だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

When will I see you again?

しかし何だな、記事アップ時のミスを以後気をつけると書いたそばから、読者の方から、『宗任問答 37 』が正しくアップされてませんよとのメールが届いた。

ええーっ!と見れば、まさしく。

さっそくアップし直したが、まったくどうにも面目がないとしか言いようがない。んなあ大げさなあと言われそうだが、一事が万事、こういうところから気を引き締めないといけないのである。

だから、いろいろなご指摘はありがたいばかりだ。

また大げさなあと言われそうだが、そしてこれは何度も書いたことだが、会話中にふと相手が漏らす小言めいたことや、街中ですれ違いざまに妙にはっきりと聞こえる他人の会話のフレーズ、目に飛び込んできた広告の文句、デジタル表示の数字の並びなどは本当に重要で、それこそ “神託” なのである。

神託が仰々しければ、自分のそのときの思いや意識の中身、言動と関係して何ごとか方向性を指し示そうとしている “存在” からのメッセージと言い換えてもいい。

伝達される内容はそのときどきで当然いろいろあり、そうした存在が「ちぇっ、しょうがねえなあ…」として、その者を軌道修正しようとするものから、「そうそう、その調子!」と親指を立てているものまであるが、どちらであるかはおのずとわかるようになっている。

こんなことを言うと、こいつ大丈夫か? ヤバイヤツなんじゃないかとも思われそうだし、私も実際にそういうことを言うヤツを見てきたが、やっぱりアブナイヤツだったりしたからよくわかるが、でも本当にそういうことがあるんだからしょうがない。

これは、霊能者に関連した記事で書いた気もするが、要するに霊能者は本当にいるし、霊能力といわれるような力もたしかにあるとこれまでの取材や経験でわかったが、問題は、その人物や取り巻きによっては、当初は純粋に自然な流れに沿った形で発揮されていた能力も、だんだん妙ちくりんな流れとなって逸れていき、やがては藪の中へと分け入って腐臭を放つ沼と化すことがあるということだ。

だから、そうした能力があることは認めるが、同時に人の心の中身が重要なわけで、先の神託にしても、そういう現象はたしかにあるのだが、そのときのその人の心の中身と関連してやってくるので、神託もあれば、「そうだそうだ…そのまま墜ちてしまえ。。。」というものまであり、ヒエーッ!なのだが、それについては今はいい。

私なりにそういうことがわかり、それなりの確証のようなものを得たからこうして書くわけで、そうじゃなければ危なっかしくて書けない。どこで誰がどう信じてしまうかわからないからだ。

私なんかアレだぜ、これは前に書いたかどうか定かではないが、何だかわからない存在に羽交い絞めにされて引っ倒されたという経験があんだから。しかも 2 回。

一度めは、あれは 40 代後半だったが、会社を出てテクテクと歩き、大きな駅前の歩道橋に設置されている昇りエスカレーターに乗り、エスカレーターを降りて駅の改札に向おうと 2、3 歩歩いたときだった。

ふと、ある考えがよぎったとき、コートの後ろの襟首を引っつかまれて、思いきり後ろに倒されたのである。

私は完全に誰かにカラまれたと思い、とっさにわれながら惚れぼれするほどの素早さで身をひるがえし、起き上がって身構えると、誰もいない。そこは 360 度見通しがいい広場で、周囲には誰もおらず、いても遥か遠くであり、エスカレーターにも誰もいない。

私は頭の中で?????となりながら手とコートをはらい、しばらくボーゼンと立ちすくんでいた。明らかに誰かが私の襟首をつかんだのである。何か引っかかるようなものが飛び出てないか探したが、そんな危険なものがエスカレーターの周囲にあるはずもない。

何だこれは、もしかして霊のせいか?とも思ったが、どうしてそんなことが起きるのか思い当たるフシもない。電車に乗りながらいろいろ考えるうちに、ひょっとしたらあのときふと頭によぎったある考えがよくなく、それをやめさせようという何ものかの警告だったのかもしれないと考えてみたが、そうすると逆に腹が立ってきて、おお上等だとばかりにそれを実行した。

2 度目は、やはり私がある行動をしようとしたときなのだが、今度は完全に後ろから誰かに羽交い絞めにされ、後ろにズズズッと引き戻されたのである。

私はもがきながらも何とか振りほどき、後ろを見たが誰もいない。隠れるようなところはいっさいない場所だ。

実際、そのとき私はいささか酔っていたが、いくら酔ってるとは言え、錯覚や幻覚などではない。そしてまたしても我を通して、そのまま行動を起こしたのである。

それぞれどんな考えや行動だったのかと言えば、いずれも大したことではないのでご勘弁いただきたい。しかし、もし私のことを思ってくれる存在がいるとすれば、たしかに止めるような類いのことではある。

