だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

ネタバレ 1

ちょっと曇っていたが、いい天気になってきたな。

緊急事態宣言が出るか出ないかってな時期の、何となく不安定な日本の空気みたいなものが多少薄らいできたような気がするのだが、気のせいだろうか。

それでもまだコロナ禍のただ中にあり、テレビでは毎日、どこそこで何人の感染者が出たとか、初の何とかとかやって不安と恐怖を蒔き散らしているから、いまだ生きた心地のしない人もいるでしょう。

報道というか情報発信でいいが、発信する側のほうが発信する情報の内容に関する意義や意味にまったく無自覚だから(ひょっとしたら意図的かもしれないが)、ただただいたずらに情報を受け取るほうの不安を募らせるだけになる。

ネットでもそれなりの情報が跋扈しているが、明らかに自分個人の不安と怖れに基づいてバイアスがかけられた情報を除けば、受け取るほうが冷静さを保ってさえいれば、かなり有効な情報も得られるので、新聞やテレビよりははるかにマシだ。

でも、ネットの場合は抑制は効かないから、個人的な不安や恐怖に駆られている人の個人的な情報にはやはり注意が必要だ。不安や恐怖や緊張はある種の波動なので伝染するから、そういった情報に触れるだけで、本来はなかったはずの不安や恐怖や緊張が自分の中に作り出されてしまうことになる。

だから、読んだり聞いたりしているうちに何だか不安になったり、怖くなったり、嫌な感じで怒られているような気持ちになったりする情報には、まずは警戒したほうがいいだろう。そういう情報に出会ったときは、しばらく時間をおいて自分らしさを取り戻してから、また判断すればいい。

それでもなおかつ何だかなあ…とか、うすっ気味わるいなあとか、ゾゾーッとくるものがあれば、すぐに忘れて自分の好きなドラマとかバラエティでも観ていたほうが精神的にはいいと思う。あ、このブログも同じだが。

微妙に話がずれるかもしれないが、今回のコロナ騒動に関しては、私なりにいろいろ思うこともあるから調べたりするが、私なりにという意味は、『盤レポート』を出しているように、スピリチュアル世界、精神世界といわれる領域のことを探究している立場で言うとという意味だが、過去の文献や送られてくる資料、取材先などから得る情報では、コロナに対しては現実的にかなり警戒しなければならないというものから、霊的な意味合いに関することに終始しているものまで、さまざまにある。

たとえば、ときどき取り上げるビリー・マイヤーは、すでに知っている人も多いと思うが、今年の 2 月 23 日付けでマイヤーがコンタクトしているとされるプレヤール/プレアデス人のプターからの情報として、コロナについて発信している。

これはスイスにあるビリー・マイヤーの活動拠点『 FIGU 』の日本支部にあたる『 FIGU‐Landesgruppe‐Japan(フィグ・ランデスグルッペ・ヤーパン)』が発信している情報で、ネットでも読めるが、簡単に要点を言えば、以下である。

 

・今回のコロナウイルスは、武漢の 2 カ所の秘密研究所から意図的でも故意でもなく放出され、二人の実験助手から外に広まった
・欧米人よりは、中国人や東南アジアの人々にとって生命の危険がある。
・2002/2003 年の SARS より危険である。
・人間から人間に空気感染、もしくは衣服を介して感染する。
・潜伏期間は 4 週間、場合によっては 3 カ月間を見込んだほうがいい。
・ウイルスはマスクを通過するので、マスクは意味がない。
・対応としては、人が集まるところは避け、できるだけ家に留まっていること。

 

もちろん、これはプレヤール/プレアデス人、つまり高次元の存在とされるプターが伝えたものであり、正しい情報かどうかはわからない。

また、プレヤール/プレアデス人の伝える情報には、いわゆる「エノク預言」もそうだが、人類にあえて強く「警告」していると思われるスパルタ式の内容が多く、それまでの彼らの伝えてきた他の情報や、彼ら以外の高次元とされる存在からの類似情報とも照合しながら検証する必要があり、そのまま受け入れるには問題があるのだが、その件に関してはまた別の機会にする。

