今日は天気がいい。
考えてみれば、今年はまだ花見にも行ってないが、夕方まで仕事をして、井の頭公園でもぶらついて一杯しっかけて、また仕事に没頭しようかなって感じにしようかな。
そういえば、こないだ地元の立ち飲み屋で同好の士たちと飲んでたら、だいたいが評判いいね、新元号は。それぞれに理由はあるようだが、いい感触を得ているようだ。
だから、へえそうなんだーと思い、帰ってネットで調べたらひっくり返った。
新元号に関しては当然、賛否両論あるわけだが、その否のほうだが、何でも “令和” の漢字の中に “アベ” という文字が隠されているというのである。
で、“令” は命令の令だし、アベって文字も隠れてるってんで、これは安倍首相の陰謀だというわけだが、何ともどうも……
その “アベ” って文字も、“令” の字の作りのほうの下の形を “ア” と読んで、“ベ” はちょっと説明のしようがないが、“和” の字の禾(のぎ)偏の左右のハの部分を “へ” として、口の左右の縦棒を濁点とするというものである。
いやあ、“安倍憎し” もここまでくるともはやエンターテインメントだ。
私は安倍派でも自民党系でも何でもないいわゆるノンポリで、そのつど政権が気に食わないことをすれば、それなりに批判をするというごく普通の日本国民のつもりだが、アベの文字が隠されてるってさあ…
もちろん、これは騒いでいる当人たちもギャグのつもりだと思うが、というかそう信じたいが、どんなささいなことでも、またそれが面白おかしく広まれば広まるほど信ぴょう性があとから形成されるってことがよくあるのも世の中だ。
ゼランドの “振り子” ではないが、振り子はどんなちっぽけなネガティブなことでもしがみつこうと虎視眈々とうかがっているのである。くわばらくわばらだぜ、ほんと。
まあ、元号が変わるというのは日本にとってはそれは一大事だから、いろいろと取り沙汰されて当たり前だし、取り沙汰されないほうがおかしい。
そして、そういう大きなことの前では一個人の思惑や陰謀などは無力であり、仮に本人が仕組んだようなことがあったとしても、さらにもっと大きなメカニズムが働いているものだ。8 代目桂文楽じゃないが、「天が許しません!」ってなことがあるのである。
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突然思い出したが、文楽はたとえば落語協会的に認められないような事態が起きるなどしたときには、よくそう言って怒ったというエピソードをどこかで読んだ記憶がある。
たしか文楽は協会の会長職にあった時期があったはずだから、その関係でそう言うこともあったのだろうが、言外に私は私心で怒っているのではなく、天の理のようなものに反しているからそう言っているんです!みたいなことだったのだろう。
けっこう貫禄があったみたいだからね、文楽は。あの談志でさえ恐がったっていうし、6 代目圓生ですらも、協会の会議の席だかなんかで文楽に逆らう意見を言ったときに唇が震えてたっていうから(談志情報)、それだけ芸の権威なのか何なのか、普段から何かしらの威圧感を発していたのだろう。
なぜ、落語の話になったのかアレだが、とにかく噺家の書いたものはどれも面白い。私は落語に関する書籍はかなり持っているほうで、稀覯本も含めてけっこう読んでもいるが、さすが噺家というか、伝統芸の深みもさることながら、本人たちの体験談としても秀逸で、どこまで 100 %事実かはともかく(何てったって相手は噺家なんだから)、そんじょそこらの三文文士やエセ評論家とはモノが違うのである。
まあ、落語の話はこれまたキリがなくなるのでまたの機会にして、といってもひと言つけ加えたくなったが、要するにこれは噺家に限らないが、役者でも門付(かどづけ)でも、場合によっては文学者でもいいのだが、ひとつの “道” でさまざまな体験をしてきて、その体験が “全身体” 的というか、『全身小説家』ってな映画もあったが、何か自分という存在を図らずも “外部” に無防備に晒さざるを得ないという生き方をしてきて、その結果のすったもんだがまた “芸” なら芸の肥しになるというような連中の話は、飛び切り面白いということなのである。
だから私はそういった連中の本を愛するわけだが、話を戻さなければならない。
というか、落語の話になったのは、先の新元号の話をしていて “平成” のことを思い出して、さらに “岩戸開き” のことを思い出したからだ。
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知ってる人は知ってるが、元号が平成と決まったとき、ああ、これは “岩戸開き” がはじまったなと思う人がいた。