でも、それまでにも何度も同じようなことを考え、同じような行動を起こしてきたのだが、なぜあのときだけああだったのだろうかと私は訝しんだ。

そして実は、50 代に入ってもう一回だけ同じようなことがあり、そのときもたしかに酔っぱらってはいたのだが、驚くことに私の手が勝手に動いたのである。自分の手が私の意志を離れて勝手に動き出し、私はそれを不思議な気持ちで観察しているのだ。

そのときは知人も数人いたが、説明しても理解されないだろうと思い詳しくは言わなかったが、当たり前のように酔っぱらって理性が利かなくなったというふうに認識された。

それはそうだろう。そう思うのが当然だし、私もそうだろうと思うことにしたが、私はそれまでの体験や取材のことなどを総合的に見直し、検証し、これらの一連のことの意味の解明にいたったのである。

そして、これからもいろいろと文章を書いたり、発行物として出していこうと改めて思うわけだが、どうだろうか、私と同じような経験をされた方はほかにもいますか? 単なる錯覚とか勘違いとして忘れているかもしれないが。

実際、酔っぱらっていたというのは説得力に欠けることは私自身認める。酔っぱらってたんだろう?って言われれば、ハイおしまいといった感じがあるからね。でも、駅のエスカレーターのときは断じて酔ってないってムキになって断じなくてもいいが、まま、本当に不思議なことだったのである。

そして今のところ、はっきりと記憶にあることとしてはその 3 回しかない。

でも、先述の神託なども実はそうしたことに関係しており、本当は神託として現実世界に現われてこなくても、心の中にポッと浮かんだ考えや思いというものに気をつけて、それがどんなにその場にふさわしくないものでも、つまり時間がないとか、お金がないとか、それをする意味がわからないなど、理性によるツッコミはいっさい無視して実行してみたらいいだろう。

理性というものは、いつでも現象が起きたあとから理屈をつけて整理することしかできず、本当に行なうべきアクションを起こさせる大もとの存在とはつながっていないのだ。

ただ、人には理性を通してものごとを “選択” する自由が与えられているということであり、理性を働かせずに何ごとかを選択しているとすれば、それは直観や直感と直につながっているということで、その人の心の中が自然の流れに適っていれば、それが一番いいわけである。

でも、そうそう人は私と同じように聖人君子たりえず、それが自然の流れに沿った直観や直感なのかどうかわからないから、ときには二者択一の決断を迫られたときなどは安易に決めてしまわないように、理性をいったん働かせてから自分の直観や直感に従うということがあり得る。

安易に決めてしまうとは、人がみんなそっちを選んでいるからとか、今までの自分の体験からすれば、統計的に考えてこっちのほうがリスクが少ないと思うからとか、一番コストがかからないからとか、◯◯にそっちを選びなさいと言われたからとか、そういうことで決めてしまうということだ。

それらは一応、すべて理屈が通ってもいるし、選んだ理由としても形の上では説明できるが、理性をそういうふうに使わないで、むしろそうやって安易に決めることのないように自分に言い聞かせ、自分の直観なり直感が正しく作動するように、ちょっと判断するまでに時間をおいたり、信頼できる人に相談したりするなどの行動をとれるよう、理性を使うわけだ。

バカとハサミは使いようと言うが、理性もそうなのである。

私のように、もしかしたらそんなバカなことはやめろとのお達しがあったのかもしれないのに、いいや私は誰の指図も受けない、自分のことは自分で決めるのだと粋がって、自分でも本当はよしたほうがいいんじゃないだろうかと思っていたことでも、むしろそうしたことであったからこそ、意地になってしまうというバカな判断をするのも理性なのである。

いや、それは理性ではなくて、お前のアホさかげんだろうと言われるかもしれないが、たしかにアホではあるが、理性には違いなく、じゃあ理性とは何だという議論はまた長くなるので、今はチェスタートンの有名な言葉、「狂人とは理性を失った者ではなく、理性以外のものを失った者だ」に表現されているような理性だと言っておこう。

理性をどう使うかで、善も悪も変わるのである。

だから、理性を使う主体とは何かということが重要なのだ。ヘタすりゃ理性には引っ込んでおいてもらって、コインとかゲタの表裏で決めたほうがまだマシという場合もあるだろう。

