ものすごく間が空いてしまった。
一週間くらいかと思っていれば、ひぃふぅみぃと指折ってみりゃあ、何と 10 日だ。ここ最近では夏季休暇並みの空白である。
といいつつ実際は仕事その他、いろいろと義理のある作業でおおわらわだったわけだが、ようやく小康状態というと何だか病人みたいだが、何か書こうかと。
いろいろくっちゃべりたいことはあるが、どうも何でもかんでもというわけにもいかないが、まずあれだね。小惑星の地球ニアミス。
「 2019 OK 」という何ともおかしな名前の小惑星、正確には “地球近傍小惑星” ってらしいが、7 月の 25 日に地球をかすめてたというから驚きだ。
しかも、発表されたのは日本でいえば 30 日で、OK だか何だかはとっくのとうにあっちへ行ってしまったあとだってんだから、これはただごとではない。
要するにアメリカとブラジルの研究チームが 24 日にこの「 2019 OK 」を発見したわけだが、仮に地球に衝突するとしても、ミサイルで迎撃したり、人工衛星を使ってどうしたこうしたしようとしても、失敗すりゃあ大ごとだし、そもそもそうした準備をすること自体ができなかったわけだ。
地球をかすめる前日に発見されたとなれば、そりゃそうだわな。
何とかというオエライさんにいわせると、直径 100 メートル以下のこうした地球近傍小惑星の動きをすべて把握することは難しいとのことだが、たしかにこの「 2019 OK 」は推定 130 メートルと小さいが、もし地球に落ちたとすれば、東京 23 区がふっ飛んだ計算になるわけで、まさに原爆を投下されたようなものである。
ましてや、1999 年 9 月 11 日に地球近傍小惑星探査リンカーンによって発見されたとする小惑星「ベンヌ」であれば、今後確実に数回地球に接近するとされているが、もし衝突したら広島型原爆の 200 倍の威力だという。
問題は、そんなヤバイ小惑星が本当に事前に発見されてなかったのか?ということだ。
たしかに小惑星は、小惑星同士やあっちゃこっちゃに浮いているスペースデブリにぶつかって軌道を変えたりするらしいから、その軌道を予測するのは難しいのだろう。
でまた、私にしては珍しくというとアレだが、ここからは超未確認情報というか SF 話としておくが、「 2019 OK 」が地球に接近することは事前にわかっていたのだが、すでにどうしようもなく、その筋はパニックを避けるためにあえて発表を控えていたというのである。
で、その墜落場所は何と日本だったというのだ。
ひょっとしたら 2019 年 7 月 25 日には、日本のある都市は壊滅していたかもしれないのである。
ところがだ。
奇跡が起こり、「 2019 OK 」は地球の約 7 万 2000 キロの上空を推定秒速20数キロで通過していき、ことなきを得た。
っても、7 万 2000 キロといえば地球と月の間の距離の約5分の1であり、天文学的には超ニアミスとなる。
いったいどんな力が働いて、「 2019 OK 」は軌道を逸れたのでしょうか?
てか、SF 話ですけれども。一応。
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あとあれだね、ご承知のように日韓の間が穏やかではない。
私なんかブログにもさんざん書いてきたが、韓国人の知人が多く、お互いの国へ行っちゃあ一緒に大酒を飲んでいるが、どうにも迷惑な話ではある。
最近は手もと不如意で大酒を飲む機会がないからいいが、もし一献傾ける段になったらアレだろうね、お互いに苦笑いでもしながら、まあ何ですな、困ったもんですな、どうも、かなんか言ってカンパイするのだろうか。
でも、あれも、きっかけは何でもよかったんだろうね。
だって普通に考えても普通に考えなくても、理屈が通らないというか、少なくとも「盗人猛々しい」という言葉が出てくる理由が、どこを探しても見当たらない。
要は、とにかく何でもいいから日本のせいにして韓国が怒って日本を挑発し、それを煽るかのように北だ中だ露だ、そして米が動き出してきたってな感がある。
前にも何度も書いたが、談志にいわせりゃ、日本は世界の一等地だ。金がありゃ土地を買い占めたいし、力があれば征服したい。
話が戻るようだが、小惑星のニアミスによって、まったく見えなかった東京オリンピックの未来画像が、電波障害を起こしたテレビ画像程度には映り出したというサイキックも身近にいる。
私も『宗任問答』で同じようなことをホザいたが、まだ 50/50 って感じか。
いや、起ることは起こるしって当たり前だが、それはいいのだが、むざむざ程度の低い挑発には乗らないようにしたいものだということだ。
誤解のないように補足するが、韓国のクレームというか非難のことをいっているのではなく、その裏で蠢いている超自己中連中のことである。
その連中に力を与えているのは私たちでもあるので、ここはちょっと踏ん張ろうではありませんか。
踏ん張るという意味は、普通に前と上を見て歩いて行くということである。
そして、妙ちくりんな情報に惑わされないで、自分の “感覚” を磨くようなものだけに意識的でありたいものだ。
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