おろ? 更新が早えーじゃねーかと言われそうだが、人間椅子だからしょうがない。
あーだこーだあーでもないこーでもないとバイキンマンのように椅子とデスクに張りついているから、たけしの昔のギャグじゃないが、そのうちこのまま移動しそうである。
しかしデスクっても私の場合、引っ越しのままいまだ片づいてない大テーブルの隅に埋もれているだけだからそれはできない。
ああ~酒が飲みたいと思うものの、ふと映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンを思い出してゾーッとした。そういう場面があるんだよね、前にも書いた気がするが。
雪山に孤立した誰もいないホテルの中で、執筆にも倦んで、いろいろ過去にもワケありのジャックがふらっとバーに入って、カウンターに肘をつきながらそうつぶやく。ちなみに映画でもジャックという役だった。
で、ああ、酒が飲みたいと。一杯のビールのためなら、ろくでもない俺の魂をくれてやるみたいなことを言うんだが、すると出てくるのだ。
酒が。
いや、酒も出てくるが、どこかしら不気味なバーテンダーのロイドがいきなり現われて、ジャック・ダニエルをおごってくれる。
あのときのジャック・ニコルソンがウィスキーを飲むシーンがわりと好きで、何というか、ワケあって禁酒していた酒好きが、無理やり言い訳を作って飲むときの顔つきそのものなのである。ああ、うまいなあと思った。
うまい俳優ってほんとにいるね。私はそう言っても実はジャック・ニコルソンはあまり好きではないのだが、うまい役者だとは思う。そういう意味では、マイケル・ダグラスもそうだ。あまり好きではないが、うまいと思う。
というか、そういう役者はたくさんいて、イギリスのミステリードラマなんかでは、ちょい役の庭師の若造とか事情聴取される近所のおばさんまでがみんなうまい。
イギリスはやはりシェークスピアの国なのか、役者の層が厚いんだろうね、あれ。ハリウッドにしても競争率が激しそうだから裾野は広いだろうし、韓流ドラマでさえ同じ役者があちこち出まくっているが、日本の役者に比べればはるかにうまいと思う。
特にテレビドラマでは、日本の役者はどうもいけない。これも前に書いた気がするが、圓生の「淀五郎」でも聴いて勉強してほしいですな。
日本の場合は、というか外国でもそうなのかもしれないが、アイドル歌手とかモデルとか、ちょっと有名人になると役者になったりするが、どうもとても観れたものじゃないってのが多い。
軽いというか浅いというか、視聴者の目線をそれこそ忖度した演技だから、モデルならグラビアとそれを眺めるファンでも読者でもいいが、そのお互いの興味なり思惑なりが写真が印刷されたページ一枚ぶんくらいの厚さしかないような、そういう演技だ。
これはアイドル歌手でも男女ともに同じで、やはりファン目線というのが優先されてるから、アイドルでしゅ的な演技しかできず、その役自体を演じていないというか生きていない。
ドラマっつったって、一応その物語の世界で生きてる誰それさんだからね。そいつを生きなきゃ視聴者も入り込めるはずもない。
ときどき天然役者みたいのがいるから面白いのだが、それは持って生まれた無邪気さかげんというか、そこいらで遊んでる子どものようなものだから、演技がうまいというか役がはまればまんまになるが、別の役では大はずれになったりする。
うまい役者というのは、見事にその役の人物に成りきっているのだが、その役者のオリジナリティはいつでも現われているというような役者だから、日本でも映画の世界にはよくいたというか、わざわざ名前をあげなくても普通だったが、テレビドラマになったらとたんにいなくなった。
でも、映画の世界でも大御所と言われる高倉健や石原裕次郎なんかは、私はちっともうまいと思ったことはなかった。
それほど多くを観てるわけではないが、むしろ彼らはテレビ時代のアイドル的な役者の出現を暗示していたのではないだろうか。
東映の昭和残侠伝シリーズは 9 本あるが、私は大好きな映画なのでセリフを覚えるくらい観たが、もちろん主演は高倉健だが、健さんよりも池部良や水島道太郎、長門弘之、津川雅彦なんかのほうがよっぽどうまい。
でも、きっと若手にもいい役者はいるのだろうし、私が知らないだけだろう。
いずれにしろ、日本人は欧米化してからおかしくなったというと語弊があるが、何というか、日本と西洋では間尺に合わないというのも多少ずれるが、でも実際、日本と西洋では寸法が合ってない。いろいろと。
日本には日本の文化が当たり前だがあって、役者でも何でもそれなりの伝統がある。誰だったか、外国のえらい映画監督だか舞台監督だか芸術家だったか忘れたが、何人か日本に招かれて能楽を鑑賞した。
したら、ひとりはしばらくして席を立ち、あとのインタビューでは、とんでもなく退屈なシロモノだった、私をこれ以上にない拷問にかけるとしたら日本の能を見せてくれみたいなことを言った。
しかしもうひとりは、とんでもなく素晴らしいものを見た、あの動きといい間といい、まさしく芸術であり、世界に類のない日本の文化であるみたいなことを言った。
それそれ言葉はうろ覚えだが、意味としてはそういうことだ。で、たしか前者はアメリカ人で、後者はフランスかどこかだったように記憶しているが、これはあやしい。
何でこういう話になったか例のごとくわからなくなったが、要はなるたけ本来の自分であればいいというか、そのほうが芸なら芸を観るほうも自然に楽しめるし、自分を失わなければ同じ遠山の金さんを演じても、中村梅之助であろうが杉良太郎であろうが違和感はないのである。
でも、杉良太郎が演じた遠山の金さんに憧れて、同じようにやろうとするとしくじるというか、もう観てらんなくなるわけだ。
ヌーソロジー的にいえば、「反映」側に落ち込み、「偶数」が先手になるということになるし、国常立尊の神諭で言えば、「火」ではなく「水」が先にくるということであり、もっと単純に言えば「偶像崇拝」なのである。
この世に送られてくる「創造主」からの伝言には、どうも私たちにうまい演技を求めているようなところがあり、それはきっと本人がおもしろい芝居を観たいからなのでしょう。
じゃあっつって、見事演じて見せましょうとイキがる必要もないだろうが、自分がどんなドラマや映画に出ているのか、どんな役を与えられているのか、そもそも監督は誰でスポンサーはどこなのかくらいは、知ろうとするのもいいかもね。
したら、その役を降りることもできるし、好きなプロデューサーと組むことだってできるし、監督にもなれるかもしれないしさ。
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