ただ、私としてはこうした情報は当然、無視するわけにはいかず、またそのほかにもスピ系的にいろいろな情報があるわけで、それらを総合的に検証・判断して、このサイトでも発信するということになる。

そのひとつと言っていいかどうかアレだが、今からちょうど 100 年前、欧米から始まったスペインインフルエンザは 1918 年(大正 7 年)の 10 月には日本にも入り、1920 年(大正 9 年)まで 3 回にわたって大流行する。

日本の約 2380 万人が感染し(患者数/国民の 40 %以上)、約 39 万人が亡くなっている(致死率 1.63 %)。そのあたりのことが当時、大本の出口王仁三郎の文章にも描写されている。旧漢字・旧かな遣いは現代ふうに直し、適宜、句読点を入れる(以下同)。

 

本年( 1920 年/大正 9 年)の流行性感冒はよほど猛烈を極めている。ついてはその伝染を防ぐためにマスクを使用せぬ者は電車に乗る事を禁ずるという府県令が出たり、全国に防疫官が派遣されるという大騒ぎであるが、マスクの使用もけっこうかも知れぬが、それよりも日本国民は精神をマスクに持ち変ヘて、マスクな惟神(かんながら)の大道を歩めば、決してそんな猛悪な風邪神に征服される気遣いはないのである。

マッソン(※いわゆるフリーメーソンのこと。以下※は西塚の註)の流感に罹つた連中が、敬神尊皇の大義を忘れてしまって、不健実な害国思想に心酔しているとついには神を軽んじ、大君の大恩を忘れ、悪神に乗ぜられて大切な生命までも抹損せなければならぬようになるのである。

1 月 15 日の大朝(※大阪朝日新聞)の報ずるところによると、大阪中央電信局で日々殺到するたくさんの電報の中から、京都神戸奈良地方に送信した 5400 通を抜いて、その用件の統計を取って見たところが、驚くべし 1 割 8 分は流感で「危篤だ」「死んだ」といふ通知、ことに不思議なのは今年は女の感染が多く、右 1 割 8 分の大部分は女の危篤や死亡の通知であったという。「東海姫氏国、風の神様までが女を慕わっしゃると見える、新らしい婦人方に一つ排斥運動でも行なって貰わにゃ堪らむ」云々と出てあった。吾人(※ごじん/ここでは、われ、わたし、ということで、王仁三郎のこと)は大本神諭を反覆熟読して、ますます神の力によらねばならぬ事を深く感ぜざるを得ないのである。

また大阪では、15 万人の小学生徒が一時に学校を休んで、マスクを面部に当てている。全然(さっぱり)六道の辻をさまよう亡者の精神になって、悪神を撃退するが目下の最大急務である。またマスクは国音「魔好く」に通ずるものである。
(「神霊界」大正 9 年 1 月 21 日号より)

 

けっこう当時のすさまじいスペインインフルエンザの感染状況がうかがわれるが、王仁三郎は「マッソン」と「抹損」、「マスク」と「真っ直ぐ」「魔好く」をかけたりして、得意の諧謔精神を見せながらも言ってることは、外国かぶれの見てくれの方策に頼らず、まずは古来の日本精神に立ち返れということである。

また、王仁三郎は流行性感冒に関しては後々、次のようにも書いている。

 

本年( 1934 年/昭和 9 年)もだいぶ流行性感冒がはやるようであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。近年、満州事変、上海事変などで多くの戦死者を出したが、それに対して、禊(みそ)ぎの行事が行なわれていない。

禊ぎの行事の大切な事は『霊界物語』に詳しく示しておいたが、昔はこの行事が厳格に行なわれたから、戦争などでたくさんの死者があっても地上で時々に清められて、流行性感冒のごとき惨害から免れるることを得たのであるが、今の人たちは霊界の事がいっさいわからず、禊ぎの行事などのある事を知らぬ人たちのみなるがゆえに、邪気充満して地上は曇りに曇り、濁(にご)りに濁り、爛(ただ)れに爛れて、目を開けて見ておられぬ惨状を呈しているのである。