岩戸開きとはもちろん『古事記』や『日本書紀』にあるように、日本神話に出てくる “天(あま)の岩戸” つまり天の扉を開くことだ。
天の岩戸は、イザナギとイザナミの国生みのときのすったもんだで、イザナミを 黄泉(よみ)の国に残して閉じられたと神話にはある。いわゆる岩戸閉めだ。
それでイザナミもイザナギもそれぞれ黄泉と地で独り神となって、“独り” でいろいろなものを生んでいくわけだが、承知のとおり世が乱れてきて、もうにっちもさっちもいかなくなってきた状態の中、世の立て替え立て直しがはじまり、いよいよ天の岩戸が開くときが迫っていると説かれているのが、『大本神諭』や『日月神示』などの一連の国常立尊(くにとこたちのみこと)の神託だ。
で、それらに関連して “平成” の元号が決まったとき、これはひょっとして岩戸が開くのではないかと騒がれたのである。
つまり、“平成” の “平” という漢字は、分解すると “一” と “八” と “十” になって “イワト” と読む。だから、平成は “イワト成る”、つまり岩戸が開かれる時代だということなのだが、そんな話を思い出した私は、さらに落語の『平林』(ひらばやし)を思い出すことになったわけだ。
この話も知ってる人は多いだろうが、丁稚の定吉がお使いを頼まれて、平林さんちに届けものをしなくてはならない。荷物には “平林” と書いてあるが、定吉は字が読めない。忘れちゃまずいってんで「ひらばやし、ひらばやし…」と道々、暗誦しながら行くのだが案の定忘れてしまう。
泣きそうになって定吉は道行く人にたずねるが、道行く人もいいかげんで “平林” を「たいらばやし」だとか「ひらりん」とか、「いちはちじゅうのもくもく」とか「ひとつとやっつでとっきっき」などと教える。
最後のふたつはこれも字を分解して、“一八十木木” 「いちはちじゅうのもくもく」だったり、「ひとつとやっつでとっきっき」というわけだ。
で、わけがわからなくなった定吉が、「タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウノモークモク、ヒトツとヤッツでトッキッキー」と歌うように暗誦するというのがこの噺のひとつの聴きどころで、私なんかも落語好きの先輩と飲んでて、ついこの文句が口を突いて出るクチなのである。
だから “令和” にアバじゃないアベが隠されているという記事を見たとき、ふとヒラリンを思い出したのだが、どうにも長ったらしい説明というか言い訳のようなゴタクを並べてしまったが、私の灰色の脳細胞の中身を説明すればそういうイキサツなのである。
*
先の地元立ち飲み屋の同好の士によれば、“令和” と聞いて真っ先に思い浮かんだのは “零” という文字だったというが、私なんかはやはり “霊” だったから、どこまでスピ系野郎と誤解されやすくできてるんだろうという気もするが、本当なんだからしょうがない。
でも、零つまりゼロということは、それはそれで面白い。
先の岩戸開きの話の流れでいえば、『日月神示』には最後のほうに降りた『五十黙示録』(いせもくじろく※読み方は資料のママ)という何とも暗号めいた文が多い神示があるが、その第 2 巻碧玉之巻の第 7 帖に、
始めの日は始めの日に過ぎん、
始めの前にあるものがわからなければ、
それはただの理屈に過ぎんぞ、
マコトでないぞ、
根から出たものではない、
枝葉に過ぎん、
男から女は生れんぞ、
奇数から偶数は生れんと申してあろうが、
一つのものの表が男であるぞ、
裏が女であるぞ、
男から女をつくったと申すのはある時期における教えぢゃ、
岩戸がひらけたのであるから教えではならん、
道でなくてはならんと申してあるぞ、
道は永遠ぢゃ、
〇から出て〇に至るのぢゃ。
というのがある。
最後に「◯から出て◯に至る」というのが興味深い。
これは、0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 と並ぶ数字の秘密というか、要するに数というのは一般に考えられているように1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 と並ぶが、実は 0 からはじまるのである。そして 9 は 0 であり 10 なのだ。
つまり、0 と 9(=0=10)までの間に 1 から 8 がある。こうした図というか表現は、世界や宇宙や人間、またそれらの営みというか活動を象徴的に表わしているのである。
そして、そうしたことは何も日本神話やそれに関わる古神道だけの話ではなく、西洋・東洋の文献というか言い伝え、聖書にまでも書かれていることなのだ。
聖書もそうだが、何かこれはすごいことが書いてあるんじゃね?的な文献って、やたら数字が出てくるでしょ?
