前回のヒマラヤ聖者の言葉を受けたスポールディング氏の伝達から敷衍すれば、つまり人間は「善‐悪」を分けるが、その「善」は、本来人間は原理(神)と一体であるということの(たとえ無意識でも)自覚に由来するものであり、「悪」は単純に、その反対のものとして人間が作ったということだ。
人間が悪を作ったのである。
だからこそ人間は善悪の選択をできるのだが、悪を選択するということは、原理・真理と一体であるということからあえて離れることであり、さらにその概念によってさまざまな悪のバリエーションを現実化させていく。
なぜ、悪を選択するのかについては、それぞれに個別の理由というか、その人間なりの衝動があり、一概には言えないが、まあ積年のものだ。
他愛のないものから邪悪なものまであるが、いずれにしろそうした個別のマイナスの念もひとまとめにされてしまえば、どエライパワーとなって利用されることになる。
ともかく、人間はあえて自らが作り出した悪のほうと一体化するというか、悪を実体化していこうとするときがあるわけだ。
しかし、本来は一つの原理、一つの真理(いわゆるラー文書の「一なるものの法則」とか、ビリー・マイヤー経由で伝えられるプレアデス/プレヤール人言うところの「創造と自然の法則と掟」、あるいは国常立神の「三真釣り」等々)しかないので、その原理の基において、やがては必然的な変容を遂げていくことになる。
変容とは、本来の “道” に戻されるということだ。
それは、ときには人間が災難とか災害と呼ぶ規模のものと出逢うことによってなされるかもしれず、いずれにしろある種の不調和として現われてくる。
そのあたりのことは、古代から現代にまで流通している文献に、その詳細がはっきりと書いてある。
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先ほど用足しに外出し、またすぐ戻って記事の続きを書いているのだが、またぞろ用ができた。
ずるずる先延ばしになるのはまずいので、とりあえず今回の記事の結論だけを先に述べておけば、今、コロナを怖がって、たとえばマスクにしがみつくといったマインドは、完全に人間が作った悲観的なシナリオに搦めとられている状態にあるということだ。
しかも本来、自分で作ったシナリオでもないシナリオに、自分が抱えてきたネガティブなマインドが巧みに同調させられており、どこかでそのことに気づいていながらも(真我が気づいてないということはありえない)、マインドがこれまでのあれやこれやを無意識に総動員して何とか “今の自分” の整合性を保っている状況なのである。
しかし、当たり前だが認識ひとつで状況は変わるし、ひょっとしたら今の事態は僥倖かもしれないのだ。
といいながら、同時に世に偶然というものははないのだが。
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