気の毒にもこうした事情を知らぬ世間の人々は、医師や薬にのみ重きをおいて焦心焦慮しているのであるが、霊より来る病気を体的にのみ解(かい)せんとするは愚である。禊ぎの行事の偉大なる効果を知る人は凶事あるごとに常にこれを行なうべきである。さすれば一家は常に朗らかでめったに病気などには罹らぬものである。

 

まあ、こうした話になると、スピ系に対する偏見を持つ人にはアレルギー反応が出るかもしれない。

しかし王仁三郎にしてみれば、1892 年(明治 25 年)の 2 月 3 日(旧 1 月 1 日)に艮の金神(うしとらのこんじん)であるところの国祖国常立尊(こくそ・くにとこたちのみこと)が大本の開祖・出口直に降りて、

 

三ぜん世界一同(いちど)に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりておるぞよ。外国人にばかにされて、尻の毛まで抜かれておりても、まだ眼が覚めん暗がりの世になりておるぞよ。

これでは、国は立ちては行かんから、神が表に現われて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ。用意をなされよ。この世は全然(さっぱり)、新(さら)つの世に替えてしまうぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に夜を治めて、万古末代(まんごまつだい)続く神国の世に致すぞよ。神の申した事は、一分一厘違わんぞよ。毛筋(けすじ)の横巾(よこはば)ほども間違いないぞよ。これが違うたら、神はこの世にはおらんぞよ。

 

てな具合の激しき神託を受け、それを引き継いで世の立替え・立直しに邁進している身だから、スペインインフルエンザだろうが何だろうが、すべては艮の金神の決めた経綸に関わることであって、出口王仁三郎にあってはひたすら信ずる道を歩むしかないのであるから、先のような発言もむべなるかなである。

しかし、世は艮の金神が言うように三千世界の立替え・立て直しに入っており、いずれは梅で開いて松で治める神の世、つまり弥勒(みろく)の世になっているとしても、ことはそう簡単にはいかないらしく……

 

そこへなるまでに世界には、モ一つ、世の立替えの大峠があるから、一日も早く改心いたして神に縋(すが)りて誠の行ないに替えておらんと、今までのような、我さえ善けら人は倒(こ)けようが仆(たお)れようが、見向きいたさん精神(こころ)でありたら、神の戒め厳しきから、到底この大峠は越す事はできんぞよ。
(『大本神諭』1902 年(明治 35 年)旧 3 月 11 日より)

 

ということらしい。弥勒の世に至るには、まずその「大峠」を乗り越えなければならないのだ。

で、その「大峠」とは何だ? いったい何が起こるのか? とか、それはいつのことだ? いつやってくるのだ? などと騒ぐ人も出てくるわけで、これはキリスト教に代表されるアブラハムの宗教でも同じであり、ハルマゲドンの最終戦争はいつ起こるのだ?となる。一応、場所はメギドの丘ってことになってるが。

また、王仁三郎も「大峠」について語っており、「大峠」が大したことなく済むように艮の金神が苦労を重ねているとする。

 

実に鼓腹撃壌(※こふくげきじょう=天下太平の意味)の世の中になって来るのでありましょうけれども、それまでになるには一つの大峠があります。この大峠を越さねばならない。御筆先(※おふでさき=出口直に降りた神示のこと)に「大難(だいなん)を小難(しょうなん)にまつり代へてやる」という事が出ておりますが、この大難というのは三つの大なる災で、風水火ということ、また小難というのは飢病戦ということである。不作が続いて飢饉になる。あるいは虎列剌(コレラ)とか、ペストとか、チブスとか、流行性感冒だとか、こういう事が起って来る、これが小難であります。

※となると、今回の世界中のコロナ禍も「小難」の部類か?