映画『コンタクト』じゃないが、数字というか数学は宇宙の共通言語っぽいところがあるわけだ。まあ、言語というか、おそらく知的生命に先験的・直観的に備わっている共通した認知力といったものなのだろう。
だいたいが日月神示にしても数字と記号で書かれたものであって、しばらくの間は何が書いてあるのか、それらが降りた当の岡本天明でさえわからなかったのだ。
また、いいかげん止まらなくなるからやめるが、というか仕事に戻らなくてはならないが、先の『五十黙示録』でも数字がやたら出てくる。先の文でも奇数がどうした偶数がどうしたとあるが、『五十黙示録』の「月光の巻」でも、
奇数と奇数を合わしても、偶数、
偶数と偶数を合わせても偶数であることを忘れてはならんぞ。
奇数と偶数を合わせて初めて、
新しき奇数が生まれるのであるぞ。
今度の岩戸開きには蛭子(ひるこ)生むでないぞ。
淡島生むでないぞ。
なんて言葉があるが、何のこっちゃ?って感じかもしれない。
しかしこれも、最初の岩戸閉めのあとにそれぞれ独り神がいろいろと生んで世界が創られ、あげくに今の世界の体たらくってわけだが、それもそもそも初発からお見通しだってんで、いずれは岩戸を開いて正式にナギ・ナミ 2 神がふたりで世界を新たに創る予定になっているというわけだ。
そうしたことの暗喩として先の奇数偶数の話があるというか、一連の神示があるのである。
世界はこれまで、1 2 3 4 5 ……と来たが、1 の前には実は 0 があり、1 は 0 から生まれた。そして 8 のあとには 9 がくるが、9 は 0 でもあり 10=十でもある。だから 8 の次は 9=0=10(十)だ。
ちなみに大本系とされる一連の国常立神からの神託では、「十」は「神」とも読む。
また、『日月神示』では「世は七度の大変わり」という言葉が出てくるが、これは『日月神示』の続編とされる『火水伝文』でも、
こ度(たび)の天意転換は、
この宇宙創りたる始源より決まりてありたことなのぞ。
汝等の宇宙、光ひとつ上ぐる仕組み、
七つに別けて進み来たりたのじゃ。
こ度がその最期なり。
七期目の仕上げの時になりたのじゃ。
といった言葉がある。
“七つ” って……?
これはたとえば半田広宣氏の提唱するヌーソロジーでも私たちは今、第 7 太陽系から第 8 太陽系に向かっているということになっており、やはり今は 7 番めなのだ。
また、先の『日月神示』には「男から女は生れんぞ、奇数から偶数は生れんと申してあろうが」、「男から女をつくったと申すのはある時期における教えぢゃ」という言葉があるが、いかにもキリスト教におけるイブの創造を思わせるとともにキリスト教批判ともとれるが、これはキリスト教は象徴としただけで、宗教教義全般を絶対視するまなざしへの批判なのだと思う。
また、「岩戸がひらけたのであるから教えではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ」というのも、もはや能書きではなく、実地に入ったので “道”、つまりこれまでの教えを体現していくということだろう。
要するに、世の立て替え・立て直しに関してはちゃんと “理屈” や “理由” があるし、それをいろいろ伝えてきたのだが、もうはじまっちゃったからにはそんなゴタクはもういいから、あとはやるかやらないかだってことのようだ。
いや、何かまとまらなくなっていきそうなのでこのへんにするが、先の『五十黙示録』の「〇から出て〇に至るのぢゃ」の◯も、 “まる” なのか “ゼロ” なのか、いわゆる “まるチョン” でいうところの “チョン” のない “まる” なのか、それはわからないが、『日月神示』ほか大本系の神託は 8 通りに読めるとされるから、いまだ解釈されてない解釈もあるだろう。
ともかく、このたびの新元号におけるあーだこーだについては、“アベ” の文字が隠されてるってのもいいけれども、また別に面白い話の展開もありそうですぜということだ。
我田引水、牽強付会は人の常だ。
要は、どの “物語” を “選択” するかというだけのことなのである。
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