たちの最高法院にのみ許されることです。

だから地球人には、アラハト・アテルザータと交信したり、あるいはその実存について何らかの事実を知るということさえ、絶対不可能です。

地球人は、その実存の予感を持つことさえできないのです。

(同 4 )より

 

と言うわけだが、そのアラハト・アテルザータという存在は何か?だ。

セミヤーゼが、“ 私でさえ ” 交信できないという存在。私でさえ、という言い方に多少引っかかるものがあるが、まあいい。

実際、ビリーが最初に会見というか、会ったプレアデス/プレヤール人はスファートで、セミヤーゼのお祖父さん、プターの父親だ。

そのスファートは 8 歳になったばかりのビリーにこう告げる。

 

スファート

セミヤーゼは成り立てのイシュリシュで、プターはイシュヴィシュです。

クウェッツァルという名のイシュヴィシュになったばかりの男も、他の者と同じく君にとって重要となるでしょう。

しかし君の人物および君の霊体の起源に関する彼らの情報は、彼ら自身がまだ学ぶ必要性があるという理由から完全なものではなく、彼らはこれらの情報を自分で努力して獲得しなければなりません。そのため彼らはしばしば誤りを犯す可能性があり、そうした誤りを取り除くべく努力をしなければなりません。

この点において、君は断固たる力となって、彼らをも教導しなければなりません。

(同 1 )より

 

つまり、セミヤーゼもプターもクウェッツァルももちろん間違うのだ。実際、誰が本当のコンタクティーかというビリーの質問に、あれもこれもとアインシュタインや何やら相当の人数の実名をあげているが、あとになってプターがあれは間違いだった云々ということもある。

しかも、スファートはビリーに彼らを教導してほしいとまで言っているわけで、それはビリーの霊=魂がどういう遍歴をしてきたかに関係しているわけだが、興味のある人はいろいろテキストを取り寄せて研究してみるといいだろう。FIGU‐JAPAN(フィグ・ヤーパン)で検索すればわかると思う。

ちなみに、イシュヴィシュとは JSCHWJSCH と表記し、JHWH と略す。古代リラ語に由来するらしい。いわゆるヤハウェのことだ。

それはともかく、「創造と自然の法則と掟」や「一なるものの法則」などは、プレアデス/プレヤール人や第 6 密度の存在と同じように、言ってみれば対等になって私たちも探究していくべきものというかテーマだ。

彼ら彼女らは、決して依存したり、何かお願いをしたりする相手でははなく、いや普通にこの世で友人に何か頼んだりお願したりすることがあるように、そういうことならあってもいいだろうが、崇め奉る対象ではない。

また、彼ら彼女らに共通しているのはほぼ間違いなく、私たちの選択の意志を無視して、あれをやれこれをやれと言うことはないということだ。あったら、そういう存在に対しては警戒してみたほうがいいだろう。

ただ、先のアラハト・アテルザータやその他、呼称は違うが、ある領域の存在に関しては別のようであり、それはどうしても日本とかかわってくるのである。

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