戦争も人事を尽したならば免れる事が出来るのである。ゆえにこれも小難の中に入っております。すべて人間の力によって、いくぶんでも防ぎ得るものが小難であります。けれども風水火は人力のいかんともする事が出来ぬものである。よく新聞などに出ておりますが、小区域の風害があるけれども、これでさへ天文学者やいかなる智者でも、また角力(すもう)取りでもこれをいかんともすることが出来ませぬ。水もまたその通りであって、大洪水などはいかんともしがたい。

また火に致しましても、火山が爆発する、そして大地震が起る。あるいは桜島の噴火というような事でも、人間の力ではいかんともしがたい。どれほど偉い地震学者で出ても、ただ破裂の兆候があると言って知らせるだけであって、これを防止する事は出来ない。ただ破裂した跡を研究するくらいの事しか出来ません。

以上のごときものがいわゆる大難であります。もし、この風水火が起ったならば、「ノア」の洪水以上のものになる。「ノア」の時はただ洪水だけであったが、この風水火が働いたならば風攻め、水攻め、火攻めという事になって、とうてい人力ではいかんともすることが出来ない。

※ノアのときは洪水だけだっても、ノア一族以外、人類はすべて滅んだわけだから、それだけでもかなりエライこっちゃってことになるわけで……

今日、飢饉の兆候はないけれども、このさきだんだん出て来るだらうと思う。病気なども頻発しておるけれども、これらはまだ防げるのであります。もし大難が起ったならば、世界が全滅するよりほかにしようはない。ゆえに、大本では大難を小難にまつり代へて下さいと、お願いするのであります。

※「大峠」に入ると「飢饉」が来るというのは、大本系の神示では共通して出てくることだ。このコロナ禍のドサクサの中、今国会では「種苗法改正法案」が出されている。最悪、日本人が自分たちで野菜などを栽培できなくなる可能性が高い。どういうわけか、自家栽培すると法律で罰せられるというから、ガイコクの企業から種を買わなくてはならないのだ。なんじゃそれって感じだが。

しかして、今のうちは神様が天地を支へておられるのである。世の終りが近づいたという事は、基督(キリスト)教でも仏教でも唱へております。それを神様が金剛力で支えておって、その間に改心させて、一人でも余計に助けたいと御骨折りになっております。それも知らずに、やれ大正 10 年頃だとか、11 年頃が本当だとか嘘だとか言つて、騒ぎ廻っておる

※最後の部分はちょっとわかりにくいが、要するに、世の立替え・立直しはいつだ!いつだ!と騒ぐ連中が、あることを根拠に大正 10 年とか 11 年ごろだと言ったわけだ。浅野和三郎あたりだったと記憶しているが。

もし、大正 11 年に大立替が来なかったならば、吾々が先鋒となって大本を叩き潰してしまう、と言っておる人等があるとか言う事で、実に面白い事であります。これはまったく悪魔に魅せられておるので、神様の事がわかるどころか、利己主義の骨頂であります。

※で、本当に大正 10 年だか 11 年に立替え・立直しが起こるんだろうな、起らなかったら承知しないぞ、大本なんぞはぶっ潰してやる!的な、何ともぶっそうなバチ当たりがいるって話である。いつの時代にもこういうテアイがあるものだ。根本的に「依存体質」ということであり、「おもちゃを買ってくれないなら死んでやる!」という幼児と同じで、どうしても自分の「外部」に恃む意識から離れられない。

こういう事でどうして弥勒(みろく)の世が実現しませうか。もし誠があつたならば、そういう事のないやうに、世の中が平けく安らけく治まるやうに、祈っておらなければならないはずである。こんな考えを持っておっては、平らけく安らけくどころではない、大混乱大騒動を待つところの悪魔の精神である。祝詞(のりと)には、決して大騒動が起こるようにとは書いてない。天下泰平を日々奏上して平けく安けくと祈りながら、心はまったく反対になっているのである。

※こうしたマインドは、今回のコロナ禍ではなくても、ネット界隈では以前から多く見られる。ヘタすれば、それを商売にしている人すらいる……

こんな不心得な事でどうするのでしょうか。そういふ事を言う人は、千人の中に一人くらいはないとも限らないでしょう。また、立替が来たならば自分は助かる、そうして今まで大本を讒謗罵詈(※ざんぼうばり)した者はみな滅されてしまう、実によい気味だと思っているような不心得者もないではない。チョイチョイ耳に這入ります。しかし、そういう人間が真先に滅ぼされてしまうのであります。