何だか話がややこしくなってきたが、話を戻せば、ふと思いついたことや相手の意図のない助言、どこかから聞こえてきたフレーズなどにピンときたら、理性が得意げに理屈をつけて処理する前に、一度アクションを起こしてみたらどうだろうかということである。そうすれば、“ピン” とくるものがどんどんやってくるようになりますぜってな話だ。

そして “ピン” とくるものが、あなたがやるべきことなのである。

実際、あのアウグスティヌスにしても、部屋にいたときに近所で遊んでる子どもの声をふと聞いて、改心したのではなかったかしら。

Commentコメント

  1. たき より:

    西塚様

    私は羽交い締めではありませんが、デパートの中のソファに座って、ほんのちょっとだけ居眠りしてしまった時に、何者かにイタズラされました。
    一回目は梅田の阪急で。
    ふいにぎゅっと右腕を掴まれたんです。
    ハッとして目を開けて周り見たけど、誰もいないんです、そんな時にはね。
    二回目は松坂屋で。
    柱を背にしたソファに座っての居眠りでしたが、いきなり脳天を指でスコーンと小突かれたんです。
    ハッとしてもまたしても誰もいない時空間。
    どうやらファンタジー映画の小鬼の仕業、そんなイメージなんですけどね。
    デパートで居眠りなんかするな〜とでも注意されたかな。
    うふふ

    ところで、最近になって
    ニッポンの夏、怪談の夏にコメントを寄せてらしてドッキリ。
    実は前のスマホにこのタイトルのブログをマークしていまして、度々読み返しているのです。
    西塚様に又こんな怪談のお話を上げて欲しいなあ、と思っていましたので嬉しいシンクロニシティでした。

    そうそう、母の古い友人の兄上が行をする人でした。
    その行者仲間さんのお話だったと覚えていますが、ある修験の山を歩いていたら、餓鬼がいて腕に噛み付いてきた、と。
    その人の腕には生々しい獣に噛まれたような跡があったそうです。

    それではまた

    • nishi より:

      たき様

      ポストありがとうございます。

      >ほんのちょっとだけ居眠りしてしまった時に、何者かにイタズラされました。

      それはありますね。
      うつらうつらしてるときなど、半覚醒状態のときはいろいろ五感でもわかることが起きたりします。
      ゼランドふうにいえば、理性に邪魔をされすにヴァリアントの空間とつながっている状態ですし、
      この世の向こう側の世界とこちら側の世界を往来している状態ともいえます。

      ただ、わりと無防備な状態ともいえますから、大もとの意識をしかと持っていないと、
      自分の負の念が妙なものをこしらえてしまって、それと妙な関係を結ぶことにもなるので、
      注意が必要ですね。

      大もとの意識をしかと持つとは、やはり覚醒している日常において、
      マスコミやスピ系や声の大きな自信家などのそれこそ妙な洗脳を受けないで、
      いかに正統な自分の直観に従えるかにかかっています。

      私なぞは、身をもっていろいろと体験していますから。

      てか、今も実は体験中なのです。
      ある意味これは非常に厳しく、以前のお金をいっさい気にしない楽な酒飲み編集者に戻りたーいと、
      妖怪人間たちとは逆進化の欲望もときどき頭をよぎりますが、
      自分の情熱がそれを許さないんですね。

      そして、その楽な(ダメな?)編集者の最たるもの的な時間を貪ろうとしたときに、
      記事に書いた「実力行使」に出られたのです。
      これはヒミツですよ(笑)。

      で、今度は手が勝手に動いたときは、
      私がいろいろと考察していたことを実地で見せてくれたんですね。
      これ以上言うと、もう本当に誰も相手にしてくれない世界になるかもね。

      怪談噺は私も幼少のころから好きでした。
      いろいろ知っていますが、そういえば最近はアップしてませんね。

      それに、ファンタジー文学にあるような怪談なら可愛いしワクワクしますが、
      リアル日常の怪談はけっこうヘヴィーですよ。

      ここ数年、そっちのほうに首を突っ込んでたキライもありますが、
      それなりに痛い目にも遭いましたが、おかげでようやくわかったことも多く、
      鼻づまりの鼻がスーッと透った感じもあります。

      ちょっと長くなりましたね。

      考えてみれば、たしかに今回の記事は、
      ある種の「階段話」でした。
      ってつまらねえな。

      西塚

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