※自分のところの教団にさえそういう連中がいるのだから、王仁三郎さんも大変でしたなあ……

大本に来ないでも、また大本の「オ」の字も知らない人でも、本当の誠の人であったならば、こんな馬鹿な事は決して思わない。そうして大難も小難もないように、また大難を小難にするように御祈りするのである。そうして今度の二度目の天之岩戸を開いて、立派なミロクの世として、神人ともに楽しむという事が御筆先(※おふでさき)にあります。

※この「二度目の天之岩戸を開いて」という部分に関しては、それなりの解説が必要なのだが、その紙幅はない。興味のある人は『盤レポート 0 号』に当たってみてください。

(中略)

今日の社会は人心の腐敗その極みに達し、畜生同然になっております。平田篤胤(あつたね)翁が、

これはしも人にあるやとよく見れば あらぬ獣が人の皮着る

と詠(うた)っております。これこそ本当の人間かと思ってよく調ベて見ると、あにはからんや人間にあらずして獣である、つまり獣が化けて人の皮を着ておるのだと嘆かれたのであります。その当時でもこのごときあり様であるから、まして数十年も経った今日では、推して知ることが出来るのであります。物質文明が進歩するにつれて、精神的方面はますます堕落するのであります。

※いえいえ王仁三郎さん、それから 100 年経った今でも同じかもしれませんよ、私も含めて……

 

ちょっと引用が長すぎたキライがあるが、何気に大事なことだと思っているわけだ。

今は仏教で言えば「末法の世」、アブラハムの宗教まで取り入れれば週末じゃない「終末」の世界となるわけで、実際にそれがいつから始まったかといえば、そりゃ平安時代からだとかいろいろあるわけだが、そういうことではなく、大事なのはそうした考え方の根本にある “実質” だ。

少なくとも大本で言えば、ちなみに私は大本の信者でもないし、キリスト教信者でもなく、特定の宗教に入信しているということはなく、実家の宗旨も曹洞宗だか浄土真宗だかも覚えていない不信心者だが、人間の精神活動を探究しているわけで、たとえば王仁三郎の言によるところのある種の “近代・現代思想批判” には共感する部分があるということだ。

しかし、特に上記太字で記した部分にあるような御仁は、どうにも困ったものでして…って思わず六代目円生の口吻になるが、なぜってそういう御仁たちは、気の優しい人たちを暴力的に「恐怖劇場」というドラマへと引きずり込んでしまうからである。ゼランド的に言えば「振り子」だ。

だから、1944年(昭和19年)に岡本天明に降りた大本系といわれる『日月神示』でも、

 

神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出て来るぞ、神は大難を小難にまつりかえているのにわからんか、えらいむごいこと出来るのを小難にしてあることわからんか、ひどいこと出て来ること待ちているのは邪の身魂(※みたま)ぞ、そんなことでは神の臣民とは申されんぞ。

臣民は神に、悪いことは小さくしてくれと毎日お願いするのが務めぞ。臣民近欲(※ちかよく=目先の欲にとらわれるという意味)なからわからんぞ、欲もなくてはならんのざぞ、取り違い(※自分勝手な思い込みくらいの意味)と鼻高(※はなだか=知ったかぶりの傲慢な人物)とが一番恐いのざ。神は生まれ赤子の心を喜ぶぞ、磨けば赤子となるのぞ、いよいよが来たぞ。
(「天つ巻」第 24 帖より)

悪いこと待つは悪魔ぞ、いつ立て替え、大峠が来るかと待つ心は、悪魔に使われているのざぞ。この神示世界中に知らすのざ、今まで大目に見ていたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシ出て来るぞ、世界一平(いったいら)に泥の海であったのを、修理固成(つくりかため)たのは国常立尊(くにとこたちのみこと)であるぞ。
(「キの巻」第 9 帖より)

大難を小難にと祈れと申してくどう知らしてあろうがな、いかようにでも受け入れて、善きようにしてやるように仕組みてある神の心わからんか、天災待つは悪の心ぢゃと知らしてあろうが、まだわからんのか。
(「雨の巻」第 5 帖より)

 

などなど、まだまだほかにもあるが、ともかく災難や惨事やよくないことを待つ気持ちというか、そういうことへ考えが及ぶことを艮の金神はあらゆる場面でたしなめているわけだ。

1892 年(明治 25 年)に出口直に降り、さらに 1944 年(昭和 19 年)に岡本天明に降り、さらに今でもさるところに降りて、繰り返し同じことを伝えているのだから、よほど重要なことなのだろう。

これは実は何も大本系の神示に限らず、イエスでもヒマラヤ聖者でも、それこそヴァジム・ゼランドでも同じことを言っており、そこには人間の意識状態・想念・感情などと、「現実を創造する力」との深い関連があり、いわゆるファナティックなカルト信者や教義信仰とはとりあえず無関係のことなのである。

ちなみに、大本では正式に 1928 年(昭和 3 年)の 3 月 3 日(旧 2 月 11 日)から「弥勒の世」が始まったとされており、「五六七」と書いて「ミロク」と読んでいる。

これは、「大本神諭」で、「五六七(みろく)の世が参りたぞよ。釈迦が五十六億七千万年の後に、至仁至愛神(みろくさま)の神政(よ)が来ると予言(もう)したのは五六七(みろく)と申す事であるぞよ」(大正 7 年旧 12 月 23 日より)とあることによる。

1928 年から五六七(みろく)の世がスタートしたということだが、“スピ系” に引きつけていえば、前年の 1927 年には GLA の高橋信次が生まれており、翌年の 1929 年にはバチカン市国が誕生し、年末(旧歴)には、半田広宣氏のヌーソロジーでおなじみの OCOT によるところの「最終構成」がスタートしている。

OCOT のいう「最終構成」とは、今までの太陽系が終わって、新しい太陽系が創られていくということだ。別の言い方では、「人間が人間であることの最終的な段階へと達した」としている。

何だか『盤レポート』のようなノリになってきたからもう止めるが、ちょっと前のヤフーニュースで、今回のコロナ禍の中、「コロナ」のゴロを「 567 」と見立てて、飲食店が「 567 円の定食」や「 567 円のビールセット」のメニューを出しているという記事を見て、大本のことを書いてみたくなったわけだ。もちろんネットでは、スピ系記事などで早くからコロナとミロク(五六七)を結びつけてはいたが。

いずれにしろ「大峠」でも何でもいいが、いやよくないが、始まっちゃったものはしょうがないし、この世のことごとくは、当たり前だが人間の意識から生まれてくることなので、人間の意識がことに対処し、解決していくしかない。

それにあたっては近代西洋哲学や科学・経済学を参考にしてもいいが、各宗教の教義(それらの淵源に関しては一筋縄ではいかないのだが)や、眉に唾をつけたくなる気持ちもわからないではないが、いわゆるスピリチュアルや精神世界、オカルト、SF などと一括りにされ、村はずれに追いやられているような領域の「知」にも、けっこう有効な手立てが隠されているかも知れないよ、ということである。

しかし、なかなか骨の折れる作業ではある。まあ、それはいいか。

いずれにしろ大本系でいえば、いわゆる悪側の思惑は「九分九厘」仕上がっているのだが、悪側では最後の「一厘」がどうしてもわからないから、私たちに早くその「一厘」に気づいてほしいと願い、またその「一厘」によってすべてが引っくり返るとしているわけだ。もちろん、いいほうに。つまりミロクの世を創るために。

そしてその「一厘」とは、実にシンプルで簡単なことなのである。

ちょっと気分を変えて、映画の話でもしようと思うが、もともとはこれを書こうと思っていたのだ。

映画『ジョン・ウィック』のことだ。

(続く)

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